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カンショー!  作者: 安城要
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(番外編)Go to Heaven(山田さんと川口さん、それと斎藤さん)

おれは・・・

力の入らない足でゆっくりと岐阜県美術館を巡りながら山田はぼつねんと思った。

おれはもうだめだ・・・

会社の上司に病院への受診を勧められ、休職1か月、経過観察、の診断が出た。

精神科医は山田の懊悩おうのうを聞いても怪訝な顔をしただけで、とりあえず睡眠薬を処方するのでの二週間後にまた来てください、とだけ告げ診断書を書いた。

馬鹿者が・・・

芸術の解らない輩にいくら俺の苦悩を語ろうが理解できるはずがない。

もしかして、と今なら思う。

岐阜県の精神科医ならば、俺の苦悩を、この魂の慟哭を全て受けて止めて共感してくれるのではないか、とふと思った。

だが、もう全て遅い。

全てが手遅れなのだ。

二週間後に来い、だと?

二週間後などない。

おれの魂に、永遠に救済など無い・・・

そしてその絶望的な状況においても、山田の瞳の輝きの全てが失われたわけではなかった。

そう、おれにもまだ自分の身を自分で処するくらいの気力は残っている。

机の引き出しの中に、両親への手紙を残してきた。

それには愛しここまで育ててくれた両親への感謝しても感謝しきれぬ思いと、自分のこの絶望、そして先立つことの詫びが切々と綴られていた。

もう一度、もう一度だけルドンの絵を見て、そしてその後、おれは・・・

ただ、ヤフェバがイスラエル人に約束の地カナンを与えたように、岐阜県は神が岐阜県民に与えたもうた聖なる土地、そこを汚すわけにいかない。

三重県に戻って歩けるだけ歩いて山深いところで三重県こきょうの土に帰るか、それとも北を目指し福井県の海で越前ガニのになるか。

おれの人生の最期の時に際して、まだこんな多様な選択肢が残されていたのか、とどこか楽しいような気分で、山田は壁を這うようにしてよろよろと歩き続けて、ふと気が付くといつしか一枚のルドンの絵の前に立っていた。

『「ギュスターヴ・フロベールに」(「聖アントワーヌの誘惑」第二集) Ⅴ.スフィンクス:・・私のまなざしは何物にもそらされることなく、万象の彼方、近づきえない地平のはてにじっと向けられたままでいるのだ。キマイラ:私はね、軽々として陽気だよ。』

ルドンの絵に見られる、この無駄に長い名前。カタカナにすれば『ギュスターヴ・フローベルニ (セイアントワーヌノユウワク ダイニシュウ) Ⅴ.スフィンクス:・・ワタシノマナザシハナニモノニモソラサレルコトナク、バンショウノカナタ チカヅキエナイチヘイノハテニジットムケラレタママデイルノダ。キマイラ:ワタシハネ、カルガルトシテヨウキダヨ』ともう何が書いてあるのか判読不能なこの冗長な題名!

陽気だよ、じゃねえ!と絶叫したくなるようなこのセンス。

ルドンだ・・・

これこそがルドンだ。

『黒い頂』

お前が顔描いたから黒くなくなってるじゃんか。

『雲を狙うケンタウルス』

んでこの後落ちて来た矢が額にぷしゃっと刺さるコントみたいになるわけっすか、これ?

『オフィーリア』

この性別不明、釈迦顔のオフィーリアなら死んでくれてハムレットもほっとしてるわ!

『キリスト』

このキリストは拝めねえっ、とてもじゃないがあがめられねぇ!

『「起源」 Ⅱ. おそらく花の中に最初の視覚が試みられた』

自慢したいの?ねえ、今まで植物に目描いた奴いなかったったしょ?ねえ、ねえ?って、一番最初にヤッタの俺よ?って自慢したいの?そんなに一番最初を自慢したいなら、体中の穴という穴からウドンを食え!食ってみせろ!

いちいち突っ込みながら絵を見ているうちに、しかし山田は段々憂鬱な気分になった。

なんでもかんでも目や顔をつければいいってもんじゃねえんだよ!

長い名前さえ付けときゃ、稚拙な絵が哲学的な意味を持つわけじゃねえんだよ!

いちいち突っ込んでみても、それは負け惜しみに過ぎないとわかっていた。

負け犬の遠吠えのように突っ込み罵る三重県民じぶんと、ルドンの絵の清濁せいだく、いや、濁々だくだくまとめて飲み込む岐阜県民かれらの人としてのくらいの違いを、嫌というほど思い知らされる。

何故だ、岐阜県民・・・

岐阜県美術館ここを初めて訪れた時から重く心にのしかかっている暗然たる思いがその問いをリフレインさせる。

他に画家もおろうに・・なぜ・・何故にルドンなんだ・・・

それほどまでに、自分達の芸術への寛容性を誇りたいのか・・・岐阜県民おまえたちはそこまでして、そこに何を求めているのか?

おそらくそう問うても、岐阜県民かれらは何も言うまい。

この三重県民まけいぬを見ながら憐れみと同情は寄せても、その答はくれまい。

彼らは、当たり前のようにして聞き返すに違いない。

(すみません、言っておられることの意味がわかりません)

実際に問うてみた岐阜県民の反応は、概ねこれに一致していた。

岐阜駅前でも、恵那峡ワンダーランドでも、モネの池のほとりでも、岐阜県民の反応は似たようなものであった。

ただ、金津園で呼び止めた男だけは違った。「こんなところでそんなこと話しかけてくるなよ!」といくぶんキレ気味に言った後背を向けて足早に歩き去ろうとした男に、この男はおれの求めている答を持っているかもしれない、と直感的に感じた山田は、待ってください!少しでいいので話を聞かせてください!と叫びながら追いかけてすがりついたため、最後は完全にキレた男にいいのを一発もらって道路にへたり込むことになった。

ただ。

もういい、もういいんだ・・・

全ては、終わったことだ。

適当に切った発砲スチロールの板を黒く塗ってゴムで背中に付け、「学祭のクラスの演劇で使う堕天使の衣装ってこんなんでいいっかあ?」と担任に聞いているやる気のない高校生のような『「夜」 Ⅲ. 堕天使はその時黒い翼を開いた』を山田は既に諸行無常の瞳で見つめた。

こんなものに血税を・・・

それももういい。

そしてしばらく歩いて一枚の絵の前に立ってそれを見つめる。

それは色鮮やかな花の絵であった。

山田の唇に皮肉な笑みが浮いた。

岐阜県美術館のルドンのコレクションの中には、どこか場違いに何枚かの花瓶に活けた花の絵があった。

それを見る度に、ルドンめ、と胸糞が悪くなった。

あの奇怪至極、前人未到、阿鼻叫喚、五里霧中、極悪非道、三寒四温の絵を描いている貴様が、今更いくら可憐な花の絵を描いたからといって許される訳が・・・

小さな足音が隣に並んだ。

ふと見下ろすと、お下げ髪のまた学齢にも達していないような少女がじっと花の絵を見つめた後、にっこりと山田を見上げた。

「この絵、キレイだね」

背後から母親らしいのが控えめに呼ぶ声が聞こえ、少女はすぐに踵を返して駆けていった。

キレイ?

見るともなく唖然とそれと見送った後、目の前の絵に視線を戻したとたん、山田はあっと小さく声を上げてよろめいた。

頭の中を光が満たした。

まるで太古の海で生物が発生し、様々に進化していく姿が脳内で追体験され、ふと気が付くと進化の頂点に達した三重県民にんげんが今ここに立っているような感覚。

お・・おお・・

山田はゆっくりと膝をついた。

こ、これはなんだ・・

それは、空腹と疲労ゆえの幻覚だったのか。

それとも荒れ野イエス、修行の中の釈尊も見た、この世の真理なのか。

ただただ、頭の中を光が満たし、何も考えられない。

何も考えられない、己の思考も経験も全てが無となり、山田は真っ白な状態で目の前の絵と向かい合っていた。

そしてかさかさに乾いた唇が静かに動いた。

美しい・・と。

今にも倒れそうなその姿からは信じられない素早さで立ちあがった山田は、室内のルドンの絵をぐるっと見回した。

どれも・・これも・・美しく、すばらしい・・・

あのやる気のない高校生でさえ、今はその先に無限の可能性を感じさせる気がした。はっはっはっ下手糞な羽だな、ちょっとおじさんに貸してみろ、と談笑しながら二人で一緒に作り直したい気分であった。

うめき声をあげながら両手で覆った指の間からすぐに涙が滲んだ。

おれは・・おれは勘違いしていた・・・

なぜ岐阜県民は、こんな下手糞な、ゴミみたいな、奇怪な絵をせっせと収集しているのか。

その寛容な、大海原のような心はどこからくるのか。

そこに囚われ過ぎていた。

そんなものは最初からなかったのだ。

これいいなあ、欲しいなあ、買っちゃおっかな~。

おっ、いいじゃん、買っちゃえよ。

この気軽さで、ルドンの絵を収集したのだ。

それだけだ。それだけのことなのだ。

何故なら。

ルドンの絵がすばらしいから。

全て、全てが・・・

ルドンの絵が糞だ、下手っぴ~だと決め付けていたおれの心が生んだ幻だったのか・・・

おれは、と山田は涙に濡れた目で己の両手を見つめた。

おれは今、悟りを得た。

無念無想の境地。全ての己の思考と経験と記憶、そのありとあらゆる先入観のフィルターから解放されて、真っさらな心で在りのままの世界と向き合う完全なる境地さとりを得た。

己を介さずたた無心に向き合えば、ルドンの絵はただ美しく、麗しく、静かに壁を飾ってた。

それだけだ、それだけのことだったのだ。

先程までおれの全て奪おうとしていたルドンの絵が、おれに世界の全てをくれた。

お、おお・・・・

その場で突っ伏した山田はその肩を震わせ続けた。

これが絵の力、それをコレクションして人類われわれに提供してくれる美術館の起こす奇跡。

涙が止まらない。



お、おれはもうだめだ・・・

岐阜県美術館の一室。

そこに飾られたオディロン・ルドンの『蜘蛛』の前でがっくりと膝をついた斎藤はポロポロと涙を流した。

何故なんだ、岐阜県民・・・

なんで岐阜県民あなたがたはこんな糞みたいな絵を・・・

そんな糞みたいな絵でも収集するこの山よりも気高き心、海よりも深い包容力。

京都府民おれたち千二百三十年へいあんけんとからいま以上かかっても、岐阜県民には勝てない・・・

先月初めて岐阜県美術館を訪れた時は衝撃を受けた。

最初に岐阜県民の正気を疑い、そして次第にその気高さに打ちのめされた。

京都府民おれたちは劣等県民なのか・・?

そんなことはない!京都府民おれたちだって素晴らしい美術を収集している!と京都府内の美術館を巡ったが(斎藤じぶん視点では)遠く岐阜県美術館には及ばなかった。

京都府民おれたちはもうだめなのか・・・

古よりそこの砂利と掴めばどんな熱病おこりでも治るおちると言われた京都御所の砂利を何度も掴みに行ったが心の平安は戻らなかった。

おれは・・もうだめだ・・・

アパートの机の上に、6月に結婚式を挙げる予定だった恋人あての手紙を残してきた。そこには、自分のようなつまらない人間を好きになってくれてありがとうという感謝の言葉と、それでもこのような極端な選択をするしかなかったという自分の絶望を切々と綴っていた。

趣味の絵画鑑賞を通じて知り合った。

絵が結んだ良縁だと思っていた。

そしてそれは今絵によって終わろうとしている。

おれにも・・

と濃いクマの浮いたやせ細ってギョロギョロと大きく見える目で宙を見ながら、斎藤はなんとか立ちあがった。

おれにも、自分の最後の場所を決める権利ぐらいある・・・

京都こきょうに戻り比叡山の山中に横たわって静かに故郷の土に還るの待つか、それとももっと車を走らせて駿河湾でサクラエビのになるか、選択肢は無限にある。

そうとも・・

さあ、終わりの時間だ。

己を全て無に還す時が来た。

しかし。

あんなに愛した絵画の、最後に目にするのがこんなルドンの絵とは・・

「失礼ですが」

最初聞き間違えかと思ってそのまま歩き出そうとした斎藤は、立ち止まり振り返った。

少しやせた男が、白いカッターシャツにスラックスというラフな姿で自分を見つめていた。

その男はニコニコと優しい笑みを浮かべてゆっくりと歩み寄ってきた。

「何か私でお力になれることはありませんか?」

あ・・・

キレイな目をした男だった。

瞳の色がどうのというよりも、自分を見つめるその目があまりにも澄んで美しかった。

そして何よりも優しそうであった。

こ、これが神に選ばれた民ぎふけんみん・・・

それを目の当たりにしている気分であった。

くっと斎藤は彼から目を逸らし踵を返した。

こ、こんな奴・・・

こんな奴と話をしても、自分が惨めになるだけだ・・・

「別に、あなたと話すことなんてありませんよ」

肩越しにそれだけ言った斎藤が歩き出そうとしたその呼吸をはかるかのようにして、男が口を開いた。

「岐阜県民は、あなたが思っているのとはちょっと違うと思いますよ」

正しく図星を差された斎藤の心臓が一瞬確かに動きを止め、見開いた目が男を振り返った。



「申し遅れました」

話をしても他の観覧者に迷惑にならない場所まで移動しベンチに斎藤を誘った男は、隣に腰かけて優しく頷きかけてきた。所作の一つ一つが上品で美しく見えるのは、その瞳の奥に宿る彼の心の美しさが外にまで滲み出ているのだ、と斎藤は感じた。

「わたしは山田と申します」

斎藤です、と気後れして山田の顔をまともに見れずに斎藤は小さく言った。

そして、すぐに先程からの疑問が口を突いて出る。

「しかし、何故私なんかに声をかけてくださったのですか?そして何故岐阜県民のことを?」

山田は、ははっ、と笑う声まで美しかった。

「ルドンの絵の場所で、あなたのような顔をして立っている方を年に何度も見かけたからです。彼らは口をそろえて言いました。岐阜県民はなんとすばらしく、他県民われわれはなんと卑小なのだと」

斎藤の顔が歪んだ。

お、おれだけでは・・・

おれだけではなかったのか、と。

この苦悩を共有する者がいた。

それだけで斎藤はわずかに心が軽くなる気がした。

そして、と山田は続けた。

「かく言う私も、二年ほど前あの場所に立っていました。半年にも渡る魂の懊悩を抱えて、死を覚悟して」

半年、だと?!

今のおれと同じ苦悩を、半年もの間耐えていたのか・・・

その強靭な精神力生み出したのが、今の、目の前のこの男なのか。この悟りきったような、澄み切った瞳を持つ境地なのか。

教えてください!と叫ぶように言いながらベンチを滑るようにして降りた斎藤は山田の前に両手両膝をついた。

「お・・おれにはもうこの世の全てむなしく、岐阜県民だけが輝いて見える。あんなに愛した京都の全てが、私にとっては虚ろなんです。金閣寺はただの黄色い箱にしか見えない、銀閣寺に至っては銀すら貼っていない!それに清水寺の舞台や京都劇場の劇団四季の舞台を見ても岐阜県の保育園児の歌の発表会の舞台にも劣るのではないかとしか感じない。東本願寺に行っても、この千畳敷と言われた畳の部屋で何人宴会できるんだろ、とばかなことしか思い浮かばない。それにっ、それとっ!」

その目からポタポタと涙が床に滴った。

「あんなに大好きだった生八つ橋が食べれなくなったんです!岐阜県民の事ばかりが頭を巡って、餡、チョコ、イチゴ、抹茶、抹茶チョコ、チョコバナナ、抹茶ニッキ、チョコミント、黒ゴマ、と種類がたくさん有り過ぎる中で一つを選べない!それほど決断力が低下してしまったんです!選ぼうという気力さえわかないんです!」

それに、と目から涙が零れ落ちる。

「他県民から「え、京都に海あったん?」とお約束のボケをかまされても、突っ込む気力さえ、今は湧いてこないんです」

うん、うん、と微笑んで頷きながらせきが切れたように話し続ける斎藤を山田は優しい目で見つめ続けた。

やがて全てを語り終えた斎藤が涙で濡れた目で縋るように山田を見上げた。

その手を優しく取って立たせた山田は先に斎藤を座らせてから自分もその横に腰かけた。

そして目を細めて斎藤に頷きかける。

「私の話を、してもよろしいでしょうか?」

あ、はい、是非!と斎藤は泣き濡れた目を拭いながら頷いた。

知りたかった。

このあまりにも深い絶望をこの山田という男がどうやって乗り越えたのか。

それを聞きたかった。

私は、と山田が自らの胸を押さえた。

「ある日、ふとした気まぐれで岐阜県美術館を訪れ、おそらく今のあなたと同じ絶望を感じていました。ああ、こんな糞みたいに下手糞なルドンの絵をせっせと収取し、そして飾り立てるなど、正気とは思えない、と」

それだ、そのことだ。おれと一緒だ、と斎藤は激しく何度も頷いた。

「そして思った。こんな絵を収集し、臆面もなく美術館に飾り立てる岐阜県民はなんと寛容で心の大きな人々なのだと」

まさに、まさに!

「それに比べて三重県民じぶんなんと卑小な存在だと、悲しく、苦しく、そして心を病んだ私は、友を、職を失い、そして自らの命すら絶とうとしていた」

おれだ、と斎藤は山田の話を聞きながら涙を流した。

この人はおれなんだ、と。

「自らの人生にけりをつけようと決心した日、最後に岐阜県美術館を訪れた私は、まるで導かれるかのようにルドンの絵の前に立っていました。こんな、こんな糞みたいな絵のために自分は死ぬのか、この絵にさえ出会わなければ、岐阜県美術館さえ訪れていなければ、と涙が止まりませんでした」

だが、と斎藤は縋るような眼で山田を見つめた。

そこからあなたは立ち直った、そして神々しくも今おれの前にいる、いや、いてくれる。

あ、あなたは、と斎藤は声を詰まらせた。

「しかしあなたはその絶望を乗り越えられた。教えてください!あなたはどうやってそれを!」

はい、と山田は目を瞑った。

「全ては神の御導きです」

あ、と斎藤はなんとなくひどく納得したような気分になった。

「失礼ですが」

とほとんど確信を持って問いかける。

「あなたは一体どういう・・どのようなお仕事を?」

はい、と山田は静かに頷いた。

「私は神の仕えております」

ああ、と斎藤は急に興ざめしたような気分になった。

宗教の力で救われたって、か、とどこか山田に対して侮蔑にも似たものを感じた。

「神父さんか何かでしたか、これは失礼」

涙をぬぐいながら言った斎藤に、山田は困ったように笑みを浮かべて、いえ、と言った。

「私はいかなる宗教の宗派、組織にも属しておりません。自らを聖職者だとも思っておりません」

斎藤が顔をしかめて物問いた気に首を傾けたのに山田はどこか照れたように自嘲した。

「私がお仕えしているのは、いわば芸術の神様です」

芸術の?と斎藤の顔が更に歪んだ。

それはギリシャ神話の神とかそういうのか?

いえいえ、と山田は手を振った。

「私は、人間が持つ絵を愛する心、その集合体のようなものを神と崇めております。絵を愛する人間の心、それこそがたつとく、そして何より素晴らしいものだと讃えたいのです」

自分で、それを勝手に神様と呼んでお仕えしている気分になっているだけなのです。

斎藤の顔がますます困惑に彩られた。

「それで生活していけるんですか?」

「妻が支えてくれていますので」

うれしそうに山田が瞑目した。

「妻は私の友人の伴侶の友人でして、その紹介で知り合いましたが、互いに絵を愛する心に引かれました。いわば絵が、神様が結んでくれた縁と言っても過言ではありません」

ああ、と斎藤は小さくうめいた。

自分もそうだった、と。

どれだけきみを愛しているかと涙を浮かべて切々と綴った手紙を思い出した。

「それとフルタイムではないですが、一応仕事をしていないわけではありません。贅沢をしなければそれでなんとか。空いた時間はできるだけここを訪れ、苦悩を抱えた方の一助になればと声をかけさせていただいております」

そうだ、と斎藤は再び涙を浮かべた。

それでおれは救われた。あなたに!

不思議だった。

死のうとまで思っていた自分に拍子抜けするほどに、今は全くその気が失せていた。

だが。

苦しみが全く消えたわけではなかった。

心の中に置かれた重く冷たい石のようなものはまだそこに居座っていた。

かれは、今の自分のようなこの状態から、今の境地にたどり着いたのだろう。

それを聞きたかった。

先程神の御導きと申しましたが、と山田は続けた。

「神の声を聴いたとはそういうことではありません。“それ”は小さな少女の姿で私の前に現れ、ルドンの花の絵を見て言いました。一言、きれいだね、と」

は?

再び怪訝そうな顔になった斎藤に、山田は照れくさそうに笑った。

「そんな顔をしないでください。ほら、昔から言うではありませんか。『神に口なし、人をしてこれを言わしむ』と。神様は直接人間に語り掛けるのではなく、子供などの口を借りて人に真実を伝えたりなさるものなのですよ。例えば、祭りの雑踏の中で、明日〇〇さんがケガをするよ、という子供の声がどこからともなく聞こえてきたが、周りを見てもそれらしい子は誰もいない。しかし次の日に本当にクラスメイトが交通事故にあった、とか、そういう体験はないですか?」

「あ、いえ、ぼくはありませんが」

「そうですか、いや、実はわたしもです」

なんだよ、と思いながら斎藤は続きを聞いた。

「ただ、その言葉を聞いてルドンの絵に視線を戻した途端、私は不思議な感覚に陥りました。頭の中が真っ白になり、何も考えすにルドンの絵を向き合っていたのです。禅でいう無念無想境地とでもいうのでしょうか」

それは、そんな少女の一言でたどり着ける境地なのか?

「疲労と空腹の影響もあったのかもしれませんね。ただ私はその時あれほど心の中で侮蔑していたルドンの絵を本当に美しいと感じていたのです。そして、その時理解したのです。岐阜県民も他県民われわれと同じ、ただの絵の好きな一県民に過ぎないのだと」

どうでしょうか、とでも問うかのように斎藤を見た山田に、斎藤は涙を拭いながら口元にわずかに白いものを覗かせた。

「ぼくには・・・まだその境地にたどり着くには時間がかかりそうです。己をむなしくしてルドンの絵と、いえ世界と向き合うことなど、一生かかっても果たして私にできるのかと」

なんの、と山田は笑った。

「時間の問題ですよ、ええ、全ては時間が解決してくれます。だって、あなたは」

山田は斎藤に向かって力強く頷いた。

「あなたも私と同じ、絵を愛する人なのだから」

ははは、と力なく笑った斎藤に山田も同じ声で笑った。

ありがとうございました、と山田と会った時とは別人のような晴れやかな表情で山田に礼をした斎藤が立ち上がると再び礼をした。

「時間はかかりそうですが、あなたのおかげでなんとか立ち直れそうです。できればもっとあなたと話をしたいのですが、実は朝から電話の電源を切っていて、その上ちょっと問題のある手紙をアパートに残してきてしまっているもので。とりあえず騒ぎになる前に知り合いに連絡を取り、急いでアパートに戻ります」

問題のある手紙、がどんな手紙か山田はすぐに察して頷いた。それはかつて自分も自室の机の引き出しに忍ばせたことがあるものだからだ。

「本当にありがとうございました」

何かありましたら、と山田はポケットから名刺を取り出して斎藤に渡した。

ちらっと眼を落したそれは、名前と連絡先以外の記載のない、肩書の全くないものであった。

「何かありましたらいつでもご連絡ください。私でよろしければ」

「ありがとうございます。何よりも心強い言葉をありがとう」

あの、とそこで斎藤が控えめに言った。

「もしぼくが立ち直ることができたら、ご報告も兼ねて一度京都にご招待させていただけないでしょうか」

そこで斎藤がわずかに胸を反らせたように見えた。

「京都にも素晴らしい美術館が沢山ありますので、是非ご案内させていただきたいのです」

それはそれは、と山田は嬉しそうに頷いた。

「ご迷惑でなければ、その時は妻も同伴させていただきたいのですがいかがでしょうか?」

もちろんです、と斎藤は嬉しそうに頷いた。

ありがとうございます、と山田も心底嬉しそうな笑顔になった。

「妻も喜びます。今からその時が楽しみです」

「ぼくもですよ」

楽しみなのは京都訪問か、それとも斎藤の完全な復活か。

それは口に出すまでもなかった。二人は同時に同じことを考え、同時に頷いた。

何度も振り返り手を振る斎藤を、山田は見えなくなるまで見送った。

斎藤の姿が完全に見えなくなった後、一つため息をついた山田は目を瞑り天井を見上げた。

神よ・・

美術の、絵画の神よ。

これで彼は救われたのでしょうか、私のこんな言葉で・・

恐らくそうだろう、そうに違いない、そう思いたい。

最近、ふと思う。

神は、人間に試練を与えるために、ルドンを、ルドンの絵をお遣わしになったのではないか、と。

その試練を乗り越えて、自分は強くなれた。おそらく斎藤かれも、必ず乗り越えるだろう。

何故なら、神は人間の乗り越えることができない試練などお与えにはならないのだから。

いや、とそこで山田は目を見開いた。

ルドンの絵だけでなく、全ての絵画、全ての芸術は神が人間の手を通して遣わされたものではないか?!

そう。

神に手無し、人をしてこれを描かしめる。

そうなのか!

山田は更に目を見開いた。

そうなのですか、神よ!

そうだ、そうに違いない。芸術は常に神と共にある。

ああ、道は長い。まだまだ完全なる悟りの境地には遠い、な・・・

しかし、いかに困難であろうと、そこに向かって一歩ずつ歩みを続けることはやめない、もう止めることなどできない。

閉館を予告する放送に美術館を後にしゆっくりと歩みを進めた山田はふと振り返り、岐阜県美術館を見つめた。

嗚呼ああすばらしきかな岐阜県美術館、そしてルドンの作品よ。

そして、と岐阜県美術館に向かって正対して居住まいを正した山田は深々と最敬礼の角度に頭を下げた。

願わくば、この美術館を作った岐阜県の先人、今を生きる県民に幸多からんことを。


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