職業病
「あの、何か?」
部屋の中を覗き込んでいた七海に気づいたのか、制服姿の美しい女性がにっこりと振り返った。
びくうっ、と小さく飛び跳ねた七海は、な、なんでもないですゴメンナサイーっ、と慌てて小走りに逃げ出した。
角を曲がって彼女が追いかけて来ないのを確認してから、七海は胸を押さえながら壁にもたれてため息をついた。
来るんじゃなかった・・・
「サキちゃん」
おわあああああっ!!
しぇーーーっ、のポーズで固まったまま七海は声の方を向いた。
七海の余りのオーバーアクションに驚いた顔の白石賢人と南夏樹が目を見開いて彼女を見つめていた。
ため息をついた七海は、もう一度ため息をつきながら俯いた。
「なんだ、賢人さんと夏樹さんかあ。びっくりした」
「ほら、やっぱりサキちゃんだったでしょ」
「ほんとだ。まさかとは思ったけど。偶然だね、こんなところで何してるんだい?」
「賢人さんこそどうしてこんな変なところに?」
「え、変かい?」
変だろ。
頷きながら七海は辺りを見回した。
ここ、結婚式場だぞ?
「ああ、従姉のお姉さんが6月にね。それはおめでとうございます」
毛足の長いふかふかの絨毯を踏んで並んで歩きながら七海は、ありがとうございます、と頷いた。
「今日ドレスを選びに来るって言うんで、面白そうだなって連れてきてもらったんですけど、まあ、長いのなんの。あれもこれも、って、9時から始まって」
「もう、昼過ぎだね」
腕時計に目を走らせた賢人が苦笑した。
「それで、退屈でちょっと見て回ってたんです。お二人は今日は?」
実は、と目を見交わした二人は苦笑した。
「小さい頃にね、近所のお姉さんの結婚式で、新郎新婦に花束を渡す役を仰せつかったことがあったのよ」
くすくす笑いながら言う夏樹に、はい?と七海は瞬きした。
「その時その人の妹さんに、とても可愛かった、自分の時も是非、って頼まれてOKしたんだけど」
「したみたいだねえ、小さかったから覚えていないけど」
「今度結婚することになって。ただ、行き遅れちゃったせいで」
「私達も大きくなっちゃって」
はあ?
「もっと小さな子にお願いすれば、って言ったんだけど、いや、頼んで引き受けてもらった限りはお願いする、って聞かなくって。今日はなんとなくその下見に」
その人もなんだかなあ・・・
ため息をついた後、七海ははるか高みにある天井を見上げた。
「それにしても立派な建物ですねえ、ここ」
「この辺りでは一等上等な結婚式場ですからねえ。費用も近隣の他の式場よりも頭一つ以上かかるはずですよ。あなたの従姉のお姉さんも奮発しましたねえ」
「あ、そうだったんですか。私、そういうの疎くって」
「まあ、奮発したのはお姉さんのそのお相手の方かもしれませんけどね」
そうそう、と賢人が七海の顔を覗き込んだ。
「ここ、ロの字の建物に囲まれてすごい中庭があるんですよ。もし時間があるなら見に行きませんか。うまくすれば、今日挙式された方とか何かイベントをされておられるかもしれませんよ」
「イベント、ですか?」
「ええ。私の叔母もここで挙式しまして、私の小学生のころですかね。その時は参列者全員で、中庭から沢山の風船を飛ばしたんですよ」
「へえ、それは面白そうですね」
「ええ。ただぼくは風船が見えなくなるまで見送りたかったのに、披露宴が始まるからって無理やり中に連れ込まれたのが少し悲しかったですねえ」
「あは、それなんとなくわかります」
賢人が腕時計に眼を走らせた後七海を覗き込むように見た。
「どうですか。ぼく達も迎えの約束の時間まで少しありまして。一度お姉さんの様子を見に行って、まだまだかかりそうでしたら一度ここを出て近所でランチでも。ここの中は高いですが、近所に安くて美味しいイタリアンの店があるんですよ」
「あ、それうれしいです。私も喫茶スペース覗いたんですけど高くって。けど、この辺りの様子もわからなくって。あ、でもその前にさっきの中庭の話、ちょっとだけ見てみたいんですけど」
「ええ、もちろんいいですとも」
賢人の足は七海が言い出す前からそちらに向かっていたのかもしれない。言っているうちに、建物に囲まれた中庭に通じる扉の前に立っていた。建物の中庭を向いた方の壁が大きなガラスの一枚板の連続で、建物の中からも中庭がぐるりと見渡せるようになっていた。
「あ、ほら丁度いい場面に当たったみたいですよ」
ガランゴロンと鐘が鳴り響き、新郎新婦が緑が鮮やかな芝生の中庭に現れるところであった。参列者からのライスシャワーが降り注ぐ中を、少し年配に見える新郎と、こちらは初々しい新婦がうれしそうに歩く。
「ああ、いい感じですね」
「幸せそうね、お二人とも」
なんとなく引き寄せらるようにして三人はそちらに向かって歩いて行った。
すぐに写真撮影が始まり、二人が背景の前に並ぶ。二人の足元には、写真に華を添えるために連れてこられたのだろう、大きなむくむくとした真っ白な犬が待ちくたびれ様子で眠っていた。その顔を覗き込んだ新郎新婦が楽しそうに何か囁き交わし、そのまま写真撮影が始まった。
はっと、賢人が小さく息を呑んだ後、夏樹を向いた。
「夏樹」
ええ、と夏樹も緊張した面持ちで笑顔で写真に納まる二人を見つめていた。
「気づいたわ」
え、と七海が二人の顔を見比べた。
「どうしたんですか?」
「この結婚式は変だ」
へ?
「確かめてみましょう」
あ、ちょっと・・
二人は少し離れたところから新郎新婦を見つめ感慨深そうに眼を細めている一人の男に近づいて行った。
「おめでとうございます」
、一瞬怪訝そうに振り返ったその若い男は、平服の二人の正体がわからず一瞬とまどったように二人を見比べたが、にこにことしたいつもの愛想良さで語り掛けてくる二人にすぐに警戒を解いたようだった。煙草を吸うために皆と離れていたのだろう彼は、二人が近づくとすぐにポケット灰皿を取り出した。
「お二人のご友人ですか」
「ああ、まあね」
ところで、と夏樹がフラッシュを浴びる二人を遠くに見つめた。
「あのお二人、少し歳が離れていらっしゃるようですけど、馴れ初めは御存じですか」
「あ、ああ、二人は同じ趣味のサークルで知り合ったんだよ。ぼくもそっちの知り合いでね」
ああ、と賢人がニコニコと頷いた。
「なるほど、納得です」
ところで君たちは、と男が口を開きかけたのにかぶせるように、賢人が少し声を大きくした。
「新郎の方はお金持ち?」
「あ、ま、まあね。一応実業家と言っていいよ」
「新婦の実家もご商売をしておられるけど、そちらはあまりうまくいっていない?」
続けて言った夏樹に、男は怪訝そうな顔をした。
「まあ、確かにそうだが、商売が上手くいっていないとはぼくは聞いてないなけどなあ」
やっぱり、という顔で賢人と夏樹が頷き交わした。
「つまり今回の結婚は、商売上の支援をしてもらうことを条件に、金持ちの年上の男性に若く美しい娘を差し出した、いわゆる政略結婚、ということですね」
ば、ばかな!と少し怒気を含んだ声で男が全身で振り返った。
「二人はちゃんと愛し合って結婚したんだ。ぼくは二人が初めて会った頃から知って・・・」
「まあ、たかが友人のあなたは何も知らされていなくても当然かもしれませんね。二人が出会ったそれ自体が、誰かに仕組まれたものであるかもしれないことを」
お気の毒ですが、と賢人は申し訳なさそうに言った。
「何を言ってるんだ、お前ら。だ、だから何の証拠があって!・・」
証拠?と言いながら夏樹が目を細めて新郎新婦を見ながら悲しそうな薄笑いを浮かべた。この無知な男を心から憐れむように。
「証拠なんて・・見る者が見ればわかりますわ」
「まあ、おそらくそうだろう、という推測の域は出ませんけどね。いわゆる一つの仮説とお考え下さい。まあ、ぼくとしては確信していますが」
賢人は再びひどく申し訳なさそうな表情になった。
「まあ、あなたにはわからないかもしれませんが」
な・・・と、男は、この二対の憐れむような、悲しそうな目に見つめられながら、気推されでもしたかのように一歩退いた。
「お・・お前らなんなんだ・・もしかして二人のこと、以前から知ってるのか?!」
「いいえ」
「初めてお目にかかりましたわ」
だったら、と言いかけた男に、ああ、そうそう、と賢人がやや俯き加減に言った。
「新婦の方、浮気してますね」
ああ、と夏樹の唇の間に悲しそうな笑みが浮いた。
「やっぱり?」
「状況から見てそういう判断にしかならないだろ?」
「まあねえ」
なっ、なっ、と怯えたように二人を見比べるながら男の顔がみるみる赤くなる。
「何なんだっお前らっ!!どこにそんな証拠があるって言うんだっっ!!」
男の怒声に、少し離れたところにいた数人が驚いたように振り返る。
「ふっ、証拠ですか。証拠ねえ。まあ、見る者が見れば直ぐにわかりますよ、とだけ申し上げておきましょうか」
「そうね、見てわからない者にはいくら言ってもわからないものね」
では、と、この無知蒙昧な男に惜別を告げるかのように、大仰なくらいに慇懃にお辞儀をした賢人がにっこりと顔を上げた。
「お幸せに」
「お幸せに」
ここでやっと悲しみを乗り越えたかのように、無理に作ったようなニコニコとした笑顔で手を振った二人はすぐに背を向けて歩き始めた。
七海も慌ててその後を追う。
おいっ、ちょっと待て!お前ら一体何なんだっ!という男の怒声が閉めた扉の向こうに消えた。
それを待ってから、やっと追いついた二人の背中に手を伸ばしながら七海はおずおずと聞いた。
「あ、あの、さっきの・・」
え、と立ち止まった二人が振り返る。
「どうしたの、サキちゃん?」
あ、いや、と七海は二人と背後の例の若者を見比べた。
中庭では、若者の周囲に数人が集まり、全員で新郎新婦を見たかと思うと、若者がこちらを指差し全員の視線が一斉にこちらを向き、再び頭を寄せて深刻そうに何かを囁きかわしているのが見えた。
「あ、あのさっきの話ですけど、あの結婚がおかしいって・・」
ああ、と夏樹がうっすらと笑い、賢人と顔を見交わせて頷き合うと再び七海を向いた。
「そういう“絵を見たことがある”のよ、サキちゃん」
ああ、あいかわらず絵ですか、はいは・・・ええっ?!
「『アルノルフィーニ夫妻像』(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/33/Van_Eyck_-_Arnolfini_Portrait.jpg)と言いまして、最近その絵のことを知って、その絵についての面白い説について夏樹と少し話をしたことがあったのでさっきのお二人を見てふと思い出したんですよ」
ごくっ、と七海は唾を飲み込んだ。
「絵の話・・・説って?」
「これが面白いのよ、サキちゃん。従前の説では、新婦の視線の高さが新郎と一緒になるよう描かれているのは二人の身分が同じであることを示している、とか言われていたんだけど、その説では『新郎と新婦は右手同士をつなぐのが正式であるはずなのに、新郎が左手で新婦の右手を握っているのは『左手婚』つまり身分違いの、正式な結婚ではないのではないか』というものなの」
人差指を立てながら、夏樹はにっこりとしたり顔で続けた。
「そしてこの『左手婚』では、夫が死んだ場合妻には通常の『正式婚』の妻とは同等の権利を与えられない、ってね。あれ、まるでお妾さんみたい、ってふと思ったの」
「だから、さっき新郎が新婦の右手を左手で握っているのを見て、あれ、これっておかしくないか、って感じたんですよ。それで、どんな状況が考えられるかな、って想像して聞いてみたら、ドンピシャでしたね」
我ながら恐ろしい推理力ですねいやはや、とおどけながらも、そんな力がなければこんな苦しい思いをせずに済むのにという悲しい笑みを浮かべた賢人に、いや、と七海は再び中庭を振り返った。
遠くに、皆から祝福を受けている嬉しそうな二人の姿が見えた。
あれって、ドンピシャって言っていいのか?
あのう、とどこか恨めしそうに見上げた七海を、賢人が楽しそうな顔のまま見下ろした。
「それって絵の話ですよね?」
ハハハと賢人が楽しそうに笑った。絶対に無理をしている笑顔で。
「そう言ったじゃないですか、絵の話ですって。絵の解釈の話ですって。ああ、だから彼にも強調しといたでしょ、仮説の一つだって」
いや、あれはどう聞いてもその部分は強調されてなかったぞ?
ええと・・・
「それと、さっき浮気がなんとか・・」
ああ、と再び賢人がハハハと声をあげた。
「こっちの方はもっとはっきりしてますよ」
へ?
「絵画において犬は『忠誠』を象徴しているのよ、サキちゃん」
「そう、犬には悪い意味もあるんだけど、一般的には『忠誠』を意味していると理解していい。覚えとくといいよ」
「特に、女性の足元に描かれた犬は『夫への忠誠』、つまり『貞節』を意味していると解されるの」
だから?
「けど、さっきの新婦の足元の犬、寝てたでしょ。これは彼女の夫への貞節はお休み中、つまり浮気をしていると解せるのではないかと考えたわけです」
「そのとおりよ」
思わず立ち止まり、あれはわかりやすかったわよね、まさにまさに、と嬉しそうに話しながら笑い合う二人背中を見つめた七海は、巨大なガラスの一枚板の向こうの中庭で、あの若い男の周囲に先程よりも更に多くの人が集まり、深刻そうに頭を寄せているのを見て、ゴクリと唾を飲み込んだ。
あ、あの、と再び唾を飲み込みながら、七海はなんとか声を絞り出した。
前を行く二人が足を止めて振り返る。
「どうしたの、サキちゃん」
「そ、それって・・・絵の話、ですよね?」
やだなあ、と言いながら賢人が笑った。
「だからさっきからそう言ってるでしょ、絵の話だって。さっきからどうしたんだいサキちゃん」
「ふふ、ほんと、今日はどうしたの?」
黙ってロビーを歩いていた賢人が不意に立ち止まった。
「ねえ、夏樹?」
「どうしたの」
「絵は、ぼくらを幸せにしてくれたのだろうか」
「え?」
「絵について詳しくなければ、彼にこんな悲しい事実を告げずに済んだのに、ねってね」
夏樹も悲しそうな笑みを浮かべて俯いた。
「そうかもね」
いや、と勝手に盛り上がっている二人を見ながら七海は半眼になった。
それ、なんか違わない?
何度も唾を飲み込みながら、七海は再び中庭を見た。
いいのかなあ・・・
頭を寄せている男の輪は更に増えていた。
突然音楽が鳴り響き、ちょっとごめん、と賢人がスマホを取り出してしばらく話した後、すぐにそれをポケットに戻した。
「いやあ、ごめんね。悪いけど迎えが早まることになってね、食事の話は無しでも構わないかな」
「あ、ええ、私は別に・・」
「その代わりもう少し時間があるから、喫茶スペースで何か甘いものでもどう?奢るよ。ぼくも少し頭を使ったから甘いものが欲しくってね」
「今日は冴えてたものね。悲しい方に」
「それは夏樹も一緒だろ?」
じゃ、いこっか、と悲しそうに歩き始めた二人に、もう一度中庭を見た七海は、更に増えた人の輪にげんなりとした気分で歩き始めた。
いいのかなあ、ほんとに・・・