三度(みたび) ひとごろし
スクリーンに映し出されたその絵を見た途端、よろしい、と七海は頷いた。
「これは見事に死んでますな」
同じ絵を見ながら、賢人も頷いた。
「まあ、そうですね」
そのとおり、と七海が腕組んで何度も頷いた。
「これで死んでいないという奴が居たら私の前に連れてきなさい、私がたっぷりと意見してあげましょう。それでもわからない奴は」
「わからない奴は?」
「ぶん殴る」
あなたは何故すぐにそうやって暴力に訴えるのですか、と嘆息にした賢人に、落語のネタだって、落語の、と背後からその肩を叩きながら早希がフォローを入れる。
それで、と七海は絵から賢人に向き直った。
「この絵はなんなんですか?」
これは、と賢人が頷いた。
「ジャック・ルイ・ダヴィッドの『マラーの死』です」
「ジャン=ポール・マラーはフランス革命時代の闘士です」
絵と七海の顔を見比べながら賢人は語り始めた。
「フランス革命の当時、彼は強硬・急進派である山岳派の指導者の一人として活躍しました」
あの時代で急進派というと、と七海が賢人を見た。
「なかなかえげつないことに関わってたんじゃないですかね、この人」
彼個人がどうだったかは別にして、と賢人が頷いた。
「客観的には、まあ、そう見られてはいたんでしょうね」
そうだろね、んでもってそのせいで、このとおりぐっさりで天に召されたわけで。
これって、と早希が絵を指差す。
「ベッドの上で手紙書いている途中でうっかり寝込んで、油断してるところを正面からぐっさり、なんですかね?」
うむ、と七海は顎に手をやった。
「それにしては変じゃないか?体がベッドの中に沈んでるぞ?」
これは、と賢人が早希と七海を順に見た。
「これは入浴中だったのですよ」
「風呂入りながら手紙書いていたのか?」
この当時、と賢人は絵を指差した。
「マラーは皮膚病にかかっていて、よく、薬を満たした浴槽に入って仕事をしていたのです。そこを襲われたわけです」
んで、と七海が再び絵から賢人に向き直った。
「あの当時、処刑・暗殺なんか当たり前にあったんじゃないですかね?そん中で、被害者が革命指導者とはいえ、何故この事件が絵に?」
はい、と賢人が頷いた。
「さすがサキちゃん、よくそこに気づきましたね」
実はと賢人が続けた。
「この絵を描いたジャック=ルイ・ダヴィッドも山岳派のジャコバン党員で、この事件を受けて早速マラーを殉教者に仕立てようとしたのです。マラーの死後、ダヴィッドはたった数か月で大急ぎでこの絵を仕上げました」
そういえば、と早希が首を傾げた。
「ダヴィッドって、ナポレオンの絵を描きまくってた画家だよね。それが革命推進派の急先鋒だったわけですか?」
そうなんですよ、と賢人は頷いた。
「ナポレオンが皇帝に就任してからは彼にすり寄ったダヴィッドでしたが、元々はルイを断頭台に送れって叫びまくってた革命推進派だったのです。これはぼく個人の意見ではありますが、だから彼は盟友であるはずのマラーの死に嘆くよりも、その死をいかに利用して革命を推し進めるか、に気持ちが行った可能性は十分にあります。例えばこの絵の構図ですが、よくミケランジェロの『ピエタ』と比較されます」
「ピーター?」
「いえ、池畑慎之介さんではなくピエタです」
だれ?池畑さん?
あれだよね、と早希が人差指を立てた。
「キリストさんが死んだのをマリアさんが嘆いている奴」
そのとおり、と賢人が小さく拍手した。
「つまりは、ダヴィッドはマラーをキリストのように描くことを意識していたわけですね。他にもダヴィッドは『マラーの死』を描くに当たってカラヴァッジョの『キリストの埋葬』を意識したともいわれています」
ほうほう、と七海が頷いた。
「ちなみにそれはどんな絵で?」
これです、と言いながら賢人がタブレットを操作した。
その絵を見た途端、七海はおおうっ、と叫んだ。
「一番右の女の人、やばいっ、早く逃げないと」
は?と賢人が七海とスクリーンを見比べた。
「やばいって、なにがですか」
だってほら、と七海がスクリーンを指差した。
「背後からゾンビに襲われようとしてますっ」
は?ともう一度言いながら賢人がスクリーンを見た。
「ゾンビって、この両手を挙げた人ですか?」
「さいです、他に誰がいますか?」
なるほど、と早希が感心したように頷いた。
「ここにいる全員が襲われてゾンビになり、キリストの遺体も噛まれてキリストもゾンビウィルスに感染すると」
「あ、キリストが復活するってそういうことなん?ゾンビウィルスに感染してゾンビとして復活すると」
聖書にそこまで詳しくは書いてありませんでしたが、サキちゃんがそう言うんならそうかもしれませんね、と賢人が投げやりな口調でため息をついた。
ところで、と早希がスクリーンを見た後賢人の顔を覗き込んだ。
「マラーを殺したのって誰なんですかね?風呂でってことは彼の家の中ですよね?旧王党派の屈強な男達が押し込んで殺したんですか?」
いえいえと賢人は手を振った。
「彼を殺したシャルロット・コルデーは貧乏貴族出身の女性です。強硬に革命を推し進めようとする山岳派に対し嫌気が差していた彼女は、ルイ16世などが処刑される前、早い段階で革命の一応の完了を目指したジロンド派を支持し、政治活動に傾倒していきます。しかし、一時は政権を取っていたジロンド派は、革命の混乱に乗じて攻め込んできた他国に対する対外政策に失敗するなどして勢力を失い、ついには主要メンバーが山岳派によって捕らえられ政治的基盤を失ってしまいます。その翌月、彼女は凶行に及ぶ訳です」
なるほど、と七海は頷いた。
「さっき、ダヴィッドがマラーを政治的殉教者に仕立て上げようとしたって言われましたけど、まさしく政争の中で殺されたわけですね」
「そういうことになりますね。殺したシャルロットの方も、確たる信念を持っての犯行でしょう。その証拠に、彼女は犯行後逃亡をせずにその場に留まっていたと言われていますから」
ふむう、とそこで腕を組んだ早希が首を傾けた。
「しかし、マラーの方だって有力な政治指導者だったんですよね。警戒はしてなかったんですかね?」
「もちろんしていました。通説では、シャルロットはまず身分を偽って彼の家を訪れたのですが、警戒した彼に面会を断れています。そこで彼女は事前に彼に手紙を送りました。ほら、彼が手に持っているのがそれです。そこには、自分は大変不幸な身の上で、あなたの庇護を求める資格があります、と助けを求める言葉が書いてあります。ただ、日付が暗殺日になっているのは少し変ですが。シャルロットはその上で再びマラーを訪れたのです。マラーの妻は怪しんで追い返そうとしますが、マラーは面会を承諾し、かくして、というわけです」
が、と一度そこで言葉を切った賢人は続けた。
「これは、マラーが慈悲深い性格であったという逸話を作るための後からできた創作で、実際は勤王派の情報を持っている、と偽って彼に近づいたというのが正解のようです」
「まあ、プロパガンダの絵ならそんなもんでしょうね」
「はい。机の上にも、兵士の遺族に与えないさい、という手紙と一緒に紙幣がおいてあるところもちょっと徹底し過ぎって気もしないではないですがね」
そして、と賢人はうれしそうに続けた。
「この絵は大量の複製が作られプロパガンダのために使われましたが、山岳派の重鎮ロスピエールの失脚と共に表舞台から消えていきました。そして、権力の移り変わりの中で、今度はマラーを殺したシャルロットの方が英雄扱いされていくのです。マラー暗殺後もその部屋に留まり逮捕された彼女でしたが、毅然とした態度を取り続け、死刑判決を受けて4日後には処刑されてしまいます。しかし王党派が力を取り戻すと今度は逆に革命強硬派のマラーが悪、彼を暗殺したシャルロットが英雄になり、その美貌も相まって彼女は「暗殺の天使」と称されるようになります。そうなると、ダヴィッドの絵には描かれていなかった彼女をマラーと対比させた絵や、彼女の方を主役然と描いた絵も描かれるようになるわけです。例えばこれ、ポール・ボードリーの『マラーの暗殺』ですね」
ほおう、と七海は顎に手をやった。
「これは、狙ってきてますな」
あ、と賢人が笑った。
「わかりました?」
わかりまいた、と七海は頷いた。
「ダヴィッドの絵、この絵のシャルロットちゃんの立ってる辺りから見た感じになるんじゃないですかね?ちょっと近すぎる感じもしますけど」
そのとおり、と賢人が楽しそうに言った。
「机代わりに使っていたらしい木箱の位置も大体一緒なんですよね、これ。ダヴィッドの絵のオマージュだってことがなんとなく想像できますよね。そもそもからして、この頃のお風呂の形ってこんなんじゃなかったらしいのですが、マラーがわざと四角いお風呂にしたそのままに描いているところもオマージュ入ってるって気がしますね」
ほうほう、と早希が頷いた。
「ちなみに、どんなお風呂だったんですか。なんか絵あります?」
もちろん、もちろん、と賢人が楽しそうにタブレットを操作した。
「これ、ジャン=ジャック・オエールの『マラーの死』、当時はこんな感じの風呂だったらしいのですが、ダヴィッドは絵ずらが映えるようにわざとあんなお風呂にしたらしいですよ」
うわ、と七海と早希は同時に声を上げた。
「これは入りにくそうだな」
「うむ、風呂の形についてはダヴィッドくんに一票あげたいところだ」
更に、と賢人が続ける。
「ついには、シャルロット自身が絵の主題として、彼女の肖像画や逮捕の様子、そして裁判や牢の中での姿などが描かれるようになったのです。実際のところ彼女がどれほどの美貌の持ち主だったのかはわかりませんが、絶世の美女という尾ひれまでついて」
あーはいはい、とだるそうに七海が頷いた。
「絶世の美女にして強固な信念の持ち主で信念に基づいて行動して非業の最期を遂げる、とくりゃあ、いかにも世間一般の男が好きそうな女ですよね、ねえ、副部長?」
「だから、何故こういう時だけ肩書で呼ぶのですか?」
例えばこれ、とスクリーンに一枚の絵を映し出してから、賢人は七海を向いた。
「彼女を描いた絵で有名なところではこれ、トニ・ロベール=フルーリーの『カーンでのシャルロット・コルデー』とかですね」
ほう、と七海が感心したように頷いた。
「なるほど、“いかにも”ですな」
「はい、まさしく“いかにも”な感じの絵ですね」
他にもいろいろとありますからまた探してみてください、と言った後、賢人は軽く肩をすくめた。
「ぼくもシャルロットについては以前にいろいろと調べたことがあるんですが、結論から言えば彼女は良くも悪くもごくごく普通の人間、という印象ですね。マラーの暗殺事件がなければ、歴史に彼女の名前が残ることはなかったと思います」
「しかし、マラーを暗殺したことによって歴史の名を刻み、そして数々の有名画家が彼女の姿を残した、か」
ふうむ、と言った後七海はため息をついた。
「これ、こんなことがあると、鬱積してストレスためた奴が騒ぎを起こすために殺人事件とか起こすの、わかるような気がしますよね。ああ、おれはこのまま誰にも知られずみじめに死んでいくのか、とか思った奴が、人々の記憶に残るような凄い事件を起こしてやる!とかなるの」
さあ、と賢人は首を振った。
「犯罪を犯す人の心理などぼくには知りようがありませんが、そう単純なものではないと思いますけどね」
さて、とカーテンの閉まったままの窓の方を向いてから賢人は二人に向き直った。
「だいぶ遅くなってきましたから、最後に一枚か二枚、マラーの絵を見て今日はお開きにしましようか」
「うす」
「では、締めにふさわしい奴をお願いいたします」
はい、と言いながら賢人は一枚の絵をスクリーンに映し出した。
「これなんていかがでしょうか?」
七海と早希は黙り込むとじっとその絵を見つめた。
やがて、早希が絞り出すようにして言った。
「こ、これは?」
「これはエドヴァルド・ムンクの『マラーの死』ですが、どうしました?」
大きくため息をついた七海は、やってくれたよ、ムンク、と吐き捨てるようにして言いながら机を叩いた。
「今日は久しぶりにいい気分で絵を見れたのに、全部ぶち壊しだよ、ムンク」
「ああ、相変わらず凄まじい破壊力だな、ムンク」