自由の女神
部室に入った途端、七海は、おおっ、と叫ぶように言ってスクリーンを見つめて立っていた賢人と夏樹を振り返らせた。
あら、と夏樹がにっこりと笑った。
「こんにちわサキちゃん」
「どうしたんですか、大きな声を出して」
驚いたように瞬きした賢人に、いえ、と七海は少し困ったように額を押さえて首を振った。
「なんていうか、最近どっちかっていうとマニアック系の絵ばかり見ていたような感じで」
まあ、と賢人も顔をしかめた。
「マニアックというよりも、19世紀後半以降の、どっちかというと、印象派以降の、絵画が多様化してきた時代の絵をよく見ていたような気はしますね」
はい、と七海は頷いた。
「そこに来て、久しぶりに王道を行くアカデミックな絵を見たような気がして少し感動をしてしまいました」
まあこの絵も王道というほど古典的なテーマではありませんが、と頷いた賢人は、では、とスクリーンを指し示した。
「ではサキちゃん、この絵はなんと呼ばれているか知っていますか?」
はい、と七海はしたり顔で頷いた。
「これは『高価な絵』です」
賢人と夏樹は同時に嘆息した。
「もしくは『高い絵』?」
「もしかして今後知らない絵が出てきたら全部それで押し通す気ですか?」
「当面は」
馬鹿なこと言っていないで、もっと絵と画家の名前を覚える努力をしましょうよ、と賢人が再び嘆息する。
これはね、と夏樹が頷きかけた。
「この絵は、ウジェーヌ・ドラクロワの『民衆を導く自由の女神』よ」
そうそう、と七海は手を打った。
「それです、今言おうと思ってたところを、先に言われてしまいました」
「その昭和テイスト満載のボケやジョークはどこから出てくるのですかね、全く」
「主に母の蔵書からですがそれが何か?」
「実際に知りたくて聞いた訳ではありません」
その時、遅れてやってきた早希が戸口に現れたとたん、おおっと声をあげた。
どうしました、と賢人が早希を向くと、早希は美術準備室に歩み入りながらスクリーンに向かってあごをしゃくった。
「いや、最近なんとなくマニアック系の絵ばかり見ていたような気がして、なんか本格的な王道を行くような絵を久しぶりに見たような気がして感動しております」
「それは申し合わせてたんですか?」
は?と言った早希に七海が軽く肩をすくめる。
「さっき私も同じこと言った」
おおっ、とうれしそうに早希が頷いた。
「やはりサキちゃんと私は心で繋がっておるのですな」
ていうか、とどこかげんなりしたように賢人が言った。
「その世にも小さな体格といい、実はあなた達生き別れの姉妹なんじゃないですか」
じっと見つめ合った七海と早希はどちらからともなく手を取った。
「会いたかったよ、お姉ちゃん」
「私もだ、妹よ」
ほとんど毎日会ってるでしょうが、と嘆息した賢人に、んで、と二人は同時にスクリーンを振り返った。
「今日は、なんでこの絵なんですかね」
「まあ、あまりにも有名過ぎて、今更感あるのは確かですよね」
そうですかねえ、とやっと絵の話に入れることに少し嬉しそうに賢人が二人を順に見た。
「そうでしょ?だって世界史の教科書には絶対出てくるでしょ、この絵?」
「フランス革命と言えばコレ!みたいな絵っしょ。フランス革命の絵とか言われて、マラー死んでる絵とか思い浮かべる人いないっしょ」
まあマラーは確かにないでしょうが、と賢人はため息をついた。
「しかし、こんな有名な絵をなんで今更見てるの?、という質問はよかったですね。既に知っているつもりの一枚の絵でも、まだまだ新しい感動は得られますよ。例えば、旗を持った女性」
「自由の女神?」
はい、と賢人は頷いた。
「邦訳はそうですが、実は原題では『自由』なんです。つまり彼女は『自由の女神』という存在ではなく、『自由』の擬人化、自由そのものなんですよね」
はい、と半眼になった七海は手を挙げた。
「昨今のなんでもかんでも擬人化擬人化、という風潮には異議を申し立てたい。軍用船や馬は言うに及ばず、クトゥルフの邪神まで美少女化して這い寄ってるの見た日にゃわたしやびっくりでしたよ」
「昨今の、と言ってもこれが描かれたのは200年近く昔のことですけどね」
ふむ、と七海があごに手をやるとじっくりとその絵を眺めた。
「しかし確かによく見ると、フランス革命で民衆が蜂起した真っ最中と考えた場合、この女神さんなんか場違いな格好で場違いな場所にいるような気がしないでもないですね」
はい、と賢人は頷いた。
「ただそこは逆で、その場違い感がこの女性がただの人間の女性ではないことを表す演出になっているわけです。ほら、背後の空の光の具合もまるで彼女の頭の辺りから発する後光のようにも描かれていますよね」
ナルホドと早希も頷いた。
「けど、この女神さんの体勢ってちょっと無理がありませんかね。首がグキッっていいそうな」
「そうなんですよね、よくそこに気が付きましたね」
と賢人は少し感心したように早希を向いた。
「確かにちょっと不自然な感じがしますよね。その点については実はドラクロワも迷っていた様子がうかがえます。実はドラクロワがこの絵を描くに当たって事前に描いたデッサンには様々な方向を向いた顔が描かれていたのです。体の向きから考えても、初めは正面を向いて断固として進んでいく姿として描こうとしたのかもしれませんね。ただ最終的にこの構図に落ち着いたようですね」
「なんでだろ?」
「一説には、ドラクロワが古代のコインに刻まれた人物の横顔に引かれ強い感銘を受けたからとされています」
けど、七海は腕を組んだ。
「背後を振り返ってみんなを鼓舞しているようなこの構図の方が“民衆を導く”の題名にはあってますね」
「どこ段階でこの絵の題名が決まったかは知りませんが、もし正面を向いていたら『民衆の先頭に立つ自由の女神』という題名になっていたかもしれませんね」
ところで、と賢人はそこでいたずらっぽく七海と早希を見た。
「ドラクロワの絵ときてこの女神の姿、とくれば何か思い当たりませんか?」
はいっ!と言いながら七海が両手で早希を指し示した。
「では、チイちゃんその心は?」
ちょっとは自分で考えろ、と小さく毒づいた後、ふむと早希はじっとその絵を見つめた。
「なんですかねえ、ちょっと思いつかないなあ」
にこにことその姿を見ながら、夏樹が人差指を立てた。
「以前に、これとそっくりな立ち姿の絵を見たことないかしら?」
は?と夏樹を見た後、先は再びスクリーンに目を戻した早希は、ふうむ、ともう一度言った。
「と言われても思いつかないなあ」
これですよ、と回答が待ちきれなくなったのか賢人がタブレットを手にとるとスクリーンに一枚の絵を映し出し、早希と七海はあっと声をあげた。
「ほらこれ、このちょっと無理のあるような振り返った姿勢、あらわになった胸元、そして進む脚にからまるような衣服。『民衆を導く自由の女神』の女神と『怒れるメディア』のメディアって実はそっくりなんですよね」
おおっ、と早希は頷いた。
「言われてナルホド、ほんと似てますね」
「うむ、確かに。これ同じ画家が描いているからいいけど、もし別の画家が描いていたら襲撃案件にそっくりだな」
襲撃好きですね、と賢人が嘆息する。
しかし、と早希がじっくりとその女神の立ち姿を見ながら顔をしかめた。
「この女神さん、えらくいかつい体格してますね。この絵の登場人物で一番ごつい体格してないですかね?」
「ドラクロワはミケランジェロに傾倒していましたからそのせいかもしれませんね」
「ミケランジェロの名前が出てきてそっこーで納得です」
その女神さん、と今度は七海がじっと絵の一点を見つめた。
「そのごつい体格で、手前の死体を踏みつけて歩くようなコースをとってるところがちょっと気になるのですが」
「実際に死体を踏んで歩くということは無いと思いますが、死体を前面に配する構図は、ジェリコーの『メデゥース号の筏』の影響と言われています。っと、そっちもなかなか面白い絵で、そっち見ちゃうと脱線しそうなんで今度にしましょう」
その絵は、と言いかけた七海に軽く手を振って笑った賢人は、さて、と再びスクリーンを向き直った。
「他にも、この絵はいろいろと仕掛けがあるんですよ。例えば左側のシルクハットにマスケット銃を持った男性はドラクロワ自身がモデルとされています」
「カメオ出演ですな」
カメオというには目立っちゃってますけどね、と賢人は笑った。
「この絵の登場人物は様々な帽子をかぶっていますが、それが彼らの立場や社会的階級を推測するヒントになっています。ブルジョアから労働者、帝政派まで実に多様な人がこの革命に参加したことを表しているんですね」
「そう表現したいのはわかるが、子供が拳銃振り回したりとかヤバくねえか?」
「この少年は後に『レ・ミゼラブル』の登場人物のモデルとなったらしいですよ」
だから何?それがガキがバンバン拳銃打ちまくるのの免罪符になるとでも?
それと、と賢人が続ける。
「その赤がひときわ鮮やかな女神の持つ青、白、赤のフランス国旗ですが、この絵の中にはその三色が様々にちりばめられているんです」
「え、どこに?」
お、ほんとだ、と早希が絵の中央を指差す。
「この膝まづいた人の服、青、白、赤になってるぞ」
「おおっ、なるほど」
それと、と左上を指差す。
「ここの棒にもその三色の布が結びつけてある」
そうですね、と賢人が頷いた。
「そして背景の空も、なんとなく青、白、赤になっていると思いませんか?」
おおっ、と七海と早希は同時に声をあげた。
「言われてみるとそう見えるな」
他にもありますから探してみてください、と言った後、賢人は、さて、と頷いた。
「ね?こうやって見ていくと見知っていると思っていた絵でも結構面白いでしょ?」
「そうですね」
「ここは賢人さんの解説が上手いことに一票差し上げましょう」
どうも、と胸に手を当てて大仰に頭を下げた賢人は、さて、と七海を見た。
「ところでサキちゃんに質問です。この絵を描いた画家の名前を憶えていますか?」
はい、と七海は頷いた。
「ドラクロワです」
おや、と賢人が不思議そうに七海を見直した。
「今回はすぐに覚えましたね」
ふっふっふっ、とわざとらしく笑った七海はわずかに胸を反らせた。
「私の往年の愛読書『のらくろ』にひっかけて“『のらくろ』や!”で覚えました」
賢人がため息をついた。
「そのうち、あの犬の漫画の画家とか言ってそうですね」
三日後。
スクリーンでジェリコーの『メデゥース号の筏』を見ながらわちゃわちゃと皆で話をしていた時、賢人がふと思いついたかのように七海を見た。
「サキちゃん、先日見た『民衆を導く自由の女神』を描いた画家の名前を憶えていますか?」
はい、と七海は確信を持って頷いた。
「犬の漫画の画家ですよね?」
「やっぱりそうなるんですね」