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カンショー!  作者: 安城要
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(番外編)resurge(山田さんと川口さん3)

なんだ?

先に三井ビル本館西側の小さな広場に来て待っていたいた山田は、川口が姿を現したとたん眉をしかめた。

やあ、よりも先に、どうした?が口を突いた。

すぐにその問いの意図するところを理解したのだろう川口はあいまいな笑みを浮かべて軽く片手を挙げ、二人はほとんど言葉も交わさずに並んで歩くと、いつもの神田屋名古屋笹島店に向かって歩き始めた。

席について生中を注文した後、山田はわずかに身を乗り出した。

「どうしたんだ、川口。その恰好?」

それも止むを得まい。

就職した後もジムに通いほとんど体重を落とすことなく、いや、アメフトをしていた学生時代よりも細くはなったが逆に体脂肪率は減らしたのではないかと思えるほどに精悍だった川口は、どこか面やつれした顔に少し寝ぐせの残った艶の無い髪をゆるくかけて、クマの浮いた目で薄い苦笑を浮かべてテーブルの向こうから山田を見つめていたのだ。

まあそう焦るな、とでもいうかのようにわずかに首を振った川口は、ジョッキが運ばれてくるのを待って、それを小さく掲げた。

「まあとりあえず乾杯しようぜ」

その声にも生気がない。

ああ、とジョッキを軽く当て、お互い少し飲んだ後、で、と山田は身を乗り出した。

「どうしたんだ、何があった?」

屋や俯き加減にじっとテーブルを見つめた川口は、そのまま緩くため息のように息を吐いた。

どれくらいの間そうやって佇んだだろうか、川口はつぶやくような声で口を開いた。

「仕事でミスをしてな」

おそらくそうかもしれないとは思ったが、それでもこれはあまりにも。

「大きな会社ではないが、全社に知れ渡るほどの大きなミスでな」

そこでため息。

「取引先に訴えられたんだ。金額的にも会社にもそこそこの損害を与えたが、それ以上に会社のイメージダウンが大きい」

山田は息を飲んだ。

川口は若いながら順調に肩書を上げていき、その若さで小さな支店の支店長を任されていると聞いていた。社初まって以来らしい、と前々回に会った時に川口は誇らし気に語っていた。

「今は本社に呼び戻されて閑職に回されている」

この歳での閑職は退職勧告にも等しい。いや、実際そうなのだろう。

おれだって、とわずかに涙ぐみながら、川口の手のジョッキが力なくテーブルの上に置かれる。

「おれだって、挫折を知らなかったわけじゃない。それなりに心折れることはあった。しかし、今回ばかりは・・」

そう言った川口は片手で目を覆うと嗚咽を漏らした。

すぐに、その頬に涙が浮かんだ。

悪い時には・・と何も言えずに見つめる山田の前で川口は途切れ途切れに続けた。

「悪い時には悪いことが続くもので・・・家では平静を装ってはいるが・・加奈とも些細なことで口論になって・・」

おれたちは、と川口の口から再び嗚咽が漏れた。

「おれたちは・・もうダメかもしれない・・・」

あの日、ルドンの絵により悟りを得たからと言って、すぐに全てがよくなったわけではなかった。その苦しい時を支えてくれたのが川口と彼のパートナーだった水口加奈だった。山田の妻も水口の紹介で知り合い、彼らよりも1年早く結婚した。

瞑目した山田は沈思した。

川口は岐阜県民というだけでなく正真正銘にいい奴だった。

自分自身は、贅沢はできないもののそれなりに幸せな人生を送っている。だが川口はもっと先を行っていると思っていた。いずれはもっともっと大きな仕事を任され、その美しい妻と一緒にこの国も出て世界を相手にする男だと。

いや、その確信は今も揺らがない。

こいつは、ここで終わっていい男ではない。

だが、と山田は自らも涙を浮かべながら嗚咽を漏らし続ける川口を見つめ続けた。

おれに何ができる。

おれみたいにちっぽけな、絵の世界に逃げ込み、半ば妻に養ってもらっているような小さな、少なくともこの国の価値観ではちっぽけなおれが、こんな素晴らしい男にしてやれる何を持っているというのだ。

いや。

持っている物があるとすれば、それは一つしかない。

川口、と呼びかけた山田に、川口は涙を拭いながら充血した目を向けた。

「お前は、以前に岐阜県美術館に行ったことがあったな」

あ、ああ、と突然の問いに川口はわずかに戸惑ったように山田を見つめた。

「・・・加奈と出会ったのがあそこだった。しかし、それからは行っていないな」

なら、と山田はじっと川口を見つめながら頷きかけた。

「ならば、そこでオディロン・ルドンの絵を見たか?」

オディ・・と聞きなれない名前に川口は瞬きした。

「い、いや、よく覚えていないが・・」

なら、と山田は強く頷きかけた。

「ならばもう一度行け。そして、そこでルドンの絵を見るんだ」

何故だ、と川口は当惑の視線を山田に向けた。

「その、ルドンとやらの絵を見れば、何かあるのか?」

「ある!」

な、何を言っているんだ、おれは、と思いながらそれでも口は止まらなかった。

おれは確かにルドンの絵に救われた。だが、今の川口がルドンの絵を見たからどうなると言うのだ。

だが。

おれにはこれしか、絵しかない。そして絵には万民を救う力がある。

ある、はずだ。

そうだ、と何か宗教的確信に突き動かされたかのように山田は思った。

岐阜県最強の岐阜県美術館パワースポットに行けば、川口は何か変われるかもしれない。

何故なら川口は岐阜県民なのだから。

山田は衝動に突き動かされるかのように確信を持って強く頷きかけた。

「川口、岐阜県美術館に行け、そしてルドンの絵を見るんだ」




3か月後。

川口からの誘いの電話があったのは昨日のこと、そして山田は前回と同じ三井ビル本館前で川口を待っていた。

「よう!」

軽快な聞きなれた声に振り返った山田は、おおっ、と思わず小さく唸った。

半袖のポロシャツの袖から衰えない筋肉を盛り上がらせた川口が軽快な足取りで手を振りながら近づいてきた。その肌はつやつやと血色が良く、前回会った時よりも体も一回り大きくなったかのようにすら見える。

「どうしたんだ、元気そうじゃないか。見違えたぞ」

まあまあ、と余裕の笑みを浮かべながら、川口は店に向かって山田を押し出すかのようにその背中をどやしつけた。

「まあ、詳しい話は飲みながら、だ。だが言っておくが今日はおれのオゴリにさせろ、嫌だと言っても許さんぞ」

「まあ、そうしてくれるなら、おれは嬉しいばかりだが」

前回と同じ、神田屋名古屋笹島店に入った二人はまず生中で乾杯してからどちらからとも身を乗り出した。

「まずは礼を言っておく。おれはもう大丈夫だ。おれはお前に助けられた」

そこを聞きたい。

連絡の無かったこの3か月の間にお前に何があったかを。

おれは、と川口は続けた。

「おれは、お前に勧められた後、なんとなく岐阜県美術館に行ってみた」

おお、それで?

「そしてそこでルドンの絵を見たんだ」

うむ。

そして思ったんだ、と川口は一息で飲み干す勢いでジョッキをあおった。

「なんとくだらない絵だ」

は?

通りかかった店員におかわりと頼んだ後、川口は山田を向き直った。

「そしてこう思えたんだ。こんな絵に何百万、もしかして何千万円の価値があるなら、おれは何億、何十億の価値がある男ではないかと。そう実感したとたん、不思議に自信が湧いてきてな」

はあ?

そう思うと、と川口は天を仰ぐような大仰な仕草で続けた。

「世界が一変して見えた。会社でおれを疎んじるような眼で見ていた他の社員達も、実はおれを同情の目で見ていたことにも気づけた。よく考えれば、訴えられたのもおれの前任がやらかしたのの尻拭いをさせられたようなものだったからな。本社の呼び戻されてつまらない資料を見ておくように言われていたのも、実は新しいプロジェクトに取引先の役員が直々におれを指名してきたかららしい。その人は別件で一緒に仕事をした時に部長だった人でな、その時の縁でな」

加奈とも、と川口は幸せそうに微笑んだ。

「上手くいっている。物事は一度いい方にも回り始めれば全てがいい方に回る、というのを実感しているようだった。実は」

その口元に白いものが覗いた。

「来年の春には、おれはパパになる」

ほう、と山田はニヤリと笑いながら頷いた。

「じゃあ、おれからもな。おれは年内に、だ」

は?と一瞬不思議そうに山田を見た川口は、ばかやろう!と叫び笑いながら山田を指差した。

「そういうことは早く言えよっ!」

「もったいぶって言うからいいんだろが、こういうのは」

そのタイミングで運ばれてきたジョッキで再び乾杯した後、山田は幸せそうに眼を瞑った。

思っていたのとは違うが、ここに再び絵画によって救われた男がいる。

やはり。

素晴らしきかな岐阜県美術館なり、そしてルドンの絵よ。

涙が出そうだった。

神はやはりいらっしゃるのだ。

そして名古屋の夜は賑やかに更けてゆく。

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