それは言えない(後編)
「え、何?」
「息子が?」
顔を見合わせた二人に、喉からひいいいっ、という声を出した夏樹が両手で口を押え、むっとした表情で賢人が無言で頷く。
「えっえっ、あれ?」
「なんで息子がそんなところに?。そもそもサトゥルヌスは自分の子供は全部食べちゃったんじゃないんですか?」
じっと絵と賢人の顔を見比べていた早希が、突然、おおっ、と叫んで手を打った。
「わかった!それってきっと何かの暗喩になってるんだよ。聖書とかにあるんでない?『・・神は常にあなたと共にあります。それはまるであなたの息子があなたの股間に立っているのと同じように』とかなんとか」
「いや、息子は常に股間に立ってたりしないだろ」
椅子を倒して立ち上がった夏樹が必死に開いた扉を叩きつけるようにして閉めると廊下に駆け出していくのを、むっつりと賢人が見送った。
少し遅れて、くぐもった笑い声が扉を通して遠くから響いてきた。
きょとんとした顔で七海と早希が顔を見合わせる。
「私、何か変なこと言ったか?」
「さあ、常に立ってる、辺りでないかい?」
不思議そうな顔でもう一度扉を見てから、二人は頷き合った。
「なんか面白そうだねえ、二人でこの絵の意味解いてみようか」
「あ、いいね、やろっか」
いや、ちょっと待って、と立ち上がりかけた賢人を、七海はにっこりと制した。
「あ、待って待って、ここは二人で考えさせてください」
「そうそ。賢人さんはそこで聞いてて、もし合ってたら、それで合ってるって言ってくださいね」
「それと、もしどうしてもわからなければ、後でヒントくださいね?」
絶望的な表情でため息をついた賢人が力なく椅子に座る。
「まずイメージしてみようか」
言いながら早希が取り出したノートにサトゥルヌスの輪郭を描く。
「お、上手い上手い」
「ねえ、賢人さん。立ってたって、サトゥルヌスの体に垂直な感じですかね?」
そんな感じじゃないっすかねえ、と俯いたままの賢人が投げやりな様子で呟く。
ふむ、と早希がノートのサトゥルヌス股間部分に小さな人の姿を描き足す。
う~む、と二人はその絵を覗き込んだ後ため息をついた。
「わかんないね、何にも」
「う~ん、これだけじゃあねえ」
ため息をついた後、二人は顔を見合わせた。
「やっぱ、これ、聖書とか神話の基本的な知識がないと解けないんじゃないかな?」
「じゃあ、とりあえずわかってることから整理してみようか」
ポスターを向いて椅子に座った二人はじっとそれを見つめた。
「チイちゃん、サトゥルヌスの神話知ってる?」
「うん、この前の入部試験の前に少しだけ。サトゥルヌスは大地の女神ガイアと天空神ウラヌスの子供で、大きくなると父ちゃんを殺して神様の王になるの。ウラヌスは殺される時に「お前も自分の子供に殺されるだろう」って言い残したの。それを恐れたサトゥルヌスは自分の子供を五人まで食い殺しちゃうんだけど、とうとう六人目のゼウスに殺されちゃうんだよね」
う~ん、んと絵をじっと見ながら二人は考え込んだ。
「わかんないねえ・・・」
「うん。ねえ、賢人さん、息子っていう限りは男の子限定でいいんですよね。女の子じゃないんですよね?」
いいんじゃないっすかぁ、と俯いたままの賢人が再び投げやりに答える。
う~ん、と再び二人は首を捻った。
「子供を次々に食べちゃうわけだよね。じゃあさ、じゃあさ、次に食べる分の子供、股間のところで太股に挟んでたんじゃない?」
「股間に食料備蓄ってか?何者だよサトゥルヌス。それにこの絵股開いてるし、その男の子が立っているってこととも矛盾しなくないか?」
腕を組んだ二人はじっとポスターを見つめ続けた。
どれくらいそうしていただろうか、はあっ、という早希のため息が響き渡った。
「もうっ、わかんないや。ねえ、賢人さん、ヒント下さい、ヒント!」
二人のやりとりを聞きながらため息をつきっ放しだった賢人が再びため息を漏らした。
「あのねえ、二人とも」
疲れたような目で、賢人が早希と七海を順番に見た。
「ぼくが言った息子っていうのは・・その、なんていうか、本当の息子じゃないんだよ。わかる?」
「は?」
「本当の息子じゃ、ない?」
「つまりね、ぼくが言ったのは・・」
待てっ!てとでも言うかのようにパッと手を挙げた早希が、じっと机の表面を見つめた。
突然、息を吸い込みながら目を見開いた早希と七海はうれしそうにお互いを指差した。
「養子っ!」
「そうっ、それっ!」
賢人の特大のため息が美術準備室に響き渡る。
「くうううっ、考えたなサトゥルヌス!」
「自分の子供だったら殺されるからな。自分の子供は喰らいつつ、養子を迎えて育ててたわけか」
「でも何で股間なんだ?なんでそんなところで子供育てるんだ?」
「さあ。ペンギンが股間のところで卵温めるのと同じなんでないかい?」
「だから何者だよサトゥルヌス。あんたサトゥルヌスのこと何だと思ってるんだ?」
「ともかく次はこの線で考えてみようか」
「いいねー、そーしましょ、そーしましょ」
二人が言葉を発する度に、賢人のため息がその口からこぼれた。
だあああああああっ!
絶叫した七海が机を叩きながら立ち上がった。
「ああっ、もうわかんないっ、全然わかんないっ!!!」
ほんと、と言いながら疲れたような表情で、早希が思いつくままを書き留めていたノートの上にシャーペンを投げ出して突っ伏した。
「もう無理、限界・・」
はあ、とがっくりと首を垂れながら七海が椅子に座った。
「ここまで頑張ったんだから答えまで辿り着きたかったけど、外も暗くなってきたし・・・。賢人さん、降参です。この絵の意味を教えてください。早希、いいよね?」
顔にほつれた髪をかけたまま早希もだるそうに頷く。
は?
「だから、ほら股間に男の子が立っている、っていうこの絵の意味ですよ」
それは・・と言いながら凝然と七海の顔を見つめた賢人は、ゆっくりと息を吐きながら、目を隠すかのように額に手を当てて俯いた。
「言えません。それは・・私の口からは」
ええ~~っ、と不満そうに七海は賢人の顔を覗き込んだ。
「なんでですか。意地悪しないで教えてくださいよ」
目元を隠すように更に俯いた賢人は小さく手を振った。
「意地悪ではないんですよ・・これは。言わないんではないんです・・言えないんです」
「だから、なんでですか?」
「それも・・言えません・・」
もうっ、と言いながら早希が机の向かい側から這うようにして賢人の顔を覗き込む。
「だから~、なんでなんですか。賢人さんらしくもない」
両手で顔を覆った賢人はため息をつきながらハアハアと肩で息をした。
「それも・・・察してください、無理なんです・・・それは、言ってはいけないことなんです・・・」
男の自分からは、とその口が小さくつぶやく。
「・・家に帰ってご両親にで・・いや、ダメダメダメっ・・・ええと、詳しいお友達とかがいればその方に・・・」
「絵に詳しい友達とかいませんよ、もうっ。いればとっくに絵画鑑賞部に誘ってますって」
そうだ!と言いながら賢人は顔を覆っていた手を僅かに離した。
「美術室に三輪さんとかいないですかね・・・彼女に・・・あ、僕がそう言ったって内緒で、あくまでも自発的にって感じで・・・」
もうっ、と早希が唇を尖らせた。
「三輪さんが普段来てるわけないでしょ?受験生なんですよ?」
その割には部長は毎日来てるよなあと思いながら七海も頷いた。
「お願いですよお~っ賢人さん。私ダメなんですよ。クイズとか答わからないままだと夜眠れなくなっちゃうタイプなんですよ」
「私も~~っ」
だから~~~~~っ!!!
再び手で顔を覆った賢人の口から絶望的なため息が漏れた。
「無理なんです・・・言えないんです・・・」
突然扉が開き、おいっ!!という声が美術準備室の中に響き渡った。
「いつまで残ってるんだ!!」
体の割に声がでけえな、と常々思っていた加納の声が美術準備室の中に響き渡った。
「遅くなったから今日は直帰しようと思ったら校門のことろから明かりが漏れてたから消し忘れかと思ったら・・・そこで南くんが「腹筋が、腹筋が・・」とか言いながら悶えてるし」
あ、あの人まだいたんだ。
「あ、部長いいところに来てくれたっ」
ほっとしたような七海の声に、ん?と眼鏡を直しながら加納が彼女を見た。
「なんだ、どうしたのかね?」
「賢人さんが意地悪するんですよ」
「ほう、白石くんがか?」
意外そうに、加納が両手で顔を覆ったままの賢人を見る。
「そうなんですよ~っ、この絵」
と早希が『我が子を喰らうサトゥルヌス』のポスターを差し示す。
ほう、と加納がうれしそうに一歩踏み出した。
うずるな、と思いながらも、七海もポスターを指示した。
「部長、この絵について詳しいですよね?」
「まあな、何でも聞いてくれ」
加納が胸を反らせた。
この部分、と言いながら早希が黒く塗られた部分を指し示す。
「ここ、後で塗り潰されたんですよね」
「そうだ」
頷いた加納に早希も頷いた。
「そこに男の子が立ってる姿が描かれていたことによって、ゴヤがこの絵にどのような意味をもたせようとしていたのか、謎かけだけ出して、答をおしえてくれないんですよ、賢人さん」
「何?男の子だって?どういう意味かね、それは?」
あれ、と言いながら早希が天井を向きながら額に人差指を当てた。
「違ったっけ。ええと」
「息子」
「あ、そうそう、息子がここの股間の所に立ってるって」
両手で顔を覆ったまま、賢人ががっくりとうなだれた。
「何を言ってるんだ、二人とも」
美術準備室の中に入りつかつかとポスターに向かって歩きながら加納が早希と七海を順に見た。
「股間で息子が立っているというのはオ×××××んがボ×しているという意味の暗喩だぞ」
は、と早希と七海が目を見開く。
「知らんのか。男は興奮するとだな、オ×××んがボ×するのだ」
ポスターの股間の辺りを撫でながら加納が言った。
「つまりだな、この絵はサトゥルヌスが興奮しながら我が子を喰っていると描くことで彼の狂気をより強烈に表わそうとしたのだよ。我が子を殺すなど許されない、しかしそうしないと自分が殺される、そのギリギリの状況の中で、死にたくない一心で自ら狂気に陥り我が子を殺す、喰らうという殺し方、興奮、ということで彼の絶望と狂気がどれほど深いかを表現しようとしたわけだな。ふん、それを塗り潰すなど愚かな、本当に愚かな」
ぶちょーーーーーっ!!!と絶叫しながら立ち上がった賢人が、ポロポロと涙を流しながら加納の両手をしっかりと握った。
「今日ほど・・・今日ほどあなたのその鈍感・・・いや、その性格が頼もしいと思ったことはありませんっ!!」
うむ、と加納は満足そうに胸を反らせた。
「よくわからんが、私は常に信頼に足る部長たらんことを心掛けているつもりだ」
なんだ~~、とため息をつきながら早希が不満そうに唇を尖らせた。
「オ×××××んがボ×しているのが描いてあっただけなのか。つまんない~」
は、と賢人が涙に塗れた顔を上げた。
「ほんと~、神様だから、そこ何にも付いてない前提で考えてたわ。それだけのことだったんだ」
「わたしも~~っ」
は、ちょっと待て・・・
「いや、あの、君たちは本当に意味わかって言ってるの?」
「当然ですよ、保健体育の授業はちゃんと受けてるんですから」
ねえ、と不満そうに早希と七海が頷き交わす。
「それを賢人さんもったいぶって」
「そうそう、息子だの男の子だの。もうっ」
ほらほら、と言いながら加納が手を叩いた。
「ぶつくさ言っていないで遅いからもう帰るぞ」
「はーい」
「そーしましょ、そーしましょ」
さて。
後に戸田七海はこう懐述している。
思い返してみれば、あの日には既に最初のヒントはすべて出そろっていたんだな、と。
何のヒントだって?
それは言えない。