八犬伝!(後編)
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(ミスナナリンによる八犬伝のあらすじ)
ええ、八犬伝は江戸時代の作家、滝沢馬琴が28年かけて創作した全9輯98巻106冊にも及ぶ、戦国時代初期の里見家を舞台にした稗史小説でございます。
主なあらすじはこんな感じ。
昔々、里見さんというお殿様が居ましたが、敵に攻められて大ピンチ。そこで戯れに、敵の大将の首を取ってくる奴がいれば娘の伏姫を嫁にやるのに、とか言いました。すると里見さんの家で飼っていた八房という、体に牡丹の花の模様のある大犬がむんずとばかりに起き上がって駆けだして行き、なんと敵の大将の首を咥えて戻ってきたからさあ大変!いやホント、今なら保健所がやってきて殺処分案件です、はい。んでもって里見さんの危機は救われましたが、大切な姫様を畜生などに嫁がせるなど!と息巻く者も当然おります。しかし伏姫は、約束は約束です、と八房の背に乗り森の奥へ消えていくのです。そしてそこで一緒に暮らしていたのですが、もちろん畜生と交わることなどせず操を守り続けます。ところがどうしたことか、子供ができたかのようにお腹が膨らんでくる、そしてそこに姫の許嫁が彼女を取り戻そうと乗り込んできて、彼女の膨らんだ腹を見て彼女をなじります。そこで伏姫、腹をかっさばいて子供などおらぬことを、操を守り抜いたことを証明し死んでしまいます。その時彼女の腹から白い靄のようなものが立ち昇り、そして彼女の数珠の仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌と彫られた玉が宙に浮かび靄と共に四方に飛び散ります。これを後悔した許嫁、僧となって丶大と名乗り、その八つの玉を探す旅に出るのです。なんでだよ。
そして、名前に“犬”の字が付く、八つの玉のうちの一つを持ち、体に牡丹の花の形の痣を持つ8人のエピソードが延々と続き、最後に再び里見さんがピンチに陥った時にその8人が集って里見さんを救ってめでたしめでたし、となるのです。
あらすじにすればたったこれだけのことを、馬琴さんはだらだらと28年も書き続けたのですから、まあ、なんと言えばいいか、ええと、まあ、田へしたもんだよ蛙のしょんべん、見上げたもんだよ屋根屋のフンドシてな感じで・・・いやいや、あんたが大将!だよ、馬さん。
では、お後がよろしいようで。
「まだそんなことを謎だと言っているのですか?あなた達は本当に八犬伝を最後まで読んだのですか」
何だと?と早くも喧嘩腰で沙織を振り返った加納に、沙織は薄笑いを浮かべて見つめ返した。
「物語の最後で丶大和尚が説明しているではありませんか。“牡”丹の名のとおり古来から“ボタンに雌花”なしと信じられいた、つまり牡丹は雄性、陽の象徴。八房は狸に育てられた雄犬で母を知らぬ、そして八犬士も全員男で、これも全て陽、この陰陽のバランスが悪いところに八犬士が全員妻、つまり陰を娶り陰陽のバランスが取れめでたし、めでたし、と」
ふん、と加納は笑った。
「そんなものを信じているのか。あれは物語を閉めるに当たって馬琴が伏線回収を急いだ苦し紛れの説明に過ぎない」
お待ちください、と賢人が割って入った。
「馬琴が物語の設定に回答を持たずに筆を始めたとは思えません。あの物語のプロットは書き始める前に完全に出来上がっていたのです。例えば八犬士のうち犬塚信乃と犬坂毛野の二名が女装であることについてですが、第1輯の、子供の八犬士と丶大和尚が遊んでいる様子を描いた挿絵の中に既に二人は女装の姿で描かれています。しかし犬坂毛野が実際に女装の姿で物語に現れるのは第6輯になってから、現実時間で実に13年も後のことです。これは馬琴が八犬伝のプロットを完全に持って書き始めた査証かと。その馬琴が設定の回収を急ぐあまりに適当な解説を行うなど考えられません」
「では、白石くんも丶大和尚のあんな説明で納得すると言うのかね」
いえと賢人は首を振った。
「私は八犬伝の謎の多くは高田衛氏の著書『完本 八犬伝の世界』で既に解明されているのではないかと思っております。読まれましたか?」
「まあ」
「ざっとだがな」
頷いた二人に、賢人も頷き返した後、ちらっと辺りを見た。
「ご存じない方もいるようですので少し解説すると、高田氏は八犬伝の世界観は「八字文殊曼荼羅」をベースにしていると述べています。この曼荼羅で、文殊菩薩は獅子に騎乗した姿で描かれているのです。先に述べたように牡丹の花は唐獅子牡丹に象徴されるように獅子の花です。つまり牡丹の模様を持つ八房=獅子というわけで、伏姫は八房にまたがり山へ入った姿は、まさしく獅子に騎乗した文殊の姿に重なります。また、彼女は八個の字の刻まれた珠のついた数珠を持っていた、つまり八字文珠(殊)です。そして文殊菩薩に付き従う八童子について、天台密教の『阿婆縛抄』によれば男六人、女二人としております。八犬士の内二名が女装なのもこれでわかります」
ふん、と加納があざ笑うかのように鼻を鳴らした。
「きみはそんな説で納得したのかね」
「どうしてですか?彼の氏の著書で全て説明ができるのですよ。これ以上の説明があるとでも?」
もう一度鼻を鳴らした後、加納は首を振った。
「なるほど、高田氏の説明は一見的を得ているようでいて、実証性に欠けるとして反論も多い」
「それは高田ー徳田論争の事を言っておられるのでしょうか。先達に対する失礼を承知の上で言わせていただければ、私は徳田氏の説こそ難癖にすぎないという立場をとらせていただいております」
ハイと早希が手を挙げた。
「私も失礼を承知で言わせていただければ、本日の話は、今期のアニメのヒロインのバストサイズが好みかそうでないかでマジ論を展開して怒鳴り合っているアニオタの会話レベルに面白くないのですが」
その例えはあまりにも失礼だろ。
う、うむ、と熱くなっていた自分をわずかに恥じるかのように加納が顔をしかめた。
「ま、まあ『南総里見八犬伝』というものは、その壮大さ故に、読み込めば読み込むほどに様々な謎が出てくると同時に、様々な仕掛けに対する気づきもあり、面白い本なのだよ」
そうなのです、と賢人も頷いた。
「滝沢馬琴という人物は、歴史や地理のみならず、仏教、仙道、占星術、卜占、練丹道、陰陽道、言語学までに通じており、それらの知識を総動員して八犬伝を書き上げました。彼の息子が若くして足が立たなくなる奇病に侵され、それがただの医薬では治らない病気と察した彼は、薬の知識のみならず呪法から修験道の秘薬まで研究して治療しようと試みました。それらの経験で得た知識まで盛り込まれた八犬伝は、少なくとも彼と同程度の神秘学に対する知識も有していないと完全には解読できないのです」
どんなけ無理ゲーだよ、それ。
ただ、と沙織が後を受けた。
「それらの知識が無くても楽しめる謎かけも随所あるのですよ。例えばこの物語はとことん犬にこだわっています。八房という犬、八犬士の名前のみならず、伏姫の“伏”の字は人と犬を合わせたものですし、丶大は、犬の字を分解したものです。そして、犬田小文吾の妹で犬江新兵衛の母は沼蘭で、いぬ、を逆読みしたものです。彼女の夫は房八といい、これも八房の逆読みなのです。こんな細かな“くすぐり”がこの物語には散りばめられているのです」
そうなのです、と賢人が再び頷いた。
「漢字遊びも随所に有ります。八房は母が無く狸に育てられたとされていますが、これは里に犭の里見家の獣の意味です。魚に里、のコイというのも登場しますよ。そして終盤で八犬士はそれぞれの玉を持ち寄りそれを目として四天王像を作るのですが、丶が一の半分だとすれば、八犬は四天となるのです。こういうところは、自らの知識を駆使して絵の中にちりばめられた細かな“仕掛け”を読み解くのに通じるものが有ります」
はい、と今度は七海が手を挙げた。
「大変面白い話をありがとうございます。ただ折角の“フリ”をいただきましたので、繰り返すようですが、こうして初めて全員が集まっているのですからそんな話より絵の話をしませんか?」
なに?その、お前が言うなよ、みたいなみんなの冷たい視線?
<参考文献>
本朝幻想文学縁起(荒俣宏著 集英社文庫)
完本 八犬伝の世界(高田衛著 ちくま学芸文庫)