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カンショー!  作者: 安城要
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花舞う

美術準備室ぶしつに入ってスクリーンを見た途端、七海はおおっ、と声を上げた後、大机の上にカバンを置いて小走りにスクリーンの前に駆け寄った。

「これは、なんとなく華やかでうきうきした気分になる絵ですね」

そういう表現もあるのね、と賢人と並んでその絵を見ていた夏樹が笑った。

「これはローレンス・アルマ・タデマの『モーゼの発見』よ」

いやいや、とうれしそうにその絵を見ながら、七海は首を振った。

「昨日、賢人さんにピカソが描いた登場人物が全員気が滅入るような陰気な顔をした青っぽい絵ばかり見させられてたんで、こういうの見ると晴れ晴れとした気分になりますね」

「それじゃ何かぼくが悪者みたいじゃないですか。嫌なら嫌と言えばよかったのに?」

いやいや、と腕を組んで瞑目した七海は首を振った。

「上級生の言うことに逆らったら、後でどんな陰湿な仕返しをされるかわかりませんから」

「心の端にも思っていませんよね、そんなこと」



「担がれた女の人のすぐ後ろで見上げているハゲの男の人の目が恐ろしく澄んでいますな」

はは、と賢人が笑った。

「小さい絵で見るとわかりませんが、こうやって拡大して見ると確かに気になるほど澄んでいますね」

これはあれですかね、と七海が続けた。

「三蔵法師が捕まって奴隷にされちゃった姿ですかね、これ?」

「まだあきらめてんなかったんですか、三蔵法師中東到達説。サキちゃんの説ではあの後イスラエルからヨーロッパ方面に行ったんじゃなかったでしたっけ?。ここはエジプトですよ?」

「知らないっす。トルコ辺りで奴隷商人に捕まって売り飛ばされたんじゃないんですか」

「じゃあ、孫悟空と猪八戒と沙悟浄は?」

「猿の孫悟空は曲芸団に、豚の猪八戒は肉屋に売られました」

「肉屋に売られた猪八戒がその後どうなったか気になるところではありますが、あえて聞かないことにします」

そうしてください。

「では沙悟浄はどうなったのですか?」

は?と奇妙な声をあげて七海は顔をしかめた。

「カッパなんてこの世にいる訳ないでしょ?賢人さんUMAユーマとか信じてるんですか?」

「その返しは考えていませんでした。じゃあ西遊記に出てくる沙悟浄は?」

「あれは孫悟空の空想の中の友達イマジナリーフレンドです」

「また凄いことを言い出しましたね、今日は」

んで、と七海はスクリーンを振り返った。

「モーゼはこの情景を見て何を発見したんですか?」

「え?」

「はい?」

いえ、と夏樹が戸惑ったように七海を見た。

「モーゼが発見したって何を?」

あれ?

これって、あれじゃないんですか、と七海はスクリーンを指差した。

「これって『モーゼの発見』て題名ですよね?この、今私達が見てるこの絵の情景を見て、モーゼが何かを発見したんじゃないんですか?何とかの定理とか?」

いえ、と賢人が何故か慌てたように手を振った。

「この絵はモーゼが発見された時の絵ですよ」

は?

ほら、と夏樹が絵の一点を指差した。

「この赤ん坊がモーゼなのよ」

はい?

七海はじっと籠に入れられた赤ん坊を見つめた後、どこか情けないような顔で二人を振り返った。

「私、モーゼってひげ面で白髪の杖をついたお爺さんのイメージがありました」

「生まれた時から杖をついたひげのお爺さんの人間がいるわけないでしょ。みんなどこかの時点では赤ん坊ですよ」

モーゼってあれですよね、と七海は賢人に頷きかけた。

「海よ割れよ~っ!大地よ裂けよ~っ!!って奴」

「半分だけ正解です。大地は裂いてません」

んで、と七海はスクリーンと賢人の顔を見比べた。

「結局のところモーゼって何した人ですかね?」

「まあ、ヘブライ人の預言者の一人ですね」

賢人はスクリーンの赤ん坊を指差した。

「ヘブライ人が増えることを嫌ったエジプトのファラオがヘブライ人の男の赤ん坊を殺せと命じ、母親は殺されるよりはと泣く泣く彼を籠に入れて川に流しました」

「あ、ユダヤ人てイエスを殺す前から嫌われてたんですね?」

まあそれは置いておいて、と賢人が続けた。

「それを見つけたファラオの王女は、彼がヘブライ人であることを薄々感じながら拾って育てるのです。この絵は彼が川から救い出されたシーンですよ」

ほう。

「長じて、モーゼはある事件でエジプト人を殺してしまい、その後、エジプトで奴隷とされていたヘブライ人達を率いてエジプトを脱出するのです。海を割るのはその脱出の際の出来事ですよ。この辺りは聖書の『出エジプト記』に詳しいです」

なるほど、と七海は腕を組んで納得気に頷いた。

「母親に捨てられたガキが運良くお金持ちに拾われて育てられたが、成長してとんでもない不良少年に育ち、刃傷沙汰に及んだ挙句に恩家の奴隷ざいさんを盗んでとんずらこいた、と理解すればいいですね?」

「随分と悪意がある言い方ですが、そういう解釈もありますね」

「やっぱ育ちが悪かったんですかね」

「王女に育てられたんですよ?これ以上何があると?」

「神様に育てられるとか」

自分の子イエスさえ自分で育てていない神様がそんなことするわけないでしょ?」

んで、と七海はもう一度スクリーンを見た。

「同じモーゼがテーマなら海をぶった切る方が派手で絵になると思いますが、このモーゼの拾われたシーンも人気のあるテーマなんですかね?」

「人気のあるテーマというのではないと思いますよ。聖書の逸話でみんなが知っていそうな中から、だれかが初めて絵にして、おおっ、そういうシーンの絵もいいな、って感じで他の画家も真似したって感じですかね。例えばパオロ・ヴェロネーゼの『モーゼの発見』なんてのもありますよ」

そう言いながら映し出された絵を見た七海は、小さくため息をついた。

「こう言っちゃなんですが、題名を見なければ誰も紀元前のエジプトを描いた絵とは思わないでしょうね、この絵。服装とか、時代考証が全くできてないというか」

「それは仕方ありませんね。この絵は17世紀のものですから、ヴェロネーゼが当時の服装やエジプトの風景を知るすべはなかったと思いますので。一方タデマは18世紀後半から19世紀初旬にかけて活躍した画家ですからね。ちょうどそのころナポレオンがエジプト遠征をおこない、その時同行した研究者達の研究成果が全20巻の『エジプト誌』として出版されています。この本に載せられた図版は現代においても再現は困難と言われるほどの、手彩色の版画も入った立派なものだったらしいですよ。出版されたタイミングから見てタデマがこの絵描くに際しそれを見たかどうかは知りませんが、そういう探検の記録がヨーロッパでも見れるような時期差し掛かっていたのは事実でしょうね」

ほら、と賢人はタデマの絵に戻してその右上の方を指差した。

「ここ、アップにして見ると、遠くにかすんでピラミッドも描かれているでしょ?タデマの時代にはエジプトまで行かなくてもこういうものを資料で見れたんじゃないですかね」

「うむむ、なるほど。しかし言われないと気づかないようなピラミッドまで描くとは、タデマくんは芸が細かいですな」

「そうですね」

「それに人物描写も生き生きとしていて、みんな感情がわかるほどいろんな表情をしています」

「確かに」

「輿を担いでる一番最後の男の人、もしかしてこっちが三蔵法師ですかね。ああ、早く天竺行ってお経持って帰りてえ~、こんなことしてる場合じゃないのに~、って表情ですかね、これ?」

「それは絶対違うと思います」

なんか、と七海は畳み掛けるように続けた。

「この絵、なんで華やかに見えるのかと思いましたけど、花が綺麗ですよね」

そうですね、と賢人が一度置いていたタブレットを再び手に取った。

「タデマの花の表現は確かに華やかで美しいですね。例えばこれ『お気に入りの習慣』とか」

「うむ。これ、白主体の中で鮮やかな紫の花の配置って、花が主役じゃないのに自然に目が行きますよね」

「それにこれ、『テピダリウム』とか」

「これも人間か花かどちらが主役かわからないほど目立ってますね」

「極めつけはこれ、『ヘリオガバルスの薔薇』です」

うわおう。

小さく声を上げた後、七海はどこかあきれたようにその花舞う絵を見つめた。

「これなんてもう完全に花が主役ですね」

「タデマは自分の描く花の美しさをきちんと理解し、それを引き出す法も心得ていたんでしょうね」

「ですね。それに絵も少し離れてみればほとんど写真と見分けつかないほど写実的ですし。先日のジェロさんの話じゃないですが、これだけの表現ができたら、写真なにするものぞ、で全然脅威じゃなかったでしょうね」

「そうですね、いくら真実をそのまま写し取ると言っても、白黒写真では彼の絵の敵ではなかったでしょうね」

ただ、と賢人は小さく首を振った。

「これだけの画力を持ったタデマですから当時は圧倒的な人気を誇っていました。しかし20世紀に入って以降は彼の絵の評価は実はそれほどかんばしくなかったのです。その証拠に、タデマの主だった絵の過半はは個人蔵となっているのですよ」

は?と七海は瞬きしながらスクリーンと賢人の顔を見比べた。

「個人蔵って・・それって絵の評価となんか関係あるんですか?」

「有りますとも。個人的に評価する人はいても、多数の閲覧に供すると価値があると絵の専門家である美術館が認め買収に動こうとしなかった、ということになるわけですから」

あ、そういうことか。

しかし、と七海は少し近寄って『ヘリオガバルスの薔薇』をじっくりと眺めた。

「これってどういう状況なんですかね?」

はい、と賢人は頷いた。

「ヘリオガバスルはローマの第23代皇帝ですが、史上まれにみる美しい皇帝として名を残しています。一方で奇行も多く、これはその一つ、天幕の上に大量のバラの花びらを乗せて置き、それを一気に落として下の人を窒息させようとしたとされた、そのシーンのようんです。もちろん窒息と言ってもお遊びででしょうけど」

「こう言ってはなんですが、桜間さんが居なくてよかったです。いれば、暗殺ですか?陰謀ですねっ?とか言い出しかねませんよ、これ」

「かもしれませんね。否定しようものなら、隠匿ですか?何を隠してるんです?とか発展しそうですし」

んで、と七海は頷きながら顔をしかめた。

「タデマさんはなんでこんなシーン描いたんですかね?」

「いや、愚問でしょ?大量の花びらが舞うシーンですよ?あれだけ花にこだわっているタデマならこの逸話を知った途端、よっしゃーっ、正々堂々花描きまくれるぜっ!と条件反射で描き始めたんじゃないですかね」

「やっぱそんな感じですかね」

「実際はどうか知りませんけどね」

けど、と七海の目が再び花びら舞う画面を向く。

「バラの花びらをこれだけ集めたのだとしたら随分とお金がかかったでしょうね。これってやっぱり自分のお小遣いじゃなくって国家予算から出したんですよね?」

「だと思いますよ。そもそもからしてローマ皇帝がサラリーマンのように月々お小遣いをもらっているという図はあまり想像できませんしね」

「サラリーマンのサラリーの語源は“塩”で、古代ローマで兵士が月々の給料を当時貴重だった塩でもらっていたことに由来するそうですよ」

だから何?って顔しないでよ。

んで、となんとなく気まずくなった空気を振り払うように、七海は口調を変えた。

「その皇帝、奇行が多かったという話ですが、例えば?」

「なんというか、私生活がかなり乱れていたのです。それで反乱を起こされ、若干18歳で廃位、処刑されてしまうのです」

「私生活って、男女関係ですか?」

いや、と賢人は少し言いにくそうに首を振った。

「男女関係だけならいいのですが、男男関係とかもありまして」

あちゃーー、それはそれは。

そうなのです、と戸口から静かな声が響いた。

「そういう意味でも、ヘリオガバルスは素晴らしい皇帝だったのです」

出たよ、と半眼になった七海は軽く頷きかけた。

「こんにちは、沙織さん」

こんにちは、と言いながら部室に入ってきた沙織は机の上にカバンを置くと、一同を見渡した後どこかうっとりとした潤んだ瞳をスクリーンに向けた。

「何度見ても素晴らしい絵ですね、これは」

そういや、この人“そっち”の人だったな。

「沙織さんはこの絵を知っていたんですか?」

「もちろんです。ヘリオガバルスは界隈でも有名ですから」

何の界隈だよ、何の。

ちなみに、と七海が沙織の横顔を見ながら頷いた。

「いつから聞いておられたのですか?」

「初めからです。タデマの名前が出ましたので、いつこの絵の話題も出るものかとわくわくしながら息をひそめておりました」

そんな必要ないだろ、とっとと混ざれよ。

ちなみに、と沙織は七海の言葉を真似た。

「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり、の言葉で有名な『葉隠はがくれ』は一見硬派な読み物に思えますが、ホモはいい、というようなことが書いてありますので一度読むと良いでしょう」

読まねえよ。

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