水辺にて
美術準備室の扉の前に立った通称ミワちゃんこと三輪亜里沙はそこで一瞬立ち尽くした。
最近、風を通すためか開き放しになっている扉が今日は目の前で閉まっているのに、中からは明らかに人の気配がするのも不気味であった。
胸を押さえ、一つ大きな深呼吸をしてからノックをすると、どうぞ、という聞きなれた声が返ってきて少し安心したミワは、こんにちわ、と控えめに扉を開いた。
むっとした熱気がはっきりと顔に感じられ、そして視線の先には真っ赤な顔に大粒の汗を浮かべた七海と早希が、よっ、とばかりにシンクロして手を挙げていた。
「な、なにやってるんです?こんな暑い部屋を閉め切って?」
いやさ、と七海がいつものお気楽な調子で手を振った。
「実は」
と言いかけたところで早希が止め、ミワを手招きする。
「いいところに来たよミワちゃん。ちょっとこっち来て」
はあ?二人に歩み寄ったミワに、立ちあがった二人はずいっと、汗ばんだ有る胸と無い胸を突き出した。
そして、七海がミワに頷きかける。
「どっちがおっさん臭がする?」
うっとその言葉だけで反射的に鼻を押さえたミワが後ずさる。
「い、一体何の?」
いやさ、と再び七海が再びヒラヒラと手を振った。
「最近、中年男性の体臭問題が話題になってたじゃん?だからさ、一体何を食ったらおっさん臭い体臭になるのか実験など。ちなみに私は昨晩は餃子を攻めてみました」
「私はオールタンパク質系で。ほら、肉食獣の肉って臭くて食えないっていうからさ」
なに馬鹿なことやってるんですか、と戸口に現れた賢人が嘆息した。
まあっ、と叫びながら七海が自らの肩を抱いて半身に身構えた。
「女の子の会話を盗み聞くなんて」
「それは女の子らしい会話をしている人のセリフでは?」
美術準備室に入って大机にカバンを置いた賢人は室内を見回した。
「窓まで閉め切って、もう。こんなんじゃ熱中症で倒れちゃいますよ」
「どうせ窓を開けても38度の熱気が入ってくるだけですから」
「さいです」
「そんな大汗かきながら言うセリフですか、それ」
「汗をかいた方が体臭もきつくなるかと」
そもそも、と賢人がため息をつきながら首を振る。
「そもそも、なんでそんな馬鹿なことをやってるんですか」
馬鹿とは失敬な、と七海が賢人を見た。
「昨今、問題となっている中年男性の体臭問題、それを解決すべく私達は自らを犠牲にして実証実験を行っているのです」
「そうなのです。おっさん臭~い、とか言ってる女性側の方が同じ臭いを発するようになれば、性別と世代を超えた分断は解決されるかと」
「それを馬鹿な事と言っているのですよ、ぼくは」
あ、あの、とミワがおずおずと切り出した。
「あの、私ちょっと絵のことで相談したくて来たんですが、美術室今日は誰も来ていないみたいだし、クーラー入れてそっちで話しませんか?」
10秒後には、予備の延長コードを肩にかけ、タブレットを小脇に抱えた二人はコロの付いたスクリーンをごろごろと押して美術準備室を出るところであった。
「すごく早いですね」
驚いたように二人を見つめるミワに賢人も嘆息した。
「あの二人があんなに素早く動くのを入部してから初めて見ましたよ」
美術室のクーラーのスイッチを入れ、吹き出し口の前で両手を広げた二人は、ひゃあああああっ、と嬉しそうな声をあげながら賢人を振り返った。
「副部長、これですよ、これ!これぞ文明の利器ですよ!」
「そうですぞ。ザンギリ頭を叩いても文明開化の音はしないのです。文明開化の足音はエアコンの室外機の音と共にやってくるのですぞよ」
「あなた方がぼくのことを副部長と呼ぶ時はおちょくる気満々の時ということを最近理解しましたのでノーコメントです」
あ、あの、と言いにくそうに割って入ったミワに、あ、はいはい、と七海は頷いた。
「何か相談とか言っていたよね」
とりあえずクーラーの吹き出し口に近い辺りに椅子を4つとスクリーンを移動した四人が椅子に座ると、さて、と七海が身を乗り出した。
「では早速、どうやって美術室を帰宅部から乗っ取るかの作戦を相談しましょうか」
本日はそういう趣旨ではなかったのでは?と半眼になって七海を見た後、賢人はミワを向いた。
「それで、何か絵のことで相談とか?」
はい、と賢人に頷き返したミワは、そこで顔をしかめて首を捻った。
「ただ、ちょっと絵の名前が思い出せなくって。ええと、なんとかの午後とか・・」
「『午後の紅茶』?」
「確かに、『午後』のワードで真っ先に思い浮かびはしますが、絵じゃないですよね、それ?」
早希に向かってため息をついた賢人がミワを見ると、ミワは焦った様子で、えと、ええと、ともごもごと口を動かした。
「それと、確か島とか、なんか公園みたいな・・」
「『午後の島公園』?」
「なんか本当に有りそうな公園の名前を出すとミワちゃんが余計に混乱するでしょうが」
ええと、ええと、と焦ったミワが三人を見回しながら自信が無さそうに言った。
「あの、見ればわかるんですけど、有名そうな絵なんで。すみません」
「いえ、とりあえず今のヒントだけでもなんとなく見当がつきました」
そういった後、賢人はタブレットを取ると一枚の絵をスクリーンに映し出し、問うような表情でミワを向いた。
それを見たミワが、あっと思わず椅子から立ちあがる。
「これ!これです!」
はい、と一発での大当たりに満足そうに賢人が頷いた。
「これはジョルジュ・スーラの『グランド・ジャット島の日曜日の午後』という絵です。この絵がどうかしましたか?」
いえ、と椅子に座ったミワが賢人を向いた。
「実は、今日の昼休みに友達と雑談してたら絵の話になって、ミワって絵画鑑賞部だよね、だったらこの絵って何がすごいのか教えて、と言われて」
あ~あ、と言いながら七海は頭の後ろで手を組んでわずかに反り返った。
「未だに絵画鑑賞部を純粋に絵を見る集団だと勘違いしている人がいるんだね。本当は学内最大の“帰る家がある”人々の集まりなのに」
「異論がないわけではないですが、概ねそうですね。情報に疎い人とはどこにでもいるものです」
では、と賢人がからかうような口調で七海を向いた。
「その絵画鑑賞部の中の少数精鋭として、サキちゃんがミワちゃんにこの絵の凄いところを解説してあげてくれますか」
えーーーっ、と異議申し立てをするかと思えば、ラジャーと言いながら賢人に向かって親指を立てて見せた七海はミワと向き直った。
「では教えて進ぜませう。この絵の凄いところはですな、ミワちゃん」
「はい」
「高価だからです」
は?
七海はしたり顔でミワに頷きかけた。
「芸術的に優れているとか技法が卓越しているとかそんな些少なことではなく、高価な価格が付くその一点だけを以てして、この絵はすばらしいのでございます」
「なんですか、そのhe is great because he have a lot of moneyの慣用句みたいにアメリカナイズドされた説明は」
「金は剣より強し」
「その通りかもしれませんが、ここはそんな商業資本主義の申し子のような会話をする場ではありません」
ため息をつきながら賢人は早希を向き直った。
「ではチイちゃん、解説をお願いできますか?」
は?と言いながら瞬きして賢人を見た早希は、さも異なことを聞かれたという表情になった。
「高価なこと以上にすばらしいこと、この絵あるんですか?」
白石先輩しっかりしてください、とがっくりと俯いた賢人の顔をミワが心配そうに覗き込む。
だってさあ、と不満そうに七海が賢人を向いた。
「絵画鑑賞部っていうだけで、絵についてなんでも知ってて当然、みたいに聞いてくる奴とかいるんだよ?入部してたった数か月でそんなに覚えられるかっての」
そうなのです、と早希も頷いた。
「だからとりあえず、“この絵の凄いところは?”って聞かれたら“高価なところです”と答えときゃ、まあ嘘じゃないし及第点かなって、この間沙織さんとも話してたんですよね」
「その無駄に図星なことを言い出したのは沙織さんですね?」
「さいです」
「一般人なら及第点かもしれませんが、絵画鑑賞部員としては絶対落第点でしょ、それ」
あなたはそうおっしゃいますが、と少しむっとしたように七海が賢人を向いた。
「賢人さんや部長みたいに、みんながマニアックでフェティッシュな人間ばかりではないのです。私やチイちゃんのように単なる趣味人として絵を楽しんでいる人もいるのですよ?」
「絵が趣味と力説するなら、もっと絵のことを勉強しませんか?」
たとえばですな、と賢人の突っ込みを無視して七海は続けた。
「アプトいちしろ駅前でOL百人に聞いたとして、何人がこのスーラの絵の題名を正確に言えると思います。一般人の感覚なんてそんなもんです」
「その前にまず、そんな秘境駅にOLは百人もいませんて」
「じゃあ東舞鶴駅前で海上自衛官百人に聞いた場合は?」
「それは①そんな駅本当にあるんですか?②そんな駅前に海上自衛官は百人もいませんて③なんで海上自衛官なのですか?のどれで突っ込めばいいんですか?そんな知らない駅名出されても」
「今回の場合は③が正解です。舞鶴市には海上自衛隊の基地があるのです。呉や佐世保みたいな有名どころじゃない微妙なところがいいと思いませんか?」
「知りませんてば、そんなこと」
んじゃあミワちゃん、と七海はミワを向き直った。
「とりあえず前座はここまでにして、ここからは賢人さんの超マニアックな解説を始めますね」
「べつにマニアックではなく普通の解説です、っていうか結局ぼくが説明することになるんですね」
嘆息した後、賢人はミワを向き直った。
「この絵の凄いところは、スーラはこの絵を点で描いたことです」
ミワはよくわからない、という表情で賢人を見つめた。
つまりですね、と賢人が続ける。
「普通ならドローイング、キャンバスに色を塗る方法で絵を描きますが、スーラは筆で点々を描いてこの絵を描いたのです」
それって、とミワがわずかに目を見開いた。
「それって、すごく大変なんじゃないですか?」
「大変ですとも。そもそもこの絵は2m×3mもある大きな絵なんです。それを全て点々で描いていったのです。そんな表現方法を駆使して描かれた最初の絵がこれなわけですね」
つまりは、と七海は頷いた。
「スーラも早い者勝ち、鼻からうどんを食ったからうけたタイプの画家なわけですな」
えっ、とミワが驚いたように賢人と七海の顔を見比べた。
「この絵を描いた人、鼻からうどんを食べたりできたんですか?」
さいです、と七海は重々しく頷いた。
「太めのコシのある讃岐うどんをそれはまあずるずると」
「そのボケが出てきた経緯を知らないミワちゃんが信じちゃうんで、そういうのやめましょうよ」
えっ、えっと賢人と七海を交互に見ながらミワは頭に???を並べた。
「え、ええと・・?」
「つまりは、嘘です」
「嘘ではありません、これはボケです」
「そのボケをやめましょう、ってさっきぼく言いましたよね?そもそもからして、ボケやネタなら全て許されるとか思ってません?」
「そこはかとなくは」
「そこがあなたの人生が間違っているところです」
人生否定されちゃったよ。
そして、と七海との会話を打ち切ると宣言するかのように、賢人はミワを向き直った。
「スーラが何故そんな技法を用いたかというと、塗りたい色とその補色をその周囲に塗っていくことによって、普通に描くよりも発色がよくなるというか、絵が明るくなることにことに彼が気づいたからです。これはテレビの原理に近いと言ってもいいかもしれませんね」
ふむふむ、とミワが感心したかのように頷くのに気をよくしたのか、賢人は軽い口調で更に続けた。
「彼はまず背景色を描いてから本格的に各部を描いていきました。それは気の遠くなるような作業で、スーラはこの絵を完成させるのに2年の歳月を費やしたと言われています」
2年!と驚いたようにミワが声をあげる。
「はい。ただそれは実際の制作期間であって、彼はこの作品に描くに当たって、事前に60点以上の習作を作ってから本番にとりかかっています」
「シュウサクってなんですか?」
「下書きというか、練習というか。作品にを描き始めてから問題が出ないように、実際に使う技法や各部の登場人物を試し書きして実際の制作に取り掛かるのです。これはスーラに限らず、絵を制作する時には
よくやられているんですよ」
「あ、なるほど。そうですよね。描き始めてから問題に気づいても、修正できるものばかりとは限りませんからね」
「まあ水彩画と違って、油絵は上から塗りつぶして描き直しやすいという利点はありますけどね」
それと、と賢人はスクリーンを振り返りながら更に続けた。
「この絵の凄いところは、この絵の登場人物達、そのグループ同士が重なっているところがないということです。つまり、手前に居る人が邪魔になって、もっと向こうにいる人が見えないということがないということですね」
え、と賢人以外の三人がスクリーンを振り返りじっくりと見つめた後、おお、と頷く。
「なるほど、本当だ」
「あのボートの人とかも、手前の人が丁度ボートの上で並んだ人の間に来るように立ってますね」
「けどこれ、言われてみないと気づかないなあ」
そうなんです、と賢人がうれしそうに頷いた。
「言われてナルホド、ですけど、言われるまで気づかないほど自然でしょ?スーラは木の位置も含めて念密に構図を考えているのです。これだけでもかなりの時間を要する作業だったと思いますよ」
それと、と賢人の説明は更に続く。
「この絵の登場人物のほとんどがそっぽを向いていることに気づきませんか?」
は?
ほら、と賢人が絵の中央付近に立つ白い服の少女を指差す。
「この子、この女の子だけが鑑賞者の方を向いています。特に目立つ白い服は、鑑賞者の目が自然とそちらに行くように仕向けた計算された配色なのです。絵を見るとふっとその女の子と目が合うように描かれているのですよ。ただその子以外、鑑賞者の方を向いている人物はいません。母親らしい女の子の隣の女性も体はこっち向いているのに顔はそっぽを向いてますよね。それどころか、よく見てみれば描かれている人同士も、ほとんど視線を合わせていないのです」
「おお、言われてみれば」
「それも、言われてナルホド、だな」
「けど、川に遊びに来ているんだからみんな川の方を向いていてもおかしくないんじゃないですか」
ミワが少し首を傾けながら言った。
「ほら、ニュースとかで見る鴨川のカップルとかもみんな川の方向いてますよね」
「まあ現実は確かにそうなのかも知れないですけど、絵の構図としてはやっぱりちょっと変な感じはしますよね」
苦笑した賢人の口が、そして、更に続ける。
「この絵から感じられる妙な静寂感の正体はなんだと思います?」
静寂感?
あの、とミワが控えめに手を挙げる。
「静寂感、有りますか?これ、天気のいい日の休日の水辺の公園にみなさんが繰り出してのんびり過ごしている明るいおだやかな絵、ってイメージなんですけど」
はい、と賢人は頷いた。
「確かに題材はそのとおりですが、実はスーラはこの絵に強烈な風刺を隠しているのです。グランド・ジャット島というのはセーヌ川に浮かぶ中洲の島で、一種の高級避暑地なんです。そしてこの絵、実は別の絵と対になっているんですがご存じでしたか?」
え、そうなの?と七海とミワが顔を見合わせる。
「もう一方の方の絵はあまり有名ではないので知られていないのです。それがこれ『アニエールの水浴』です」
おお、と早希が頷いた。
「こっちは水浴びしたり裸で日光浴したり、いかにもくつろいだ感じですね」
そのとおりなんです、と賢人が頷く。
「その様子や服装、背後に描かれた煙を上げる煙突に象徴される工業地帯から、彼らが労働者階級に属していることがわかります。彼らが向いている向かって右のほうに見えているのがグランド・ジャット島です。多くの人が向かって左を向いた『グランド・ジャット島の日曜日の午後』の人々と『アニエールの水浴』の人々はセーヌ川を挟んで向かい合っている構図になっているんです。『アニエールの水浴』の方は人物も大きく描かれてあっさりとした構図に見えますが、この二つの絵は大きさもほぼ同じくらいです」
んで、と七海が小さく手を挙げた。
「その対の絵と、賢人さんがさっき言った“妙な静寂感”と何か関係あるんですか?」
そうなんですよ、と賢人は楽しそうに言った。
「そこがさっき言った、スーラがこの絵に込めた風刺なんですよ。つまり、健康的で明るい労働者階級と、着飾って澄ましてはいるものの、百年一日のごとくまるで動かない、つまり特権意識に凝り固まり進歩なく動かない上流階級という皮肉です。グランド・ジャット島側で少しでも躍動的なのは手前の犬と一番手前に立つレディと紳士の左側の赤い服の女の子くらいで、他はじっと動きを止めているようにすら見えます。絵の手前が日陰になってちょっと暗いのも、なんとなく暗い雰囲気を醸し出していると思いませんか」
更にです、とまだ続く。
「これは、諸説あるところではありますが、手前の日傘を女性が連れたサル、ペットとしては高級で彼女が金持ちであることを現していますがサルには性的な意味合いが有ります。手前左で釣りをしている女性も同じような意味があります」
ふむふむ、とちらっとミワを見てから七海は賢人に頷きかけた。
「で、そのこころは?」
はい、と賢人が頷いた。
「つまり日傘の女性は隣の紳士の妻や恋人ではなく、高級娼婦という暗喩なのですよ。当時のグランド・ジャット島という場所は、男性がそういう出会いを求めてくる歓楽地だったという説があるということです。そういう暗喩も、上流階級が退廃的だというスーラの主張に一役買っているというわけですね」
それは、と早希が賢人を向く。
「それはかつて志摩にあったという売春島みたいなものという意味ですか?」
「いえ、女性同士のグループや子供もいますからそこまで露骨なものではなかったとは思います。ただ、この絵はそういう側面も密やかに批判しているということになるようですね、どうも」
わかりました、と七海と早希が同時に頷いた。
「では、今の辺りのことを中心にして、ミワちゃんから友達に説明をしてもらうことといたしましょう。では賢人さん、その辺ことをあと十倍くらい露骨にミワちゃんに説明をお願いします」
え、えっ?なんのこと?と訳も分からずに焦るミワと七海を見比べた賢人は半眼になった。
「絶対ヤですよ。以前その手の話をミワちゃんにしてぼくがどれくらい三輪さんに罵られたか知らないんですか?」
「知ってるからこそ、是非」
「絶対嫌です」