四度(よたび) 意外
みんながそれぞれ思い思いの美術書なんかを見て静まり返っていた美術準備室に、頬杖をついてだらだらとスマホを見ていた早希が、突然、へえっ、と驚いたような声をあげながら頬杖を解いた。
「キリストの墓って、日本にあったんですね」
はい?
そんなわけないでしょう、と賢人が笑った。
「キリストの墓はエルサレムにある聖墳墓教会というのが通説ですよ」
でもほら、と早希がスマホの画面を賢人に向けた。
「ここに、キリストの墓があるらしいですよ?」
スマホを受け取ってそれをじっと見つめた賢人は眉根をしかめた。
「、青森県三戸郡新郷村戸来、ですか」
「昔は戸来村と呼ばれていたそうで、マニアの間ではそっちの方が通りがいいそうです」
何のマニアだよ。
これはあれですかね、と賢人が困ったように首を捻った。
「いわゆる分骨という奴ですかね?」
「なんですか、分骨って?」
「遺骨をわけて、別の墓や自宅で供養することです。例えば真言宗の総本山がある高野山には、分骨によって様々な著名人の墓がありますよ。例えば戦国武将の墓とかが沢山有るんです」
ほう、それは面白そうだ。
いえ、と早希が小さく手を振った。
「そういうのとは、ちょっと違うみたいです」
じゃあれかい、と七海が背伸びして賢人の手の中のスマホを覗き込もうとしたのに気付いた賢人がその画面を七海に向ける。
「中東で磔にされて死んだと思っていたキリストが実は生きていて、シルクロードを通ってとうとう青森までたどり着いて死んだ説、ってことか」
「どうやらそうらしい。なんでも磔になったのは、キリストの身代わりになった弟のイスキリだったそうな」
それは、と七海はあごに手をやると考え込んだ。
「つまり、人類の罪を背負って磔で死んだと思っていたキリストは、官憲の手が迫るのにびびって、自分の弟を身代わりに死なせた挙句、ケツまくって極東の島までトンズラこいたってわけか。最低の男だな」
まあまあ、と賢人は苦笑した。
「多分、だれかが面白がって作った説でしょうね。小野小町の墓と言われている所だって全国に三十箇所以上あるって聞いたことがありますから」
「けど、一時期はそれなりに支持された説らしいですよ。その上、青森県南部のナニャドラヤという囃子歌はヘブライ語と音が似ており、歌詞をヘブライ語に訳するとキリストに関する歌になるそうなのです」
そこで、七海ははっと廊下の方を振り返った。
「今、そこから誰かが駆けだして行く音がしなかったか?」
は?
脱兎のごとく駆けた七海は廊下の外を見回したが、そこには誰もいなかった。
廊下に出て辺りを見回してから、もしかして、七海はため息をつきながら美術準備室に戻った。
「もしかして、桜間さんが今の話を聞いていて青森に猛ダッシュかけたってことは、ないよな?」
いいんでない?と頭の後ろで手を組んだ早希が、椅子を後ろ脚だけで立ってゆらゆらゆらしながら、のほほんとして言った。
「ついでにおばあちゃんの墓参りしてくればいいんでないか?」
よくねえよ。
とりあえず整理しましょうか、と賢人が椅子に座り直した。
「聖書の中で、人類の全ての罪を代わりに背負って磔になったと思われていたキリストは、実は生きていて、なおかつ弟を人身御供に捧げて自らは逃走した、と。まずここまではいいでしょうか?」
「んで、実は人類の罪は浄化されていませんでした、と。どうりで世の中酷い訳ですな」
いや、待て、と七海が早希の言葉を遮った。
「実は、キリストは弟を身代わりにする計画を立てていたのですが、呼んだ弟の到着が遅れ、磔になってしまったのです。そして埋められたのですが、その後弟の・・誰でしたっけ?」
「イスキリ?」
「そのキリギリスが遅れて到着し、兄とそっくりだった彼を見た人々は、おお救世主が復活された、となったのです」
「父親が違うのにそっくりだったのか?」
「二人は母親似だったのです。そしてバッタの方もなんでみんなが自分を拝んでいるのか不思議に思いましたが、自分が到着したことをみんなが喜んでくれてるのならまあいいや、と流れに身を任せてしまい、勘違いは既成事実のようになってしまうのです」
「いつもながら、どこから湧いて出るのですか、そういうの」
「私の脳みそは、まるで蛆虫の如くこういうのが湧いて出るのです」
そして、と七海は続けた。
「それから数百年後、天竺まで経典を求めて旅をしていた玄奘三蔵一行は、うっかりインドを通り過ぎて中東に到達」
「まだ使うのですね、三蔵法師中東到達説」
「しかしそこは見渡すばかりの荒れた土地。これが天竺なのか、なんと荒涼とした土地だと唖然とした三蔵でしたが、たまたま通りかかった羊飼いをつかまえて、私は大切な経典を求めて遠くから旅してきたものです、と助けを乞います。すると羊飼い、そのキョウテンというものはわからないが、何か大切なものならそこに埋まってるらしいぜ、と、通じない言葉に身振り手振りで説明した後、キリストの墓を指差します。すると三蔵法師、やれありがたや、とキリストの墓を掘り返し、お棺に入ったそれを持ち帰ってしまうのです」
「そこは蓋を開けて確認しろよ」
三蔵法師は粗忽者だったのです、と七海は諸行無常の顔で答えた。
そして、と七海は続けた。
「そして帰路を急いでいた三蔵は今度はたまたまインドを通りかけ、おお、ここにも経を売っているぞ、と露店でついでに買い求めたのが、実は本来求めていた経典だったのです」
「そんな露店で売っている物なんですか、経典て?」
「そこは仏様の御加護による巡り合わせです」
ありがたや、ありがたや、と言いながら七海は両手を合わせて頭を下げた。
「そして唐に帰り着いた三蔵一行、さあ、いよいよ念願の経典と対面だと蓋を開けたところ遺体が入ってびっくら仰天」
「でしょうね」
「困った、困った、とその処分をしあぐねた三蔵、それをたまたま倭の国に向かうという鑑真和上に餞別と偽って贈ります。「彼の国についたら開けて見てくれ。きっと気に入ると思うよ」とかなんとか適当に言いながら」
「三蔵法師のイメージがガラッと変わってしまう話ですね」
そして、と更に七海が続ける。
「何度も日本への渡航に失敗しながらも、いつか日本に辿り着き三蔵からの贈り物の箱を開く日が楽しみだ、と思いながら、鑑真はトライを続けます」
「鑑真和上が遣唐使と一緒に日本に来ようとして何度失敗してもトライし続けた話は知っていましたが、そのモチベーションが三蔵からの贈り物だったとは」
「そしてとうとう日本の土を踏んだ鑑真は、宿に落ち着くとわくわくしながら箱を開きます。そしてその中の遺骨を見てびっくら仰天!」
「鑑真て、日本への渡航が過酷過ぎて、日本に着いた時は目が見えなくなってたんじゃなかったでしたっけ?」
「彼ほどになると、例えその目が光を失っても、心の目は常に開いていたのです」
ありがたや、ありがたや、と言いながら七海は再び両手を合わせて頭を下げた。
「困った彼は、まあいいか、と夜中にこっそり平城京の路傍にその箱を捨ててしまいます」
「何故あなたの話に出てくる人達は小悪党ばっかりなのですか?」
捨てる神あれば拾う神あり!と賢人の言葉を無視して七海は続けた。
「そのころ都に出没していた盗賊一行がいたのですが、検非違使の追手が迫っていたため、都を捨て蝦夷地、今でいう東北の方に落ち延びようということになり、その夜、都大路をひたひたと歩いておりました。そして、道端に異国情緒あふれた箱を見つけると、行きがけの駄賃とばかりにそれを持って行きました」
「普通中を確かめてから持っていくでしょ?」
その盗賊は粗忽者だったのです、と七海は諸行無常の顔で答えた。
「そして、現在の秋田県辺りを通過中、ぼろくなった箱の一部が壊れて、頭蓋骨が転がり落ちてしまうのですが、盗賊達は気付かず北上、現青森県に到着した彼らは、そこでやっと箱を開くのですが、中に入っていたのは骨だけ。仕方なく彼らは墓を作ってそれを収め祀るのでした」
「ここまでの登場人物の中で盗賊が一番いい人じゃないですか?」
そして、と七海の語りは更に続く。
「それから、月日は流れ幾星霜」
「その文学的表現は、もっと別のところで有効に使えないのですか?」
無理です、と七海は地蔵の無表情で首を振った。
「旅をしていた在原業平が荒れ野を通りかかると」
「ついに業平まで登場ですか?」
「さっき賢人さんから小野小町の“ふり”をいただきましたのでお呼びかと」
「そんなふりをした覚えはありませんが?」
続けます、と目を細め遠くを見ながら七海が首を振った。
「荒れ野を通りかかると、どこからともなくあなめ(ああ、目が痛い)、あなめ、と声が聞こえてくる。不思議に思って辺りを見回すが声の主は見つからない。しかし、ふと脇を見ると、頭蓋骨の目のところからススキが生え、これが風で揺れる度に、囁くような声が、あなめ、あなめ、と聞こえてくる。哀れに思った業平、ススキを抜いてやり、持っていた酒を頭蓋骨にかけてやり懇ろに回向をしてやる」
「ついに『野ざらし』まで登場ですか。いくつ絡めてくるんですか?」
それは誰にもわかりません、もちろん私にも、と七海は首を振った。
「その夜、業平が一人酒を飲んでいると、誰か戸を叩く者がいる。「誰か?」と誰何すると、男の声で「私は昼間荒れ野にて回向を賜った救世主イエスという者です。お陰様でやっと成仏できそうです。何のお礼もできませんが、せめて腰などさすらせていただこうとこうして参りました」
「キリストが業平の肩を揉んでいるとかすげえビジュアルだな」
「見たくない絵ですね」
「さすがの業平も驚きましたが、さすがに救世主に肩を揉ますことはできないがよい酒の相手を得た、と喜んで招き入れ二人で酒を酌み交わします」
「まだ続きますか?もう帰っていいですか?」
「少し酔いも回ってきたところで、もしここに女子の一人も混じっていればお約束の怪談がはじまるところですが」
「ガチの幽霊が既にいるのにかよ?」
「男だけの酒の席となると始まるのはお決まりのY談です。業平が「都に小野小町とゐう者在り。よき女にて」と始めると、イエスも「マグダラのマリアとゐう者なん在りけり。この者、春を売る者にて」とお国の女の自慢話を返し、イッヒッヒッ、イッヒッヒッとエチエチ話は続きます」
「全然エッチっぽく聞こえないのですが?」
「そして、そこでふと目を覚ました業平、既に朝になり、床には空になった酒瓶とかわらけが落ちている。ああ、あれは夢か現実か、夢であったとしても楽しい夢であった」
「救世主が夜中に肩を揉みに来るとか、悪夢でしょ?」
「卑猥な顔でエチエチ話を語る救世主の顔を懐かし気に思い出しながら、温かい気持ちで業平は再び旅の空の人となるのでした」
と、と言いながら七海は突然口調を変えた。
「こんな感じでいかがでしょうか」
じっと七海を無表情に見つめた後、賢人は、わかりました、と頷いた。
「つまりイエス・キリストは頭蓋骨だけ分骨されました、というお話だったということでよいですね?」
「賢人さんも、だんだんわしらの躱し方を心得て来たな」
「嫌いだよ、そんな賢人さん」