理想の彼女(ひと)(前編)
誰も居ない校庭に立った早希は、伸びをしながら大きく息を吸い込んだ。
う~ん、気持ちいい・・・
今日は何故か朝の目覚めがよかった。
いつもよりも二時間も早く目覚めた早希は、この時間をどう使ってやろうか、と思案した後、ふと気づいて慌てて制服を着こみ、家を出た。
まだやっと7時を回ったばかりの学校に人影は皆無であった。
進学校でもある陵上に部活の朝練に来るような奴がいようはずもなく、昼の容赦ない酷暑を予想させ既にぎらつく太陽も、朝の清涼な空気に少し少しか和らいで感じる。
その空気を胸一杯吸い込みながら校庭を横切り靴を履き替えた早希は、これも誰もいない廊下のど真ん中を踊るような足取りで歩みながら教室の扉に手をかけた。
いっちば~んっ!
しくしく・・・
扉を開いてスキップを踏んで中に入った早希は、そこで半眼になった。
いたよ・・・
それも近距離に。
早希の後ろの席に座った加藤圭介がスマホを片手にもう一方の手で涙の流れる目を覆っていた。
な、と無意識に浮いた薄笑いを浮かべながら早希は恐々と彼の前の自らの席に近づいた。
「何やってるの?」
十分に距離を取ったところで立ち止まり声をかけた早希に、そこで初めて彼女に気づいたように目を覆っていた手を離した加藤は、おおっ、とその全面に気色を浮かべた。
「おお親友よ」
その目から再びだらだらと涙がこぼれる。
「お前を待っていたんだ」
加藤はいつもに似合わぬ早い口調で続けた。
「少しでも早くお前に伝えたいことがあって・・いや、もしかしておれが待っていると知ってこんなにも早く来てくれたのか?」
そんなことあるかい。
やはり持つべきものは友だ、と再びあふれた涙を拭った加藤に、早希はわずかに後ずさった。
「な、何?私に伝えたいことって?」
おお、と頷きながら立ち上がった加藤は手に持っていたスマホの画面を早希に向けた。
「喜んでくれっ、ついに・・・ついにおれは理想の彼女に巡り合った」
ナンデスト?
その日の放課後。
早希からLineで緊急招集を受けた絵画鑑賞部の一同が終結した美術準備室は風雲急を告げていた。
緊張した面持ちでそれぞれ席についた一同を見回した早希は、深呼吸をするかのように一度瞑目して息を吸い込んだ後、キッと部屋の一点を睨んだ。
「沙織さんと桜間さんは呼んではおりませんが?」
まあまあ、と沙織は無表情にひらひらと手を振った。
「そんなこと言わんと、なあ」
「私達に内緒で何を企んでいるんですか?陰謀ですか?陰謀ですね?」
「そんなあんたらだから声をかけなかったんだよ!そうでなくても面倒臭い話が余計にややこしくなんだよっ、あんたらがいるとっ!!」
まあまあ、と賢人が苦笑しながら声をかけた。
「そもそもからして、秘密の話ならなんで美術準備室に召集をかけたんですか?ふつーに沙織さんや桜間さんが来るでしょ、ここじゃ」
それくらいテンパッテたのでございます、と早希は俯きながらため息をついた。
しかたありません、ともう一度ため息をついた早希は一同を見回した。
「話というのはほかでもありません。実はKくんのことでございます」
帰る、とその短い言葉を言い終わった時には、七海は既にカバンを引っ掴み扉の取っ手に手をかけていた。
「まてっ、お前に一番関係あることなんだよっ」
もうほっといてくれよっ!と七海は叫ぶように言った。
「もうあいつのことは思い出したくないんだよ!ここんとこ何もなかったから安心してたんだよ!もうあいつのことは闇歴史ってことにさせてくれよっ!!」
歴史じゃなく現在進行形ですけどね、とぽつりとつぶやいた賢人をひと睨みしてから、七海は早希を向き直った。
「奴を、社会的に抹殺するという計画なら話を聞こう。実際に神の元に送ろうという計画なら尚よし!」
陰謀ですね?これから陰謀が始まるんですね?と嬉しそうに言った桜間を無視して、早希はしかめっ面しく七海に頷きかけた。
「そういう計画ではないが、インパクトはそれに匹敵する話だ。どうだ、同志戸田?」
胡散臭そうにじっと早希を見つめた後、頷いた七海はかばんを放り出すようにして机に置くと、どっしりと椅子に座り、やや身構えた姿勢で早希を見つめた。
「よかろう、聞こうではないか、同志米倉」
同志という言葉をギャグで使うのはやめてくれませんか、と美術準備室に“同志”を持ち込んだ張本人が言った。
「朝、登校したとたんKくんがいきなり話しかけて来たと思っていただきたい」
「おお、お前の親友、Kくんがか?」
話すのやめるぞ、と呟いた後、早希はわずかに口調を重々しく変えると正面から七海に顔を寄せた。
「その時、彼が何と言ったと思う?」
「わからん。“ない”ことの哲学と美学に目覚めた、とでも言いながらお前の胸部に言い寄って来たのか?」
失礼ながら、と賢人が手を挙げた。
「どうやって、“存在しないもの”に言い寄れるのでしょうか?」
その突っ込みを待っていました、とガッツボーズをしながら親指を立てた七海に、本当にここで止めるぞ、と早希が半眼になった。
ではなく、と早希は低い声で続けた。
「それは、ついにサキちゃんの胸部以外の、理想の彼女を見つけた、との報告だったのです」
どよっ、と早希と桜間以外の全員がどよめき、とびっきりの表情でガッツポーズをした後天に両手を掲げた七海に天からの光が降り注ぐ。
そ、それは、と狼狽した表情で賢人が立ち上がって賢人が早希に詰め寄った。
「そ、それは本当ですか?!」
はい、と首を振ったのは早希ではなく七海であった。
振り返った賢人の視線の先で、四国八十八ヶ所霊場 所黒厳山遍照院大日寺(徳島県板野郡板野町)に安置され奉る千手観音像のようなたおやかな表情を浮かべて両手を合わせた七海は、天からの光をキラキラと浴びながら静かに首を振った。
「そうなのです。チイちゃんが言うからには間違いないのです。それでいいのです」
「し、しかし・・」
やかましいいいっ!!!と両手で机を叩きながら立ち上がった七海は、蜂岡山広隆寺(京都市右京区)の山門を守る仁王像のような表情で唾を飛ばして叫んだ。
「チイちゃんがそうだって言ってるんだからもういいだろうがっ!!チイちゃんはいつも正しいんだよ!!ホントのことしか言わないんだよっ!!チイちゃんが、そうだ、って言ったら地球人類全員、そのとおりです、と返すのが正義なんだよ!!」
待ってくださいっ!!と必死に叫ぶ七海を超える大声に、全員が桜間を振り返った。
そのあまりの迫力に思わず黙り込んだ一同を緊張した面持ちでゆっくりと見回した桜間は、素早く室内に目を走らせた後、ゆっくりと自らの唇に立てた人差指を当てながら再び一同を見ながら頷いた。
「これには、何か陰謀があると思いませんか?」
やかましいっ!!と叫びながら七海は自らのカバンを両手で掴むと床に叩きつけた。
「“陰謀”って単語覚えて訳も分からず嬉しがって連呼しているインバウンド民みたいに、陰謀陰謀ぬかすなっ!!」
「すげえ比喩だな、それ」
何でみんながあんたのことを“桜間さん”て呼んでるか教えてやろうか!と七海はキレ散らかして叫んだ。
「それはみんながあんたのことを仲間として認めてないからだよっ!!無意識に心を閉ざしてるんだよっ!!」
あ、と言いながら口を押えた夏樹と早希が顔を見合わせる。
「そういや、桜間さんだけ無意識に苗字で呼んでたな」
「ねえ。言われるまで気づかなかった」
ハイ、と沙織が手を挙げた。
「私は以前から同志桜間と呼んでいますので、そのままですが?」
うるせええっ!!とカバンを廊下まで蹴飛ばした七海に、確かに、と桜間は俯いた。
「確かに、皆が私を危険視して距離を置くのはわかります。私の知識を闇に葬るためにどんな刺客が送り込まれてくるかわかりませんから」
危険視じゃなく異端視だよっ、ついでに、距離を置いてるのは面倒臭いからだよっ!!と椅子を廊下に蹴り飛ばした七海は、涙ぐみながら一同を睨みつけた。
「ちょっと黙ってチイちゃんの話の続きを聞かせろよっ!!こっちは長い暗いトンネルの先に光が見えてきてんだよっ!!あとちょっと走ればトンネル抜けて光の世界に行けんだよっ!!トンネル抜けたら助かるんだよっ!!『きさらぎ駅』なんだよっ!!」
「あれって、トンネル抜けた先で善人ぶったおっさんに攫われてコメ主が行方不明になる話じゃなかったか?」
また何か叫ぼうとした七海を、まあまあと立ち上がりながら賢人が抑えた。そして早希を振り返りながら頷きかける。
「確かに、我々も続きに興味が有ります。チイちゃん、どういうことなのか説明をお願いします」
判りました、と立ち上がった早希は、ゆっくりと七海の前まで歩くと、その両肩に手を置いた。
そして、サキちゃん、と優しく微笑みかける。
「な、なんだ?」
ガンバだ、と置いた手で七海の肩を軽く叩く。
「トンネルはまだ長いぞ」
その短い言葉だけでがっくりとと膝を折った七海を他所に、早希は二人を見つめていた一同を振り返って見回した。
「なぜなら、Kくんの思い彼女は、絵画の中の住人だからです」