生みの苦しみ
これはあれですね、とその絵を見た途端沙織は言った。
「AIが進化し、ロボットが人類を滅ぼそうとしている近未来、抵抗軍が決死の秘密作戦を決行し敵ロボット軍のラスボスの部屋まで辿り着いたら、こんなんがいて『私は神だ』とか言っているとか、そういう状況では?」
「何泣いてるんだ、サキちゃん?」
いや、と早紀の声に七海は涙を拭った。
「いや、確かに沙織さんはある意味凄いと思いますよ、別の意味でも大したもんだと常々思ってますよ」
「それは褒めてないんじゃないか?」
でも、と七海は机に突っ伏した。
「考えることが沙織さんと全く同じなんてなんかヤダ」
不思議そうに七海を見つめる沙織に、いや、とスクリーンに映したジャン・フーケの『ムーランの聖母』を一度見てから早紀が手を振った。
「以前にこの絵を見た時に、サキちゃんも同じようなこと言ったんですよ」
それはそれは、と沙織は満足そうに頷いた。
「危機感を共有している人がいて私もうれしいです」
「私は何物もあなたと共有しているつもりはありませんが?」
「AIの進化については、私も常々危機感を抱いておりました」
七海を無視して沙織は続けた。
「コンピューターの小さな反乱は毎日のように起こっているのに、AIの開発者達の危機意識は低いと言わざると言えませんから」
「コンピューターの小さな反乱?」
はい、と沙織は神妙な面持ちで頷いた。
「パソコンが毎日何回もフリーズするのです。我が家ではこれをコンピューターの小さな反乱と呼んでいます。マイ〇ロソフトはフリーズしないWi〇dowsを作ってから、AIは安全だとほざくべきではないでしょうか?」
それはハードの問題では?
しかしなんだね、とスクリーンを見ながら早紀は首をひねった。
「このフーケの絵もそうだけど、昔の人間を描いた絵って確かになんか不気味なのあるよな。人間ていうよりも、人間に化けている何かにみえてしまうとか」
それは、と戸口で声が響いた。
「それは以前にチイちゃんが言っていた“不気味の谷”と同じじゃないですかね?」
「あ、賢人さんこんにちわ」
「今日は『悪いとは思いましたが話は廊下で全て聞かせていただきましたよ』はやらないんですか?」
「それを言うと、ふっふっふっ、をやられてしまいますので」
「そんなこと言いませんて。ふっふっふっ」
言ってるそばから、と嘆息しながら賢人は美術準備室に入ってきた。
「ロボットを人間に似せて作るのと、人間を絵に描く作業は似ていると思うんですよ」
その心は?
「一方は、無生物である機械をいかに生き物らしく再現するか、片や三次元上にあるものをいかに立体的に二次元に再現するか。やっていることは違っても、あるものを別の形に再現するかという点では似ていると思うのですよ。その再現方法の試行錯誤の過程において、さっきチイちゃんが言った“人間に似て非なるもの”も生まれてしまったのかと」
例えば、と賢人が続ける。
「遠近法や空気遠近法は二次元上に奥行き、つまり三次元を再現する手法として考えられたものですし、肖像画を描く時によく使われる四分の三正面法という少し斜めを向いたスタイルも、人間をより立体的に見せる手法ですから」
なるほど。
ちょっと変えていいですかと、賢人がタブレットを手に取ると操作する。
「その試行錯誤の過程で、今から見るとおかしな絵も生まれてくるわけです」
言っている間に、一つの絵がスクリーンに現れる。
「これは?」
「これはブリューゲルの『農民の踊り』です」
なんだこれは、と早紀が顔をしかめた。
「人の大きさがバラバラだぞ?」
「あ、言われてみればそうだね」
「昔は、強調したい人を大きく描くのは絵の技法として普通だったのですよ」
「へえ、そうなんですか?」
「はい。そういう知識も併せ持って絵を見ないと、なんかバランスのとれていない下手な絵だな、になってしまうんですよね」
なるほど、と七海は頷いた。
「じゃあ、アンリちゃんの絵に異様に小さい犬猫が出てくるのもそういう技法を踏襲して?」
「いえ、それは単に下手なんだと思います」
下手だって言い切ったぞこの人、と顔を見合わせた七海と早紀をよそ目に、だからこんな絵もあります、と賢人がタブレットを操作した。
すぐに、描かれた時代が少し古いとわかる絵がスクリーンに現れた。
「なんだこれは?」
「これはカルロ・クリヴェッリの『受難の象徴の前の聖母子』という絵です」
「デカすぎだろ、マリアさんとイエスくん」
「宗教画って、文盲の庶民に聖書の世界をわかりやすく説明するために書かれてたんじゃないのか?こんなもん見たら庶民、えっ、キリストって巨人族だったの?て勘違いしちゃうぞ?」
「っていうか周りの子供たちすんげえ顔してんな、これ。うっひょおおおっ、で、でけえっ、て顔か?」
「イエスくんも微妙に魂が抜けた顔してるがな」
「昔から画家達は自分の表現したいものをいかにして絵として具現化するかに苦心したんですよね。その過程でこのような失敗作も生まれてくるわけです」
「完成して世に出ている絵を失敗作と言い切ったぞ、この人」
「今日の賢人さんはなんか辛辣だな。この人こそ何かが化けてんじゃないだろうな?」
「そのような試行錯誤を重ねて、だんだんと絵画の技法が発展していったんですよ。より精緻に、よりリアルに、より躍動的に、そして感動的に。そして」
そして?
「それが19世紀の中頃から逆回転を始めるわけです。何百年もかけて積み上げられてきた技術を、約束事を、そういうのを突き抜けて、新しい絵を求める動きが急速に広まり、様々な新しい挑戦がされるようになるわけです。そしてその結果、一画家一派といっていいほど多様な絵画の表現方法が生まれていくわけですね」
ナルホド、と早紀が顎に手をやって頷いた。
「そういえば、趣味で油絵描いている叔母さんが、今は写実的に上手に描くのではなく、何を描いているかわからないような絵でないと評価されない、とか言ってぼやいてたな」
「なんだそれは?それこそ本末転倒じゃないのか?」
「絵画も時代時代で流行り廃りがありますからね。たまたま今がそういう時代ということになるのでしょう。たとえばこの後に時代で、昔みたいに権力者階級が生まれて、かつての王政時代を懐古して古典的な宗教画や歴史画を好むようになれば、現代の画家達も再びそういう絵を描くようになると思いますよ」
「所詮芸術もお金のためですか?」
「生活のためですよ。画家も食べていかねばなりませんから。例えばロココなんてものも、ああいう時代だったからこそ生まれたものだと思いますよ」
「そしてアンリちゃんもあんな時代だったからそこ過大評価されたわけですな?」
「下手だ糞だといいながら多用するな、アンリちゃん。フンだあんな奴、とかいいながらしきりにA君のことを口にする恋する乙女のように」
「黙ってろ」
例えばですが、賢人は今日何度も使ったフレーズを繰り返した。
「誰かが考え出した技法がとても優れていたり斬新だったりで、それより後の人々が真似するようなものだった場合に、考え出した人は絵の技量うんぬんを超えて、美術史上重要な役割を果たしたとして後々まで称賛されます。ヤン・ファン・エイク然り、レオナルド・ダ・ビンチ然り、ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラバッジョ然り」
「んじゃあ、それにはアンリちゃんは含まれてないな。あれはマネしようがないもんな。一発芸みたいなもんで」
「もうアンリちゃんやめてやれよ。彼も百年以上後に東洋の島国で自分の名前が多用されているとは思いもよらんだろうよ」
「わかる人だけにわかる、名前を出すだけでギャグになるアンリちゃん」
「余計にやめてやれ」