四分の三
いよいよ、と七海は頷いた。
「いよいよ、最終回が近いという訳ですな?」
は?と瞬きした賢人が七海を見た。
「最終回って、なんの話ですか?」
いやいや、と七海は、皆まで言うな、と言わんばかりに鷹揚に手を振った。
「何分のなんぼ、というタイトルの回収を急いでいるところと、このラスボス感のある絵。いよいよ最終回は近いと見ました」
思い起こせば、とその目が遠くを見つめる。
「ストーリーを長引かせるために、ここまで不自然に一学期を引っぱってきたわけですが、そんな必要もなくいよいよ終わりを迎えるのですな?」
「何のことを言っているのかわかりませんが、そういう事実はありませんので」
んで、と七海はスクリーンを見つめた。
「とうとうこの絵が登場したわけですな」
はい、と賢人が頷いた。
「もうタイトルを説明するまでもありませんが、これが『モナリザ』です」
「16世紀のイタリア人伝記作家ジョルジョ・ヴァザーリはその著書の中で、モナ・リザのモデルはフィレンツェの富豪フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻であると書いていて、一応これが最有力の説であるとされていますが、これについては諸説あり確定というわけではなさそうです」
「富豪の奥さんですか?」
「まあ商人の奥さんということでしょうか」
わかりまいた、と七海は頷いた。
「おそらくそれは間違いで、フィレンツェではなくベニスの商人の奥さんだと私は推察いたします」
は?
「そして病気で寝込んだ夫の代わりに貸した金の取り立てに行くわけですな。そしてこの薄笑いを浮かべながら『何?貸した金が返せない?じゃあ心臓の肉一ポンドよこせ!』とか言うのです」
「何か別のが混じってますけど、この笑みを浮かべながらとなると、それはなかなか怖いですね」
うむ、と言いながら早希が美術準備室に入ってきた。
「この笑みにそんな意味があったとは」
よっ、チイちゃん、と手を挙げった七海に、よっ、と手を挙げ返しながら、早希は机の上にカバンを置いた。
「もっと思いついたぞ。ナニ、貸シタ金ガ返セナイダト?ナラ心臓ノ肉1ぽんどヨコセ!とかボーカロイドの声で言った後、ヨコセ!ヨコセ!ヨコセ!ヨコセ!ヨコセ!ヨコセ!ヨコセ!ヨコセ!ヨコセ!ヨコセ!ヨコセ!ヨコセ!とか叫びながら包丁を振り上げてカクカクした動きでどこまでも追ってくるとか」
「あなた方はモナ・リザのことを何だと思っているのですか?」
「不気味の谷の住民かと?」
「同じく」
あ、そういえば、と七海はしたり顔で言った。
「実は心臓は重さ300gくらいしかなくって、1ポンド=450gも肉はとれないらしいですよ、実は」
「そんな解剖談義よりも絵の話をしませんか?」
ため息をついた賢人は、ともかく、とスクリーンを振り返った。
「彼女のこの謎めいた微笑みは人々の心を騒がせ、様々な説が生まれたことは確かです。例えば彼女は生まれたばかりの子を失ったすぐ後だったとか」
ほい、と言いながら七海が手を挙げた。
「私も一つ思いつきました」
「説というのは研究してたどり着くもであり、何もないところからぱっと思いつくのは説とはいいません」
彼女は、と賢人の渋面を無視して七海はスクリーンを指差した。
「彼女は単に、フィレンツェの街をぶら歩きしていた時に地元の祭に営業でやってきていた〇ールポコ。の、やっちまったなあ、の芸を見てくすっと笑っているだけなのです」
「懐かしい名前が出ましたねえ。けど、その時代にいないでしょ、クー〇ポコ。」
いえ、と七海はわずかに胸を反らせて賢人を向いた。
「いい絵と同様、いい芸は時代を超えるのです」
「それは未来に向かって残るという意味で、過去に行くという意味ではありません」
実はこの絵は、と賢人は椅子に座りながら七海を見た。
「昔はそれほど有名じゃ、というか人気じゃなかったんですよ」
「あ、そうなんですか」
「はい。実はこの絵が一躍有名になったのは、盗難事件にあってからなんですよね」
盗難事件?
「はい、実はこの絵は1911年に」
「コックに切りつけられたんですか?」
「盗難て言いませんでしたかね、ぼく?」
いや、と七海は頭を掻いた。
「確か『夜警』が殺られた年と同じじゃなかったかなって?」
「パリからアムステルダムにかけて名画切り裂いて回ってるってどれだけアクティブなコックさんなんですか、その人」
さて、とそこで賢人は気を取り直すかのようにそう言いながらぐるりと二人を見た。
「この絵は、1911年にルーブル美術館から突然消えてしまうのです。それに気付いたのは『モナリザ』をスケッチに来た画家なのですが、彼がそれを警備責任者に伝えたところ、警備責任者は最初『モナリザ』は宣伝用の写真撮影のために持ち出されているだけだと勘違いしたそうです。ところが件の画家が念のためルーブルの職員に確認したところ写真撮影の予定など入っておらず大騒ぎ」
すんげー雑な警備だな、おい。
んで、と早希が頷いた。
「まあ、いろいろと紆余曲折はあるのでしょうが、ことの顛末を“マキ”でお願いします」
まあ結局は、と賢人は逆らわずに頷いた。
「結局事件から2年度後、かつてルーブルに雇われていたこともあるイタリア人のビンセンツォ・ペルージャという人物が犯人であることが判明しました。彼は愛国者で、イタリア人のレオナルドの絵はイタリアの美術館に収蔵されるべきだ、と考えていたのです」
ふむ、と七海があごに手をやった。
「しかし彼はどんな大胆な手口で、厳重な警備を潜り抜けて犯行に及んだのですかね?」
はい、と賢人は固い表情で頷いた。
「ルーブルが開館中の時間に掃除道具に入れに隠れ、閉館後夜になってからモナリザを外して服の下に隠して持ち出したそうです。そのままイタリアに持ち出し自身のアパートに隠していたみたいです」
そんな高校生が夜の学校に忍び込むような手口で?ズブズブすぎるだろ、警備。
しかし、と早希も首を捻った。
「犯行後2年て、どうやってわかったんですか?」
「そりゃあ、執念の捜査によるものだろ?」
いえ、と賢人が首を振った。
「ペルージャがイタリアのウフィツィ美術館に『モナリザ』を売却しようとして通報されたのです」
最初から最後までズブズブだな、おい。
「そのまま『モナリザ』はイタリアで巡回展を行った後、ルーブルに返却されました」
あ、ちゃんとあっさり返したんだ。お隣の国の仏像事件とはえらい違いだな。
「ペルージャはイタリアで裁判にかけられましたが、愛国者だと称賛され、6か月の禁固刑で済んだそうです」
その辺りはお隣の半島の国と似てるな。あ、イタリアも半島の国か。
ところで、とそこで賢人がスクリーンと七海の顔を見比べた。
「この絵が名画と言われる所以はご存じですか?」
ほいな、と言いながら七海は手を挙げた。
「なんか、スフマートとかいう青森県のコンビニチェーンがどうとか」
「違うよサキちゃん、秋田だよ」
前は山形とか言ってませんでしたかね、と嘆息した後、賢人は頷いた。
「そう、一つはこの輪郭線を描かないスフマートの技法が優れているからと言われています。もう一つは」
ほい、と言いながら今度は早希が手を挙げる。
「空気遠近法ですよね」
そうですね、と賢人は頷いた。
「従前の、絵の奥の消失点で線が交わるように描く遠近法と違い、遠くのものがぼやけて見えるという人間の視覚を利用した空気遠近法の技法が優れているからと言われています」
しかし、とここで賢人がいたずらっぽく笑った。
「この絵が最高の名画と言われている最大の所以は、すぐれた技法のせいでも、この謎めいた微笑みのせいでもない、という説もあるのです」
「じゃあ、なんなんですか?」
はい、と賢人は頷いた。
「それは、レオナルド自身が、この絵が自分の最高傑作だ、と言っていたからだ、という説を唱える人がいるのです」
は?
それは、とわずかにとまどったように七海は顔をしかめた。
「自称最高傑作なので、この絵が傑作なんですか?」
「ただの画家ではなく天才レオナルド・ダ・ビンチが自ら最高傑作だと任じる物を誰が否定できますか?」
それにしたって。
それを裏付けるように、と賢人はスクリーンを見た。
「彼は生涯この絵を手放さず加筆を続けたそうですよ。五百年以上前の話なのに、彼が弟子に残した絵の中に『モナリザ』らしい絵が残されていたという記録が残っています」
へい、と言いながら早希が手を挙げた。
「レオナルドって、ベニスの商人から注文を受けてこの絵を描いたんじゃないんですか?」
ベニスではなくフィレンツェです、と言った後、賢人は頷いた。
「記録ではその可能性が高いです。なんでも引っ越し祝いと子供の誕生のお祝いの贈り物として注文されたとかなんとか、見たような気がします」
だったら、と早希は確信を持って頷いた。
「レオくん、注文された絵を完成させるわけでもなく弟子にあげちゃったんですか?着手金とか、もらってたんじゃないんですかね、それ?」
「言いたいことはわかりますが、その辺りの事情はぼくもわかりません」
それと、と賢人は続けた。
「晩年のレオナルドは一枚の絵も完成させることはできなかった、という話もあるそうですよ」
は?と七海と早希は顔を見合わせた後賢人を向いた。
「なんなんスか、それ?」
さあ、と言った賢人自身が首を傾げた。
「よくわかりませんが、どこかでそんな話を読んだ気がします。もしかして、天才故にいくら描いても満足がいかず、加筆を続けたとかじゃないですかね」
天才か何か知らんが、プロとしてはどうかと思うぞ、それ?
ほい、と言いながら七海は手を挙げた。
「どうしました?」
正直に言って、と七海は頷いた。
「世界三大名画とか言いますが、以前に見た番犬の絵やうぇ~いの人の絵と比べて」
「この時点で、他の人には何の話をしているか絶対わからないでしょうね」
「まあそれは置いておいても、なんかモナリザって、絵を読み解く楽しみってあんまりないですよね。登場人物に動きがないというか、ストーリーがないというか。「おぜうさん、これはすんごい絵なんですぜ、へっへっへっ」って言われても、へえ、どこが?と鼻くそほじりながら返事をするみたいな」
「そこはせめてほじらないで返事をしませんか?」
「同じ女性の肖像画で謎の微笑みでもベアちゃんの絵(「ベアトリーチェ・チェンチの肖像」作:伝グイド・レーニ)の方が背負っている背景から凄みがあるというか。実の父親を手にかけて処刑される前日に描かれた絵であのなんとも言えない微妙な薄笑いを浮かべてると考えたら、クー◯ポコ。のギャグに吹き出してる中年の人妻の絵なんか見てる場合じゃないっすよ、いやほんと」
「『モナリザ』と◯ールポコ。にわずかにでも関連性を見出している人は人類80億人の中であなただけですよ」
さて、と話題を変えるかのように賢人がわずかに大きな声を出した。
「この『モナリザ』ですが、名画の例にもれず、この絵も数々の受難に見舞われます」
よっ、と早希が楽しそうに拍手した。
「待ってました!」
「そういうの早く聞きたかったよな」
何故不幸話を?と嘆息した賢人は、あきらめ顔で続けた。
「まずこの絵は、左右が切り取られたのではないか、という説があるのです」
「ほう」
「それはまた。なんでわかったんですかね、そんなこと?」
はい、と賢人は頷いた。
「初期に描かれたこの絵の複数の模写には、左右に柱が描かれているいるのです。ただこれは諸説ありまして、その柱は模写の際付け加えられただけで、実際は切り取られてなどいない、という説も有ります」
そして、と賢人は続けた。
「記録が残っているだけで、1956年に観客から酸を浴びせられ下部を損傷します」
「ううむ、先日の『夜警』に続きまた酸か」
「何か、やった人間の怨念を感じさせるよな、酸とか浴びせるって」
「そして同じ年の暮れにはボリビア人の青年に石を投げつけられ、同じく下部を損傷します」
「同じやるにしても石とかかわいいよな」
「しかし美術館の床に石とか落ちてるわけないんだから、ムカついてとっさにとかじゃなくって計画的犯行だよな。わざわざ持ってきたのかな?」
それは知りません、と言った後、賢人は、そして、と言った。
「そのような事件が相次いだので、モナリザは防弾のガラスケースに収められることになりました」
「まあ、妥当だな」
「というよりもむしろ遅すぎる感があるな。初めに盗まれた時にやれよ、って感じだで」
しかし、と賢人は更に言った。
「今度はここ日本で、東京国立博物館に貸し出されて展示されている最中に、美術館の身体障がい者の対応に不満を持った女性によって赤いスプレーをかけられます。ただこの時は特に損傷はしませんでしたが」
「あらら」
「何か不満があっても、絵に対してテロってのは感心せんな」
はい、と言った後賢人は顔をしかめた。
「しかし、その後も同じような理由の攻撃を『モナリザ』は受け続けます。フランスの市民権の取得を拒否されたロシア人の女性にルーブルの土産物売り場で買ったコップを投げつけられたり」
あらら。
「直近では環境活動家の女性にスープをかけられたり」
「あ、あの手のテロ、『モナリザ』もやられてたんだ」
あれなあ、と顔をしかめながら早希が腕を組んだ。
「自分が大切なものがあるからって、人が大切にしているものを傷つけていいってことにはならないと思うぞ。もしそういう思想に賛同する人間に満ち溢れた地球なら、いっそ環境破壊で滅んでしまえとも思うけどな、個人的には」
「高齢者の女性に変装した男性にクリーム菓子を投げつけられるという事件もあったらしいですよ」
一体何をやりたいんだ、そいつら?
ちらっと腕時計を見た賢人は頷くと、この絵についてはまだまたいろいろありますが、それは今度にして、電車の時間もあるしそろそろ帰る準備をしましょうか、と言った後タブレットのコードをスクリーンから外しながら言った。
「どうですか、『モナリザ』について少しは勉強になりましたか?」
いや、と申し訳なさそうに言った七海は軽く手を振った。
「なんか今日は話にまとまりがなかったというか、最後のシュークリーム投げつけられたことしか覚えてない」
「クリーム菓子以上のことは言った覚えはありませんが、ぼく?」
私は、と早希が少し胸を張った。
「コーンスープかけられたとこまでは覚えてるぞ」
「スープ以上のことは言った覚えはありませんが?」
嘆息した後、賢人は俯いた。
「『モナリザ』についてはまた部長がおられる時にでも話をしましょうか。ぼくよりは面白いエピソードをご存じだと思いますから」