少女、新たなる高みを目指す
「ねえねえ」
いつものように七海が三田環奈と二人で昼食の弁当を食べていると、ふと思いついたように環奈が言った。
「部活どう?楽しい?」
七海は箸を止めて眼だけで天井を見上げた。
部長はアクがきついが、初めに賢人が言ったように馬鹿でも悪人でもないし、こと絵に関しては博識で情熱的だ。その賢人の方はと言えば、これは第一印象とは逆に、いい先輩ではあるがあの温厚そうな外観の割には癖強だな。夏樹は温厚で控え目、そのくせユーモアもあり、ともうこれはまさしく絵に描いたような才色兼備、チイちゃんも面白いし、いい奴だ。
メンバー的には悪くないなと、七海は頷いた。
「どうだろうね。まあ、悪くはないかもね。最近絵を見るのが楽しみになってきたのは確かだしね」
ふ~ん、と箸を運びながらしばらく考えた環奈が七海を向いた。
「私も、ガチに入ってみようかな」
はにゅ?
じゃなくって、なぬ?!
「とゆーわけで、連れてきました」
事前にラインで連絡したせいだろう。廊下側の扉から入った正面に、背後に賢人と夏樹を立たせて椅子に座った加納が、腕を組んでふんぞり返って座っていた。
精一杯の威厳を見せたいのだろうが、小男のそんな姿は逆に滑稽だぞ、といつか言ってあげよう、と七海は心の中で頷いた。
環奈の方も、そんな加納から威圧感など受けようはずもなく、どうも~、といつもの軽い調子だ。
「うむ、よく来てくれた。まあ、掛けたまえ」
ああ、はいはい、とお気楽に環奈が加納と向かい合う席に座る。
「入部希望の件は聞いた。しかし、我が部は入部希望者を全て受け入れているわけではない。入部希望に際しては試験を実施している」
いや、環奈は既に絵画鑑賞部には入っているぞ、の言葉を飲み込む。
あのう、と七海が小さく手を挙げた。
「初めに申し上げておきますが、ラインしたとおり環奈は絵に関してはドのつく素人で・・」
瞑目しながら頷いた加納は、軽く手を挙げて七海を制した後、ゆっくりと目を開いて七海を向いた。
「それについては了解している。まあ、絵に関しては全く素人だと言っていた戸田くんが素晴らしい感性で含蓄ある発言をするのを目の当たりにして、私も思うところがあってな」
お、何を勘違いしているのかはわからんが、私って意外と高評価。
「誰だって最初は何もわからないものだ。知識だけを問うて豊かな才能を潰すのを惜しいということに、私も気づいた」
入部断られたって、ああ、あんたに才能を潰された、と嘆くことはないぞ。っていうよりも、あんたが私の才能を潰した、と思う方が屈辱なんでないかい、その人。
「というわけで、今回は知識ではなく感性を問う試験としたい」
ラジャーでございます、と真顔になって敬礼した環奈を見ながら、ほんとお前って女子高生とかじゃなくってJKって感じだよな、と七海は嘆息した。
肩越しに背後を振り返った加納が、白石くん、と軽く頷くと、頷き返した賢人がタブレットパソコンを操作した。
「今からそこの画面に数枚の絵を映し出す。絵を見た直感的な感想を聞かせてくれたまえ。言っておくが、言葉を飾る必要はないぞ」
はいは~い、と環奈がお気楽な調子で手を振る。見ている方がハラハラしてくるようなリラックスぶりだ。
「最初の絵は、アルテミジア・ジェンティレスキの『スザンナと長老たち』(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/04/Susanna_and_the_Elders_%281610%29%2C_Artemisia_Gentileschi.jpg)だ」
ほうほうとその絵を見た環奈はすぐに加納を向き直った。
「セクシャルハラスメント」
ぐっと、加納の喉が鳴った。
「つ、次ぎだ。シモン・ヴーエの『希望と愛と美に打ち負かされる時』(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a0/Simon_Vouet_-_Saturn%2C_Conquered_by_Amor%2C_Venus_and_Hope_-_WGA25377.jpg)」
「シルバーハラスメント」
ぐぐっ、と再び加納の喉が鳴った。
「次っ!フーホー・ファン・デル・フース『ボルティナリの祭壇画』!(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/69/Hugo_van_der_Goes_004.jpg)」
その絵を見た環奈は、今度はじっとその絵を見つめた。
眉根を寄せたまま加納を向いた環奈は、吐き出す様にして言った。
「寒そうな道路に裸の赤ん坊放り出して拝んで、危ないカルト教団かなんかなんですかね、この人達。こういうの何て言うんでしたっけ・・・ああそうそう!」
環奈が嬉しそうに加納に向かって身を乗り出した。
「ネグレクト!」
部長!、と賢人が立ち上がって何か叫ぼうとした加納の肩をぐっと押さえながらその耳に唇を寄せて囁いた。
「ある意味、斬新な感性の持ち主と言えないことはないかと」
わかっとるっ!と小さく叫びながら、加納が肩を揺すって賢人の手を振り解くと、ハアハアと椅子に座り直した。
「・・・ま、まあなかなか率直で端的な感想をありがとう三田くん。では最後にこれだ」
初めて、加納の唇に笑みが浮いた。
「フランシスコ・デ・ゴヤ『砂に埋もれる犬』!(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/38/Goya_Dog.jpg)」
その絵を一瞥した環奈は驚いたように加納を向いた。
「なんでこんなもん描いたんですかね。その人病んでます?」
「なんで私が唾吐かれなきゃなんないのよっ、なんなのよあいつっっ!!」
ファイオ!ファイオ!とグランドで汗まみれになっている野球部員を向いたまま、日陰でコーラを飲みながら七海は淡々と言った。
「だからお詫びにって、賢人さんがコーヒーおごってくれてるんじゃん。私の分のコーラまで。感謝して飲みなよ」
「するかっ!!くそうあのチビ、今からもいっぺん行って頭蹴倒して来てやろうか!」
アハハと賢人が困ったように頭を搔きながら環奈に頭を下げた。
「本当に申し訳ありませんでした。あれ、部長の悪い癖で。大抵の人があれにびっくりして逃げちゃって人が居つかないんですよね、絵画鑑賞部」
でも、とその目が七海を向く。
「でも、あれだけされて逃げなかったんだから、やっぱりサキちゃんは、なんて言うか、才能あったんだね」
いらんわ、そんな才能。
「まあ、部長の気持ちもわかってあげてください。ゴヤは部長の一番のお気に入りの画家なんです」
そうそう、ゴヤフェチ、と呟いた七海を環奈が不思議そうに見る。
「推しの写真を目の前で踏みつけられたファンの気持ちを推察していただければ、部長の気持ちもわかっていただけるのではないかと思いますが」
「わかんないわよそんなん。そもそも推し活とかやってないし」
想像力ですよ、想像力、と賢人が苦笑する。
でも、と賢人が口調を変えた。
「三田さんは案外鋭い観察眼の持ち主かもしれませんよ」
座ったまま、環奈が不思議そうに賢人見上げ、賢人はにっこりと見下ろした。
「あの絵を描いた当時、ゴヤは本当に精神を病んでいた可能性があります」
正面を向き直った賢人は、どこか遠くを見つめる目つきになった。
「ゴヤという人はあの当時としては長生きした画家ですが、彼が生きたその時代、スペインという国はなかなか苦難に満ちていたのです。長い下積み時代を経て四十代にしてやっと画家としての成功を掴みかけたその矢先、彼は病気で聴力を失ってしまいます。その後、素晴らしく鋭敏な感性のその持ち主は、その無音の世界で悲惨な現実を見つめ続けた。ナポレオンに蹂躙される母国を、異端審問の復活で神の名において行わる残虐な処刑を・・その長い人生で見つめ続けたのですよ」
そこで言葉を切った賢人は俯いた。
「晩年に差し掛かり、彼は王宮画家の肩書を持ったまま、突然『聾者の館』と呼ばれていた屋敷を購入しそこに隠棲します。その時に描かれた14枚の『黒い絵』と呼ばれているかなり奇異な画群の一枚がさっきの『砂に埋もれる犬』なんですよ。『聾者の館』での3年間で、どこか病んでも見える絵を描くことが、もしかしたらゴヤにとっての“みそぎ”だったのかもしれませんね。その翌年、彼は祖国を捨てフランスに移住していますから」
ほら、と言った声が自分を向いているのを感じた七海が振り返ると、賢人と目が会った。
「先日の『巨人』にしても『砂に埋もれる犬』にしても、圧倒的なものを目の前にした時の無力感、ちっぽけな人間の力の及ばぬモノに対する絶望や諦念のようなものを感じませんか。ゴヤは人生の後半、ずっとそんな思いを抱えて生きていたのかもしれませんね」
あ、そうそう、と急に口調を変えた賢人は、いつものようにどこか楽しそうに二人を順にみた。
「ムンク、って知ってますか。エドヴァルド・ムンク」
知ってますよお、と七海が唇を尖らせた。
「『叫び』(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/f4/The_Scream.jpg)のあのムンクでしょ。そんなもの絵画鑑賞部に入る前から知ってますって」
「ああ、あの橋の上かなんかで叫んでる奴ね。知ってる、知ってる」
お断りしておきますが、と賢人が苦笑した。
「あれは叫んでるんじゃありません。どこかから聞こえてくる叫び声に耳を塞いでいる絵なんです。もちろんサキちゃんは知ってましたよね」
「あ・・も、もちろん」
こいつ知らなかったな、という流し目で環奈が七海を見た。
「ムンクも、精神の安定を欠いた画家だったことで有名です。彼自身も『病と狂気と死が私の揺りかごの黒い天使だった』述べているほどに」
「そう言われても驚かないなあ」
「むしろ、品行方正高潔な常識人で美男子の紳士だった、って言われた方が、ひえええっ、ってなる画風だよね、確かに」
まあそれは置いておいて、と賢人が苦笑する。
「彼は自らが狂気に陥るのではないかという恐怖と常に隣り合わせの人生を歩んでいました。そして四十代半ばに一念発起して自ら精神病院に入院し、病を克服しました」
「おおっ」
「まあ、自分が狂っているかも、って思えるうちは、なんとかなるものだね」
しかしながら、と賢人はまた苦く笑った。
「その後の半生、彼は見れるほどの絵を残せませんでした。狂気への恐怖と共に、芸術の女神も彼の元を去ってしまったのです。『叫び』をはじめとする彼の有名な絵のほとんどが、狂気への恐怖に苛まれていた若い時代に描かれたものなのですよ」
七海と環奈が顔を見合わせるのを見ながら少し笑った賢人は小さくため息をついた。
「芸術とは、鋭敏な感性故の狂気と正気のその狭間から生まれてくるものかもしれませんね。そう考えれば、狂気、は常人には思いつかない“何か”を生み出すためのクリエイティブな仕事には欠かせないものかもしれません。さっきの三田さんの「その人病んでます?」という問いも、『なんだこれ凄えな、まともな人間じゃこんなもん思いつかねえよ!』という感嘆の叫びと言えないこともないと思いますよ、ぼくは」
そこで言葉を切った賢人は、にっこりと環奈の顔を覗き込んだ。
「ね?こうやって知識の裏付けを持って見れば、違う物が見えてきませんか。知れば知るほど面白いでしょ、絵画鑑賞って?」
う~む、と環奈が考え込んだ。
翌日。
「とゆーわけで、また来ましたっ!!」
うむと、椅子に座った加納が満足そうにこぶしで机を一つ叩いた。
「そのガッツを買おうっ。今日は多くは問わん!」
言いながら、一方の壁を指差す。
「それは『我が子を喰らうサトゥルヌス』(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/82/Francisco_de_Goya%2C_Saturno_devorando_a_su_hijo_%281819-1823%29.jpg)という絵だ。その絵について率直な感想を述べてくれたまえ」
そちらを向いた環奈は、ええ~~っ、と言いながら顔をしかめた。
「これ、自分の子供食ってるんですか?それも、頭から生で?」
顔をしかめたまま、環奈は確信を持って加納に頷きかけた。
「やっぱ画家って連中、どっかおかしいんですかね?」
「だから何なのよっ、あいつっっ!!」
いいじゃん、とファイオ!ファイオ!とグランドで汗まみれになっているサッカー部員を向いたまま、日陰でコーラを飲みながら七海は淡々と言った。
「だからまた賢人さんがコーヒーおごってくれてるんだからさ。私の分のコーラまで。私はいいよ、明日も来なよ」
「やかましいいいっ!!」