史上最低の画家(今現在暫定で)
見ていたシャガールの画集から顔を上げた七海は、ふと、軽く頬杖をついてさして楽しくも無さそうに極彩色のアンリちゃんの画集を見ている沙織を向いた。
沙織さん、と呼びかけると、思ったとおり画集に集中していたのではないだろう速さで沙織が顔を上げた。
「沙織さんの家ってどんなんですかね?」
私の家、ですか、と沙織は頷いた。
「私の家は在来工法の6LDK、築11年、登記には地元地銀の抵当権が設定されその金額は3000万円、35年ローンで残債24年・・」
いや、家屋の事情聞いてねえし、って、なんでそんなに詳しいんだよ?
いや、と沙織の言葉を遮るように慌てて手を振った七海は、沙織が口を閉じるのを待ってから首を振った。
「いえ、建物の事情ではなく、差し支えなければ家族の事情など」
こんな人が育つ家庭だからなあ、まあ、興味あるよな、と二人の様子を少し離れたところから見ていた早希も小さく呟いた。
私の家族ですか、と不思議そうに言った沙織は、別段躊躇する様子も見せず、すぐに続けた。
「父は会社を経営しています。母は、ネットでできる程度の小規模でデザイナーをしており、あとは妹が約1名」
“約”ってなんだよ、“約”って。
ただ、と更に続ける。
「この妹がかなり厄介な性格をした難敵です」
沙織さんが厄介というくらいなら本当に面倒臭い奴なんだろうな、とため息をつきながら七海は沙織を見た。
「難“敵”ですか」
そうです、と七海の皮肉な物言いにも別段気にする様子もなく、沙織は頷いた。
「私はとりあえず全ての人類を私の道を阻む敵と認識した上で、ある程度気心の知れた人間を順次敵性解除を行っていく、というスタンスで生きていますので」
世界で最も多くの敵を持つ人間だな、この人。
って、十数年一緒に生活してきた妹がまだ敵なのかよ。
んじゃあ、とハイ、と早希が手を挙げ、沙織がそちらを向いた。
「沙織さんは、私達のことも敵という認識なのでしょうか?」
いえ、と沙織は首を振った。
「あなた達は素質がありますから」
なんの素質?ねえ?
「私達の仲間に誘ってもよいと考えています。ゆえに妹のようにかわいく思っていますよ」
あんたさっき妹を敵性認定してたろが。
ち、ちなみに、と七海はおずおずと沙織に手を伸ばした。
「以前から気になっていたのですが、その“私達の仲間”って一体なんなんですか?」
すっと、真顔になった沙織が七海を向いた。
「地球の資源に対して、人類は多すぎると思いませんか?」
確か“元カレ”もそんなことを言っておりましたな、はい。
「この世界は、笑えるものとおもろいものとちっちゃいものだけ残ればいい、そういう選ばれた人間だけが生き残ればいい、そう思いませんか?」
なんだよその地獄。思いませんか?って、思わねえよ。
それに何?さっきの“素質”って、わてらがちっちゃいこと?
「私はそういう世界を作りたいのです」
史上、最も自分の欲望に忠実な暴君の誕生だな、この人。
話題を変えよう。
あの、と、七海が口を開く前に早希が先に沙織に呼びかけた。
「ちなみに、その妹さんというのはおいくつで?」
「中学三年です。来年、陵上に入学を目指していますので、もし入学ってきたら可愛がってやってください」
ふっと薄笑いを浮かべながら、沙織は横を向いた。
「できるものなら、ね」
怖いよっ!今からもう怖いよっ、おいっ!
こんにちわ、と言いながら、賢人と夏樹が続けざまに入ってきた。
「あれ、どうしたんですかサキちゃん?なんか顔が強張ってますけど?」
ぎこちない仕草で賢人を向いた七海は、なんとか、こんにちわ、と返した。
「今日は廊下で聞いていなかったんですか?」
いつもいつも聞き耳を立ててるみたいに言わないでください、と賢人は机の上にカバンを置きながら顔をしかめた。
いや、と言いながら早希が夏樹を手招きした。
「ちなみに夏樹さんて、ご兄弟は?」
私?と言いながら夏樹はびっくりしたように自分を指差した。
「私は一人っ子だけど?」
んじゃあ、と今度は七海が賢人を向く。
「賢人さんはどうですか?」
ぼくですか、と賢人も何故いきなりそんな話を振られるのかわからない、という顔で瞬きした。
「ぼくはもう社会人の兄と姉、そして中学生の妹がいますけど」
ふうむ。
「多人数の家族ってうらやましいですねえ」
「確かサキちゃんはお母さんと二人でしたよね。やっぱり賑やかな家庭に憧れますか?」
「いえ、別に。多いと食べ物とか奪い合いになり、兄弟で憎しみ合ったりしてその果てにムニャムニャ事件とかが起こりそうで」
「ムニャムニャのところがすごく気になるのですが」
「ただ、家族の集合写真とかが賑やかそうで、それだけが憧れです」
「それだけ、ですか?」
さいです、と言った後、七海は、けど、と続けた。
「けど、社会人のお兄さんとかですか。じゃあ、もう家族の写真とか撮ったりはしないですよね、さすがに」
いえ、と賢人は首を振った。
「一応、年に一度は家族の集合写真を撮るのが伝統でして。兄は京都の会社勤めていますが結構な頻度で帰ってきますので、できるだけ正月に、無理でも機会を設けて年に一度は撮ってます」
ちなみに、とハイと沙織が手を挙げた。
「我が家では私の記憶に残る限り家族が一緒に写真を撮ったことは一度もありません」
そう思ったからあえて聞かなかったのですが、あなたには。
「我が家は超個人主義ですので」
そんな感じがします、あなたを見てると。
既に、と沙織は頷いた。
「中学校の入学式の日にまとまった金額の入った通帳を渡され、これが私のこれからの小遣いと衣類費と学費の全てなので、食住以外の大学を卒業するまでは費用は全てこれで賄え、足らなくなったら自分でなんとかしろ、と言われました」
スパルタ過ぎるだろ、おい!
そ、それで、と賢人が唾を飲み込みながら沙織に語り掛けた。
「あなたはどう返されたのですか、その、ご両親に?」
はい、と沙織は頷いた。
「さすが私の親だ、わかっていらっしゃる。さあ、この金をどう使い倒すか、と呟いたところ、父はニヤリとしていました」
この親にしてこの子有りだよ全く!こんな子供放し飼いにしちゃだめだろ、保護者として!この金が世界征服の為の軍資金になるぞ!
しかし、と沙織は小さく首を振った。
「私はパパ活で稼いでいるのでその口座の金は減るどころか増える一方で、本当にどうしてくれようかと」
ぱ、と言いながら賢人が賢人が動揺したように口を喘がせた。
「あ、あの、沙織さんそんなことをしてらっしゃる・・」
は?といながら、凝然と沙織を見つめる賢人を見つめ返した後、沙織は突然両頬に伸ばした人差指を当てると、にっこりと笑いながら首を傾けた。
「サオリン、なんのことかわかんな~い」
張っ倒すぞ、このアマ!
しかし、と言いながら腕を組んだ沙織はうんうん頷いた。
「さすがは陵上、パパ活市場においてもブランド力がありますね」
だってさ、なんかリアルっぽいよね、と七海に肘で腰を突つかれた賢人が、ぼくに言わないでくださいと、ため息をつく。
まあ、と沙織は軽く肩をすくめるようにして言った。
「私のはライト系パパ活なのであまりお金は儲かりませんので、そのうち貸借対照表もバランスを取れるようになるのではないかと思っております」
嘘だよ、ネタだよ、と言うかと思えばそんな生々しいことを。リアル感増すわ。
そ、そういえば、と賢人が話題を変えるかのように声をあげた。
「ぼくがまだ子供の頃のことですが」
今だってまだ子供だろ?
「家族の肖像画みたいなものを描いてもらったことがありますよ」
ほへ?
「これも伝統というか、確かに昔からの写真もありますが、写真がカラーになったのは父の子供のころくらいからですので、晴れやかな姿を残したかったのでしょうか、何代か前からの家族の集合した絵、というのが代々残っています」
それは、と早希が賢人を向いた。
「お高くついたことでしょうね?」
どれくらいかかったかは知りません、と賢人は苦笑した。
そこで、ふむ、と俯きながら、家族の絵か、と七海がつぶやいた。
「そういえば、家族の肖像画みたいなのを、意識して見たことありませんね」
そんなことはないのではないですか、と七海を向いた沙織が瞬きした。
「以前に私がいろいろな絵を紹介してあげたでしょ?」
確かに、と七海は頷いた。
「処刑される王様の家族との思い出の走馬灯の絵(フレデリック・グッドール『チャールズ1世の幸福だった日々』のこと)や、賭け事で破産した一家の絵(ロバート・アルティノー『懐かしい我が家での最後の一日』)や、革命家とかいいながら寅さんみたいにたまにしか家に帰ってこない親のいる一家(イリヤ・レーピンの『思いがけなく』)や」
寅さんて、と早希がどうでもいいように肩をすくめた。
「あれ、映画で他人の家のこととして見てるからいいけど、実際あんなのが家族に居たら、親戚一同の鼻つまみ者だよな、絶対」
確かに。
それと、と七海は続けた。
「家族一緒に楽しく馬車に乗ってると思いきや、悪魔が混じっている絵や」
「それがルソーの『ジェニエ爺さんの馬車』のことを言っているのでしたら、くどいようですがあれは悪魔ではなく犬ですので」
「他にも、兄が弟を殺した凄惨な事件の絵(ウィリアム・ブレイク『アダムとエヴァによって発見されたアベルの体』)や、その弟を殺した兄貴の方が家族ともども悲惨な逃亡劇を繰り広げている絵(フェルナン・コルモンの『カイン一族の逃亡』)やら」
こうしてみると、賢人が嘆息した。
「確かに、家族の絵って、あまりろくな絵は見てこなかったような気もしますね、実際」
言っておきますが、と沙織がわずかに不満そうに言った。
「以前私が紹介した絵はあれはジョークですので。それと、さっきのパパ活の話も」
どっちも、もうどうでもいいよ。
いいでしょう、とそこで沙織大きく机を平手で打った。
「私が、あらためて、幸せそうな家族の絵を紹介してあげましょう」
「とか言いながら、また悲惨は絵なんでしょ?」
いえいえ、と沙織が慌てて首を振った。
「父親の書斎に集まったらしい一家が、くつろいでいる絵ですよ。こんな感じで」
と、立ち上がった沙織が早希の肩を抱いた。
「お母さんが娘の肩を抱いたりして」
ほう。
ちょっと貸してください、と机の中央に放り出すようにして置いてあるタブレットに沙織が手を伸ばし、
ちょっと待ってください、と先にスクリーンにコードをつないでから賢人がそれを沙織に渡し、スクリーンの電源を入れた。
「これ、なんとかなりませんかね、このコード。今なら無線でピピッってできるのあるでしょ?」
「物理的には存在するでしょうが、買うための予算は付かないでしょう。これだって当時の最新式でしょうし、またまだ使えますから」
これが、と二人が話している間に目的の絵を探し出したのだろう沙織がスクリーンを向いた。
「これが、エドガー・ドガの『ベレッリ家の肖像』(https://www.tabitobijutsukan.com/wp-content/uploads/2023/09/image.png)です」
寒い!
寒すぎるぞ、この一家!
家族関係が冷え切っている!
ドガって、と早希が半眼になるとスクリーンを見つめた。
「パパ活問題や女性のアル中問題など、社会の闇に鋭く切り込んだ社会派の絵を描いていた画家でしたよね、確か」
「確かにそんな絵を描いてはいましたが、そういう趣旨で描いていたわけではありません」
「今回のこの絵は、近年問題となっている崩壊していく家族関係に関する告発記事ですか?」
「まず記事じゃないでしょ、記事じゃ」
この絵は、と夏樹も眉をしかめてその絵を見つめた。
「この絵、私も初めて見たけど、何の動きも無くても、この一家の、特に夫婦の関係が冷え切っているのがわかるわね」
そうだね、と賢人も頷いた。
「この母親の方はドガの叔母で、夫の方はナポリの貴族、ベレッリ男爵。ドガは、ドガの祖父が事業に成功して富を築いた富裕な銀行家の一族で、まあ典型的な政略結婚だったからね」
見ろよ!早希が吐き捨てるように叫んだ。
「銀行一家の金持ちってか。やっぱりドガは「おぜうさん僕の絵のモデルにならないかい」とかナンパをしつつ、実はいたいけな踊り子をフニフニする側の人間だったんだな!」
なんですかフニフニって、と賢人がため息をついた。
「確かに裕福だったドガはバレエを好み、オペラ座の定期会員にもなっていたらしいのですが」
「ほれみろ!」
「しかし、彼が金持ちのシングルライフをエンジョイしていた最中、彼が四十歳の頃に父親が死に、実は事業は傾き家は借金まみれだということが発覚」
ざまあ、と早希が小さくつぶやいた。
「しかたなく彼は身の回りの物や集めた絵のコレクションを売り払い、なんとか借金を返しました。それからですよ、彼が素晴らしい作品を生み出し始めたのは」
まったく、と七海はため息をついた。
「こいつにしてもうえ~いの人にしても、なんで痛い目見ないといい絵が描けないんですかね」
「逆に追い詰められた時こそ人間はその本領を発揮するということではないですかね」
続けますね、と賢人は一度スクリーンを見てから一同を見回した。そこでふと沙織に目を止めた賢人はわずかに首を傾けた。
「このまま、ぼくが説明してもいいですか。それとも沙織さんがされますか?」
いえ、と沙織はにっこりと微笑んだ。
「続けてください、楽しみに聞いています」
「ありがとうございます」
「いえ、私の紹介した絵にあなたがどんな知ったかぶりな顔でうんちくを垂れるのか楽しみに聞いています」
やる気を無くすようなことを言わないでください、とげんなりとした顔になった賢人は、その表情のまま続けた。
「ドガは二十代前半に絵の修業のためにイタリア各地を回りました。その時、フィレンツェに居を構えていた叔母の所にしばらく滞在したのです」
「ナポリの貴族なのにフィレンツェに住んでたんですか?」
はい、と七海の言葉に賢人は頷いた。
「いいところに気づきました。まさにそこなんです」
「どこなんです?」
もうそういうのやめましょうよ、と嘆息した後賢人は続けた。
「実はベレッリ男爵は革命に関与して失敗し、ヨーロッパ各地を転々とした挙句、フィレンツェに落ち着いたという過去があるのです」
じゃあ、と七海と早希は同時に半眼となって賢人見た。
「ふーふ仲が壊れたの、ドガのせいじゃん」
「だな。そんなこんなでやっと一息ついたところで、それでもテキ屋で稼いでいた寅さん以下の、なんの稼ぎもない世間知らずのフーテンの自称画家の甥が転がり込んできて家賃も入れずに滞在したらもめるって」
「んでもって「なんであんなごく潰しの甥泊まらせるんだよ!」「知らないわよ、連絡もいきなり来たんだから!」「ともかく、さっさと追い出せよ!」「そんな無茶言わないでしょ!なんて言って追い出すのよ!」「そんなもんお前が考えろ!」とか、ドガが外出先から帰ってきているのも気付かず怒鳴り合うおちぶれた下級貴族の夫婦の会話を聞きながら、ドガは呟く。ううむ、これは絵になる、と」
「まさしく、政争に敗れて逃げてきたのをかくまって住まわせてくれた恩人一家のスキャンダルを出版したダンテにも劣らぬ悪魔の所業ですな」
「はい、絵の原題名もおそらく『零落の貧乏貴族』とかなんとか、叔母一家を辱めるような題名を付けていたに違いありません」
よく想像だけでそんなストーリーを即座に思いつきますね、と嘆息した賢人は軽く首を振った。
「ただまあ確かに、ドガが生まれた頃は彼の家はまだそれほど裕福ではなかったはずです。それを事業を立派に育てたドガの祖父を見て育った彼女は、逆に、親から引き継いだ貴族という身分にありながら革命なんかに手を出して亡命にすることになった夫に愛想をつかしていた、というのは十分に考えられることですが。ほら、それをあらわすかのように、叔母の隣にはドガが描いた彼女の父(ドガの祖父)の素描が飾られています」
「もし本当にそうだったとして、良識ある人間ならそれを絵に描きますかね、実際のとこ。それも『ある家族の肖像』くらいにしとけばいいものを、実際に名前まで出して」
ドガがどういうつもりだったかは知りませんが、と賢人が肩をすくめた。
「ドガが、並々ならぬ努力を注いでこの絵を描いたことは事実でしょうね。なにせ、彼は描き始めてから10年もの歳月をかけてこの絵を完成させたのですから」
んで、と七海が賢人を真似るようにして肩をすくめた。
「売れたんですかね、こんな人の不幸が感染りそうな絵が」
いえ、と賢人は首を振った。
「彼はこの絵を官展に出したのです。それも入選する確信を持っていたのだろう、意気揚々と」
「で、結果は?」
「落選です」
だろうよ、と早希が吐き捨てるようにして言った。
「こんな人外の鬼畜が描いた絵が当選るわけないよな」
その鬼畜のところは置いといて、と七海は賢人を見た。
「実際のところ、落選た理由はなんなんですかね?」
さて、と賢人は首を捻った。
「実際のところはわかりませんし、諸説あるのですが」
「その諸説のところを聞かせていただければ」
では、と賢人も頷いた。
「一つは、やはりまだまだ官展では宗教画や歴史画といった絵の方が高尚だとしてして認められやすかったことがあると思います」
ナルホド。
「それと、この絵のテーマというのが判りにくかったということがあると思います」
その心は?
「これは、いわゆる肖像画とは少し違いますし、風俗画というには、風俗画に描かれるべき何の教訓も描かれていません。審査員も困ったでしょうね、これを描いた奴は一体何が描きたかったのだ?と」
「壊れゆく家族、というのではダメですか?」
「今風のドラマや漫画ならウケるでしょうが、当時の絵のテーマとしては微妙なんじゃないでしょうか、それ」
では、と早希が腕を組んだ。
「ドガは親族の醜態を晒しただけで何の成果もあげることはできなかった、と」
「結果的にはそういうことになりますね」
んでもって、と早希は続けた。
「家業は傾き、絵は認められず、仕方ないのでアンデパンダン展に出し」
「いえ、確かぼくの記憶では、この絵は第一回の印象派展に出してたと思いますが」
「いずれにしろメジャー誌でのデビューは叶わず、マイナー誌からの出発になり」
なんですか、メジャー誌とか、と賢人が嘆息する。
「そして、それだけでは食っていけなくなったドガは、ついに裏の社会の住人となるわけですな」
「ふむ、そこのところをも少し詳しく解説願いたい」
よかろう、と早希は七海に頷き返した。
「実家の仕送りに頼れなくなったドガは絵を描きながらも収入を得るために何かの仕事をする必要が生じたのですが、いかんせん若い頃からろくに働いたことも無く手になんの職もない」
絵があるでしょ絵が、とつぶやくように言った賢人を無視して早希は続けた。
「あるのは遊び惚けた若い頃の経験だけ、仕方ないのでこれで何か金を稼ぐ方法はないかと考えた」
うむ、と七海は腕を組むと強く頷いた。
「大店を継いだ二代目が遊蕩に耽って身代を潰し、何の職もないため、遊び歩いた経験を元に幇間になるようなもんですな?」
比喩が女子高生とは思えないほどえぐいですね、と言った賢人に、女子高生ではなく地蔵なので、と七海はそちらを見ようともせずうそぶいた。
そして、と早希は更に続けた。
「遊び惚けていた時代に裏社会とも繋がりの出来ていたドガは、パパ活斡旋業のようなものを始めた。踊り子の絵を描いて街角の路地裏から通りかかる紳士に、旦那、旦那、いい子がいますぜ、と手招きする。そして自らが描いた絵を見せながら、こんな子なんですが、と売り込む」
「おおっ、踊り子の画家と言われたドガの正体がそんな男だったとは。つまりはあの絵は、宣材だったわけですな?」
そのとおり、と早希は頷いた。
「自らが遊んだ経験から、置屋や座敷のシステムまで熟知し、多くの遣り手ババアにも知り合いが居たドガはその方面でめきめきと頭角を現していく」
「どこの国ですか、ドガがそんなことをやっていたのは?」
何処かは角が立つので言えませんが、と早希は瞑目して首を振った。
「ドガの絵が浮世絵の影響を強く受けていたのは万人の知るところ。ゆえにドガは日本の“そっち”関係も熟知していた可能性が有ります」
皆無ですよ、そんな可能性は、と賢人が嘆息する。
多くの顧客を抱え、と早希はそこで静かに首を振った。
「一時は羽振りのよかったドガですが、客だった大物司会者が9000フランもの口止料を払ったにも関わらず情報が流出して職を失い、ヨーロッパ各地を転々した挙句に最終的にフィレンツェに詫び住まいすることとなり」
「早速それを使うんですか」
「その噂が広まると瞬く間に顧客は離れ、コマーシャルはどんどんA〇ジャパンに差し変わり、コマーシャル収入は激減」
「何気に時事ネタを盛り込ん来るな、お前」
[そんなこんなで再び職を失ったドガは、仕方なくこの間に技術を培った踊り子の絵を描いてみたところ、これがバズって、黒歴史は闇に葬り、ずっと画家をしてましたって顔で画業を再開したのでした」
とこんな感じで、と早希は賢人に頷きかけた。
「いかがでしょうか?」
「どんな返事を期待しているんですか、ぼくに?」