(番外編)私は負けない!
その土曜日の昼。
君島沙織の姿は某ラーメン店の前にあった。
暖簾を潜る。
「らっしゃい」
常連というほどではないが時々訪れる店で、沙織の容貌も相まって店主は既に彼女の顔を覚えていた。
誰か来たなと無意識に沙織の方を見た客が、例外なく彼女を二度見する。
古風な白いブラウスと真っ白なスカート、そしてつばの広い真っ白な帽子、それ包まれた深窓の令嬢かくやと言わん愁いを含んだ美しい顔。
それが場末のラーメン店に舞い降りたのだ。
真っ直ぐにカウンターまで歩いた彼女の前に、すぐに冷たいグラスが置かれた。
「今日は暑いですね、何にしましょうか」
人の好さそうな初老の老夫婦だけで切り盛りする程度の店である。それほどメニューも多くない。
「冷やし中華とか、なんか冷たいものがいいですかね」
いえ、と言いながら帽子を隣の椅子に置いた彼女は、何か決意を秘めたような視線を親父に向けた後、一方の壁を指差した。
押しピンで留められ綺麗に並んだ紙のメニューから少し離れたところに赤い紙が貼られたそれを、沙織の真っ白な指が真っ直ぐに指し示していた。
「今日は、いえ、今日こそ、あれをいただきましょう」
はっ、と親父は一歩退いた。
振り返った視線の先で、緊張した面持ちの妻が頷く。
『超激辛 地獄担々麺』
目を見開いた沙織はわずかに震える両掌を見つめた。
「今日は、朝から何か違うんです。なんていうか、神が舞い降りてきたというか。ああ、今日こそその日なんだって、起きた瞬間わかったんです。今日、神は私を選ばれたって」
その時、店内は三分し、他の客たちの脳裏を神の幻想が駆け抜ける。
十字架にかけられた瘦せ衰えたキリストが、死の間際のため息のような声で「担々麺を食べに行け」と言った後、がっくりと首を垂れる姿。
ミケランジェロの『最後の審判』に出て来るようなムキムキマッチョのキリストが見事なシックスパックを見せつけながらポーズを決め「汝、イザ担々麺ヲ食ベニ行カム。サスレバ我、汝ヲ守護スルモノナリ」と預言を与える姿。
そして、雲に乗り沢山の脇侍や仏を引き連れた釈尊が彼女の部屋の窓を叩き、この世のものは全てかりそめのものであり、担々麺を食べて辛いと感じるのも言わば幻のようなもので、辛くないと思えば辛くないので、今から食べに行け、と教えを授ける姿。
馬鹿なことを考えているうちに“それ”が彼女の前に置かれる。
普通よりも少し大きめの丼に入ったそれ。表面は真っ赤なスープに唐辛子の粉が浮いていて、麺の姿は見えない。
それを見つめただけで沙織の広い額に汗が浮かんできた。
無言で、その方を見もせずに割り箸を取った沙織は、顔の前で両手でそれを割った。
「いただきます」
あ・・
店中が彼女を見つめていた。
箸が差し込まれ、スープを割って現れた麵に向かって、まるでキスするかのようにすぼめられた彼女の唇がゆっくりと近づいてゆく。
ズズ・・・
ああ、あの麺になりたい、と彼女のピンク色の唇に吸い込まれていく麺を見ながら皆が思った。
直ぐに暑くなったのであろう、彼女の目が熱を帯びたようにとろんとなり、頬に赤みがさす。その唇があえぐようにハアハアと息をつきながら、それでも休まず食べ続ける。
やがて暑さに耐えかねたかのようにその手がゆっくりとブラウスの第一ボタンに伸びた。
ごくっと、喉が鳴る音がどこかで響いた。
第一ボタンが外され、それでは足りないかのようにもう一つ。
店に備え付けの団扇で露になった胸元に風を送るとひらひら揺れたブラウスの胸元のせいで下着としか思えぬ、これも真っ白なレースがちらちら見える。
店の隅の方にいた学生らしい男が、もう隠しもせずじっと彼女を見ながら困ったような顔になりながら、それでも目を離せないでいる。
店内は、彼女が麺をすする音以外静まり返り、全ての目が彼女だけを見つめていた。
二十分後。
沙織はゆっくりと丼を置くと瞑目しながら、ごちそうさまでした、と宣言した。
「参りました。今日のところは私の負けということにさせていただきましょう」
次の瞬間、カッと目を見開いた沙織は丼の底に残った汁を睨みつけた。
「ですが、覚えてらっしゃい!次は、次こそは完食してみせます!」
いや、残飯は捨てられるから、次回までは覚えてられないだろう、と店内をため息が包む。
ご馳走様でした、と暖簾をくぐった沙織は額にかざした腕の下から照り付ける太陽を見上げた。
今回はなかなかの強敵であった。
完食はできなかった。
しかし、自ら敗北を認めるまでは、戦いを続ける限りは敗北ではない、いや、断じてない。
沙織は晴れやかな顔で陽炎の上がる焼けたアスファルトの道を家路へとついた。