賢いヒト
うえといあ~す、とよく聞くと何を言っているのかわからない声を出しながら美術準備室に姿を現した七海は、賢人と夏樹が並んで見ていたスクリーンに目をやるとはっと息を飲んだ。
背後から入ってきた早希も同じように息を飲んで絶句している気配を感じながら立ち尽くした七海を振り返った賢人が、にこやかに頷きかけた。
「こんにちわ、サキちゃん、チイちゃん。どうしました?」
賢人の問いが聞こえているのかいないのか、しばらくスクリーンを凝視した七海は、はっと瞬きすると慌てて背後の早希に手を振った。
「ち、チイちゃん、大急ぎで桜間さんを呼んできてっ!」
はい?
と賢人と夏樹が顔を見合わせる。
ぼうっとしたようにしばらくスクリーンを見つめていた早希も、七海の言葉に我に帰ったかのように無言でがくがくと頷くと、突然脱兎の如く身を翻した。走り去る早希を不思議そうに見送ってから、賢人は七海を向き直った。
「桜間さん・・て、一体どうしたと言」
七海はぱっと広げた手のひらを賢人に向けながら、分かっているから皆まで言うなと言わんばかりに小さく首を振った。そしてその後は、その目はスクリーンを凝視し続けた。
頭の上に????を並べながらしばらく待った賢人の耳に足音が響き、ゼイゼイと息を切らせた桜間が戸口に立ったままだった七海を押し退けるようにして美術準備室に飛び込んできた。
そしてスクリーンを見ると茫然と目を見開いた。そしてその口が無意識に開き、最初の七海と同じように立ち尽くす。
静かな、よろめくような歩みでスクリーンに近づいてじっとその絵を見つめた桜間は、ゆっくりと賢人を振り返り震える声で唾を飲み込んだ。
「し、白石くん」
はあ、と頓狂な声をあげて賢人が瞬きして桜間を見つめる。
こ、この絵(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/99/The_wise_and_the_foolish_virgin%2C_by_Jan_Adam_Kruseman.jpg)は、と桜間の声が更に震えた。
「この絵は一体どういう絵なのでしょうか?この絵の彼女は、一体どんな秘密をその目にしたのでしょうか?」
は?
スクリーンと桜間の顔を見比べた賢人は、いえいえ、と慌てて手を振った。
「いえ、この絵はそんな大層な絵ではありませんよ」
言いながら、賢人はスクリーンに目をやった。
「これはヤン・アダム・クルーゼマンの『賢い乙女と愚かな処女』という絵です」
つ、つまりは、何度も唾を飲み込みながら桜間はスクリーンと賢人の顔を見比べた。
「見張りの女性に右手の壺に入った眠り薬入りの飲み物を飲ませて眠らせた手前の女性は、秘密の部屋に入りそこに隠されたこの世界の真実を目にするわけですね?そしてそこで目にした真理に彼女は狂喜するのか、それとも、ああわかっていると思っていた世界の真実がこんなものだったとは、これなら知らなかった方がよかった、と涙するのか。彼女の行いは賢明だったのかそれとも愚かなりや、というのがこの絵のテーマなわけですね?」
「繰り返すようですが、これはそんな大それた絵ではありません」
「この下から顔を照らす灯火の表現、どこか上目遣いに見る目つき、そしてこの含み笑いを堪えるような不敵な表情、これら全てが闇に落ちた彼女の邪悪な心理を表現しているのですね?」
「それも違います」
惑わされてはいけません、と七海は静かな声で首を振った。
「この世には真実を覆い隠そうとする敵がいるのです。それはあなたの近所にも、もちろん学校の部活の中にも」
「それ、前に私が言った奴だろ?」
どういう部活ですか、それは、と嘆息した賢人に、ですよね~、と心の中で頷いた後、七海は勢いよく桜間を振り返った。
「この男の甘言に惑わされてはいけませんっ。この男はあなたの道を阻もうとしているのです!」
あなたは、と賢人が再び嘆息した。
「どっちの味方なんですか?」
いえ、と七海は澄ました顔で顔の前で手を振った。
「私はどちらの味方でもありません、私は」
そうなのです!と戸口で大声が響き、一斉に振り返った一同の視線の先に沙織が両手を腰に仁王立ちになっていた。
「ある秋の日曜日、暇だった私は近所の小学校の運動会を見るともなく見ていたのです!」
「挨拶もなしにいきなり自分語りですか?」
その時!と七海の突っ込みを無視して沙織は続けた。
「その時は色別対抗リレーをしていたのですが、赤が先頭に立てば赤に、白が先頭に立てば白に、熱烈な応援を送っていると、前に居た小学生が私を振り返ってあきれたように、お姉ちゃんはどっちの味方や?と言いました」
それで?
「そこで私は彼を真っ直ぐに見ながら答えました。お姉ちゃんはどっちの味方でもない、お姉ちゃんはなあ、常に強い者の味方や」
うわあ。
額を押さえて俯いた沙織は軽く首を振った。
「それを聞いていた周りの父兄がひどく嫌な顔をしていたのを今でも覚えています」
だろうよ。いきなり児童にそんな真理語られても困るだろ、父兄。
ため息をつきながら、こんにちわ沙織さん、と言った七海に、何事もなかったかのように無表情に、こんにちわ、と言いながら沙織が入ってきた。
「廊下でちらっと聞こえただけですが、また同志桜間が何か勘違いをして賢人くんを困らせていたようですね」
さいです、と無言で頷いた七海をちらっと見てから、自らの胸を押さえながら沙織は自信に満ちた表情で賢人に頷きかけた。
「ここは私にまかせておきなさい」
ほっとした表情で頷いた賢人からスクリーンに目をやった沙織は、そこではっと息を飲んだ。
まじまじと『賢い乙女と愚かな処女』を見つめた後、沙織は慌てたような表情で賢人を振り向いた。
「この絵・・この女性は、見張りの女性を眠り薬で眠らせてまでどんな秘密を探ろうとしていたのですかっ?」
面倒臭いのが一人増えちゃったよ、もう。
いえ、と一瞬でげっそりとやつれたような表情で賢人が首を振った。
「これはそういう絵ではないんです」
しかし、と沙織はスクリーンに真っ直ぐに向き直った。
「この下から顔を照らす灯火の表現、どこか上目遣いに見る目つき、そしてこの含み笑いを堪えるような不敵な表情、これら全てが闇に落ちた彼女の邪悪な心理を表現しているのではないのですか?」
ちらっと耳にしたようなこと言ってたけど、全部聞いてたんじゃないか、この人。
これは、と何度もため息をつきながら賢人は沙織を見た。
「これはそういう絵ではありません。これは聖書のキリストの教えをテーマにした絵なんですよ。ちなみみに彼女が持っている右手の壺に入っているのは油です」
「火炎瓶ですか?じゃあテロですね?」
何故一足飛びに頭がそこに行くんだ、この人?
いえ、そういう話でもないんです、と賢人がため息をついた。
「十人の乙女のたとえ、という話を聞いたことがないですか?」
夏樹を除く全員が、プルプルと首を振った。
黙って彼を見つめる四人に、やっとまともな話ができそうだと思ったのか、賢人はほっとしたように続けた。
「例えば、ですが、天国に行ける人はどんな人かわかりますか?」
沙織が小さく手を挙げて頷いた。
「天使にニギニギした人ですか?」
なんだよ、ニギニギって?
いえ、と再び賢人がげんなりとした表情になる。
「キリスト教の教えにこんな話があるのです。十人の乙女がおり、五人は愚かで、五人は賢明でした。ある日、婿となる人が彼女達を訪れることとなり、愚かな五人は灯火を灯して待ちましたが、賢い五人は灯火を灯し、予備の油も持って待っていました。婿が到着した時、愚かな五人は油が切れて灯火が消えてしまい、婿となる人は帰ってしまいます。彼女達は慌てて油を買ってきて灯火を灯して婿の家を訪れますが、どなたですか?あなたなんて知りませんが、と追い返されてしまいます」
つまりは、と沙織が手を挙げた。
「五人がマッチングに成功し、五人が失敗した。このマッチングアプリの成功率はまずまずだな、というお話ですね?」
なんで聖書でマッチングアプリの成功率宣伝するんだよ。
ちょっと長くなりますが、ともうどうでもいいような口調で賢人が口を開いた。
「昔、彼の国では婚礼の際、花婿が花嫁となる女性を家まで迎えに行き、行列をして花婿の家まで行ってそこで挙式するという婚姻方法が取られていたのです。その際、花嫁は火を灯して花婿を迎えるという習慣が有り、これは花嫁にとって大切な役割だったのです。そのため、花嫁はしっかりと準備して万全の態勢で迎える必要が有りました。花婿が到着した時に火が消えているなど言語道断だったわけです。故に、灯火が消えている女性を愚かと称しているわけです」
ホイ、と言いながら早希が手を挙げた。
「それで結局何が言いたいので?紅毛人の婚姻の習わしと聖書が何か関係でも?」
コウモウジンて、と再びため息をついた後、はい、と賢人が頷いた。
「この逸話は聖書の『マタイによる福音書』第25章第1節から13節に書かれています。婚姻の習慣になぞらえて、救世主、キリストがいつ再臨するかわからない中で、常にその再臨に備えている者に天国の門が開かれる、という例えなのですよ、これは。転じて、常に神のことを考えていなさい、ということなんでしょうね」
ほう、と言いながらスマホを取り出した各々がすぐに検索を始める。
最初にマタイによる福音書を見つけたのだろう七海が、なんだこりゃ、と言った。
「“その日”があなた方にはわからないのだから、目を覚ましていなさい、って書いてあるぞ。これって寝るなってことか?」
「うむ、キリスト教の教えでは不眠症の人間以外、例えショートスリーパーでも天国には行けないということか」
「そうではありません。目を覚ましていなさい、というのは、常に備えていなさい、というくらいの意味ですよ」
ううむ、とそこで早希が腕を組んだ首を捻った。
「しかし何ですね。そうやって説明を受けないとわからないんですよね、この絵」
これはほら、と賢人が肩をすくめた。
「いつも言うことですが、これはもう文化の違いとして仕方がない、という感じですね。西洋絵画はキリスト教文化にどっぷりと浸かったヨーロッパの一定の知識階級の娯楽ですから、聖書の内容がある程度頭に入っていることが前提になっていますからね。この絵も本来は愚かな女性、賢明な女性を五人ずつ描けばもっとわかりやすいのかもしれないですし、そう描かれている絵も多いです。ただ、灯火、油壷の小道具と、火が消えて眠る女性と灯火を灯して立つ女性の対比、そして絵の題名、というヒントで一対一でもわかるようにしてあるのですね」
「いつも思うことだが、そうなるとブティストは不利だなあ」
だよね、と七海も頷いた。
「寄席に行って、皆がなんで笑ってるかわからなくって、隣の人に、今のどこが面白かったんですか?って聞いて説明されてから初めて笑う、みたいな状況だもんな、これ」
そこまでのことはないと思いますが、と苦笑した賢人に、桜間が、状況はわかりましたが、とどこか不満そうに言った。
「この賢い方の人の描き方のせいで、何か怪しい絵に見えてしまいますね」
それ賛成、と七海と早希が同時に手を挙げた。
「日本人としては、賢い方の人はもう少し不細工に描いて欲しいよな。神は二物を与えずで、さ」
「だな、不細工だけど賢明なためいつまでも幸せに暮らしましたとさ、の方が大和民族にはしっくりくるよな」
「いつもまでもお幸せに暮らしましたとさ、だとちょっとニュアンス変わってくるけどな」
お言葉ですが、と沙織がすっと目を細めながら二人を見た。
「よく、性格の悪い美人か性格のいいブスのどちらがいいか、の二択というのがありますが、そんな愚かしい話はありません。ブス、ブスと罵られて育つより、かわいいね、かわいいね、と言われて育つ方が、性格のいい愛され上手に育つに決まっています。性格の悪い美人、は、性格の悪いブス、の願望に過ぎません」
いや、そんなことないと思いますよ、と言いたくなる見本みたいに人に言われてもなあ。
んで、と気を取り直すようにして七海がスクリーンと賢人を見比べた。
「まもなく、彼の婚約者が迎えにくるわけですね。んで、ハッピーエンド」
「そうですね」
ううむ、と再び早希が腕を組んだ。
「自称、呪いの双子地蔵、としては、美人で賢い人間がハッピーエンドを迎えるというのはなんとなく阻止したい気分だ」
「いつから自称になったんだよ、それ」
例えばですな、と七海の突っ込みを無視して早希は続けた。
「婚約者が迎えに来たのだが、いざ灯火を点けたまま両家が行列をして婿の家に行こうとしても、飛行機も、電車も、長距離バスも「可燃物は持ち込めません」と断れて、しかたなく数千キロを歩くことになる。そして苦難の行軍をした両家の人々は婿の家にたどり着く頃には『カイン一族の逃亡』(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/03/Cormon%2C_Fernand_-_Cain_flying_before_Jehovah%27s_Curse.jpg)のような姿になっている、とか」
うむ、と七海は頷いた。
「あるいは、婿は迎えに来る途上で四十人の盗賊に襲われて絶命してしまう。しかしそうとは知らない彼女はずっと待ち続ける。そして、この絵から三年後、背後にドラム缶を三つ四つ並べてまだ待っている彼女の姿が描かれることとなる」
更に、と早希も続けた。
「五十年後、公爵夫人(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/36/Quentin_Matsys_-_A_Grotesque_old_woman.jpg)のような姿になってもまだ待ち続けている彼女の背後には、公爵家の財力に物を言わせて石油精製のためのコンビナートが建設され、無限に灯油が供給され続けている、とか」
いつもながら発想がエグいですね、あなた方は、と賢人が顔をしかめる。
「まあ、確かに公爵夫人の絵は、年をとっても乙女のように若者風の服を身に着けて白馬の王子を待ち続けているのはみっともないですよ、という教訓画ではありますので、愛しい人を待ち続けているという共通項はありますが」
早希が、だしょ?と言いながら頷いた。
ここで、それまでほとんど口を開かずじっと皆の会話を聞いていた夏樹を向いた七海が、不思議そうに首を傾けた。
「どうしたんですか夏樹さん、さっきから何か考えているっていうか、何か言いたそうな」
あ、いえ、と不意を突かれた夏樹は狼狽したように一歩下がりながら、愛想笑いを浮かべた。
「べ、別に」
ほう、と顔を見あせて頷き合った七海と早希はずいっと夏樹に迫った。
「何かを隠している顔ですな、それは」
「そうですな。さあ、言いなさい。懺悔ならば我ら双子地蔵が聞きますぞ」
「そうですぞ。早く喋ってしまって楽になりなさい」
ずいずいと迫る二人に、夏樹は後ずさりながら、困ったような愛想笑いを浮かべて首を振った。
「い、いえ、この絵を見てたら、なんとなく身近な人を思わせるな、って」
は?
再び顔を見合わせて頷き合った二人は、同時に沙織を指差した。
「身近な人って、そんなの隠すまで無いでしょ?」
「だしょだしょ?美人だけど邪悪な雰囲気をたたえた人って周囲に一人しかいないでしょ?」
「その指を下ろしますか?それとも表に出ますか?」
半眼になって二人を見てから、沙織は夏樹を向いた。
「それで、もう一人の自堕落な女性の方は?」
それは、と言いにくそうに夏樹が口を開こうとした瞬間すっと戸口が陰り、気配に気づいた一同が振り返った視線の先で、ジト目の三輪が頭を突き出していた。
「今、だれか私の悪口を言おうとしてなかったか?」