ギャンブラー登場
数日続いた小雨交じりの曇天に比較的過ごしやすい美術準備室で美術本なんかを眺めていた時、だるそうに机に突っ伏していた早紀が、おい、と七海を呼んだ。
「そういえば、あれってどうなったっけ」
ああ、と七海は美術本をめくりながら早紀を見ずに言った。
「アゼルバイジャンの故郷に帰ったってさ」
アゼルバイジャン?と早紀が眉根をしかめて七海を見た。
「何の話をしてるんだ?」
いいんだよ、と突き放すように言った七海はじっとめくったページを見つめた。
「暇そうにしてる時のお前の話はどうせつまらないものだからな、故郷に帰りました、メデタシ、メデタシ、はい、この話はここで終わり、でいいんだよ」
「なんだよ、その、聞く気は一切ありません、みたいな言い方」
「“みたい”じゃねえんだよ。初めっからねえんだよ」
頑強に美術本から視線を変えずに七海は答えた。
いやいや、と早紀は手を振った。
「まあ聞けよ、今日のは本当に真面目な絵の話なんだよ」
そこで初めて顔を上げた七海はうさんくさそうに早紀を見た。
しばらくじっと早紀を見つめた後、七海はしぶしぶと頷いた。
「言うてみ」
何その上から目線?と思いながらも早紀は口を開いた。
「なんかさ、大阪であったじゃん、IRとかなんとかって?」
「IRはアゼルバイジャンの故郷に帰って農家を継ぎましたとさ、はい、終わり」
「なんだよ、その平凡な人生」
「わかったよ、ダイナミックにしてやるよ。IRは田舎に帰って鍛冶屋を継ぎ、勇者の剣を作りましたとさ。そして勇者はその剣で魔王を倒して世界を救いましたとさ。はい、終わり」
「一見壮大だが、結局モブのままだよな、IR」
「所詮IR、名もなき男だからな」
「いや、お前の説だとIRが名前なんじゃないのか?」
そもそも、と更に胡散臭そうに七海は顔をしかめた。
「そもそもなんだよそのIRって。大阪に引っ越すのか?」
は?
「IRってあれだろ?IRの賃貸とかコマーシャルやってるやつ?」
しばらく考えた後、早紀は頷いた。
「それはURじゃないのか?」
「それは鉄道だろ?」
「それはJR、ってなんだよ、つまらねえとか散々私をこき下ろしておいて、結局食いついてきてんじゃねえか」
うむ、と七海は頷いた。
「クラスの中でも余りにも食いつきがいいもんで、最近、ダボハゼってあだ名がついた」
いくつあだ名持ってんだよ、お前、と早紀が嘆息する。
「ところで何の話だったかな、親友よ」
親友よ、はよせと、最近しきりと親友よ、親友よ、と話しかけてくるクラスの一つ後ろの席の男の顔を思い浮かべながら早紀は顔をしかめた。
「IRってあっただろ、大阪湾にカジノ島作るとかなんとか」
それは、と突然廊下から声が響いた。
「それは面白そうな話ですねえ、ふっふっふっ」
まるでセリフを棒読みするような声で言ったその声に、七海と早紀は戸口を振り返った。
誰もいない。
なんだ?と二人は顔を見合わせた。
「今の、沙織さんの声じゃないぞ?」
「けど夏樹さんでもないぞ、っていうか夏樹さんがあんなこと言うわけないし」
あの・・とおどおどとした表情でミワが頭だけ覗かせて中を見た後、戸口に全身を現した。
「あの・・・ごめんなさい、今の私です」
ミワちゃんっ?!
あのう、とちらちらと背後を振り返りながら、ミワは申し訳なさそうに続けた。
「そこで君島先輩に会って・・その、無理やり・・」
ふっふっふっ、とわざとらしく笑いながら沙織がミワの背後から現れた。
「誰が言ったかわからず戸惑いましたね。よいことです」
よかねえよ、後輩巻き込んで何やってるんだよ、この人。
もう行っていいです、と犬でも追うような仕草でミワに手を振った沙織が入ってきた。
「ギャンブルの話ということでしたら私の領分です。話を聞きましょう」
前提として、まず相談した事実がないのでは?
「パチンコ、競馬、競輪、競艇、一とおりOKです」
「やったんですか、いえ、やったんですね?」
「いえ、知識として知っている程度です」
「じゃあ、やったことはないんですね?」
「実体験を伴わない知識に何の意味があるのでしょうか」
「じゃあやっぱりやったことあるんですね」
「いえ、表向きはやってはいません」
裏ではやってます、と言っているのと同じじゃねえか。
それと、沙織は七海と早紀に頷きかけた。
「いわゆるカジノでのギャンブルというのもそれほど特別なものでもありませんよ。韓国にも外国人だけ入れるカジノがいくつもあります。パスポートさえ持っていれば、沖縄の離島に行くよりも簡単に日帰りできますから」
カジノ・・と七海と早紀はわずかに目を見開いて顔を見合わせた。
「沙織さん、行ったことがあるんですか?」
はい、と沙織が頷いた。
「何度か」
「え、未成年でも入れるんですか、そういうとこ?」
「年齢などどうとでも偽れますから」
韓国人とかもガバガバで行ってそうだな、なんか。
それで、と早紀がわずかに身を乗り出した。
「どうでした、儲かりましたか?」
おお、と七海も頷いた。
「沙織さんそういうの得意そうですもんね。イカサマとか」
じっと無表情に机の表面を見つめた後、沙織はフッと笑った。
「いい勉強をさせていただきました」
「つまりは負けたんですね?」
七海と早紀は同時にため息をつき、ぎゅっと眉根をしかめた沙織は悔しそうに言った。
「さすがにプロ相手のイカサマは今の私のテクニックではまだリスキーです」
「“今の”とか“まだ”とかって何です?」
「いずれはチャレンジする気でいるんですね?」
しかし、と沙織は早紀に向かって首を傾けた。
「何故突然URの話など?」
今のはわざとボケましたね、と半眼になった後、早紀は頷いた。
「いや賢人さんが、面白い絵がある、ってギャンブルで破産した絵を見せてくれたんですけど」
この前沙織さんが教えてくれたあの絵ですかね、と七海と沙織が顔を見合わせる。
「そこでふと、カジノ構想のニュースが頭に。ニュースでもギャンブル依存症の人を増やすだけだとかいろんな意見が出てますけど、どうなのかな、って」
そういえば、と頷きながら七海は沙織を見た。
「あの人って、結局なんのギャンブルで破産したんですかね?カードとかですか?」
いえ、と言いながら沙織は、出すだけ出して電源も入れていなかったタブレットパソコンを手に取るとそれを操作した。待ってくださいね、と七海がそれをスクリーンにつなぎ、そちらも電源を入れる。
すぐにロバート・アルティノーの『懐かしい我が家での最後の一日』がスクリーンに大写しになる。
「一応、この絵の中にヒントが隠されています。探してみてください」
この絵の中に?
ほらここ、と沙織が絵の左下の一点を指差す。
「ここに馬の絵があります。これが原因です」
探してみろって自分から言ったんだからもっと探させろよ。
「ここに描かれているのはただの馬ではなく、競馬の馬です。彼は競馬によって全財産をすったのですよ、というのがこれでわかります」
ふむ、と七海は顔をしかめてそれを見つめた。
「一応作者としてはヒントを配置したつもりなんでしょうけど、わかりにくいですね?」
「いえ、そうではありません。この部屋の絵は全てちゃんと壁にかけてあるのに、この絵だけ横向けに置いてますよね。わざわざ特異な配置をすることでちゃんと鑑賞者の意識がそちらにいくように仕向けているのです。ちゃんとそこまで計算してのことですね」
けど、と早紀も首を傾げる。
「この人貴族ですよね?それが競馬新聞片手に競馬場行くもんですかね?そもそもからして、大金持ちみたいですけど、そう簡単に破産できるほど賭けれるもんなんですか、競馬って?」
「当時の競馬は上流階級の遊びでしたからね。彼自身も馬主であったでしょうし、その掛け金は桁違いだったに違いありません」
「へえ、そういうものなんですか」
はい、と沙織は頷いた。
「パチンコで10万円負けるのはそれなりに時間がかかりますが、競馬なら極端な話、1レースで全ての財産を賭けてしまうこともできますから」
そんな明らかに実体験に基づいた話を語られても。
「ギャンブラーの心理として、負けるとそれを取り返そうとして更に大金を賭けてしまうというのがあります。それがギャンブルの怖いところですね」
そもそも、と沙織が続ける。
「競馬を例に取ると、JRAはギャンブラーが賭けた金で競馬場を作り、運営し、騎手、馬主、生産者にまで賞金を払い、自分達の儲けを確保した上で、残りを当たったギャンブラーに返すわけですから、トータルとしてギャンブラーが儲かるわけないんですよ」
賭けた人、とかじゃなく、ギャンブラーと言い切ってるところがこの人らしい。
けど、と七海は首をひねった。
「沙織さんが一人で競馬場とか行って、いえ、例えば行ったとして、大丈夫なんですかね。警備員の人とかにつまみ出されたりしないんですか、ほら、未成年はこんなところに来るな、とか」
ノープロブレムです、と沙織は頷いた。
「家族連れ、というのはいないわけではありませんし、一時期ほどではありませんが若い女性もいます。それに私にはよい師匠がいますから」
私には、とか、もう自白だよな、これ?
「師匠?だれかと親子連れを装うんですか?」
違います、と沙織は首を振った。
「道子さんです」
は?三輪さん?
「はい、彼女が醸し出すのと同じオーラを発していれば、警備員も若い女性だと視認はしても、それが若い女性とは認識できなくなるのです」
私らが三輪さんの前で言ったら即首根っこ引っこ抜かれそうなセリフだな、それ。それと、三輪さんと同じオーラってどうやって出すんだよ。
あの、と控えめに戸口から声が響いた。
「入ってもいいですかね?」
振り返る。
どこか申し訳なさそうな賢人が廊下から美術準備室を見つめていた。
いや、と不思議そうな三人に見つめられた賢人が頭を掻いた。
「何か、聞いてはいけない会話の匂いがしたんですが」
そのとおりですが、どうぞ巻き込まれてください。
遠慮しつつ入ってきた賢人が席に座るのを待ってから、七海はここまでの話をかいつまんで説明した。
とたんに賢人が嬉しそうに頷く。
「そういう話ならぼくも一枚かませてください」
と早速タブレットに手を伸ばす。
「ギャンブルの絵とくれば、やっぱりこれかと」
スクリーンに映し出されたいかにもいかがわしい雰囲気をまとう登場人物と舞台背景の絵を見たとたん、七海は思わず、これは?と賢人を向いた。
どこかしてやったり、という表情で賢人が七海に頷きかける。
「これは、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの『ダイヤのエースを持ついかさま師』です。それと」
と画面が切り替わる。
「こっちが『クラブのエースを持ついかさま師』です」
眉根をしかめてその絵を見つめた七海は首を傾けた。
「なんか、さっきの絵とどこが違うんですか?」
はい、と賢人が頷いた。
「左肺の男が背後に隠したイカサマ用のカードだけが違います。あとはちょっと色調が違う程度ですかね」
そんな、売れた曲のちょっと違うだけの別バージョンで儲ける歌手みたいに。
んで、と七海はその絵をじっと見つめた。
「なんとなくはわかりますが、実際のところどういう状況なんですかね、これ?」
はい、と賢人は頷いた。
「多分おおよそは気づいてはおられるとは思いますが、右端の金持ちのボンを、残りの三人が結託してイカサマのギャンブルで金を巻き上げようとしてるところです」
ですよねえ。
「三人はそれぞれキリスト教の三大悪『賭博』『淫乱』『飲酒』の象徴です。娼婦である椅子に座った女が酒を給仕に来た女に目配せ、給仕の女はカードを隠し持った男に目配せし、男は隠し持ったイカサマ用のカードを取り出しているところです」
「んで、ボンから大金を巻き上げると」
「最初は少し勝たせてやり、ボンが熱くなってきたところで、という感じですかね」
なるほど、と沙織が感心したように頷いた。
「やはりイカサマは仲間がいた方が幅が広がるわけですね。勉強になります」
なんか、カジノ攻略プランが着々と進行中だぞ?
うむ、とここまで黙っていた早紀も頷いた。
「んで、大金を巻き上げられたボンは家に帰ってカラバッジョの『バッカス』みたいにヤケ酒を飲む、と」
おお、と七海も頷いた。
「おお、そういえば目はボンの方が小さいが色白でふっくらした顔は確かに『バッカス』に通ずるものがありますな」
あ、と声をあげた賢人が頷いた。
「そういえばカラバッジョにも『トランプ詐欺師』という絵が有りましたね」
カラバッジョがギャンブルの絵とか、違和感全然ねえなあ。孫悟空がサルの絵を描いてるみたいに。
「どんな絵ですか」
これです、と映し出された絵を見た早紀が、おお、と頷く。
「さすがカラバッジョ、人殺しても人騙しても生々しいなあ」
「ラ・トゥールの絵も背後にカードを隠していますので、多少はこの絵のオマージュが入っているのかもしれませんね」
しかし、と七海が首を捻る。
「普通、こういう絵を注文できるような金持ちって、騙される側の人間ですよね。こんな絵見たら不快に思いそうに思われますけど、なんでこんな絵を注文したんですかね」
「さて。おそらくですが、悪い奴には勝てないからギャンブルなんかするなよ、という自戒のためか、子供への教育の意味もかねて飾っていたんじゃないですかね」
そうか、と早紀が手を打って頷いた。
「もし大阪にIRができたら、あまりのめり込むとこういうことになりますよ、という忠告の意味も兼ねて、男爵の絵やこの絵を入り口に大きく描いておいたらどうですかね」
「男爵の絵はともかく、この絵を描いてたら、ここのカジノではイカサマやってます、って言ってるみたいじゃないか?」