まつろわぬ者(前編)
「時計屋さん、今何時?」
「帰宅部さん、既に家路」
何をやっているのですか、と美術準備室に入ってきた賢人は、大机に向かい合いわずかに睨み合うようにしながら何事かを言い合っている七海と早紀を見て半眼になった。
賢人の方を見て、うぃ~す、と言った七海と早希は頷いた。
「山号寺号で遊んでいるのです」
「サンゴウジゴウ?」
さいです、と早希が頷いた。
「比叡山延暦寺とか高野山金剛峰寺みたいに、〇〇サン〇〇ジの音になるものを言い合って遊んでいるのでございます。現在の最高傑作は某本で読んだ『グルタミン酸、こんぶの味』で、今これを超えるような作品を生み出している最中なのでございます」
「つまらないことやってないで、絵を見ませんか?」
むっと顔をしかめた二人は同時に賢人を指差すとはもって言った。
「副部長さんヤな感じ」
「副部長さんヤな感じ」
だからもうやめましょうよ、と嘆息したした賢人は、俯いたとたん、わっ、と叫んだ。
肩幅くらいに開いた賢人の股の下の床に寝転んで無表情に見上げた沙織が、賢人目が合うと、やあ、と軽く手を挙げた。
「な、なにをやって・・・?」
そのままの姿勢で、はい、と沙織は頷いた。
「全国150万男子高生憧れの、女子のスカートの中を覗くの逆バージョンなど」
言いながら腹筋の力だけで機械じみた動きで体を起こした沙織は、立ち上がるとスカートの埃を払った。
「ただ、やってみてもあんまり楽しいものではありませんでした」
そりゃあ、と七海と早希は同時に半眼になった。
「ズボン履いている奴の股間見上げても面白くないだろ」
「例えスカート履いてたとしても、賢人さん相手じゃあどっちにしろ楽しくないぞ?」
まさにまさに、と言いながら奥に進んだ沙織がいつもの席に座る。
「まさに早希さんのおっしゃるとおりでした」
額を押さえて嘆息した賢人は、もう勝手にしてください、と言った後、そういえば、と倉庫に行ってタブレットパソコンを手に戻ってきた。
「面白い股間ということでしたら、面白い絵が有りますよ」
七海と早希は顔を見合わせた。
「“面白い股間”というワードで絵を思いつくとは」
「だいぶ病んでますな、この若者」
嘆息しながら、賢人は一枚の絵をスクリーンに映し出した。
なんだ?と七海は顔をしかめてその絵を見た。
「なに、この絵?」
はい、と賢人は頷いた。
「これはフランス・フロリスの『反逆天使の堕落』です」
おお、と早希が頷いた。
「確かに、股間が鳥の頭になっていますな」
しかし、と七海は首をひねった。
「期待してたのとはちょっと違うなあ」
「“面白い股間”に何を期待してたんですか?」
「もっと笑える感じです」
「笑える股間てどんな股間ですか?」
「イメージできないからこそ楽しみにしていたのでございます」
残念そうに七海はため息をついた。
「これはこれでまあ・・けどちょっと変わってるかなあ、程度で」
「いや、リアルに股間が鳥頭の奴がいたら、きみってちょっと変わってるね、程度じゃ収まんないだろ?」
うむ、と七海は頷いた。
「これ、女の子のスカートをめくって、その下に鳥頭の股間があったらトラウマだろうな」
「めくる前に、膨らんでるんだろうから気付け、って話もあるけどな」
しかし、と沙織も満足そうに頷きながら言った。
「これは面白そうです。どこかでリアルに作った鳥頭を買ってきて試してみたいものです」
「沙織さんのスカートめくるとか、そんな命知らずなチャレンジャーなんていませんて」
私のネタをとらないでください、と言った後、沙織はニヤリと笑った。
「私に気がありそうな男子を呼び出し、二人っきりになったところで、めくってみせるというのではいかがでしょうか?」
「いかがでしょうか、って・・・相変わらず女子高生の皮を被った悪魔ですね、沙織さん」
「あなたこそ、地蔵の皮を被ったおっさんのくせに」
女子高生の片鱗も留めていないその生き物なに?
うむ、とそこで早希は顔をしかめて考え込んだ。
「どうしました、チイちゃん?」
いや、と早希は頷いた。
「スカートの中を覗くって、そもそも犯罪になるのだろうかと」
は?と一同は瞬きした。
「いやさ、スカートの中盗撮は犯罪だと思うんですよ。めくるのもアウトかなって」
「めくるほうはどんな罪名になるのかは解りませんが、多分ダメでしょうねえ」
「じゃあ、見るのはどうなん?て。風でスカートがめくれてうっかり見えてしまうこともあるわけで」
はい、と沙織が手を挙げた。
「それはラッキーです」
運が良いとか悪いとかそういう話をしてんじゃねえんだよ。
ふむ、と賢人が考え込んだ。
「線を引くなら、自ら積極的に、かつ、卑猥な目的を持って見に行ったかどうか、ということにでもなるのでしょうかねえ。例えば階段を上がっている女の子の後ろについてしゃがみこんで覗くとか」
けど、と早希が首を振る。
「例えば犯人が、違う!俺はただ純粋にスカートの中を見たかっただけなんだ!俺は自分の気持ちに正直に行動しただけだ!それのどこが悪いんだ!と力説する面倒臭い奴だった場合、警察権力はどのように対抗すればいいのでしょうか?」
それは、と七海が半眼になる。
「それはKくんのことか?」
「ああそうだ、Kくんのことだ」
ああ、と沙織も頷いた。
「あの、進化系人類のKくんのことですね?」
Kくんですか、と賢人もため息をついた。
「確かに彼なら言い出しそうですね、それくらい、って、ここにいる全員が誰のことかわかっているのになんでイニシャルで?」
「個人のプライバシーに配慮してのことですが、何か?」
この部屋でかつて一度でも彼のプライバシーに配慮した会話が交わされたことがありましたか?と賢人は嘆息した。
しかしふむ、と早希がじっくりとその絵を眺めた後、賢人を振り返った。
「こういう絵って、なんか細かいところまで作者のこだわりというか、インスピレーションの限界に挑戦してるというか、面白いですね。この手の絵ってもっとないですかね?」
もちろんありますとも、とのってきた早紀に賢人は嬉しそうに言った。
「実は『反逆天使の堕落』というテーマでしたら、これ、ブリューゲルの絵の方が有名なんですよ」
ほう、と言った後、七海は半眼になってその絵を見つめた。
「相変わらずブリューゲルの絵ですね、ブリューゲル。このなんとも言えないごちゃごちゃ感、徹底してますね」
「はい。サキちゃんの言い方を借りれば、この絵も、絵がブリューゲルしてますね」
しかし、と早希は感心したようにその絵をじっと見つめた。
「よくこんな奇怪な怪物を思いつくものですね。やっぱりブリューゲルって変ですよね」
感心してるのか罵ってるのかどっちですか、と嘆息した後、賢人はタブレットを操作した。
「ブリューゲルは、ヒエロニムス・ボスの祭壇画『快楽の園』、その右翼パネル『音楽家たちの地獄』からこの『反逆天使の堕落』のインスピレーションを得たと言われています。ほら、これです」
画面に映し出された絵を見た途端、他の三人は、おおう、と感心したように頷いた。
「なるほど、インスピレーションを得たというよりも、世界観がほとんど同じってくらい方向性が一緒ですね」
「これ、現代なら、俺の絵を盗ったなっ、って襲撃されるレベルに似てるなあ」
昔はそれでもOKだったんでしょうね、と賢人がわずかに笑った。
しかし、とそこでまたしても早希が首を捻った。
「ボスはどこからインスピレーションを得たんですかねえ?」
さてさて、と賢人が再び笑った。
「そう突き詰めて聞かれても、ぼくの浅い知識ではなんとも。ただ、例えばですが、古い書物の中に奇怪な人種や生き物について書いたものもありますから、そういうものも参考にしたんでしょうね」
「例えば?」
「今日は圧がきついですね。ええと、例えば、プリニウスの『博物誌』とかですね」
プリニウス?と七海と早希が顔を見合わせる。
「きいたことあるな」
「ねえ」
プリニウスは、と賢人が少し考えた。
「昔の学者ですね。大プリニウスと小プリニウスがおりまして、大プリニウスは・・そうそう!先日見たカール・ブリューロフの『ポンペイ最後の日』、あの火山の噴火の時にポンペイの街を見に行って亡くなってしまうんですよ」
おおっ、と早希が納得したように手を打って頷いた。
「あの小銭を拾っていた男、あれがプリニウスですね?」
「ですね、って、違いますよ」
しかし、と言いながら沙織が賢人の手からタブレットを受け取りブリューゲルの絵に戻すと、いまいましそうにその中央を睨みつけた。
「この天使、この手の絵にはいつも出てきているように思いますが、目障りですね」
目障りですね、ってと賢人が嘆息する。
「それは大天使のミカエルですね。確かにこの手の絵ではよく出てきますね」
つまりは、と七海もその絵を振り返った。
「これはハルマゲドンで悪魔達がミカエルにコテンパンにやられるだろう姿を描いた絵というわけですね?」
あ、いえいえい、と賢人が慌てて手を振った。
「昔、ルシファーを大将として神に反旗を翻した堕天使の軍団は、ミカエル率いる天使軍に成す術もなく
やられて地獄に落とされたのです。これはそのシーンですよ」
え、と七海は賢人を見た。
「ルシファーって反乱起こして天国から離脱しただけじゃなく、既に決戦を挑んで負けてるんですか?」
「はい、サキちゃんの言い方を借りるなら、それはもうコテンパンに」
それも、と賢人は続けた。
「ルシファーについて反旗を翻した天使の数は、全天使の三分の一にも及んだという説もあるくらいです。それなのにミカエルには全然敵わなかったというわけです」
ええっ、と七海と早希が顔を見合わせる。
「神様って、全然慕われてなかったんだな」
「例えて言うなら、幹部職員が会社辞める時に三分の一が一緒に辞めちゃったようなものだろ?普通の会社なら営業継続不可能だぞ」
「なおかつ、新会社設立して真向勝負挑んできたようなものだもんな」
そのような状況にあっても、と賢人が頷いた。
「ミカエルには手も足も出なかったという訳です」
うむうう、と腕を組んだ
「優秀すぎるなミカエル係長」
「もっと出世させてやるべきじゃないのか、それ?」
あ、いえいえ、賢人が慌てて手を振った。
「天使の9階位は一種の役割分担みたいなものでもありますから。以前に高位の天使は人間の前には姿を現さないと言いましたが、人間界に姿を現せるようにするためのアークエンジェルという立場でいる訳であって、天使長とも称されるミカエルを初めとする四大天使は最高位の熾天使にして大天使という考え方もあるのですよ」
「それは、専務戦闘係長事務取扱みたいな肩書ということですか?」
「すげえいびつな組織構造だな」
「というよりも、仏教においてお地蔵様が既に解脱して如来になれるだけの修業を終えているのに、その大慈悲の心によって人々を救うために菩薩のまま現世に留まっているのに似てるのではないかと」
「そんな、宗教関係者しかわからんような例えを」
「余計に訳わかんなくなったぞ?」
仏教というのは、と言いかけて賢人は慌てて手を振ると、余計にややこしくなるので止めておきます、と嘆息した。
「まあミカエルというのは、大天使という肩書の枠には収まらない、強大な力を持った天使ということです」
さっき、と七海が沙織を振り返った。
「さっき沙織さんが、この手の絵にはよく出てくるって言ってましたけど、そうなんですか?」
「まあ、そうですね。堕天使と天使の戦いの絵ということになれば、天使側の主人公、神の力と権威の象徴といってもいい立場ですからね、よく出てきます」
例えば、と、失礼しますと沙織が机の上に置いていたタブレットに手を伸ばした賢人はそれを操作した。
「例えばこれ、ラファエロ・サンティの『悪魔を倒す聖ミカエル』です」
おおうっ、と七海と早希が拍手をし、沙織がチッと舌打ちする。
「まさしく、コテンパンですな」
はい、と賢人は頷いた。
「日本では『悪魔を倒す聖ミカエル』という題名で紹介されていることが多いですが、原題はイタリア語で『San Michele sconfigge Satana』、最後のSatanaはサタン、つまりルシファーのことです。つまりやれているのはただの下っ端悪魔ではなく、天使長ミカエルが悪魔軍の総大将ルシファーを打ち倒した瞬間というわけです」
他にもこんな絵もあります、とタブレットを操作する。
「これはドメニコ・ベッカフーミ の『反逆天使を退治する大天使ミカエル』です。これはミカエル率いる天使の軍団が堕天使を追い散らしているところですね。他にもこんな」
賢人くんっ、と沙織が手を挙げながら賢人の言葉を遮った。
「はい、なんでしょうか?」
「ルシファーがミカエルをタコ殴りにしている絵はありませんか?」
「宗教的背景から見て絶対有るわけないでしょ、そんなもの。欲しけりゃ自分で描いてください」