見晴らしのよい場所
放課後の美術準備室。
今日は賢人が来ておらず、七海と早希、そして沙織は無言のてんでばらばらに美術書なんかを眺めていた。
その時、ふと目の端に動きを感じた七海は、沙織がページをめくった時に無意識触れたせいで画面が表示された沙織のスマホに目を止めた。
「これってタデマの絵じゃなかったでしたっけ?」
顔を上げた沙織は七海の顔を見て不思議そうに眉根をしかめたが、その視線を追った後軽く頷いた。
「そうです」
言いながらスマホを手に取った沙織が、何事かと顔を上げた早希にも見えるようにその画面を二人に向ける。
待ち受けのカラフルな絵が二人の目に写った。
「これはローレンス・アルマ・タデマの『見晴らしのよい場所』です」
ほうほう、と七海は頷いた。
「タデマらしく、さりげなく配置した花がやっぱり綺麗ですよね。この絵、お好きなんですか?」
いえ、と沙織は無表情に、しかしわずかに怒りを似たものを声に滲ませながら首を振った。
「これは戒めのためです」
戒め?
この絵には騙されました、と沙織の形のよい唇からギリという歯の音が小さく聞こえた。
「真実は見えるところにはない、見た目に騙されるな、という教訓と戒めのために、スマホの待ち受けにして毎日見るようにしているのです」
「え、この絵に騙された、ですか?」
さいです、と七海が頷くと、今日はこれで失礼しますと早めに部室を後にした沙織と入れ違うようにしてやってきた賢人は、戸惑ったようにスクリーンに大写しにした『見晴らしのよい場所』を見つめた。
三人のローマ風の衣装を身に着けた派手やかな女性が三人、高台から海を見ている絵だ。すぐ下くらいに位置する海を行くガレイ船が小さく描かれていることから、かなりの高台であることがうかがえる、まさしく見晴らしのよい場所を描いた絵だった。
もしかして、と七海は疑わしそうな目をスクリーンに向けた。
「この一見獅子に見える後姿の銅像が、実はカバだったというオチでは?」
「そんなことで“あの”沙織さんがあそこまで言うかよ」
顔をしかめたままそう言った早希もじっとスクリーンを見つめて考え込んでいた。
「賢人さん、なんか心当たりありませんかね」
そう言われましても、と賢人も困ったようにスクリーンを見つめたままだ。
「花をあしらった女性、といういかにもタデマらしい絵だな、という印象は持っていましたが、それ以上のことはぼくも」
ですよねえ。
しかし、と賢人はどこか嬉しそうに腕を組んだ。
「沙織さんがそういう限りは、見た目だけではわからないなんらかの秘密がこの絵に隠されていることは間違いないでしょうね」
陰謀ですね、と突然響いた声に、は?と一同は室内を見回した。
突然戸口に現れた桜間が、腕を組んでニヤリと笑うと細めた目で一同を見渡した。
「悪いとは思いましたが、話は全て廊下で聞かせていただきましたよ。面白そうな話ですねえ、ふっふっふっ」
これは感染する病気なのか?
って、なんかこういうの似合うな、この人。
いえ、と賢人が慌てて手を振った。
「この絵は別に陰謀とは関係な」
「隠匿ですか?隠匿ですねっ?何を隠してるんですか?」
ここまで反応が読める人って珍しいな、本当のとこ。
高い足音を立て足早に美術準備室に入ってきた桜間は大仰な仕草でスクリーンを指し示した。
「さあっ、正直に言いなさいっ!この絵のどこに世界を破滅に導く秘密が隠されているのですっ?」
いやいや、と賢人が必死に手と首を振った。
「だから、この絵には本当にそんな大それた秘密は隠されてないんですって」
じゃあ、と疑り深そうなジト目で賢人を見ながら桜間は頷いた。
「テンプル騎士団の秘密の方ですか?」
無いって言ってんだろ、さっきから。
いや、と額の汗を拭き拭き賢人は必死にここまでの成り行きを説明した。
はじめは疑わしそうに、しかしどこか期待に満ちた目で賢人を見つめながら話を聞いていた桜間は、次第にがっかりしたように俯きがちになり、賢人が語り終えるとため息をついた。
そして一度スクリーンに目を向けてから賢人を向き直り、わかりました、と頷いた。
「とりあえず、この絵には見た目ではわからない何らかの秘密が隠されていることは確かなのですね?」
「まあ、沙織さんの言葉を信じるならば、ですが」
満足そうに頷いた桜間は、では、と一同を見回した。
「皆でその秘密を解き明かそうではありませんか。この世に隠された数々の陰謀を解き明かす予行演習として」
後の方は一人でやってくれ。
どこかげんなりとした顔になった三人を置き去りにしてじっとスクリーンを見つめた桜間は、すぐに、わかりました、とニヤリと頷いた。
「何がですか?」
「この絵に隠されたその秘密とやらがです」
は?
え、もう?
「この3人の女性、彼女達は実は女ではなく女装した男の娘なのです。そうに違いありません、絶対そうです」
お前になんて世界の秘密は一生解けねえよ。
いやとどこかため息をつきたそうな表情で賢人が手を振った。
「それは違うんじゃないですか?」
それは、と桜間が探るような目つきになった。
「その否定される根拠はなんでしょうか。それともあなたは私の言葉を否定するに足る私が知らない何かを知っているということですか?それは何ですか?何を隠してるんですか?」
ほんと、めんどくせえ奴だなこいつ。
と、ともかく、と賢人がなんとか言った。
「タデマ自身は特定の政治団体、結社、怪しげな愛好サークルとは無縁の人間ですから、世界の秘密とか永遠の真理とか、そういう可能性は排除して考えないと逆にこの絵の真実にはたどり着けませんよ。今桜間さんが言った、男の娘だった、くらいのレベルの所で考えるのが丁度よいのではないかと思います」
ふむ、とスクリーンを見ながら桜間が眉根をしかめた。
さすが賢人さん、上手いことを言うなあ。
って、最後の“怪しげな愛好サークル”ってどんなだ?
うーむ、と小さく唸った後、桜間は賢人を振り返った。
「彼女達が頭に飾っている花は麻薬の原料となる花で、大人しそうな顔して彼女達はここでマリファナパーティーみたいなことをやってるのでは?」
すっと七海身を寄せた早希がそっと顔を近づけた。
(今度大喜利大会やる時絶対この人呼ぼっか、笑える)
(お前みたいなボケで言ってるんじゃなくてマジで言ってるんだぞ?どういう思考してるのか逆に怖いわ)
その時、やあ、諸君!という声が美術準備室に響き渡り、加納の小さな体が戸口に現れた。
「最近は度々欠席をしてすまんな。部長としては恥じ入るところだ」
いーえ、事情は承知していますので。逆にご愁傷様です。
ゆったりと歩きながら美術準備室に入ってきた加納は、桜間を見ると、おお、と頷きかけた。
「早速来ていたか、熱心で結構だ。ええと確か・・・津田梅子くんだった、かな?」
なんで新五千円札がここにいるんだよ。
いえ、桜間さんですが、と賢人が控え目に囁くように言うと、おおっ、と加納は頷いた。
「そうだった、そうだった。何か花の名前が付くような名前だったことしか覚えていなくてな、失礼した」
大して申し訳なさそうでもなく桜間に軽く頭を下げた後、ふとスクリーンに目を向けた加納は、ほう、とわずかに口元をほころばせた。
「タデマの絵を観ていたのかね」
「はい。部長はこの絵のことはご存じで?」
まあな、と薄く笑いを浮かべながら腕を組んだ加納は、しばらく黙ってじっとスクリーンを見つめた後、ぐるりと一同を見回した。
「知っているかね諸君。これがある陰謀について描かれた絵だということを?」
桜間が目を見開きながらうれしそうに無意識に息を吸い込み、あちゃーと小さく呟きながら賢人が開いた手で顔面を押さえる。
それを見た加納は不思議そうに七海と早希を振り返った。
「どうした、何かあったのかね白石くんは?」
「いえ、別に」
「はい、別になんでもありません。ただあなたがこの場では極めて不適切なキーワードを言われただけのことでございます」
陰謀ですねっ、陰謀なんですねっ、と加納に向かって叫びかけた桜間の前を遮るようにして、賢人が絶妙のタイミングで二人の間に立って加納を向いた。
「つまり部長は、この絵の絵面だけではわからない何か隠された秘密をご存じなんですね?」
まあな、と顎に手をやった加納はニヤリと笑った。
「きみは知らなかったのかね?」
「恥ずかしながら。ただ、今日沙織さんが、この絵に騙された、というような発言をされたため、今みんなで絵を観ながら話をしていたところなのですよ」
沙織、の名が出たところで加納はわずかに不快そうに鼻を鳴らしたが、すぐに絵を振り返った。
「それでどうかね、謎は解けそうかね」
「残念ながら」
てんぷ、まで言いかけた桜間を絶妙の呼吸で封じるかのように賢人が首を振りながら鋭く言った。
「考え始めたばかりではありますが、端緒も掴めません」
だろうな、とどこか楽しそうに加納が再び腕を組んだ。
「“日本人には”わからんと思うぞ」
はい?
それで、と口元に似合わない笑いを浮かべながら、加納が一同を見回した。
「もう少し考えるかね、それとも答えを言おうか」
賢人がちらっと七海と早希を見、二人は小さく頷き返した。
加納を向き直った賢人は、解答をお願いします、と頷きかけた。
うむ、と間を持たせるかのようにしばらくじっとスクリーンを見た後、再び一同を見渡した。
「つまりは、この絵はローマで高台から景色を見ている風景に合わせて、彼女達三人の魔女が、自分が唆した男が王を殺す瞬間を高みの見物としゃれこんでいる絵なのだよ」
は?
この、と加納は続けた。
「この絵の原題名『A coign of vantage』を邦訳する際『見晴らしの良い場所』と訳しているが、この言葉の直訳は“都合のよい場所”が近い。何に都合がいいかというと」
ごくっと誰かの喉が音を立てた。
もしかして、と七海は恐る恐る言った。
「王を暗殺するのにですか?」
いや、と加納は首を振った。
「イワツバメが営巣をするのにだ」
なんか支離滅裂でないかい、話が?
暫く頭の上に???を並べて加納を見つめた一同を代表するかのように、部長、と賢人が進み出た。
「話がよく見えないのですが?」
つまりだな、と加納はもったいぶった口調で言った。
「この絵は、高台の風景にシェークスピアの『マクベス』の世界観が重ねてあるのだ」
は?
それは、と早希がすぐに何か気付いたのか、はい、と手を挙げながら言った。
「それは以前に見た、中世の徴税風景の中にイエスさんのとーちゃんとかーちゃんが居たみたいなもんですかね?(『何故あなたが?』参照)」
はい?
うむ、と加納が満足そうに腕を組んだ。
「ピーテル・ブリューゲルの『ベツレヘムの人口調査』の事を言っているのだったらまさにそれだな」
し、しかし、と賢人が慌てたようにスクリーンと加納の顔を見比べた。
「あの絵の場合はマリアもヨハネもはっきりとアトリビュートが描かれていましたが、この絵にはどのようなヒントが?」
そうだ、そうだ。そもそも『マクベス』にちょい出てくるモブ魔女にアトリビュートなんか設定されてるのか?
ふっふっふっ、と加納はわざとらしく笑いながら腕を組んだ。
「そこだ!それがさっき言った原題名なのだよ。マクベスが王の暗殺の決意を固めたころ、ダンカン王とマクベスの友人であるバンクォーがマクベスの居城を訪れる。そして王が、すばらしい城だな、と褒めると、バンクォーも「この城の造りは岩ツバメが営巣するにもいいんですよ(A coign of vantage)」と王に言う。それがこの絵に隠された秘密だ。だから原題名を見ただけで、わかる人には、ああおこれはマクベスに出てくるセリフじゃないか、なるほど、つまりは三人の女性はマクベスに出てくる魔女なのだな、とわかるのだ」
わかるわけねえだろーーーっ、そんなんっ!!
歳取ったころのシェークスピアだって忘れてるわ、「え、わしバンクォーにそんなこと言わせたっけ?」って。
無言でじっと加納を見つめた後、賢人が桜間を向いた。
「桜間さん、わかりましたか?」
は?
「絵に隠されている秘密なんて、聞いてみればこの程度のものなんですよ」
上手くまとめないで。