(番外編)再び 画商
正面の一段高くなった舞台の幕がゆっくりと上がり始めると同時に、レディースエンジェントルメンという高い声が会場に響き渡り、激しい拍手が起こった。
「本日は私どもが主催しましたオークションに参加をいただきありがとうございます。わたくしは本日の進行を務めさせていただきますナナリンと申します」
幕が上がり、舞台の上で小柄な東洋人の女性が大仰に頭を下げると、まるでアカデミーの授賞式のように正装や大胆なカットの色とりどりのドレスに包まれた人々が少人数ずつで小さなテーブルを囲んだ会場の拍手が更に大きくなった。
その拍手が収まるのを待ってから、ナナリンは、さて、と口調を変えた。
「本日のオークションはアンリ・ルソー画伯の絵に特化した絵画オークションとなっております。ちなみに、本日お集りの皆様は、ルソー画伯の高名は承知していても、未だその絵を見たことがない方々ばかりと伺っておりますが、それで間違いございませんでしたか?」
そうだ、とでも言うかのように、会場でいくつかの顔が肯定的に頷く。
にっこりと、ナナリンの顔がほころんだ。
「それはそれは。では、初めにルソー画伯について簡単にご説明させていただきます!」
その言葉とともに、舞台の白い壁に黒い帽子に立派な髭の男の顔写真が投影され、おおうっ、というざわめきが部屋を満たした。
great!marvelous!と男をたたえる声がざわめきのように広がり、ここそこで、知性を感じさせる顔だ、素敵だわ、と囁き合う声が交わされる。
「彼は1844年にマイエンヌ県ラヴァルに生まれました、高校中退後、一時法律事務所に勤務したものの後にパリの税関で20数年間働きながら絵を描き始めました。そのため彼は『税関吏・ルソー』の通称でも知られております。こうして仕事の合間に絵を描いていた彼ですが税関を退職し本格的に画業に入ります。そのため、彼の代表作の多くは退職後の50歳代に描かれております」
前の方の席の赤いドレスの美女が驚いたようにように隣の髭の紳士に何か囁きかけ、鷹揚に頷きながらそれを聞いた紳士は続きを聞こうとでも言うかのようにナナリンに向かって軽く顎をしゃくった。
「彼の絵はなかか評価をされませんでしたが、生前もゴーギャンやピカソなどの少数ながら彼を評価する画家はおりました。私の祖国でも早くからその作風は紹介され、田中一村、加山又造などが影響受けたとされています」
カヤママタゾウ?聞いたことあるような?と赤いドレスの女性が再び紳士に囁き掛け、紳士はナナリンの方を向いたまま、ワカダイショウのことだよ、と知ったかぶりで囁き返した。
「ピカソが、ルソーが描いた絵をたった5フランで買ったことをきっかけに、ピカソやアポリネールらが中心となって、「アンリ・ルソーを讃える宴」という会を開いたのですが、これは完全に冗談でした。また、ルソーは南国について描いた絵も多くあり、彼はナポレオン三世に従軍して南国に赴いた時の思い出を描いたと言っておりましたが、実は南国に行ったことはありません。あまつさえ彼はある詐欺事件に連座して拘留もされております」
なんか悪口ばっかり並べてないか?いや、愛のあるイジリだろ?という囁きが飛び交う。
「彼の絵は遠近法がほとんどなく、その一方で人の足がうまく地面についているよう描けず、草に埋めるという方法でなんとか地面についているように表現しています。そのため、結婚式の記念写真のような絵の舞台が草深い原っぱというシュールな絵もあります」
やっぱ悪口じゃないか?いや愛だ、深い愛だ、と囁く声があちこちで起こる。
「それでは御覧に入れましょう」
ナナリンがそう宣言すると、台車にイーゼルごと乗せられ布で隠された絵が、正装の男によって舞台袖から静々と現れる。
それがナナリンの隣まで運ばれてくると、ナナリンが布の端を掴んだ。
「では最初の絵です。これは1905年頃の画伯の作『人形を持つ子供』です」
興奮にざわめいた会場は、ナナリンが一気に布をめくったとたん静まり返った。
数秒の沈黙の後、突然会場は爆笑に包まれた。
絵を間違えてるぞーっ、それはナナリンが小学生の時に描いた絵かーっ、と愛のあるヤジが飛ぶ。
ハッハッハッと笑いながら拍手をした前の方の席の髭の紳士が、原っぱで白い人形を抱いた赤い服の少女の絵を一瞥してから笑いをこらえるような顔でナナリンを向いた。
「なるほど、あなたはユーモアをセンスがあるようだ。しかし我々は早くルソー画伯の絵が見たくて先ほどからうずうずしているのだよ。そろそろ本当の画伯の絵をみせてはくれないかね?」
いえ、と言いながらナナリンは件の絵を指し示した。
「これがルソー画伯の絵です。いや、ほんと、マジで」
はっ?と顔をしかめた紳士はまじまじとその絵を凝視した。
数秒の沈黙の後、紳士がナナリンを向き直った。
「マジで?」
ナナリンは頷いた。
「いや、ほんとに、マジで」
目を見開いた紳士は、目まぐるしく絵とナナリンの顔に視線を向けた後、突然みるみる顔を真っ赤にするとテーブルを叩いて立ち上がった。
それを合図にしたように、一斉に椅子から立ち上がる音が会場に響き渡った。
十分後。
誰もいなくなり暗く照明を落とした会場を、ナナリンが一人で箒で掃いていた。