まつろわぬ者(後編)
七海さんっ、とうれしそうに叫びながら美術準備室に飛び込んできた沙織に、七海と早希は振り返った。
「昨日の続きの話をやりましょう!」
昨日の続きというと、と半眼になった七海は沙織を向いた。
「何の話でしょうか?」
「もちろん堕天使の話に決まっています」
じっと半眼で沙織を見つめた後、顔を見合わせた七海と早希は沙織に頷きかけた。
「つまりは」
「自分語りをやりたいということですね?」
はい、と沙織はうれしそうに頷いた。
「そうなのです、自分語りをやりたいのです!」
ちくしょう、と言いながら目を腕で覆った早希が天を仰いだ。
「何、この鋼の心臓?全然皮肉とか通じねえよ、この人」
「神様って不公平だよな。神は二物を与えずとかいうけど、この人美人な上に歪んだ心まで兼ね備えているもん、羨まし過ぎる」
そこは普通の人なら、神様ってちゃんと見てるよな、と言うところなんですけどね普通、とため息をつきながら賢人が部室に入ってきた。
「あ、賢人さんこんにちは」
「どうも。それと、“ああいう部分”で沙織さんのことを羨ましがるとか、サキちゃんもちゃんと一物は与えられてるとぼくは思いますけどね」
あ、そうですかぁ、と満更でもなさそうに頭の後ろで手を組んで賢人に向かってポーズをとった七海に、賢人は再び嘆息した。
「“もう一方”の方ですよ、あなたに与えられたのは」
ちっと舌打ちしながら脇を向いた七海から沙織に視線を移しながら、賢人はカバンを置いた。
「昨日の続きというと、天使と悪魔の戦いの絵ということですか?」
いえ、と沙織は首を振った。
「堕天使が天使にやられている絵は不愉快なので」
「まず、なんでそこで不快に感じるのかわからんのだが」
七海を無視して沙織は続けた。
「できれば堕天使、悪魔ではなくあくまでも堕天使をテーマとした絵を見たいのです」
あくまでも、ってシャレのつもりかな、と囁いた早希に、お前が聞け、と七海が囁き返す。
堕天使の絵、ですか、と顎に手をやり少し考えた賢人はすぐに頷いた。
「詳しいという訳ではありませんが、幾つか思い浮かびました。では今日は堕天使の絵をテーマに見ていきましょうか」
ちらっと七海に目を走らせてニヤリと親指を立てた沙織に、なぜあんたに勝ち誇られりゃならんのよ、と七海はわずかに口を尖らせた。
机の上に放り出すようにしておいてあったタブレットパソコンを手に取った賢人は、コードをつないだ早希に軽く頭を下げてからそれを操作した。
「最初に、これなんていかがでしょうか?」
おおっ、と三人は頷いた。
「これは、賢人さん最初から攻めてきましたな」
うむ、と早希も満足そうに頷いた。
「マッチョでハンサム、そしてその目つきに険があっていかにもって感じに悪の香りが漂っていますな」
はい、と好反応に賢人が少しうれしそうに頷いた。
「これはアレクサンドル・カバネルの、その名もズバリ『堕天使』です」
ほおう、と頷いた七海は、そこで早希を向いた。
「カバネル、って聞いたことあるような気がするな」
「あれだよ、この前見た、ヴィーナスの」
ヴィーナス?と少し考えた後、七海は、おおっ、と頷いた。
「おお、あの昆虫のヴィーナスか」
「そうだ、自分が生まれる前に子供作ってた、あのタイムパラドックスヴィーナスだ」
そういう事実はありませんので、と賢人が嘆息する。
しかし、と沙織も満足そうに頷いた。
「これはなかなか素晴らしい絵です。気に入りました」
けど、と早希がからかうように沙織を見た。
「太股で上手く隠しているけど、太股めくってみたら股間が鳥頭だったりして」
「スカートめくる感覚で太股を語るな」
あのう、とため息をつきながら賢人が早希を見た。
「その、股間股間、て連呼するのやめませんか?仮にもここは学校ですよ?」
「仮の学校?」
「いえ、普通の学校ですが」
そう言ってため息をついた賢人は首を振った。
「美術準備室でやっているうちはいいですが、廊下を歩いている時にとかにうっかり股間股間言ってると先生が集まって来て怒られますよ」
つまりは、と早希は神妙な面持ちで頷いた。
「陵上は股間!股間!と廊下で叫んでいたらわらわらと先生が集まってきてついには全員集合するというという変わった学校ということですな?」
「お気の毒ですがここはそういう変わった学校ではありません」
もう何度目かの嘆息の後、賢人はもう一度ため息をついた。
「そんなにふざけてばかりいると、本当にいつか大怒られしますよ」
ほう、と七海が挑発的に笑った。
「どれくらい怒られると?」
いいでしょう、と賢人が静かに言いながらタブレットを操作した。
「これくらい怒られるんですよ」
おおっ、と言いながら、スクリーンを凝視しながら七海と早希は一歩退いた。
「こ、これは、怖い」
「確かに、これは凄まじく怒られていますな」
これは、と沙織が興味深そうにスクリーンを覗き込んだ。
「この絵は?」
「これは、ウィリアム・アドルフ・ブグローの『オレステースの悔恨』です」
そ、それで、と唾を飲み込みながら七海は賢人とその絵を見比べた。
「この人はどんな悪いことをしたんですか?やっぱり学校で先輩をおちょくったんですか?」
そういうことをした人もこれくらい怒られて欲しいものですが、と言った後、賢人は肩をすくめた。
「父親を殺した母を殺したため、復讐の女神エリーニュスに叱責されているのです」
「へ?」
「なんと!」
と七海と早希は顔を見合わせた。
「それって、日本なら父の仇を取って見事本懐を遂げたメデタシメデタシ、ってことになるんでないかい?」
「うむ西洋人の価値観てやっぱり理解不能だな」
そんでもって、と早希は絵の一点を指さした。
「その白い布めくると、やっぱり股間が鳥頭だったりして」
おお、と七海が感心したように頷いた。
「母殺しなど悪魔の所業というわけですな、納得でございます。つまりはこの男もすでに堕天しているというわけで?」
オレステースはもとから普通の人間の男性です、と賢人が嘆息する。
「ちょっと話がずれてきましたね。元に戻りましょうか」
言いながらタブレットを操作した賢人は、次はこんな堕天使はどうでしょうか、と一同を見回した。
だあ、と言いながら七海が舌を出して顔をしかめた。
「また、さっきとはかなりギャップが酷いところを攻めてきましたな」
うむ、と早希も頷いた。
「しかしこれ、このやる気のなさそうな顔こそ、ザ・堕落天使、って気もしないではないな」
これは、と賢人が頷いた。
「オディロン・ルドン の『「夜」 Ⅲ. 堕天使はその時黒い翼を開いた』です。絵ではなく版画ですね。これは岐阜県美術館に収蔵されていて、美術館のHPから検索すれば見ることができますよ。オディロン・ルドンは19世紀末に登場した象徴主義を代表するフランスの画家で、岐阜県美術館はオディロン・ルドンとその周辺の作家たちを積極的に収集し、個性豊かなコレクションを形成しているのです(『岐阜県美術館』HPより抜粋)」
うむうう、と腕を組んだ早希はその絵を睨みつけた。
「わざわざこんな絵を手に入れて収蔵しているとは、岐阜県民あなどるべからず、だな」
けどさあ、と七海は顔をしかめたままその絵を見た。
「働き始めてさ、隣の席がこんな顔した奴だったら嫌だなあ。絶対こいつ仕事しねえぞ」
「堕天使に勤勉を期待する方が無理があるのでは?やる気がなさそうな天使の絵ということでしたら、ヨハン・ネポムク・エンデルの描いたごろ寝をしている堕天使達の絵もなかなかのものですよ」
あと、と賢人がタブレットを置くと書架に手を伸ばし、取り出した美術書をめくる。
「代表作とは程遠いため、ネットで見つけるのはちょっと難しいですが、エドゥアール・シボーの堕天使の絵もなかなかに秀逸です。これです」
おおっ、と七海が頷いた。
「これも、ザ・堕天使、って感じですね。いかにも何か悪いことを企んでそうなチンピラ風の雰囲気が」
「はい。これは「Edouard Cibot 堕天使」で検索をするとなんとかネットでも見つかります」
こんなのもありますよ、と乗ってきたのか再びタブレットを手に取った賢人がスクリーンに一枚の絵を映し出す。
「これはギュスターヴ・ドレの『サタンの堕落(The Fall of Satan)』です」
ふむふむ、と早希が頷いた。
「なんとなく、ミカエルにやられてやっとのことでここまで逃げてきた感じですな」
「はい。ただ、全然終わった感ないですよね。ちくしょう、今に見てろよっ!て感じで天を見上げて」
じっとその絵を見つめた七海は賢人を向いた。
「たしかルシファーって元は熾天使とかだったんですよね?」
「そうですね」
「確か、熾天使って6枚の羽根があったんですよね?」
「ええ、よく知ってましたね。中でも天使だった時のルシファーは12枚の羽根を持っていたそうです。そのことからも、ルシファーがどれだけ凄い天使だったかわかりますよね」
けど、と七海はスクリーンを指差した。
「ここでは2枚になってますよね。残り10枚はミカエルにむしられてとれちゃったんですかね?」
そんなことぼくに聞かないでください、とため息をついた後賢人は一同を見回した。
「一度はミカエルの軍勢に敗北したルシファーでしたが、全然あきらめてはいませんでした。ジョン・ミルトンの『失楽園』の中でも、ルシファーは敗れた堕天使達を前に『自ら膝を屈するまでは負けではないっ』みたいに演説をしているシーンがあります」
そんな、某漫画のバスケ部の監督みたいなこと言ってたのか、ルシファー。
「ミルトンは『失楽園』の中でルシファーのことを、神の偉大さを認めつつも服従よりも自由を選んだ英雄のように描いています。神に敵わないと思ったルシファーは、神が寵愛していた人間、アダムとイブに対して謀略を駆使して堕落(The Fall)させ、アダムとイブは楽園を追放されてこの壮大な物語は終わります」
なるほど、とうれしそうに沙織が舌なめずりした。
「謀略を駆使して人間を堕落させるわけですか。いかにも私好みのストーリーです」
そんな気がするよ、すごく。
つまりは、と早希が頷いた。
「堕天使側も、ただやられていたわけではない、と」
「そういうことになりますね」
はい、と七海が手を挙げた。
「まあなんやかやありますが、悪魔軍はどうやってもミカエル率いる天使軍に勝てないわけですよね。だったら、天使軍、とっとと悪魔軍やっつけちゃえばいいのに」
はい、と賢人は面白そうに頷いた。
「ぼくもそう思いました。ハルマゲドンなんか待たずに、ミカエルが地獄に攻め込んでやっつければいいのに、って。ただそこはそれ、彼の宗教の宗教上の理由が有りまして」
宗教上の理由?
そもそも、と賢人がしたり顔で言った。
「天使が裏切ったとか悪魔とか、そんな神様の権威を失墜させるような存在がなぜ必要だったのか。そもそもからして、神様が作ったこの世界は完璧で人間はもっと幸せになっていいはずなのに、疫病や飢餓、貧困で多くの人が苦しんでいる。何故?神様は何してるんだ!と人々は思う。すると聖職者はしたり顔でこう講釈を垂れる。確かに神様は完璧な世界を作ろうとなさったが、それを邪魔する者がいる、それが悪魔だ。そのせいでみんなが苦しまねばならないのだ。しかし、神様はその悪魔達を打ち滅ぼしてその後に皆が幸せに暮らせる完全なるユートピアが訪れるのだ。だからその時まで、神を疑ってはいけない。聖職者の言うことには従いなさい、教会に献金しなさい、エトセトラエトセトラ」
えげつねーっ、なにその世界観?
つまりは、と賢人はしたり顔で言った。
「唯一絶対神という彼の宗教では、オールマイティな神様なら今すぐ皆を幸せにしろよ、という大衆の要求を躱すため、必然的に、皆が幸せになれないのは全部悪魔のせいなんです、というスケープゴートが必要だったのです」
だから、とさらに続ける。
「ヴィランである悪魔がしょぼくては、とっとと倒せよ、ということになってしまうので、神様の補佐役の超強力な天使が裏切ったのでなかなか厄介なんですよ、という舞台設定も必要だったのでしょうね」
実は、と更に続く。
「これと同じことを、旧ソビエト連邦でもやっていたのですよ」
は?と七海と早希が顔を見合わせる。
「ソビエトって今のロシアのことですよね?それって、ロシア正教の教義とかそういうことの話ですか?」
いえいえ、と賢人が小さく手を振る。
「昔のソ連は、社会主義体制を取っていました。ちなみに、共産主義は社会主義に至る過程の段階だという説明を聞いたことがあるような気がします」
なんか、そういう話でしたな。
「ソ連の権力者は、社会主義体制が上手く回らず不満を漏らす国民達に、いや、社会主義は理想的で完璧なのに資本主義者達のスパイが邪魔をしているのです、だから皆が幸せになれないんです、だから資本主義者共を打ち倒さなければならないのです、と宣伝していたのです。そしてスパイ狩りを行い、無実の人に拷問で無理やり自白させ、ほら、やっぱりスパイはいたでしょ?とするわけです。実際にスパイを見つけることではなく、スパイがいた、という事実を作ることが大切だったのですよ。これは中世の魔女狩りにも通じるものがあり、実際の魔女を見つけることではなく、拷問を使っても無理やり魔女だと自白させ、ほうらやっぱり悪魔の手下がいたでしょ?という状況を作り出して教会の権威を守っていたのです」
現代の日本に生まれてよかったよ、とかつくづく思うよな、こんな話聞いていると。
じっと考え込んでいた沙織が、突然賢人に向かって鋭く呼びかけた。
「ところで賢人くん」
「あ、はい、なんでしょうか」
「あなたに一つ聞きたいことがあります」
はあ、と賢人は瞬きして沙織を見た。
「なんでしょうか?」
はい、と沙織は頷いた。
「どこかにリアルな鳥」
「まだこだわってたんですか?売ってる店は知りません!」