結婚
ちえといあ~す、と最近もう挨拶なのか奇声なのかわからない声を上げながら、カバンと紙袋をぶら下げた七海が美術準備室に入ってくると、こんにちわ、とスクリーンに映した絵を見ていた賢人と夏樹が振り返った。
かばんは乱雑に机の上に放り出したのに、紙袋の方は丁寧に机に置いた七海に、賢人が不思議そうに、それはなんですか、と聞いた。
「これですか?」
一度置いた紙袋を軽く持ち上げてから、七海は賢人に頷きかけた。
「実は昨日、従姉の結婚式が有りまして、これはその引き出物のおすそわけです」
ああ、と夏樹が納得したように軽く頷いた。
「この前、結婚式場で会った時に言っていた従姉のお姉さん、結婚なさったの。それはおめでとうございます」
はい、と七海はやや伏目勝ちになると少し声を落とした。
「あれからまだ二か月も経っていないはずなのに、既に一年以上経過したのではないかと思えるほど昔話だと感じる、誰も覚えていないだろう些細な会話で言ったあの従姉の結婚式がやっとあったのです」
「誰に説明しているのですか、それ?」
なんでもないっす、と俯いたまま賢人に返した七海に、それで、と夏樹が続けた。
「何をいただいたの?」
「まだ開けてませんが、先に開けたおじの電話の様子だと、ぎんつば、らしいです」
ぎんつば?と賢人が首を捻った。
「きんつば、じゃないんですか?」
「いえ、ぎんつばです」
え、え?と賢人と夏樹が顔を見合わせた。
「きんつばは確か、アンコを固めたのに黒蜜でコーティングして蒸し焼きにしたやつですよね?え、地方によって呼び方が違うって奴ですか、それ?」
いえ、と七海は首を振った。
「それに更に砂糖をまぶしたのがぎんつばです。砂糖のせいで銀色に見えるからぎんつばらしいのです。皆様御案内の昇華堂でも売ってますよ」
ほれ、と言いながら、近隣の者ならだれでも知っている市内の名刹を薄墨で描いた昇華堂の袋を二人に見えるように向けた七海に、へえ、と賢人と夏樹が顔を見合わせるとどちらからとも笑顔になり七海を向いた。
「それはそれは。何か聞いているだけで美味しそうですね」
「じゃあ、お茶を淹れて早速いただきましょうか」
とたんに、開けたままにしている入口の扉ががんがんと乱暴にノックされ、入るわよ、と言いながら三輪が姿を現した。
それを見た室内の一同が半眼になる。
「聞いてたんですかね、廊下で」
「いや、違うっしょ。包み紙を通してでも匂いを嗅ぎつけたんでしょ、この人」
何これ!と机の上の紙袋を目にした三輪はダッシュで美術準備室に駆け込んでその袋を持ち上げた。
「昇華堂の袋じゃない!何?中身は何?最中?」
ぶっぶーーーっ、と言いながら七海は顔の前で両手で大きくバツを作った。
「はい、間違いです、失格。ご退場ください」
待って、もうワンチャン、ワンチャン!と七海に向かって人差指を立てた後拝んだ三輪は、再び紙袋を両手で持ち、顔を近づけてフンフンと匂いを嗅いだ。
静まり返った美術準備室の中でしばらくそうした三輪は、七海を振り返ると確信を持って頷いた。
「ぎんつば」
「確信犯だろ、こんなもん」
もしかもせず、と賢人もげんなりしたようにため息をついた。
「絶対、昇華堂の紙袋を持ったサキちゃんを見つけて、後をつけてきて盗み聞いていましたね、これは」
水屋でお茶を淹れていた夏樹が、口と腹を押さえながら、奇妙な声をあげて必死に吹き出すのをこらえていた。
ともかく!と勝ち誇ったように三輪が机の下から椅子を引き出しどっかりと座った。
「当てたんだからもらうわよ」
「中身を言い当てたら差し上げます、とは一言も言ってはおりませんが?」
七海の言葉にも関わらず、夏樹が四人分のお茶の乗った盆を持って戻ってきたため、三輪に急かされた七海は仕方なく包みを解いた。
「言っておきますが、あまり数がないですから一人一個ずつですからね」
わかってるわよ、と三輪は不満そうに口を尖らせた。
「二個までにしとくわ」
わかってねえよ、何聞いてたんだよ。
それで、とりなすように夏樹が湯呑をすすりながら七海を向いた。
「お姉さんどうだった。綺麗だった?」
はい、と七海は頷いた。
「父方の従姉だったんですけど、けっこう背が高くって、170くらいあって、ウェディングドレスが良く似合ってました。ああ私も結婚式ではドレスがいいな、って思ったんですが」
が?
ふっと笑いながら、七海は俯いた。
「私が同じドレスを身に着けても、ロリゴスファッションに身を包んだバグか、レースのフリフリを着せられたお地蔵様にしか見えないだろうことに気づいて、和装にしようと思い直しました。それに早く気付けたという意味でも、出席してよかったです」
静まり返った美術準備室に、へえ~そうなんだ、という三輪の声とむしゃむしゃとぎんつばをほおばる音だけが響き渡った。
そういえば、とぎんつばにかぶりついたところで、七海はふと気づいたように賢人を向いた。
「今までに、結婚式の絵って見たことないですよね」
え、あ、と何を考えていたのか、おそらくバグが正装して結婚式を行っている妄想でも思い描いていたのだろう賢人が、瞬きした。
「あ、はい、なんでした?」
いや、と七海はスクリーンと賢人を見比べた。
「今まで、結婚式を描いた絵って見たことないな、って。そういう絵ってあんまりないんですか?」
いえいえ、と賢人は慌てて手を振った。
「そんなことないですよ。絵画とは昔は写真の代わりでしたからね、結婚式を描いた絵というのは沢山ありますよ」
ただし、と賢人は軽く肩をすくめた。
「結婚式の絵というのはプライベートに属するものですので、公の場に描かれるということは有りませんし、多くの人の目に触れるというものではありません。それ故に、絵の存在そのものがあまり知られていないものもあれば、その保存、保護も所有者個人に委ねられます。例え有名画家が結婚式の絵を描いたとしても、何百年もの間に戦火の中で失われたり、あるいはどこまでも家の宝として個人に収蔵され人目に触れないままの物もあると思いますよ」
それでも、と賢人は机の上に置かれていたタブレットに手を伸ばした。
「有名な結婚式の絵もありますよ。例えばこれ、ヤン・ファン・エイクの『アルノルフィーニ夫妻像』(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/33/Van_Eyck_-_Arnolfini_Portrait.jpg)ですね」
ああ、と七海はスクリーンを見ながら頷いた。
「これ以前に見たことありますね」
「ええ、これはエイクが友人の結婚の証人として赴いた時の絵とされています。ほら、奥の鏡に二人を訪れ戸口に立つエイクの姿が描かれているこの手法は、ベラスケスの『ラス・メニーナス』(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/31/Las_Meninas%2C_by_Diego_Vel%C3%A1zquez%2C_from_Prado_in_Google_Earth.jpg/800px-Las_Meninas%2C_by_Diego_Vel%C3%A1zquez%2C_from_Prado_in_Google_Earth.jpg)にも使われていますよね。実はベラスケスの生きた時代、この絵はスペインのマドリード宮に飾られていて、彼はこの絵から鏡のトリックを拝借したという説も有ります」
「エイクと聞くと、祭壇画(『ヘントの祭壇画』(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/8c/Lamgods_open.jpg)のこと)の左上のレディースチーム『堕天使』のお姉様方(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/16/Jan_van_Eyck_-_The_Ghent_Altarpiece_-_Singing_Angels_-_WGA07640.jpg)を思い出して思わず笑っちゃいます」
「言っておきますが、彼女達は堕天使ではなく正真正銘の天使ですから」
そこがこの世界の不思議なところです、と言った後、七海はじっとスクリーンを見つめた。
「けどこの絵、なんか幸せな結婚式の風景、というのとはちょっと違う気もしますね?」
「はい。先程ぼくは結婚の証人と言いましたが、正しくは結婚契約の証人、ですからね。お互いの感情も、もう少し複雑なところがある場面かもしれないですね」
ああ、結婚契約、と七海が顔をしかめた。
「あの、アメリカナイズとされた結婚契約とかいうの、私的にはちょっと微妙ですね」
「どうしてです?結婚する前にちゃんと確認しておけば、結婚してから、こんなはずじゃなかった、がなくていいんじゃないですか?そうやって確認して、お互い譲れない部分があって妥協できない、っていうんなら、これはもう結婚しても長続きはせず離婚となるでしょうから、初めから結婚しない方がいいですよ」
世の中、あなたのようにそう理性的に割り切れる人ばかりではないのですよ、副部長。
他にも、と賢人はタブレットを操作した。
「結婚に関しての絵を描いているので有名な画家と言えば、ちょっと我が部のカバー範囲からは外れますが、シャガールとかですかね」
シャガール、ですか、と賢人を見ながら七海は瞬きした。
「そういえば、入部する前から聞いたことがあるような名前の割には、見たことがないですね、シャガールの絵って」
そうですね、と賢人が苦笑した。
「サキちゃんの価値観で言えば、下手糞な絵、ということになりそうですので、今まであえて紹介はしなかったんですが」
ほう。
一枚の絵をスクリーンに映し出した賢人は、七海を振り返った。
「ほら、これとか。これはマルク・シャガールの『結婚式』(https://www.artnet.com/WebServices/images/ll1698384llguakR3CfDrCWvaHBOAD/marc-chagall-wedding.jpg)です」
じっとスクリーンを見つめた後、なるほど、と七海は賢人を向いた。
「初めっから上手に描こうとしていない、吹っ切れているところに好感は持てます」
「悪口ですよね、それ?」
それと、七海は軽く首を振った。
「おそらく百年近く前に、手に装着したデバイスからホログラムを映し出すという未来技術を予測していた洞察力にも敬意を表します」
「尊敬するのはサキちゃんの勝手ではありますが、これはそういう絵ではありません」
これは、と顔をしかめながら七海はスクリーンを見つめた。
「これは本当に結婚式なんですかね。なんか森の中っぽいんですが?あまつさえ、女性の方はチチむき出しにしているようにも見えますが」
チチって、とわずかに絶句した後、はい、と賢人は頷いた。
「この絵の原題名は確かに『The wedding』で間違いありません。これは森の中で二人だけで行ったシークレットウェディングなんでしょうね。足元に居るのは、二人を祝福に来た天使らしいですよ」
ううむ、と言いながらじっと画面を見つめる七海を盗み見ながら、三輪がそうっと三つ目に手を伸ばし、それに気付いた夏樹が両手で口を押えて震えながら必死に噴き出すのをこらえている。
「森の中の結婚式、足元を描いていないところ、とくれば、アンリちゃんの結婚式の絵(『田舎の結婚式』アンリ・ルソー)(https://fukutoraku.com/wp-content/uploads/2021/09/the-wedding-partyLarge.jpg)がどうしても思い出されてくるのですが」
「そうですね、ぼくも一瞬思い浮かべました」
しかし、と七海は賢人を見ながら頷いた。
「それでも、上手に描こうとして失敗しているアンリちゃんより、この絵の方がまだ好感が持てます」
「悪口だけはポンポンと出るのですね、あなたは」
んで、とここで七海が舌で唇を湿しながら口調を変えた。
「結局、このシャガールって、どんな画家なんですかね、正直?」
「シャガールは20世紀になってから活躍した画家で、新しい表現を求めていた人々に評価された画家ですね。幾何的キュピズムの画家としても知られていますが、青い絵の中に抱き合う男女、白い馬や鳥、といったものを描く画風でも有名です」
「キュピズム、ってなんですか?」
「物事を一方からだけ見るのではなく、多方面から見た一つのものを一枚の絵で表現することです。パブロ・ピカソとかが提唱した表現方法ですね」
ちなみに、と疑い深そうに七海は賢人を見た。
「売れたんですかね、こんな絵?」
売れたどころか、と賢人はかすかに笑った。
「この手の絵を描く画家としては、シャガールは早くから評価されたと言っていいですよ。30歳になる前にはもう美術評論家から絶賛され、大物コレクターが彼の絵を買っていたと言われています」
この絵が?!
ただ、と賢人はそこで軽く首を振った。
「彼の人生が常に順風満帆だったわけではありません。彼の人生、98歳の長寿を保った彼の前半生はその当時のヨーロッパの政局に翻弄され続けましたから」
何故なら、と賢人は続けた。
「彼は、ユダヤ系ロシア人だったからです」
不思議そうに賢人の顔をじっと見つめた後、不意に顔をしかめた七海は、ナチ?と首を傾けた。
「ご明察。ユダヤ人であることで、彼の画家としての人生もキャリアも、翻弄され続けたのです」
けど、と七海は不思議そうに続けた。
「ロシアって、第二次大戦中はドイツと戦争してたんですよね?」
「国家間の争いと、宗教問題は必ずしもリンクしませんよ。例えば・・そうですね」
言いながら賢人はタブレットを操作して一枚の絵をスクリーンに映し出した。
「これはシャガールの『ヴァイオリン弾き』(https://artmuseum.jpn.org/vaiorin.jpg)という絵です。これを見て何か気付くことはありませんか?」
はい?
じっと、本当にじっと、その絵を見つめた七海は、ふとそこで瞬きした。
「このバイオリンを弾いている人、なんか屋根の上に乗っているみたいに見えますけど、何かそんな感じの小説かオペラかなかったでしたっけ?それを描いた絵ですか?」
残念ですが、と賢人は首を振った。
「サキちゃんが言いたいのは、多分『屋根の上のヴァイオリン弾き』のことだと思いますが、実は逆で、このアメリカのミュージカルはこの絵からインスピレーションを得て題名を付けたと言われています。そして『屋根の上のヴァイオリン弾き』はロシアで行われたユダヤ人迫害をテーマとするミュージカルなんですよ」
え、そうなん?
「20世紀初頭以降、ロシアではポグロムと呼ばれるユダヤ人迫害の嵐が吹き荒れたのです。ついこの間まで仲のよかった隣人に、道行く人に、突然暴力を受けるのです。あまりお勧めしませんが、ポグロムでネット検索すれば、気分が悪くなるような当時の迫害の様子の写真が出てきますよ。そしてシャガールは、ロシアでの迫害を逃れるようにして移り住んだフランスのパリにもナチの手が迫り、今度はアメリカに移住することになるのです。パリ在住時にはナチの焚書に会い絵を燃やされ、後に以前に書いた絵を思い出しながら描くという作業もしていますよ」
言いながら、ほら、と賢人は『ヴァイオリン弾き』を指差した。
「さっき、何か気付きませんか、って聞きましたよね?この絵の右側、足跡が一つの家に向かって進み」
こっち、とその手が絵の左側を指差す。
「こちらの家から出てきたような足跡の一つが赤いですよね。じゃあ、この赤は何の色なのでしょうか。この家の中では一体何が行われたのでしょうか」
七海は思わず唾を飲み込みながらじっとその絵を見つめた。
このように、と賢人は目を細めて七海と同じ絵を見つめた。
「ユダヤ人の迫害、と言えばナチを思い出す人が多いでしょう。しかし、サキちゃんがさっきまでポグロムという言葉すら知らなかったように、人種や性別等による差別や暴力の歴史の全てが広く喧伝されているわけではありません。悪事は常に目に見えるところで行われているわけではないのです。むしろ、人目をはばかるように、静かに行われるのですよ」
そしてほら、と賢人はゆっくりと机の上を指し示した。
「ほら、ここでも」
は?
振り返った七海は、そこで椅子を倒して立ち上がり、美術準備室内を見回した。
「なに?なんでぎんつばもうないの?三輪さん!三輪さんはどこに行ったっ?!」
このように、と賢人は沈痛そうに首を振った。
「悪事というものは密やかに行われるのですよ」
「なに仙人みたいな顔して言ってんだよ!気付いてたんなら注意しろよ!」