始まりの男(聖書編)
その日の放課後、七海は珍しく米倉早希と二人だけで部室でもある美術準備室に居た。
いつもの大きな机に向かい、それぞれ勝手に大判の美術書なんかを眺めていた時、早希が突然に七海を向いた。
「ねえねえ、サキちゃん」
「ん、どしたの?」
「宇宙人てさ、昔から地球に来てたんだね?」
とーとつに何を言い出すんだ、お前は?
突然扉が開くと、はっはっはっ、という笑い声が響き渡った。
「悪いとは思いましたが、話は全て外で聞かせていただきましたよ、お二人さん」
ニコニコと笑いながら、賢人が美術準備室の入ってきた。
「なんだか面白そうな話ですねえ」
あんたも昭和のドラマの刑事みたいなセリフと共に唐突に現れるなよ。
「まず、この絵を見てください」
早希が持っていた美術本を二人に向けた。
「これはルーカス・クラナッハの『楽園』(https://tomo-artliteracy.com/wp-content/uploads/2021/05/Lucas-the-Elder-Cranach-Adam-and-Eve-in-the-Garden-of-Eden-1530-MeisterDrucke-186867.jpg)という絵です」
大きい方が見やすいですね、ちょっと待っててください、といつものタブレットパソコンで素早く検索した賢人が大画面にその絵を映し出した。
その絵をじっくりと見つめた賢人は、ふむ、と一度頷いた後、早希を向いた。
「見たことある絵ではありますが、じっくりと眺めるのは初めてですねえ。では」
椅子に座った賢人が早希に頷きかける。
「さっきのお話の続きをお伺いしましょう。この絵の説明にそんな説が?」
いいえ、と早希は首を振った。
「まだ解説は読んでません。その前に自分なりにこの絵に独自の解釈を加えてみました」
あんたのその“独自”の“解釈”という単語だけで既に胡散臭い匂いが漂ってくるから不思議だ。
「まず、ここに注目してください」
早希が画面の一点を指差した。
「雲を割って何か乗り物のようなものが降りてきています。これこそが凶悪な宇宙人の偵察部隊の宇宙船なのです!」
ほうほう、と賢人が頷いた。
「それで」
「彼らはまず人間に化けて地球の様子を偵察しようとしました。しかし、彼らが最初に出会った人間は水浴びをしていたのか、エッチをしていたのか裸の男女だったのです。それも人間の微妙な違いが判らなかったために、全員が同じ顔、同じ姿の人間の男女に化けてしまったのです!」
「うむ、面白い」
生真面目な表情で、賢人は早希と絵を見比べた。
「続けてください」
頷いた早希は絵の右端を指差した。
「ここ。“彼ら”がそれに気づいた時には既に姿を盗まれた人間は宇宙人のドロドロ光線銃により溶かされていました。ここにそのことが描かれています」
ドロドロ光線銃?なんでお前がそんなものの名前まで知っているんだ?
ちょっと待ってください、と賢人が軽く手を挙げた。
「あなたが今言った“彼ら”とは、誰のことでしょうか?」
我が意を得たりとばかりに早希が力強く頷いた。
「彼らこそ、現代において宇宙人の出現した場所にどこからともなく現れる“黒ずくめの男達”メンインブラックの昔版」
現代においてそんな奴らがいることがまずまだ確認されてないのでは?
「すなわち“赤づくめの男達”メンインレッド!」
メンインレッド!
なんて微妙に悪そうな連中なんだ。
「この赤い服と白髪、白いひげが彼らのトレードマークなのです。見てください、この絵の彼らは全員そのスタイルです」
その加入条件だとジジイしか加入できないのじゃないか?
「溶かされた人間の前には白い痩せ衰えた動物の死体。おそらくキャトルーミューティレーションでしょう」
「キャト・・・なんっですって?」
「キャトルーミューティレーション。動物の死骸などが内臓や血を抜かれた状態で見つかることです。これも宇宙人の侵略の一環、実験のためだといわれています」
チュパカブラに全部血を吸われちゃったんですよ、の方がまだ説得力がありそうだ。
「木の実を食べたりしてさりげなく振舞い普通の地球人の振りをしていた彼らでしたが、素っ裸の男女が歩いてりゃそりゃ目立ちますよ。そのせいでほら、手前では早速“彼ら”の尋問を受けています。奥では人間に化けていた着ぐるみを引きはがされ、それを木陰から見た別の宇宙人が、ヤバイ!と逃げ出そうとしています」
中から出てきたの完全に地球人と同じ姿じゃん。着ぐるみ着てまで化ける必要ないじゃん?
「左手奥では、“彼ら”の下部組織の実働部隊により追いかけられている宇宙人の姿が描かれています。実働部隊の服は、背中に羽の付いたスタイルなのです」
そんな邪魔っけなものつけて凶悪な宇宙人と戦えるのか?
なるほど、なるほど、と感心したように聞いていた賢人が、いつものようにニコニコとした笑顔のまま早希に頷きかけた。
「ところで、チイちゃんは自分でその説信じてます?」
「うんにゃ、全然」
おい!
「ほう、ではなんでそんな説を?」
「いや、この説を披露したらサキちゃんがどれだけ盛大にずっこけるか見たかったんだけど、先に賢人さんが来ちゃったもんだから」
「はっはっはっ、それは悪いことをしました」
こ、こいつらは・・・
じゃあ、と気を取り直したように賢人が七海を向いた。
「サキちゃんは、この絵はどう思いますか?」
どうもこうも。
七海はため息をついた。
「こんなもん、アダムとエバでしょ?素っ裸の男女が葉っぱで股間隠してりゃ想像つきますよ」
葉っぱのサイズは微妙だが、だ。
ははは、と賢人は頷いた。
「さすがに、これはねえ。わかりますか」
「だって絵の題名からして『楽園』でしょ?一応アダムとエバの楽園追放話を知っているからなんとなくは。ただ、各シーンがごちゃごちゃしててわかりにくいですね。どんぶりの全部盛、みたいな」
「絵の手法としては珍しくないんですよ、こういうの。一枚の絵で、人間の誕生からエデンの園からの追放までのストーリーがわかるようになってるんですね」
「けど、これって聖書が読めない庶民でも聖書の世界がわかるように描かれているんですよね。なんなんですかね、アダムの中からエバが出て来てるみたいなの?」
「本当は神様がアダムの肋骨を取り出してそれでエバを作るんですけど、それだと絵として弱いですしわかりにくいですからね。確かになかなか強引な描写ではありますが」
けどあれじゃ、実はアダムってエバがアダムの着ぐるみ着てただけなの?アダムっていないの?って驚いちゃうぞ、庶民。私だって『ローマの休日』のメイキング映像でグレゴリーペックの着ぐるみの中からオードリーヘップバーンが出てきたら腰抜かすぞ?
「アダムの話が出てきましたのでぼくも一つ面白い説を」
まさか、本当にアダム、エバの一人二役説とか出てくんじゃねえだろうな?
「アダムとエバは禁断の果実を食べたために楽園を追い出されます。知恵はつきましたが、永遠の命と豊かな暮らしを失ったのです。さて、その後二人はどうなったか知ってますか?」
「具体的には知らないけど、人間の祖先になったんですよね?」
早希の言葉に、賢人がニコニコと頷いた。
「まあそれはそうなんですけど、実は彼は930歳まで生きるんですよね。西洋では長寿の例えに『メトセラのように長生き』というような言い方をする人がいますが、彼でも969歳なんです。長寿が多い聖書の中でも、アダムはずば抜けた長生きの部類なんですよ」
そんなけ生きりゃ、永遠の命失ってもどうでもいいじゃん、別に。
さてさて、と再び賢人がニコニコと二人を見回した。
「さて、じゃあ天寿を全うしたアダムとエバは、その後どうなったでしょうか」
「その後って?」
「まあ、最初の人間だし、木の実食ったくらいで地獄には落とされていないだろうから、天国に行ったんじゃないですか?」
そこなんですよねえ、と賢人のニヤニヤが増した。
「本当ならば“地上”の楽園で永遠の命を得て暮らし続けていたはずの二人は、禁断の果実を食べて知恵を得て、楽園の外の世界で好き勝手して暮らした後、死んで“天上”の本当の永遠の楽園に行った。さて、エデンの園で永遠に暮らすのと、どっちがいいでしょうか、って話ですよね?」
「まさか二人は蛇とかに騙されて木の実喰ったんじゃなく、最初からそれを狙って?」
「可能性は否定できませんよね?」
早希と七海は顔を見合わせた。
「木の実喰う前から賢いじゃん、こいつら」
「策士だな、アダム」