四度(よたび) ひとごろし
ほら、と言いながら賢人は七海と早希に向かってスクリーンを指し示した。
「これがフェルナン・コルモンの『カイン一族の逃亡』(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/03/Cormon%2C_Fernand_-_Cain_flying_before_Jehovah%27s_Curse.jpg)です」
ほう、と七海は頷いた。
「これが、さっき賢人さんが言った?」
はい、と賢人は頷いた。
「世界最初の殺人者の逃亡の様子です」
逃亡と言っても、とそこで賢人は口調を変えた。
「既に殺人の罰として追放されて、この絵は実際は逃亡しているというよりも放浪している姿ですけどね」
ほう、と再び言いながら七海は頷いた。
「ゴリアテを殺したのに追放で済んだとは、カインくんもラッキーですな」
はい?
そこで七海の顔を見ながら少し考えてから、首を振った。
「それはダビデとゴリアテの話と勘違いをしているのでは?」
では、と七海は賢人を向くと頷きかけた。
「カインくんが殺したのは怪力サムスンの方でしたか?」
「彼は殺されてなんていませんよ。どっちかっていうと、敵であるペリシテ人を巻き添えにした自殺です」
なるほどなるほど、と早希が頷いた。
「ではサムスンくんが世界最初の自殺者で?」
知りませんよそんなことは、と嘆息した賢人に少し離れたところでティーカップを持って苦笑している夏樹に渋面を向けてから、賢人はスクリーンを向き直った。
「カインが殺したのは弟のアベルです」
ほう、と七海と早希は顔を見合わせ頷き合ってから賢人を向き直った。
「兄弟で殺人とか」
「原因はやっぱりあれですか、相続争いとか。先祖代々の莫大な遺産を巡ってとか?」
先祖代々はないですね、と賢人は苦笑した。
「二人の先祖は二人しかおらず、まだ健在でしたから」
はい?
二人は、と賢人はスクリーンを向き直った。
「二人は、アダムとイブの子供なんですよ」
おや。
するってえと、と早希が顎に手をやってやや俯いた。
「何が原因で殺人なんぞ?」
だよね、と七海も頷いた。
「相続争いとおやつ争奪戦以外で兄弟で殺し合う理由って、思い浮かばないなあ」
「あなたはおやつの奪い合いで兄弟を殺したりするのですか?」
「はい。兄弟はおりませんし、意図的に殺すということまではしませんが、ことおやつのことに関する限り、勢い余ってということは十分に有り得ます」
サキちゃんと兄弟でなくってよかったです、と賢人が再び嘆息する。
では、と七海が口調を改めた。
「では、賢人さんに伺いましょう。おやつが原因でないのなら、カインはどんなつまらない理由でアベルを殺したのでしょう?」
おやつ以上にくだらない理由なんてありませんよ、と小さく呟いた後、賢人は頷いた。
「はい、ある時二人は神に捧げ物をするのですが、農耕人であったカインは自らが作った農産物を、牧畜人であったアベルは自分の飼っている羊の中で一番よく肥えた初子を捧げます。そして神はアベルの捧げ物しか受け取らず、これに嫉妬したカインはアベルを野原に呼び出して殺してしまうのです」
おやおや、と七海は顔をしかめた。
「そんなつまらない理由で?」
「おやつ争奪の末殺してしまう方が納得できますか?」
「はい。ただおやつが名古屋銘物ういろうの場合は別ですが」
「小田原や伊勢のういろうならOKなのかよ?」
それで、と早希の突っ込みを無視して七海は賢人を向いた。
「それで、それが神様にばれて追放されちゃったわけですか?」
「はい。最初のうち、神にアベルはどこに行った?と聞かれたカインは「さあね、俺は弟の番人じゃないっすから」みたいにそらっとぼけていたのですが」
「かなりやさぐれてますな」
「すぐにみっともなく情けを乞います。ここを追放されたら、私を見つけた者達が私を殺すでしょう、と。そんなカインに神は殺されないように加護を与えて追放します。そして放浪の果てに妻と出会い、子も生まれて、この絵のように一族は増えていくのです」
はい、とすかさず七海が手を挙げた。
「二つ質問があります」
「なんでしょうか?」
「はい。一つ、カインは最初の人類であるアダムとイブの子供はずなのに、カインは誰に殺されると思っていたのでしょうか?。二つ、アダムさん一家の他に人類はいないはずなのにその妻は何処から湧いて出たのでしょうか?」
ほら、と早希が人差指を立てながら七海を向いた。
「アダムさん一家がクロマニョン人で、他にアウステラロピテクスとかいたんじゃないか?」
「お前、聖書の話してる時にそんな真っ向から神に勝負を挑むようなこと言うか?」
「なんでだよ。神は最初の人間としてアダムさんを作り、アウステラさんは猿として作ったんだ。これで辻褄は合うだろ?」
「じゃあ、カインはエテ公とニャンニャンしたのか?」
「そうだ。なさったのだ」
さらっと凄まじい会話をしますね、あなた方は、と賢人がため息をつく。
んで、とスルースキルの塊のような七海は賢人のつぶやきを無視してそらっとぼけた声で賢人を見た。
「カインとアベルの壮絶なバトルの」
おおっ、と早希も頷いた。
「全人類の全ての農耕民族VS牧畜民族の戦いですからな」
一見すごく壮大な戦いに聞こえますが一対一ですから、と再び賢人がため息をつく。
「その戦いを描いた絵ってないですかね?」
戦いというか、と賢人が頷きながらタブレットを手に取った。
「一応、旧約聖書の中の誰でも知っているような衝撃的なエピソードですから多くの画家が描いていますよ。ただ、戦いというよりも、アベルがカインに一方的にやられている絵ですけどね」
「世界最初の殺人事件とくれば、カラバッジョとか描いてそうだな」
「私も思った」
残念ながら、と賢人が苦笑した。
「確かに無いのが不思議な気がしないでもないですが、ぼくもカラバッジョが描いたアベルとカインをテーマに描いた絵は見たことがありません。でも、テーマがテーマですので、やっぱりいろいろな表現がされた絵があって面白いですよ。例えばこれ、ダニエレ・クレスピの絵(https://mementmori-art.com/wp-content/uploads/2023/08/2186f3f5.jpg)とか」
これって、と七海が半眼になった。
「どう見ても、おやつの取り合いの絵にしか見えないのですが。「ぼくのおはぎ食べたな、こいつっ」「ええ~、なんのこと、ぼく知らない~」「うそつけ、口の周りにアンコがついてるぞ」って」
「このアベルの口の周り全部アンコだったら確かにスゲエな」
確かに、ばれるようにわざとつけているとしか思えない量ですね、これがアンコなら、と賢人もげんなりした表情で頷く。
んで、と七海が再び賢人を向く。
「もっとないっすか?」
そうですねえ、と少し考えた後、賢人は、これなんてどうでしょうか、と一枚の絵をスクリーンに映し出した。
「これはガエターノ・ガンドルフィが描いたカインとアベルの絵です」
なんだ?とスクリーンを見ながら七海が目をこすった。
「目の錯覚か?カインが大きな深海魚の干物を振りかざしてアベルに襲いかかってるぞ?(https://mementmori-art.com/wp-content/uploads/2023/08/650ad5b6.jpg)」
「ホントだ!」
それは目の錯覚です、と賢人が嘆息した。
「それは動物の下顎の骨ですよ」
なるほど、と七海は感心したように頷いた。
「アベルも、自分が慈しんで育てていた家畜の骨で撲殺されるなら納得して死んで行ったことでしょうね?」
「いえ、全然納得していないと思いますが?」
この、と早希がアベルを指差した。
「このアベル、なんかふてぶてしいよな?どうしたんだい兄さん、そんなもの振りかざして。ふふん、やれるもんならやってみろよ、みたいな」
「この場面の前まで、全ての事情を知っていたのに、神様はぼくの捧げ物を受け取ってくれたよ、兄さんはどうだった、ふふ~ん、みたいにカインに言っていたんじゃないか?」
「それは殺されて当然だな」
「そういう風に見てきたようなことを言うのはやめませんか?」
どーれ、と言いながら賢人の手からタブレットを奪った七海は画面をスクロールさせふと手を止めた。
「おおっ、このミシェル・コクシーのカインとアベルの絵、殺されたアベルの股間が深海魚の干物になっておりますぞ(https://mementmori-art.com/wp-content/uploads/2023/08/117490d9.jpg)」
うむ、とそれを見ながら早希も腕を組んだ。
「実はアベルはとっくに堕天使に殺されていて、堕天使がアベルに化けていると気づいたカインがそれを倒したのに、既に痴呆が始まっていた神はそんなこととは露知らずカインを追放したのですな?」
「うむ、お見込みの通りでしょう」
全然違います、と言いながら賢人は七海の手からタブレットを奪い返した。
「カインとアベルをテーマとした絵なら、ほら、こういうのはどうでしょうか」
スクリーンに映し出された絵をみたとたん、七海と早希は、おおっ、と小さく呟いた。
「これは、ウィリアム・ブレイクの『アダムとエヴァによって発見されたアベルの体』(https://www.meisterdrucke.jp/kunstwerke/1260px/William%20Blake%20-%20The%20Body%20of%20Abel%20Found%20by%20Adam%20and%20Eve%20-%20%28MeisterDrucke-26159%29.jpg)です」
この、と七海は半眼になりながら言った。
「なんなんスかね、この無駄にムキムキの登場人物たち」
「こんなマッチョなエバいやだなあ」
「ブレイクはミケランジェロの信奉者でしたので」
わかりました、と早希が頷いた。
「その一言で全て納得でございます」
「しかしアベルの遺体が発見された瞬間描いてるのだろうに、なんで墓穴掘り終わってるんだ?」
「うむ、確かに。それに随分としっかりしたスコップがあるが、アダムは反射炉とか作ってたのか?」
「そしてアダムが造った先史文明の超テクノロジーはノアの大洪水で滅んだわけですな」
「あるいは宇宙人にもらったのか」
「スコップをか?随分としょぼい宇宙人だな」
そんなところに突っ込んでも仕方ないでしょ、と賢人が嘆息する。
その絵をじっくりと見ながら七海が、しかし、と言った。
「これ、この絵、絵のテーマを知らない人が見たら、死んだ人を弔うために墓穴を掘っていたら火球が飛んできて「あちっ」とか言ってるのを少し離れて見ていた人が「まあっ♡」って感じにおちゃめに驚いている絵にしか見えないぞ?」
「言われてみれば確かに」
「とりあえずボケるか突っ込んでみないと次に進めないのですか、あなた方は?」