描カヌハ誰ゾ
激しい音を立てて美術準備室の扉が開き、絵画鑑賞部の面々が驚いたように顔を上げた。
「あ、遅かったですね部長、先に・・・・?」
うっ、うっ、とすすり上げながら室内に入ってきた加納は、突然うわ~ん、と鳴き声を上げながら賢人に縋りついた。
「ど、どうなさったんですか、部長?」
えぐっ、えぐっ、と涙と鼻水を垂らしながら、加納は賢人を見上げた。
「知ってた?ねえ、知ってたっ?ゴヤの『巨人』(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/be/El_coloso.jpg)って・・『巨人』って、実はゴヤが描いたんじゃなかったってこと?」
ああ、と少し考えた後、賢人は頷いた。
「確か、絵を保有しているプラド美術館が、名前は忘れましたけどゴヤの弟子の絵の可能性が高いって発表したそうですね。でも、あれって10年以上前のことじゃなかったですかね。部長、ご存じなかったんですか?」
俯いた加納は、うぐっ、うぐっと息の詰まりそうな声ですすり上げた。
「知らなかったよ・・・ぼく、知らなかった・・・ぼくっ・・・ぼくっ・・・」
うわあああああああん、と涙の糸を引き絶叫しながら、加納は開いたままの扉から美術準備室を飛び出して行った。
「あっ、待ってくださいっ、部長っ!部長おおおっ!!」
とゆーわけで。
翌日の放課後、絵画鑑賞部の面々を見回しながら、賢人は淡々と言った。
「ショックを受けられた部長は、当分学校を休むそうです」
何やってんだよ、あの人は。受験生だろ?
まあ、わからないでもないですけどねえ、とため息をつきながら賢人は椅子に座った。
「部長は『巨人』を見てゴヤ、っていうか、絵画そのものを好きになったそうですから」
確かに、とスクリーンに大写しになった『巨人』を見ながら早希が頷いた。
「今にもゴゴゴゴゴって地響きの音が聞こえてきそうな凄い絵だもんね、これ。チビの部長が憧れるのもわかるような気がする」
「確かにそうかもしれないが、あんたと私にだけは言われたくないと思うぞ、部長も」
「そうかい?」
「そうだろ」
くすっと笑った夏樹が絵を向き直ると、真顔になって首を傾けた。
「でも、ゴヤ好きの部長がこれが弟子の絵だってことを知らなかったって意外だったわ。私でもなんとなく何かで読んだような記憶があるのに」
「人間ていうのは、自分の知りたくない、信じたくない情報は、無意識にシャットアウトしちゃうのかもしれないね。ほら、この前も、チイちゃんが、『最後の審判』(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/18/Last_Judgement_%28Michelangelo%29.jpg)に加筆がされているって知らなかったみたいにね」
少し笑った後、賢人はわずかに首を傾けた。
「ただ僕としては、これはゴヤの絵ではないと言い切れないんじゃないかな、とは思うんだけどね」
へ?
はい、と早希が手を挙げた。
「それは、美術館の鑑定が間違っている可能性が有るということでしょうか?」
「うん、まあプラド美術館も100%と言っているわけではないみたいだし、それにゴヤの弟子の絵、ということならば、これはゴヤの工房から出た絵ということになるかもしれない。まあ、宮廷画家だったゴヤが工房を運営していたかどうかはしらないけれど、少なくとも弟子の絵ということであれば、ゴヤの指揮の下で描かれた絵という可能性は十分考えられます。ゴヤの息子が一時期所有していたこと、ゴヤの絵と勘違いされていたということから判断し、その可能性は高いと思うんです」
工房?
はい、と今度は七海は手を挙げる。
「工房、って何ですか?」
「工房っていうのは、なんて言えばいいのかな、そう、絵の制作会社みたいなものですかねえ」
制作会社?
「ええ、有名な画家になると自分の制作会社みたいなものを持って、そこで弟子を使って絵を創作したりもするんです。だから『巨人』の場合も、ゴヤが絵のテーマを決め、モチーフを作り、彼の指示の下に弟子が描いた絵なら、ゴヤの絵ではない、とは言い切れないと思うんです。例えば、宮〇アニメ、なんて言いますけど、あれだって宮〇駿が自らセル画を一枚一枚シコシコと描いてるわけではないでしょ?」
確かにそうかもしれないが、シコシコは止せ。
「そういう意味ではこの絵も、ゴヤの絵ではないとは言い切れないと思いますね、ぼくは」
「じゃあ、それ部長に伝えてあげたらどうですか~」
投げやりな口調で七海は机に突っ伏した。
「部長、喜ぶかもしれませんよ」
「ああ、それはいいアイデアですね。後でラインしときます」
はい、と再び早希が手を挙げた。
「話は戻りますが、さっき夏樹さんが言った『ゴヤ好きの部長』という表現には異論があります」
「異論?」
「ありゃあ、単に“好き”ってもんじゃないでしょ?もっと適当な表現があると思います。はい!サキちゃんどうぞっ!」
いきなり振られて、えっ、えっ、と七海はじっと集中した視線に三人にせわしなく視線を這わせた。
「え、え~と、ゴヤフリーク?」
「いやいや、まだまだ」
「ええと、ゴヤマニア?」
「もう一声!」
「ゴヤ・・・フェチ?」
「サキちゃんが言うところのそのゴヤフェチの部長のことですが」
「お前が言わせたんだろが!」
「そんなんで大丈夫なんですかねえ。もしかして、来年も高校に通ってるってことはないですかねえ?」
は?
と言った後、賢人と夏樹が顔を見合わせた。
「ごめんチイちゃん、今言ったこと、意味がわからないんだけど?」
「いや、だから。そんなんでちゃんと卒業して、大学とかも行けるんですかね」
確かに、部長が高卒で働いてるところ想像つかないしなあ。
ああ、という表情で二人が再び目を見かわせる。
「チイちゃん知らなかったんだ」
へ?
「部長、とても頭がいいのよ。学年10位を下回ったことないくらいに」
ええっ、と早希がわざとらしい声を上げた。
「そうなんですか?いや、毎日部室に顔出しているし、この人本当にちゃんと勉強してるんだろうかって」
そうそう、家に帰ってからもニヤニヤしながらゴヤの絵を見ているイメージしかないし。
「受験勉強なんてちゃんと授業受けて、家で二三時間と土日のどちらか一日勉強すれば十分だろうってのが部長の口癖だよ。勉強なんて、目を血走らせてまでするもんじゃないって」
ははは、三輪さんに聞かせてやりたいわ。
「ああいうのが地頭がいい人、っていうんですかねえ。いやはや、我々凡人の及ばない世界ですね」
あの部長がってか?なんたる不公平!やはり神はいないのだ。
ところで、とこの話はここで終わりと宣言するかのようにわずかに声を大きく言った賢人は、ニコニコと七海と早希を見た。
「工房と言えば、先日面白い絵を見つけたんですよ」
「また絵の話ですか」
「当然でしょ?美術準備室に何しに来てるんですか。ここに来れば、一に絵、二に絵、三四も絵で、五から後も全部絵ですよ」
この人も微妙にフェティッシュ入ってるなあ、と思いながら、七海はニコニコとしたままよく動く賢人のその口を見つめた。
「これがその絵、ヴェロッキオの『キリストの洗礼』(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/bc/Andrea_del_Verrocchio%2C_Leonardo_da_Vinci_-_Baptism_of_Christ_-_Uffizi.jpg)です。いかがですか?」
いつものように大画面に映し出された絵に、七海と早希が振り返る。
椅子を立ち、スクリーンに近づいてじっくりと眺めた早希は、すぐに頷いた。
「上手な絵ですね。特に人の描写がすごく写実的で」
「そうですね。サキちゃんはどうですか?」
「本当に上手ですよね。なんか、こんな顔した人がそのまま町を歩いていてもおかしくないくらいに。どうしました?」
いえ、と、クスクスと笑いながら賢人が手を振った。
「意識せずにそう言ったんでしょうが、サキちゃんて要衝を突いてくるなあって」
は、と早希と七海が顔を見合わせる。
「どういう意味ですか、それ」
「いえ、まあそれは置いておいて、じゃあこちらの天使の方はどうでしょうか?」
は?
二人は、洗礼を授けるヨハネとそれを受けるイエスを見上げている天使に目を向けた。
う~ん、と七海が首を捻る。
「ちっさい方は置いておいて、女性に見える方は、なんていうのか、神秘的な感じですよね。無表情な顔と目が何か超越しているようで」
すごいすごい、と賢人が小さく拍手をし、七海はジト目になった。
「何か、また間違ってました?」
「いえ、今回に限っては大当たりです」
“限って”言うなよ。
立ち上がって画面の天使を指差した賢人が、早希と七海を順に見た。
「ぼくが言いたかったのはまさしくそれなんですよ。いまサキちゃんは天使を指して“神秘的”で“超越”してるって言いましたよね。でもよく考えてください。イエスは神の子ですよ。彼の方が神性は高いはずなんです。描くのであれば、もっと神秘的に描かれなければならない。それなのにこの絵は、さっきサキちゃんが指摘したとおり、写実的な技法は高くとも、その辺を歩いているおっさんぽいでしょ?」
おっさんまでは言っとらんが?
つまり、と早希が首を傾けた。
「何が言いたいんですか?」
「はは、そうでしたね。つまりはですね、これは同じ工房に属する技量の違う人がそれぞれの部分を描いた絵なんですよ」
早希と七海はスクリーンを振り返った。
ナルホド・・・
言われてみれば、確かに天使の首から上の濃淡が薄い。物質的な存在ではない超自然的な者と表現しようとしたのかもしれないが、合成写真のように違和感がある。逆に、別々の人がそれぞれ描いたんですよと言われれば納得だ。
「人間の肉体を忠実に再現、ということで言えば決して下手ではないですが、これはキリストの洗礼という神聖な聖書でも重要な場面です。洗礼を授け、受ける二人は、絵の他の場所に目が行かないほどに、神秘的で輝いていなければならない。人間を超越した姿に描かなければならない。見る者に神の威厳と感動を感じさせなければならない。それができていない時点でこの絵は下手と指差されても仕方がないのです。単に描画が上手いだけではだめなのですよ。神秘さでは完全に天使が勝っていて、脇役であるはずなのに見る者の目を奪う」
ちなみに、と賢人いたずらっぽく片目を瞑った。
「この天使の部分は、若き日のレオナルドが描いています」
え?!と早希が叫んだ。
「熊が?!」
「なんですか、熊、って?」
驚いたように叫んだ早希に賢人が顔をしかめ、早希は慌てて、なんでもないです、と手を振った。
「レオナルド・・はて、聞いたことがあるような?」
「何を言ってるんですか。絵画の世界でレオナルドと言えば、レオナルド・ダ・ヴィンチに決まってるでしょ?」
なんだ、と七海は嘆息した。
「ダ・ビンチのことですか。賢人さんがレオナルドなんてしゃれて言うからわからないんですよ」
「サキちゃんこそ何を言っているんですか。ダ・ヴィンチは『ヴィンチ村の』とか『ヴィンチ村出身の』というような意味で名前ではないんですよ。西洋ではレオナルドと呼ぶのが普通なんです。絵画鑑賞部の部員たるものがダ・ヴィンチなんて言っていたら笑われますよ」
どこの誰がそんなトリビア知ってる上で笑うんだよ。
ところで、と賢人が楽しそうに続けた。
「この絵に関しては更に後日談があるんですよ」
「後日談、ですか」
「ええ。この絵で、一流と、超一流の差をまざまざと見せつけられたヴェロッキオはこの後、どうしたと思いますか?」
まさか、と早希がわざとらしく一歩退いた。
「嫉妬に駆られて、熊を暗殺したとか」
「だからさっきから、熊、ってなんだよ。それにレオナルドくん、頭が前から来てる髭面のじっ様になるまで生きてるだろが」
「いやわからんぞ。すっげえ老け顔の二十歳かもしれんぞ?」
「あれで二十歳だったらレオナルドくん可哀そ過ぎだろ」
全くあなた達は、と賢人がクスクスと笑った。
「答えはね、ヴェロッキオはですね、絵描きをやめてしまったんですよ」
は?
なんですと?
「言ったとおりですよ。この絵以降に描かれたヴェロッキオの絵は残っていません。もっとも、レオナルドの才能に打ちのめされてというのではなく、本業の彫刻に専念したため、という説もありますが」
ニコニコと、賢人は早希と七海を見た。
「どう思いますか、このヴェロッキオの決断」
え?としばらく考えた後、七海と早希はちらっと眼を見交わせた。
その目が同時に賢人を向く。
「言ってもいいですか?」
「もちろんですとも。ぼくの方から聞いたんですから」
もう一度目を見交わせた七海と早希は、小さく頷くと息を吸い込みながら賢人を向き直った。
「この根性なしがっ!」
「この意気地なしがっ!」
いや、と賢人は嘆息した。
「確かにそうかもしれませんが言い方ってものがあるでしょ、女の子なんだし?」