四分の二
つ、ついに、と七海は緊張した面持ちで七海はスクリーンを見つめた。
「ついに、我々はこの絵と対峙する日を迎えたわけですね」
はい、と賢人も慎重な面持ちで頷いた。
「これはレンブラント・ファン・レインの『夜警』です」
七海は、はあっ、とわざとらしくため息をつくとだるそうに椅子に腰かけた。
「もういいじゃん、今更さ、酒場でうぇ~いの人の絵なんて見なくてもさ。もうどんなに立派な絵を描いても単なる酔っ払いってことは知れてるんだし」
「今ぼくがレンブラントと名前を言ったばかりなのに、あくまでその呼び方で通す気ですね。長くって返って言いにくいでしょ?」
「じゃあ、うぇ~いの人」
「それじゃ酔っ払いですらないただのお銚子者ですよ」
んで、と早希がスクリーンから賢人に視線を移した。
「サキちゃんの言い方じゃないけど、なんで今更『夜警』なんですかね」
はい、と賢人が頷いた。
「先日『民衆を導く自由の女神』を見たときに、有名どころの絵なのに案外と知らないんだな、と思いましたので、原点に還るつもりで今日はこの絵を見てみようと思ったのですが、いかがでしょうか。例えばチイちゃん、この絵について何を知っていますか」
ふむ、と七海よりは絵の知識がまだマシな早希はじっとスクリーンを見つめた。
「これ、何か風景を描いたような絵ですけど、実は集団肖像画だってことと」
ほう、と驚いたような顔で賢人が頷いた。
「そのとおりです。その絵がどういう意図で描かれたかは重要ですからね。よく要点を押さえていました」
「あと、『夜警』という題名ですけど、実は昼間を描いた絵だってことくらいですかね」
え、と驚いたように七海が早希を見た。
「そうなん?」
「うん、そうらしいぞ。なんか絵の表面に塗ったニスが汚れていて暗いっぽくなっていたが、絵を修復する時に洗浄したら昼間を描いた絵だってわかったらしい」
これくらいですかねえ、と何か問いた気に賢人を見た早紀に、賢人は小さく拍手をした。
「それだけ知っているだけでも大したものですよ。けど今日はそこからもう少し深掘りしていきましょうか」
そう言いながら賢人はスクリーンを向き直った。
「チイちゃんが言ったとおり、これはアムステルダムの火縄銃手組合、市民兵団を描いた集団肖像画です。火縄銃手組合の事務所に飾る絵として注文を受けたレンブラントは、単なるサロンと化していた火縄銃手組合の人々にわざわざ武装させて、勇壮な雰囲気のこの絵を描いたとされています」
「火縄銃手組合って、今でいう猟友会みたいなもんっすか?」
「いえ、発足当時登場した新しい兵器、火縄銃にちなんで、市民兵のことを火縄銃手と呼んだのが始まりみたいです」
そう言えば!と七海が手を打った。
「うぇ~いの人って、確か、人間をバラバラに解体する講義の集団肖像画とかも描いてませんでしたけっけ」
「なんだ、その猟奇殺人者の勉強会みたなの?」
「『テュルプ博士の解剖学講義』のことですか?」
「多分それです」
ちょっと待ってください、とかばんの中から自らのタブレットパソコンを取り出した賢人がすぐにその絵を検索してくる。
「ああ、これです、これこれ」
「以前に見た絵ですから、さすがに覚えていましたね」
「というよりも、なかなかショッキングな絵でもありますんで。その頃って、見世物としてマグロの解体ショー以上の気軽さで人体解体ショーとかやってたって」
「そんな話もありましたね」
うむむ、と早希も顔をしかめた。
「そういえば私も覚えてるぞ。西洋の人ってえげつねえことするなあって記憶に残ったな。あれに比べれば江戸時代のパチモンの見世物小屋の方がまだ良心的だなって思ったわ」
「なんだよ、江戸時代のパチモンの見世物小屋って?」
「昔あったんだよ。金取って『オオイタチ』とか『命のもと』とか見世物小屋で見せてたんだよ」
「『オオイタチ』ってどんなんだ?でけえイタチか?」
「いや、料金払って中に入ったら、血のついた大きな板が置いてあるだけ」
「『命のもと』は?」
「料金払って中に入ったら、ご飯を盛った茶碗が置いてあるだけ」
それもなかなか酷いですね、と賢人が嘆息した。
そこで賢人は、スクリーンに『夜警』を映したまま、二つのタブレットを机の上に並べ、ところで、と言った。
「同じレンブラント描いた肖像画ですが、この二つを見比べで気付くことは有りませんか?」
近づいた七海と早希が二つの画面を覗き込んで見比べる。
「ううむ」
「何か気付くかと言われても」
「ある意味全然違う絵だもんな」
ねえ、と二人は小さくため息をついた。
それに何かも何も、と七海がタブレットとスクリーンを見比べる。
「夜回りさんの方はごちゃごちゃし過ぎてて、大画面で見ないと何が描かれているかすら判然としないぞ」
「そうだよな。集団肖像画って言っても、前の二人だけ目立ってて、あとはその他大勢だもんな」
「そこです!」
手を打って嬉しそうに言った賢人を、七海が不思議そうに見た。
「どこです?」
「どこ、じゃなくて、そこ、です。そうなんですよ。本来なら集団肖像画というのは登場人物を同じ大きさで描くのが普通なのですが、この絵は隊長と副隊長だけが目立ってますよね」
「二人が目立っているというより、他の人が“その他大勢”になっちゃってるぞ」
「レンブラントはなんでそんな風に表現したんですかね。やっぱり新しい集団肖像画の在り方を模索している中でこういう表現になったんですかね?」
「いえ、一説にはレンブラントが二人と親しかったからと言われています」
一番ダメな奴じゃん、それ。
ため息をついた七海はどこかうんざりしたような顔で賢人を向いた。
「それで、他の人は納得したんですか?」
「いえ。こういう集団肖像画というのはみんなでお金を出し合って描いてもらうのですが、払う金に見合った大きさに描かれていないと支払いを拒否されてトラブルになっています」
そりゃあそうだろう。
「一応、みんなそれぞれ違う武器を持って違う姿勢を取っているなど、個性豊かには描かれているんですけどね」
学校の集合写真みたいに無表情につっ立ってるだけなら、支払い拒否どころじゃ済まんだろうが。おれらのことなんだと思ってるんだって。
レンブラントは、と賢人が続けた。
「レンブラントは、これは単なる集団肖像画ではなく芸術作品である、と主張したらしいですよ」
完全な開き直りだろ、それ?
「そんな説明で、みんな納得したんですか?」
「いえ、結局は大きく描かれた人達の負担割合を多くすることで決着したみたいです」
だろな。やっぱお金で解決するのが一番だよ。
実は、とそこで賢人はいたずらっぽく笑った。
「副隊長のウィレム・ファン・ライデンブルフは背が低いことがコンプレックスだったそうで、追加料金を払って実際よりも背を高く描いてくれと依頼したそうですが」
「副隊長って、この黒い服の人ですか?」
「いえ、白い服の方です」
背を高くって、と早希が顔をしかめた。
「高く描いてもこれか?よっぽどチビ助だったんだな」
「お前くらいのチビだったんじゃないか?」
「特大ブーメランをありがとう」
実は、と賢人が珍しくニヤニヤとして言った。
「そう頼んで金まで払ったのに、レンブラントは絵の構成の都合上更に低く描いたそうです」
顧客満足度最低の画家だな、レンブラント。
ところで、と早希が絵の一点を指差した。
「この女の子はなんなんですかね。なんかえらく目立ってますけど」
まさか隊長の娘の特別出演とかじゃねえだろうな。そうなったらもう暴動モノだぞ?
わかりません、と賢人は首を振った。
「一応、彼女は実在の少女ではなく、火縄銃手組合の象徴として描かれているという説が通説です。拡大しないと見えませんが、彼女の腰帯に鶏の足が吊るされていて、これは火縄銃手の象徴らしいのです。また死んだ鶏は倒された獲物も象徴しているそうです。もしかしたら他にも何らかの説はあるのかもしれませんが、ぼくもそこまで調べきれていません。できれば調べて教えてくれれば嬉しいです」
お愛想だよね、それ?私らがそんなことするわけないってこの短い付き合いでわかってるっしょ?
「こんなもん描くスペースあるなら俺らをもっと大きく描け、とこれも評判が悪かったみたいではありますね」
火縄銃組合の十把一絡の人々にいちいち納得だな、今回ばかりは。
「実は、この少女のモデルは同じ年に亡くなった妻のサスキアではないかという説も有ります」
ほらあ、またそんなことする。自らが描いた大作の中に死んだ妻の面影を残そうってか。
んじゃあ、と七海はあらためてスクリーンと賢人の顔を見比べた。
「とりあえずこの絵は、ええとなんだっけ、火縄銃組合の人達が」
「火縄銃手組合」
「その組合の人達が、武装して整列した、まあ整列っていうにはごちゃごちゃしてますけど、整列した集合写真みたいな絵、と覚えておけば、最低限OKというわけでよろしいですな?」
いえいえ、と賢人がうれしそうに手を振った。
「そこをもう一歩進んでください」
「こうですか?」
「いえ、言葉の綾ですので実際に一歩前に出ないでください。この絵の題名、覚えていますか?」
は?
「『夜警』ですよね?」
少し不思議そうに言った早希に、はい、と賢人は嬉しそうに頷いた。
「この絵は、武装して準備を整えた火縄銃手組合の人々がパトロールに行くために動き出した、まさにその瞬間を捉えた絵なんですよ。ほら右下、一斉に動き出した彼らに、驚いた犬が驚いて吠えながら走り回っていますよね。こういう生き生きとした表現も使って、レンブラントはこの絵を描いたのです」
ナルホド。
「それで、これは世界三大絵画となった、というわけですな?」
「まあだれが言い出したかは知りませんがね、言ったもの勝ちで。ただ、結局それで定着したってことは、それにふさわしいとみんなが認めたということにならないですかね?」
「あと何でしたっけ?」
「先日見たベラスケスの『ラス・メニーナス』、レオナルドの『モナ・リザ』、エル・グレコの『オルガス伯の埋葬』です」
あれ、と早希が首を傾けた。
「エル・グレコの絵って『オルナンの埋葬』じゃなかったでしたっけ?」
「それはギュスタール・クールベのおじさんの葬式の方です」
ああ、クールベさんの。
さてさて、とそこで口調を変えた賢人がスクリーンを振り返った。
「このようにして誕生した名画『夜警』ですが、この絵はその後数々の受難に見舞われます」
ほえ?
「まずこの絵は1715年に飾られていた火縄銃組合集会所、クローフェニールスドゥーレンから市庁舎に移されるのですが、その時に上下左右が切り取られてしまうのです」
えっ、と声を上げて顔を見合わせた後七海と早希は賢人を向いた。
「なんでそんなことを?」
「なんでも、市庁舎の建物の柱と柱の間に収まるように切り取ったらしいのです」
すげえ理由で随分と思い切ったことやったな。
はい、と早希が手を挙げた。
「もしその切り取られた切れっ端見つけてきて売ったらいくらで売れますかね?」
「そんなことはぼくは知りません。逆に、一足飛びでなんでそんな質問が出てきたのかの方を聞きたいです」
「それはお金が欲しいからです。お金がないと絵に小さく描かれてしまいますので」
「後の方は取って付けたような理由ですね」
切り取られた部分は最近になって修復されたそうです、と言った後、それと、と賢人が続けた。
「1911年には、船を解雇されたコックがこの絵に切りつけます」
「コック?料理包丁でですか?」
「さあナイフでとかしか知りません、っていうかもっと聞くことありませんか?」
聞くこと?と不思議そうに言った後しばらく考えた七海は、あーはいはい、とだるそうに頷いた。
「それで、切りつけた理由はなんなんでしょうか?」
なんなんですかその嫌々聞くみたいなの、と嘆息した後、賢人はスクリーンを見た。
「なんでも、自分は無名なのに、この絵が有名なのが気に入らないとかなんとかで」
通り魔的犯行の中で一番最低な理由だな、それ。100年以上前からそんなことする奴いたのかよ。
んで、と早希がスクリーンと賢人を見比べながら口を開いた。
「そんで、どの辺りがやられたんですかね、その時?」
あ、いえ、と賢人が慌てて手を振った。
「その当時は絵に厚くニスが塗られていたため、キャンバスを傷つけることはなかったそうです」
それくらい下調べしてから犯行に及べよ。
そして、と賢人が頷いた。
「最近になってから、1990年に精神を病んだ男がスプレー状の酸を絵に吹きかけたのですが、これも警備員がすぐに水で洗い流したため表面のニスを溶かしただけに留まりすぐに修復されたそうです」
いい仕事してるな、ニス。
とまあ、と賢人がじっくりとスクリーンを見た後、七海と早希に向き直った。
「実はこの絵は、レンブラントの人生にとってもちょっと悪い方の転換期になる絵だったんですが、その話をしだすとまた長くなるんでまた今度にしましょうか」
うす、と言いながら七海と早希は賢人に向かって頭を下げた。
「勉強になりました」
「だいたいこの絵の事覚えられました?」
「まあ、おおよそは。とりあえず今すぐならこの絵のこと誰かに解説できそうです。一週間後にはわかりませんが」
そこは復習をするなり、なんとか覚えていてください、と嘆息した後、それと、と賢人は申し訳なさそうに七海を見ながら言った。
「面倒くさいんで今日は『夜警』で通してきましたが、実はこの絵の正式名称は『フランス・バニング・コック隊長とウィレム・ファン・ライテンブルフ副隊長の市民隊』というのです」
わかりました、と七海は頷いた。
「絶対覚えるのは無理だと、ここに宣言いたします」
「でしょうね」