(番外編)Falling into Hell(山田さんと川口さん2)
おれは、もうだめかもしれない・・・
三重県立美術館のベンチに座った山田は濃い疲労クマの浮いた目で茫然と美術館の床を見つめていた。
北川元知事には裏切られた気分であった。
先月、川口と一緒に飲んだ翌日、山田は早速期待に胸を膨らませながら三重県美術館を訪れた。
一歩底に足を踏み入れたとたん、山田は肩からカバンが滑り落ちるのも気付かないかのように立ち尽くした。
なんだ、これは・・・・
この平凡な画群は!
以前ならそうではなかった。かつての山田ならば、今まではいわゆる西洋の“名画”ばかり追っていたが、日本の近現代の絵も面白い、と目を見開いたことであったろう。
そして、今日のお気に入りの一枚を選び切れず、その中から二三の作品を胸に温め、どこかの喫茶店でゆっくりとコーヒーの香りを楽しみながらそれらの絵を脳裏に反芻してその素晴らしい一日を満足のうちに終えたことであろう。
だが、今の山田は知っていた。知ってしまっていた。
オディロン・ルドンのあの奇怪至極な絵を、岐阜県美術館を。
あの時の衝撃は、三重県立美術館になかった。
そんなはずなかった。
三重県民の三重県立美術館はこんなものでは、こんなものではないはずだ!いいや、ない!断じてないっ!!。
小走りに駆けて美術館の事務室へ向かった山田は、職員を見つけると思わずその胸倉を掴んで、絵はどこだっ!!と叫んでいた。
びっくりしたように、それでも絵画の展示してあるスペースまでの順路を説明しようとした彼に、あの絵じゃない!と唾を飛ばして叫んだ。
おれが探している絵はあんな絵じゃない!!
じ、じゃあ、と山田のどこか狂気じみて裏返った声の叫びにおどおどと、ではどんな絵をお探しで?と聞いた職員に、山田は、どんな絵?と彼の襟首を掴んでいた手を放しながら少し考えた。
おれが・・おれが探しているのは・・・
山田は頷いた。
(おれが探しているのは、アンリ・ルソーの絵とサルバドール・ダリの絵をミキサーにかけてぐちゃぐちゃにしたのをジョッキに入れて一気飲みし、思わずゲェと吐き出したそのゲロ溜まりのような絵だ)
二人の成り行きをハラハラとした様子で窺っていた職員達の、若い女子職員の数人が、うっ、とえずいた後、口を押えてトイレに向かって走っていくのが目の端に写った。
その職員は、山田が自分が思っていた以上にややこしい男だと理解したのだろう、ともかくこちらへ、と応接スペースに通し、上司らしい男と二人で対応した。
山田は切々と、自分が探している絵が、奇怪至極、阿鼻叫喚、天変地異なとても芸術と呼ぶにはおこがましい絵であり、それは一般展示をするにはあまりにもおぞましいため、倉庫に収蔵されているのではないか、是非それは見たい、と涙ながらに訴えた。
(金なら、金ならあります!貯金をおろせるだけおろしてきたんです!)
厚く膨らんだ百五銀行の封筒を取り出そうとする山田を押しとどめながら、憐憫と同情を含んだ目で彼を見ながら、上司らしい男は悲しそうに首を振った。
(ご期待に応えられなくて申し訳ないが、あなたがお探しのような絵は当館にはないのです)
その言葉の意味がわからないとでもいうかのようにしばらく彼の顔を茫然と見つめた後、山田はその場で泣き崩れた。
それから数か月。
山田は毎週のように三重県立美術館を訪れて、週末をそこで一日を過ごすようになっていた。
何を期待しているわけでもなかった。
まるでそれは死んだ恋人の姿を今も探し続け思い出の地を巡る若者のような姿であった。
よれよれの白いワイシャツに週末はひげを剃る気力すら出ず伸びた無精ひげ。
この姿でどこかの林道でも歩いていたら絶対自殺者だと勘違いされそうな姿で、山田は今日も三重県立美術館のベンチの上で無為の時間を過ごしてしていた。
おい、という声に振り返る。
顔を上げたすぐ目の前に、少し気合を入れておしゃれをした、という風情の川口の姿があった。
そしてその隣には、すらりとした長い黒髪の美しい女性の姿があった。すっきりとした立ち姿だが変に痩せてはおらず、つくところはしっかりと肉がついてはいるがスレンダーと呼ぶのがふさわしい体に、長い黒い髪と白い肌のコントラストが見事であった。そして思わず目を見張るような美人でありながら少しも派手さや浮ついた様子を感じさせない落ち着いた表情をしていた。山田が最も好ましいと感じるような女性が目の前に、川口の隣にいた。
やっぱり、と川口はじっと山田を見下ろした。
「一瞬見間違えたかと思ったが、やっぱり山田じゃないか」
「か、川口か・・」
惨めだった。この完全に打ちひしがれた姿を見られたくなく、今すぐ悲鳴をあげて逃げ出したかった。
だが、最近ほとんど何も食べておらず体力を失った体はそれすら許さなかった。
「どうしたんだ、お前、その姿」
あ、いや、と一度目を逸らせてから、山田は二人の顔を見比べた。
あ、と川口が慌てて隣の女性を指し示した。
「彼女は水口さんだ。一緒に絵を見に来たんだ」
こんにちは、と水口はフレンドリーだが馴れ馴れしいところはない完璧な笑顔で微笑みかけてきた。
絵?
絵を、お前がか?
そう問う気持ちが表情に出たのだろうか、川口は慌てて手を振った。
「いやさ、先日お前が岐阜県美術館に行ったって言ったろ?おれも地元民なのに行ってなかったのがはずかしくなってな、次の日曜日に行ってみたんだ。彼女とはそこで会ってさ、絵の話で盛り上がって、今度またどこか近隣の美術館でも行こうかって話になって、愛知県美術館や名古屋市美術館に行って、今日はここへな」
山田は俯いた。
岐阜県美術館は最強の恋愛のパワースポットでもあったわけか・・
まあ、と山田は自嘲した。
おれには関係無かったようだがな。
それは岐阜県民の、彼ら彼女達のためだけにご利益をもたらすパワースポットなのだろう。
それよりお前、と川口は心配そうに山田の顔を覗き込んだ。
「お前、随分と体調が悪そうだが、いくら絵が好きとはいえこんな所に来てて大丈夫なのか?ちゃんと食べてるのか?」
川口は相変わらずの岐阜県民であった。
現在の自分の卑小さと比べて吐き気を覚えながら、いや、と山田は首を振った。
「最近、何を食っても美味しくないんだ」
泣きそうな声で俯いた山田は力ない声で続けた。
「豆腐を食っても変にぐにゃぐにゃして歯応えが無くあまり味がしないんで、仕方なく醤油をかけて食っている」
「豆腐ってそういうもんだろ?」
それと、と山田は俯いたまま首を振った。
「飯を食っても美味くないんで、気分を変えるためにインディカ米を食ってみたんだが、口の中に入れてもぱさぱさして粘りを感じなくってな」
「あれはそういう品種なんだって。お前はおれをおちょくってるのか?」
ため息をついた川口は、まあそんなおふざけを言えるなら大丈夫だな、と体勢を戻すと、とにかく何でもいいから食えるものを食って体力つけろよ、と言った後、体調が戻ったらまた一緒に飲もう、と軽く手を振ってゆっくりと離れていった。
心配そうな顔でじっと山田を見つめた後軽く頭を下げて川口に続いた水口の気配を感じながら、山田はほっとしたように、川口に別れに挨拶を返していないことすら気づいていない様子で更に俯いた。
体調が戻ったら、か・・
悪いが川口、と山田は目に涙を浮かべた。
おれは、もうだめだ・・・だめなんだ・・・
つづく