時代の終わりに
七海と並んで美術準備室へと廊下を歩いていた早希は、突然、出でよ、と言いながら両手を天に掲げた。
「動〇の森」
「追い出せ 〇物の森」
「おっ 平行だ 動物〇森」
「黙れ 動物の〇」
「飛び出よ 〇物の森」
「屁出せ 動〇の森」
なにやってるの?という声に振り返ると、わざと二人から距離をあけた位置に立ち、困ったような笑みを浮かべた夏樹が二人を見つめていた。
「あ、ちいっす」
「ういっす」
こんにちわ、と言いながら夏樹がどこか恐々と二人に歩み寄った。
「ところで、廊下を歩きながら大声で何を言い合ってたの?」
はい、と七海は頷いた。
「夏樹さんは、ニ〇テンドーの『動〇の森』というゲームはご存じですか?」
「名前くらいは」
よろしい、と早希も頷く。
「そのシリーズの副題『おいでよ』『街へいこうよ』『とびだせ』『あつまれ』を使って新しいゲームを考えていたのです」
最後のは何?と呟いた夏樹の声を耳さとく聞き留めた七海が頷いた。
「文字どおり屁力を競うゲームですな」
「それは一体どんなゲームなの?」
「開発中なのでそれは秘密です」
適当なことを言っているうちに美術準備室に着いた。
最近は開いたままになっている扉からちいーすと声をかけながら中を覗いた七海と早希は、とたんにかばんを放り出して、うわ~んっ、と何声をあげながら中に駆け込んだ。
「部長っ、来てくれたんですかっ」
「うわ~んっ、会いたかったですぅ」
縋りついて泣き声をあげる二人に、おいおい、と加納は満更でもない声で笑った。
「どうしたのかね二人とも。私が来たのがそんなに嬉しいのかね?」
はいっ、はいっ、と七海はわざとらしくハンカチで涙を拭った。
「沙織さんが来て部長が来なくってから、部の雰囲気が悪くって」
そうなの?とでも言わんばかり顔で賢人を振り返った加納に、賢人が半眼になった。
「私の個人的な感想を言わせてもらえば、場の雰囲気が悪くなっている原因の8割はこの二人のせいだと思います」
うわ~ん、と泣き声を張り上げた七海は、ねっ、ねっ、と言いながら賢人を指差した。
「賢人さんまでこんなことを言うんですよっ、雰囲気悪いでしょ?」
「部長が本気にするんでそのウソ泣きそろそろやめませんか?」
ちらっとハンカチの端から賢人を見た七海は、ちっ、と言った後ハンカチを下ろして何食わぬ顔で再び、加納に向かって、おひさしぶりっすう~、と言った。
おいおい、と加納が七海と早希の顔を見比べた。
「なんだ、ウソ泣きだったのかね?」
「い~え、嘘ではございません」
「これはネタでございます」
賢人のため息が美術準備室に響き渡った。
それで、と言いながら、早希が加納と賢人が見ていたスクリーンに目をやった。
「このベッピンのねーちゃんは誰なんですかね」
なんか、と言いながら加納が賢人にそっと囁いた。
(なんか雰囲気が悪くなってないかね?)
(だからさっきからそういう話をしてたじゃないですか?)
ばかだなあ、と言いながら七海が早希の肩を叩いた。
「これはあれだろ、マリアさんがかあちゃんのお腹に入りに行く奴」
「『無原罪の御宿り』か?」
「そう、それの全裸バージョンだ」
いえ、と言いながら賢人が首を振った。
「これはウィリアム・アドルフ・ブグローの『ヴィーナスの誕生』です」
これって、と早希が半眼になった。
「絵の上手い下手は別として、絵のテーマとしては破綻してませんかね。ヴィーナス、自分が生まれた瞬間に、ええと、1、2、3・・・15つ子を生み終わって、その子が弓矢振り回したり、空飛んだり、カラオケのマイク奪い合ったりしてるんですから」
こんなもん、と七海も頷いた。
「胎生じゃ絶対無理だろ。絶対このキューピット達卵から生まれてるよ」
凄いことを言い出すなきみ達は、とわずかに目を見開いた加納に、最近は部室でこんな会話が飛び交っているのですよ、と賢人が嘆息する。
「その、ブグローとか、本当にギリシア神話わかってこの絵を描いてるんですかね」
全然知らないということはなかったと思いますよ、と賢人がスクリーンを見た。
「ただ、ブグローの時代、19世紀になっても、歩いて図書館に行けばすぐにギリシャ神話の本が見れるというわけにはいきませんでしたからねえ」
はい、と七海が手を挙げた。
「だれが図書館くんだりまで行ってギリシャ神話の本を見るんですか?」
「え、見ませんか?」
はい、と七海は頷いた。
「私が図書館で最後に見た本は、忘れもしない小学生の時に読んだ、復刻版の『のらくろ』ですが?」
そっちこそあなただけではないですか、と賢人が嘆息する。
そのやり取りを聞き終えてから、加納が頷きながら言った。
「ただ、白石くんの言うとおり、当時は絵を描くための参考図書等が不足していたことは事実だな。だからこそ画家達はローマなどに修業の旅に出て、過去の巨匠の絵画を見たり彫刻を見たりして、そこからヒントを得て絵を描いたのだからな。例えばこの絵は、ボッティチェリの『ヴィーナスの誕生』やラファエロ・サンティの『ガラテイアの勝利』などからインスピレーションを得て描かれていると言われている」
「樽さんの方は知ってますけど、ラファエロのその絵はどんなんですか」
樽さん?と不思議そうな顔をした七海を他所に、うむ、と加納がタブレットを操作した。
「これだ」
おお、と七海と早希は声をあげた。
「こ、これは」
「インスピレーションてレベルじゃないぞこれ。ほとんど構図がそっくりですね」
「うむ、このまねっこは既に襲撃レベルだぞ」
「あなたは何故そうやってすぐに暴力に訴えるのですか?」
むっとした表情で七海は賢人を向いた。
「お言葉を返すようですが、賢人さんこそ創作物に関する権利を甘く見てらっしゃる。彼らは血の滲む思いで創作活動を行っているのですぞ」
「だからって、誰か『著作権を暴力によって守れ!』と叫んでいる人がいますか?」
「まあ、クジラやイルカを暴力によって守ってる人達はいるがな」
早希の言葉に、ああ、あれな、と七海は不快そうに顔を歪めた。
「まあ、栄養源として守れっていうならわからないでもないが」
何を言っているのかね、と加納が眼鏡を直した。
「イルカは高い知能を持っており、昔の哲学者、ソクラテスだったか誰だったかは忘れたが『人間が人間であるが故に、友とする動物はイルカだけである』という言葉もあるほどなんだぞ」
失礼ですが、と七海は加納を向いた。
「部長は栄養源と友達になれるとでも?」
凄いことを言い出したな、と加納が嘆息する。
「まあ、絵を描くための情報が圧倒的に不足していた昔、画家が見たこともない風景や動物を絵にするために苦心したのは確かだな。例えば今出たイルカとかな」
「イルカですか?」
そうだ、と言いながら加納が一枚の絵をスクリーンに映し出した。
「これなんか特にそうだな」
おおっ、とフラゴナールの『ぶらんこ』を見て七海が頷いた。
「これは陽気なおっさんの絵ですね?」
二つ名の方ではなくちゃんとフラゴナールで覚えましょうよ、と賢人が嘆息する。
その絵の中央の一番下の方を拡大した加納が頷いた。
「この天使っぽいのが二人乗っかっているのがイルカだ」
はあ?と早希が瞬きしながらスクリーンに顔を近づけた。
「この怪魚がですか?全然似てませんね」
うむ、と加納が腕を組んだ。
「どこかの時点で誰か画家か本の押絵作家がイルカをこのように描いたことによるものだろうが、昔はイルカはこのような姿で描かれていたのだよ。誰かが間違いそれが伝播することによって間違いの連鎖が起こるわけだな」
例えば、と感心したような顔の早希に気が乗ったのか、加納が続けた。
「狸だってそうだぞ」
は?
「狸ですか?」
「うむ。狸という漢字は中国では本来山猫を意味するが、その字が日本に渡ってきた時に、誰かがこの字はどういう意味ですか、と問うたのだろう。そして中国人は、山にいるこれくらいの大きさのこんな感じの動物のことだ、と身振り手振りも交えて説明したのだろうな。しかし日本には山猫はいないため、山にいる四つ足のこれくらいの動物?ああタヌキのことか!と勘違いされて、それから日本では狸という漢字はタヌキを意味することとなってしまったのだ」
ほうほう、と七海は感心したように頷いた。
「さすがは部長、だれかさんと違って絵のこと以外も博識ですな」
“だれかさん”で包まなくても誰のことを言っているかはわかりますから、と賢人が嘆息する。
つまりは、と早希が首を捻る。
「ブグローは、参考とするために様々な絵を見る中で、エンジェルもキューピットもごっちゃになってしまったってわけですかね?」
「その可能性はあるな」
あ、と七海が手を挙げた。
「全てを解決する手段を思いつきました」
ほう、と加納が身を乗り出し、賢人が、やめた方がいいですよ、耳が腐りますよ、とかつて誰かが誰かに向かって言ったセリフを呟く。
これは、と七海がスクリーンを指差した。
「これはキューピットでもエンジェルでもない、プットーという第三勢力ということでいかがでしょうか?」
は?
つまりですな、と七海はしたり顔で続けた。
「神様が作ったエンジェル、ヴィーナスの生んだキューピットの他に、外見がよく似たプットーという卵から生まれる生物がいてですな、それはンコにたかるハエのように、祝い事の空気を嗅ぎつけてこのように集まってくるのです」
「最後のところの表現に凄まじい悪意を感じるのですが?」
そのような事実はございません、と無表情に言った七海は加納を向き直った。
「そういうことでいかがでしょうか。これならばブグローの絵も、カバネルの絵も全て説明ができるのですが」
どうでしょうか、と言われても、と加納は助けを求めるように夏樹を向いたが、薄笑いを浮かべた夏樹はその気配を感じて加納と目が合う前に目を逸らせていた。
私も思いつきました、と、はい、と早希が手を挙げる。
「実は、ここにはヴィーナスしかいないというのではいかがでしょうか?」
は?
これ、と早希がスクリーンを見つめる。
「大海原の上で孤独に生まれたヴィーナスは、ぽっちが寂しく、私の誕生日にみんながお祝いに駆け付けてくれた、わーい、うれしいな!という妄想を思い浮かべ、この絵は、その心象風景を絵にしたものではないでしょうか?」
「ムンカーチ・ミハーイの『死刑囚最後の日』のようにですか?」
「さいです」
うーむと七海は腕を組むと眉根をしかめてその絵を見つめた。
「そう考えると、このハッピーな絵ずらが急に凄惨な雰囲気を帯びてくるぞ」
「しかしそう仮定すると、この今にも泣きだしそうなヴィーナスの表情の意味が理解できると思わんか?」
「言われてみれば確かに、背後のプットー共の影が薄いのもそういう訳かと理解できるな。細かなところまで妄想は無理、ってな」
「これは単に空気遠近法の技法だと思いますが?」
しかし、と七海は再びスクリーンをじっと見つめた。
「ヴィーナスがぼっちかどうかは別にして」
「絶対ぼっちじゃありませんよ」
それは別にして、と七海は声を強めた。
「なんていうか、このブグローの絵にしても、カバネルの絵にしても、ヴィーナス、もう美しさを極めたって感じですよね。今の基準でも美人なだけでなく、ちゃんと色気もあるというか。ここまで描かれたたら、他の画家、次どう描きゃいいんだってくらいに」
うむ、と加納が満足そうに頷いた。
「まさにそうなのだよ」
は?
この、とスクリーンを指し示しながら加納が続ける。
「ブグローとカバネルは実は活躍した時代がほぼ一緒なのだよ」
ほう。
「その時代は、このようなアカデミックな作品を作成する画家達が勢力を持っていた最後の時代と言ってもいい。当時官展でも発言力を持っていたカバネルは、印象派の画家達の絵をサロンで展示することを拒否し、それが1863年の落選展、つまりサロンに出品できなかった画家達が開催した独立した展示会騒動に発展する。落選展自体はもっと昔からあったのだが、1863年のそれはフランス政府も後援したものだった。特にこの年は、3000点以上もの絵がサロンに落選し、この抗議も込めた落選展だったのもこの落選展が“騒動”とまで語られた理由だ。最初人々は落選展に出品された絵を嘲笑していたが」
「アンリちゃんの絵が飾られてたら嘲笑するよな、当然」
「ここは黙って続きを聞きませんか?」
しかし、と一呼吸おいて加納が続ける。
「苦労しながらも独自の展覧会を続けた印象派の画家達の絵は次第に認められるようになり、逆にパリ・サロンの影響力は衰えていった。ブグロー達が活躍した時代は、昔から積み重ねられてきた重厚長大なアカデミックな作品が最後の輝きを放った時代であり、過去から連綿と積み上げられてきた技術が粋を極めた時代とも言えるだろう。このころから、絵画は今までの在り方を否定し“次”を模索する時代に突入するからな」
それは、と七海が小さく加納を手招きした。
「カバネルやグブローが、アカデミックな画家の究極の姿という意味でしょうか?」
そこまでではないですよ、と賢人が苦笑した。
「ただ、時代の移り変わりの時期に、部長の言うとおり最後の輝きを放つ素晴らしい作品を残した画家と言ってもいいのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。彼らがそれを自覚していたかどうかはわかりませんがね。しかしもし、自分の絵が時代から取り残されようとしているのではないか、という予感をわずかにでも感じていたのなら、それに抗うようにして描かれた彼らの作品群の制作風景は、鬼気迫るものがあったかもしれませんね」
そう考えたら、と夏樹がスクリーンを見た。
「このヴィーナスのどこか寂しそうな表情も、別の意味を持ってくるかもしれないわね」
そのまま五人は、一つの時代の終わりに生まれ出でた哀愁に満ちた女神の表情を黙って見つめ続けた。