再び アンリちゃん
いつもより遅くなった帰り道。
夕日の残滓が西の空を赤く照らし、街を赤黒く染める。
この時期にしては鮮やか過ぎるほどの夕日が、薄暮の街を奇怪な血の色で彩る。
カァとどこかで鳴いたカラスの声にはっと振り返る。
あ・・・
たった今自分が歩いてきたはずの背後に、見慣れない少女が立っていた。
白い服を夕闇の血の色に染めたその外国人らしい少女、幼児と言ってもいいその子は、左手に持ったメキシカン風の操り人形を掲げて、じっと瞬きもしない見開いた眼で七海を見つめていた。
・・・たの・・・
え?
もら・・・たの・・・
呟くように言いながら、その少女は左手のマリオネットを突き出すようにしながらゆっくりと七海に近づいてきた。
「・・もらったの・・これ・・もらったの・・・」
抑揚のない声でつぶやきながら近づいてくる少女を見ながら思わず唾を飲み込んだ七海は、辺りを見回した。
先ほどまで少し前を歩いていた並んで歩く違う学校の制服姿、犬のリードを持った老夫婦、赤い自転車を軽快に漕いで坂道を上っていた中学生。
夕暮れの道には、七海と少女の他に誰もいなかった。
「・・・もらったの・・・これ・・・」
まるで何者かに操られているかのようにその言葉を繰り返しながら、何も見ていない目で七海を見つめながら、その少女は更に歩みを進めた。
「・・これ・・・もらっ・・・」
ギャアという声とともに梢を揺らして飛び立ったカラスに、ひいいっと頭を抱えてうずくまった七海の上でカラスが円を描いた。
ギャア・・・ギャア・・ギャア・・・
まるで引き寄せられるようにして集まってきたカラスが七海の頭上で渦になる。
「・・・もらったの・・・・」
あっと振り返ると、座ったせいで視線の高さが同じになった少女の顔がすぐ目の前にあった。
カッと喉の赤さをみせつけるかのように口を開いた少女が無表情に、それでも歯を剥いて叫んだ。
「もらったのおおおおおおおっ!!」
おおううううっ!!!!
自室のベッドの上で飛び起きた七海の耳に、走り去るカブの排気音と、隣の家の屋根でのんきにくつろぐカラスのガアガアという鳴き声が聞こえてきた。
ゼイゼイと朝から高い気温のせいだけでない額の汗をぬぐった七海は、ぐっと両手で布団を握りしめた。
こうやって目覚めてみると、夢の中の幼女の顔にははっきりと見覚えがあった。
おのれ・・・
やっぱり・・・
美術所をめくりながら、七海は頷いた。
「やっぱり、貴様であったか?」
どした、と言いながら早紀が七海の手元を覗き込み、おおっ、と頷いた。
「これは言われんでもわかるわ。題名は知らんけど、アンリちゃんの絵だね?」
頷いた七海はその本を早紀に向けた。『赤ん坊のお祝い』という題名のその絵の中で、花束を白い服のポケットに突っ込んだ金髪の幼女が、困ったような顔で、メキシコ人風のマリオネットを左手で掲げていた。
「お祝い、ってこのメキシカンのことだよな、やっぱ」
「贈られても迷惑なようなプレゼントをもらって、明らかに困惑してるよな、この子」
「怒ってるようにも見えるぞ」
こんにちわ、と遅れてやってきた賢人が二人の背後からその絵を覗き込む。
「これは、アンリ・ルソーの絵ですかね?」
はい、と少し体をずらして賢人に位置から絵がよく見えるようにしながら、七海は頷いた。
「昨日この子が夢に出てきまして」
それはそれは、と賢人の顔がほころんだ。
「それは随分和やかな夢をみたん・・どうしました?」
「思いっきりホラーな夢でした」
どうしたらこの絵からホラーな展開が?ねえ?と顔を見合わせる早紀と賢人を他所に七海は頭を抱えた。
「夕闇の中を、この人形を突き出してこの子が迫ってくるのです。ねえ、なんでこんなものくれたの、ねえ、なんで、なんで?なんでこんなものをよこしたんだぁ~~っ、おのれ~~って雰囲気で、迫ってくるのです」
だいぶ病んでますねえ、ねえ、と二人が再び顔を見合わせる。
「先日も、アンリちゃんの絵をオークションにかけようとしたらみんなが怒って帰っちゃった夢を見たんですよ。これはもう呪いですよ、アンリちゃんの呪い」
「最近寝る前にルソーの絵を見てるんですか?」
「全然見てないのに出てくるのが怖いんですよ~。もうこうなってきたら防ぎようがないですよ」
「夢にまで出るって、もうこれは愛だよ、サキちゃん。サキちゃんのがいつもアンリちゃんの絵をけなしてるのは愛情の裏返しなんだよ」
「チイちゃんは黙ってて」
ふむ、と賢人はじっとその絵を見つめた。
「しかし夢に見るのは、やっぱりサキちゃんがルソーの絵を何らかの形で意識しているせいなんでしょうね」
「意識とかというレベルでは無く、ほとんど呪いですよ、これ」
いいえ、という声が戸口で響いた。
「呪いなどこの世にありません」
出たよ。
呪いってワードに惹かれて現れたんじゃないだろうな、この人?
「呪いというのは、人間の恐怖心に付け込んだ迷信でしかないのです」
悪魔に、この世に悪魔などいませんそれは迷信です、って言われてみるみたいだな、沙織さんに言われると。
それと、と部屋に入ってきた沙織は机の上にカバンを置くと七海に向かって頷きかけた。
「絵の下手な人ほど、憧れの気持ちもあって抽象画やシュールレアリスムティックな絵より写実的な絵を好むという説を聞いたことことがありますが、七海さんはいかがですか?」
う、と七海は胸を押さえた。
当たってるかも・・・
ほう、と嬉しそうに早紀と賢人が七海の顔を覗き込んだ。
「そういや、サキちゃんが絵を描いてるの見たことないよな、何でもいいからちょっと描いてみ?」
「それは面白そうですねえ」
いや、面白くねえよ。
これをと、その辺りから適当に探してきた紙と鉛筆を七海の前に置いた沙織は椅子をずらして七海から全身が見える位置で腰かけ、リラックスしたポーズをとった。
「以前に写真部のモデルをつとめたこともある私がモデルになってあげましよう」
「その写真には、全身から立ち昇る黒いオーラや背後霊が写っておりませんでしたか?」
「いいから早くお描きなさい」
先に私の言葉を否定してくれよ。
早紀や賢人相手ならばうまく誤魔化してこの場をやり過ごす自信はあったが、沙織相手ではそうもいかず、七海はしかたなく紙を引き寄せ鉛筆を握った。
二十分後。
背後から肩越しに七海の絵を覗き込んだ賢人がなるほど、と感心したように頷いた。
「もしサキちゃんがルソーと同じ頃に生まれていたら、二十世紀の初め頃には、ミスナナミトダ画伯はシュールレアリスムの旗手として一時代を築いていたかもしれませんね」
19世紀前半に生まれて20世紀前半に売れ出すって、私どれだけ遅咲きの桜なんだよ?その間どうやって生活するの?コンビニでバイトしながら絵を描いてるのか?それとなにさらっとその歳になってもまだミスって確定してくれてんだよ。
どれどれ、と言いながらポーズを説いた沙織が上から七海の絵を覗き込んだ。
とんにその顔に薄笑いが浮かぶ。
「これはどっちが頭でどっちが足ですか?」
そんなことあるかい。
ああっ!と絶叫した七海は描いていた紙を丸めて床に叩きつけた。
「もういいですっ」
まあまあと早紀がその肩を叩く。
「そんなおこらいでも」
うるせえよ、お前らがさせたくせに!と七海は肩を揺すってその手を振りほどいた。
ふうふうと肩をいからせる七海に、遅れてやってきた夏樹が不思議そうに瞬きする。
しかし、と椅子に座りながら早紀が首を傾けた。
「ちょっとおかしなことに気付いたぞ?」
「どうしたんですか、チイちゃん?」
これ、とスクリーンに映しっぱなしになっていたルソーの絵を指し示しながら早紀は賢人を見た。
「少なくとも、アンリちゃんの絵は公の場で公開されたってことですよね。そうでないと例え少数でも支持する人は出てこないわけで」
「そうですね」
けど、と更に首をひねる。
「そのころの絵の展覧会って、だれでも出品できたんですか?」
「いいえ」
一般的に、と賢人が頷いた。
「画家として成功するには、官選のサロンに出品し入賞するか、しなくても話題になるくらいは必要だったのですが、出品には審査がありました」
ちなみに、と賢人は再び頷いた。
「ルソーはこの審査に一度も通ったことはありません」
だしょうね。
じゃあ、と早紀も賢人に頷きかける。
「個展でも開いたんですかね?税関時代の給料の貯金で」
いやいやと賢人は首を振った。
「アンデパンダン展に出品したんですよ」
「パンダ店?」
「聞き取れたとこだけで理解しようとするからいつまで経っても、番犬、とか言ってるんですよ、サキちゃん」
口を尖らせた七海をよそに、賢人は続けた。
「アンデパンダン展とは1884年にフランスのパリで初めて開催された、無賞・無審査・自由出品を原則とする美術展のことで、その後世界中に広まっています。ルソーはこれに出品していたのですよ」
よけいなことしてくれたもんだよ、と七海が吐き捨てるように言った。
「そんな展覧会さえなければ、アンリちゃんが日の目を見ることはなかったろうに」
「逆に、たまたまそんなものが出来たタイミングだったからこそ、サキちゃんよりは少しマシな程度のアンリちゃんでも画家として成功できたわけか」
「こう言ってはなんですが」
と賢人が嘆息する。
「アンリ・ルソーはあの時代の美術界で果たした役割は大きいのですよ?」
はい、と七海と早紀は同時に手を挙げた。
「功績1、ああ、こんなんでも展覧会に出していいんだ、と人々に思わせ絵画人口の増加に寄与した」
「功績2、自分のこの稚拙な絵なんて、と出すかどうか迷っていた画家志望の若者が、あいつのあの絵でも出てるんならと多数出品してアンデパンダン展に盛況をもたらし、アンデパンダン展が世界中に認知されるきっかけを作ることに寄与した」
「功績3、ルソーの家の近くの画材屋の売り上げの微増に寄与した」
「功績4、ユダヤ教のラビが」
もういいです、と賢人が早紀の言葉をさえぎって嘆息した。
「人物画はともかく、熱帯のジャングルを描いた絵とかは独特の雰囲気を持っていてすばらしいと思いませんか?」
はい、と七海は逆らわず頷いた。
「なんでもルソーは、ナポレオン三世に従軍してジャングルに行ったと言っていたそうですが、実際は嘘らしいと本で読んだことがあります」
「ジャングルどころか、フランスから出たこともないらしいぞ?」
また悪口だけはポンポンと、と賢人が嘆息する。
まああれだよね、と七海は頷く。
「犯罪者だけど、実際にタヒチまで行って絵を描いたゴーギャンの方がまだマシだよね」
「ゴーギャンのどこが犯罪者なんですか?」
「幼な妻と称して、いたいけな現地の少女を。あとはご想像におまかせします」
「その点に関しては現在と価値観が違うのですよ」
賢人は嘆息した。
「イギリスでは12歳で結婚できたんですから」
げ、小学生で結婚とかかよ。
例えば、と言いながらタブレットを取った賢人は一枚の絵をスクリーンに映し出した。
「例えばこれ、『飢えたライオンは身を投げ出してカモシカに襲いかかる』なんかが代表作ですね。生い茂る木々と沈む太陽に、熱帯のジャングル雰囲気が出てるでしょ?」
うっ、と早紀が顔をしかめた。
「見たことある絵だけど、それカモシカだったの?」
「どう見てもイノシシだよな?」
またそんな悪態を、と賢人が嘆息し、ここまで黙って聞いていた夏樹が笑う。
「そもそも、ルソーは見たことないはずのジャングルをどうやって描いたんだ」
それは、と賢人が頷いた。
「既に世界中の大陸は知られていましたし、未知の大陸を調査する探検隊も公私問わず派遣されていましたから、彼らがもたらした報告書をもとに描かれた図本なんかも出てたんですよ。参考とする絵には困らなかったと思いますよ」
そもそもからして、と賢人が続けた。
「画家が参考にする画材集とかそんなものは昔からありましたから。まあ、たまに実際とは違う絵が載っていたりはしたそうですが」
「へえ、そうなんですか?」
「ええ、日本にも絵の題材を解説した本は昔からあったみたいですよ。例えば、仏陀は誰が描いてもそれっぽくなるでしょ?あれは、仏の三十二相という仏陀の姿の特徴があって、そのとおりに描けば誰が描いても仏陀らしくなるのですよ」
ほうほう、と頷いた早紀がスマホを取り出して検索する。
「なになに・・『味中得上味相』特徴は、何を食べても食物のその最上の味を味わえる・・って、これをどうやって絵にしろってんだよっ!ふざけてんのか?!」
中にはそういうのもあるみたいですね、とあまり気にせずに言った賢人は、タブレットを手に取った。
「まあ、造船や航海術の発達により、未開の土地の珍しい文物や絵、写真なんかがヨーロッパにもたらされ、人々の関心や興味がオリエンタルやエキゾチックなまだ見ぬ国に向き始めてきた時代だったというのはあるでしょうね。そういう意味では、独特の画風で人々が憧れるような南国情緒描けたルソーも時代が味方した画家だったのかもしれませんね」
ルソーの絵の中で、と賢人がタブレットを操作した。
「ぼくが好きなのがこの『蛇使いの女』ですね。どうです、何か独特の迫力というか、美しさがあると思いませんか?」
その絵がスクリーンに映し出されたとたん、うむ、と七海は唸った。
「これは、まあ確かにアンリちゃんらしからぬというか、なんとも神秘的で雰囲気のある絵ですね」
でしょ、と賢人がしたり顔で七海に微笑みかけた。
「ルソー自身がこの絵を自身の代表作と位置付けているようですね。まだまだ評価されていなかった時代にある事件で警察に捕まった時も、自らを画家と名乗り、代表作としてこの絵を挙げたそうですよ」
なるほど、と言いながらじっとその絵を見つめた後、七海は賢人を振り向いた。
「これ、シルエットになっていて顔が見えませんが、実はこれは女装したジョゼフ・ブリュメールということはないでしょうか?」
は?
「誰ですか、その人は?」
素早く自らのスマホで検索した七海は、その画面をぐるりと皆に見えるように掲げた。
「この『ジョゼフ・ブリュメールの肖像』のおっさんです」
だあ~~と七海以外の全員がげんなりとした顔になった。
「そういうことやめませんか?」
「もう無理だよ、この蛇使いの絵を見る度に、このシルエット姿がこのおっさんに脳内変換されちゃうよ」