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カンショー!  作者: 安城要
187/238

理想の彼女(ひと)(後編)

「ギュスターヴ=アドルフ・モッサ・・」

先に検索してから早希から渡されたタブレットを皆で覗き込みながら、賢人が呟くように言った。

「賢人、知ってた?」

いいや、と夏樹の問いに賢人は画面をスクロールさせながら首を振った。

「比較的新しい画家のようだけど、それでも19世紀後半の生まれみたいだし、知っててもおかしくなかったかもしれないが。しかし聞いたことないね」

それで、と賢人は手を止めた。

「これが、その問題の絵ですか」

さいです、机の隅の方に席を占め青い顔で俯き加減にぶつぶつと何事かをつぶやいている七海にちらっと眼を走らせてから、早希は頷いた。

「モッサの『彼女 《エル》』(https://omochi-art.com/wp/wp-content/uploads/2021/11/ma-gustav-adolf-mossa-elle-1905.jpg)です」

窮屈ですから画面で見ましょうか、と周囲の皆を軽く振り払うように肩を動かした賢人がスクリーンのコードに手を伸ばし、夏樹がそれをスクリーンに繋いで電源を入れる。

“それ”が大画面に映し出されたとたん、うわあおう、と早希が小さく呟いた。

「大画面で見ると、なかなかの迫力ですね」

そうですね、とその絵をスクリーンに映したまま、賢人は自らのカバンの中から私物のタブレットを取り出して検索を始めた。

「モッサは、1883年生まれ1971年没らしいですから、やはり新しい画家ですね」

「そうですか。確かに、なんとなく今風のファンタジーっぽい絵ですもんね」

「しかし、この絵は1904年に描かれていますね」

えっ、と早希が驚いたように声をあげた。

「じゃあ、百年以上前の絵ですか?そうは見えませんね」

「加藤くんに聞いた後、検索しなかったんですか?」

「まあ、あっけにとられたというのもありますがそこまでは。教室で見るにはちょっと問題あるでしょ、この絵?」

言われてみれば確かにまあねえ、と少し笑いながら頷いた後、夏樹は賢人を向いた。

「それで、この絵のテーマって何か解説されてるの?」

「まさかヌードの肖像画ってことはないですよね?」

さすがにね、と苦笑した後、賢人はしばらくタブレットを見つめ、すぐに顔を上げた。

「何か神話なんかをモチーフにしたというのでは無さそうだね。いわゆるファム・ファタールを象徴的に表現した絵みたいですね」

「なんです、ファム・ファタールって?」

「理想の女性、とか、男を破滅させる女性、みたいな意味です」

つまり、と沙織が自らの胸を押さえながらずいと進み出た。

「私のことですね?」

「その自信がどこから来るのか知らんが、後の方は合ってそうだな、男女関わらずで」

ふうむ、と賢人が顎に手をやって、手元のタブレットからスクリーンを振り返った。

「確かに胸は大きめで、Kくんの好みではありそうですね」

「この少女っぽい面立ちや、どちらかと言えば小柄な体型なんかは、ロココで好まれた女性っぽい雰囲気ね」

「うん、それと、なんとなくサキちゃんに通じるところがないわけではないね」

ちらっと目を走らせた先で、まだ俯き加減にぶつぶつと呟き続けている七海を見つめてため息をついた後、賢人と夏樹は、それで、と早希を向き直った。

「サキちゃんの胸が好みなKくんが好きそうな“彼女”ではありますが」

はい、と早希は頷いた。

「理想の“彼女”ではあるが、やはりかのじょは2Dではなく3Dであるべきだという主義主張の下、涙を呑んで“彼女”のことはあきらめるそうです。その決別の証として、己一人の心に留めるのではなく、ただ一人の心の友に語ってから封印したかったそうです」

すばらしい決意です、と流れる涙をハンカチで拭った沙織を、なんで?と半眼の面々が見つめる。

再び七海に目をやった賢人は、苦笑しながら手招きした。

「元気出してくださいよ、サキちゃん。まあぬか喜びをさせられたというのはショックでしょうが、今までよりも悪くなったわけでないでしょ?」

そうですね、と言いながら、沙織も優しい笑顔で七海に頷きかけた。

「あなたは既にどん底にいるのですからこれ以上落ちようはないのです。元気を出してください」

わああああっと泣きながら七海が机に突っ伏し、ため息をついた賢人は、しかたありませんね、と自らのタブレットを手にスクリーンを振り返った。

「せっかくですから、今日はこの絵を見ましょうか」

ではでは、と早希が両手をこすり合わせて賢人を見た。

「では、解説などお願いします」

ちょっと待ってくださいね、と言いながらゆっくりとタブレットの画面をスクロールさせた賢人は、すぐに顔を上げた。

「この絵、なかなか面白いですね」

ほう、と沙織も頷いた。

「では、その面白いところをお願いできますか?」

はい、と背後のスクリーンから大机を囲んで座った一同を見回した賢人は頷いた。

「まず頭の光輪ですが」

「あ、これ髪飾りではなく光輪でしたか」

「はい、ただ神聖な神というよりは、人間を超越した存在、を表すという意味合いが強いのでしょうね」

「なんか書いてありますね、上のところ」

はい、と賢人タブレットに目を落とした。

「ラテン語で「Hoc volo sic jubeo Sit pro ratione voluntas」と書いてある、と解説してあります」

「どういう意味なんですかね」

「ローマの詩人ユウェナリスの記した『ローマ諷刺詩集』の中にある言葉らしいのですが、意味は「私の欲しいもの、私の命令、私の意志は理性に勝る」とのことです」

つまりは、と沙織が再び自らの胸を押さえた。

「欲望は理性に勝るという意味ですね?私のことですか?」

多分そうだと思います、とどうでもいいように返した賢人は、しばらくゆっくりとスクリーンをスクロールさせながら見た後、再び一同を見た。

「面白いことが書いてありますよ。その詩の前段として次のようなエピソードがあるそうです。ある日妻が夫に奴隷を殺すように要求し、驚いた夫は妻に、何故殺さなければならないのかと理由を問います。すると妻は「奴隷は人間ではありません、故にたとえ何も悪いことはしていなくとも、私が殺したいと思えば殺せます」と答え、更に続けます。「これが私の命令なのです、私の意志は道理に優るのです」と。つまり、理由などないが、殺したいから殺すのだ、という意味ですね」

何か、と夏樹がじっとスクリーンを見つめた。

「この絵を見ていると、その“殺したい”も、それほど強い思いではなく、なんとなく気まぐれで殺したくなったから殺した、みたいに感じるわね」

「そうだね、彼女の下にうず高く積まれた死体も、さしたる理由も、いや、理由すらなく殺されたんだろうね。強者の意思がまずあり、理屈は後からついてくる、場合によっては、理屈すら必要ない」

こう言っちゃ何ですが、と早希がため息をついた。

「こういうの聞くと、奴隷制の無い現代に生まれてよかったと、心底思いますよね」

何言ってるんですか、と賢人が苦く笑った。

「人類の歴史上、今ほど奴隷が多い時代はありませんよ?」

はひ?

経済格差ですよ、と賢人は続けた。

「アメリカとか、自由自由とか言いながら、経済の格差が、結局人の自由を奪い、ただひたすら働き続けなければならない。そして、アメリカはそれを世界中に輸出しています。社会的進化論ソーシャルダーウィニズムという言葉を知ってますか?」

早希はぷるぷると横に首を振った。

「金持ち達が信奉している理論です。資本主義経済社会で経済的に成功した自分達は社会環境に適応したすぐれた種であり、貧乏している人々は進化に取り残された種なのでもっと努力しろ、って感じの理論です」

「えげつねー、ダーウィン先生も泣いてるぞ」

この世は悪い奴が勝つようにできているのです、と沙織が首を振った。

「発明王エジソンですら、最後には投資家に発明も会社も全てむしり取られていますから」

そして、沙織はにっこりと自らの胸を押さえて一同を見回した。

「そして社会的進化論の進化の到達点があなた達の前にいます」

「いっそすがすがしいくらいに自己肯定感が高い物体だな」

「“存在しない”せーぶつのくせに生意気な。UMA気取りですか?」

次行こうか、とお互いの胸倉を掴んだ二人を見ないようにしながら夏樹に向かって頷きかけた賢人がスクリーンを向いた。

「頭の上にはまるで髪の毛に擬態したかのようにカラスが居ます」

あ、と桜間が目を細めてじっとスクリーンを見た。

「カラスに焦点を当ててみると、まるで髪の毛が巣、髑髏どくろが卵のようにも見えますね」

そうですね、と賢人は頷いた。

「カラスは賢い動物ですが、例え映画なんかでも死肉に群がった姿がよく描かれるようにあまりいいイメージの鳥ではありません。聖書においても“わるい鳥”という意味の記載がありますし、ノアの箱舟の話でも、洪水後陸地が現れたかどうか確かめるために放たれたカラスは戻ってこず、木の枝を咥えて戻り、陸地が現れたという瑞兆をノアに伝えたのはカラスの後に放たれたハトでしたしね。そして髑髏は死の象徴です。二羽のカラスはせっせと死を生み育てているのです」

そして、と更に賢人が続ける。

「首から下げられたネックレスには、銃とナイフとこん棒の飾りがついています。全て死をもたらす道具ですね」

「家畜の下顎の骨がありませんね?」

早希の言葉に、そうですね、と賢人は半眼になった。

「ついでに、積み上げられた死体の中にはアベルはいないと思いますよ。探すというのであれば止めませんが」

そして、と賢人がスクリーンの絵をスクロールして拡大した。

「股間のところにも黒猫がいます。黒猫もあまりいいイメージの動物ではありませんね」

「目つき悪いっすね」

はい、とその視線が彼女の血に汚れた指を向く。

「指にはめられている指輪もどうやら人間の骨でできているようですね」

それと、と早希は眉をひそめた。

「なんか、彼女の太股についた血の手形が壮絶ですね」

「そうですね。最初はいい時間もあったんでしょうが、それも長くは続かず、すぐに彼女に殺されてしまう。それでも死の間際まで彼女を求めずにはいられない。悲しい男のさがですね」

「気付けよ、と思わないでもないですけどね」

「そこは、自分だけは特別だ、と思ってしまうんでしょうね。男という奴は。逆に、これほどまでにクールな女性が自分だけに思いを寄せてくれる、と考えることがたまらない人もいるのでしょう」

「こーんな目をしたやつに好かれてうれしいもんですかね」

早希は少しむくれたように言った。

「家族の肖像画を描いてもらって妻がこんな目をしてたら、絶対そこの夫婦関係は冷え切っていると思いますけど?」

とりえず持っているネタは全てぶち込んでくるのですね、あなたは、と賢人が嘆息した。

結局と、と早希が首を傾けた。

「これは、一体何が言いたい絵なんですかね?」

そうですね、と賢人が顎に手をやり、再び全身を映し出した絵の中の“彼女”を見つめた。

「何か元ネタがあるとか、比喩とか、そういうのではなく、さっきも言ったとおりファム・ファタール、理想の女性の一つの形として描いたものだと思います。まあ、昔からビーナス像が描かれてきたのの一類型と考えていいと思います」

「随分と恐ろしいビーナスですね」

「そこは逆で、恐ろしいけど美しい、恐ろしいから美しい、ということになるのでしょうね。これは私の私論ではありますが、中世のキリスト教会の絶対的権威が衰えてくる中で、折からのオリエンタルブームも手伝い、例えばインドのカーリーなどのような、恐ろしいけれども崇拝されている女神像なんかもヨーロッパにもたらされ、そういうものに刺激を受けたということも考えられますね」

なるほど、と早希は頷いた。

早希がスクリーンを見つめたのに、一同もなんとなくその視線を追うようにしてスクリーンを見つめたが、そこでふと賢人が早希を見た。

「そういえば、結局加藤くんのことでサキちゃんになにか状況の変化が生まれる訳ではなかったのに、なんのための緊急招集だったのですかね?」

はい、と早希は神妙な面持ちで頷いた。

「それは、その方がサキちゃんがよりぬか喜びし、その後落ち込むギャップを楽しめるからです」

「悪い人ですね」

「ファム・ファタールですか?」

「違います」














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