それは言えない(前編)
サキちゃん、と呼ばれて七海は上げかけていた足を止めて振り返った。
「やあ、チイちゃん」
そのまま、えいっ、とばかりに足だけで美術準備室の扉をスライドさせて開く。
おおっ、と目を見開いた早希が小さく拍手する。
そっちにいる、と美術室を顎で指した早希が七海を向き直った。
「うちのクラスの男子が、絵画鑑賞部にはすごい足技使いがいるって言ってたから誰か隠れ拳法家でもいるのかと思ってたら、サキちゃんのことであったか」
ちっ見られてたか、って、誰だよ、そんなこと言いふらして回ってるアホは!
「だって両手がふさがってるんだよ。コーラが邪魔で」
「だからって、片手に持ち直すなり置くなりしなよ。霊長類だろが」
軽口を叩きながら二人は部屋に入った。
「こんちわー夏樹さん?」
いつもの机に向かって座った夏樹が、俯いた姿勢でポロポロと涙を流していた。
二人は慌てて夏樹に駆け寄った。
「どうしたんですか?」
「どこか具合でも悪いんですか?」
慌ててハンカチで涙を拭った夏樹は、気丈な様子で白い歯を見せた。
「ううん、何でもないの。ごめんね、変なところ見せて」
何でもない、という雰囲気ではない。
七海はふと夏樹の前に広げられた大判の美術書に眼をやった。
「これ・・この絵(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/f6/Pieter_Bruegel_the_Elder_-_Massacre_of_the_Innocents_-_Google_Art_Project.jpg)がどうかしたんですか?」
すっとそれに目を目を落としてじっと見つめた夏樹は、ややあって静かに頷いた。
「これ、この絵はブリューゲルの絵なんだけで・・・」
ブリューゲル・・はてどこかで聞いたような、と顔をしかめて助けを求めるように早希を振り返った七海に、早希が小さく、バベル、バベル、と囁く。
「これ、後で別の画家によって加筆がされているのよ。それも、元々の絵本来の意味が失われてしまうほどの加筆が」
え、と言いながら七海は再び美術書を見下ろした。
どこかの村、武装した兵士達が、どうやら村人から略奪をしているようだ。抵抗する村人から家畜や家財らしきものを奪い取っている。乱暴狼藉を働いているというより、むしろ整然、淡々として職務を全うしているという雰囲気の兵士達と、命懸けで抵抗したり泣き崩れている村人達の対比がどこか怖い。どちらをとっても、たったそれっぽちのものの為になぜそこまで、と言いたくなるような絵だ。
「加筆されているってわかっているなら、修復はできないんですか?」
聞いた早希に、夏樹は首を振った。
「元の絵の具が剥落してしまうから無理なそうよ」
すすりあげた夏樹は天井を見上げると再び流れ出した涙を手で拭った。
「なんでそんな酷いことするんだろ。ああ、ブリューゲルの描いたオリジナルの絵、見たかったなって、この絵を見るといつも悲しくなるの」
ああ、と七海は泣く姿も美しい夏樹の横顔をじっと見つめた。
この人は、本当に絵が大好きなんだ。
そして、優しい人なんだ、と。
扉が開くと、やあ、どうしたの、という声が足音と共に入ってきた。
「どうしたの三人とも、深刻な顔して」
言いながら早希の頭越しに夏樹の前に広げられた絵を見た賢人は、珍しく不快そうに顔をしかめた。
「またその絵か、夏樹。いいかげんにしろよ、泣いたってどうしようもないだろうが。二人とも気にすることないよ、これは夏樹のいつものビョーキだ」
な・・・
全身で振り返った七海は一歩踏み出した。
「なんてこと言うんですか、賢人さん!夏樹さんは本当に絵を愛してるんですよ!」
「そうですよっ、夏樹さんに謝ってくださいっ!」
早希も加わり、あ、いや、と降参とでもいうかのように両手を挙げた賢人は、おどおどと二人を見た。
「いや、ぼくは別にそういう意味では・・・」
「は・や・くっっっ!!」
ちっこいの二人に壁際まで追い詰められた賢人は、不承不承という風に夏樹に謝ったが、しばらくむっつりと口をきかなかった。
しかし、自ら入れてきたコーヒーを数杯口にすると、その口調はいつもの調子を取り戻していた。
「まあ、絵が後世に加筆、改ざんされるというケースはそれほど珍らしくないけどね」
「え、そうなんですか?」
不思議そうに聞いた七海に、賢人が少し意地悪そうに笑った。
「うん、チイちゃんの大好きなミケランジェロの、その『最後の審判』(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/18/Last_Judgement_%28Michelangelo%29.jpg)も加筆されてるよ。ねえ、チイちゃん」
ええーーーっ、と絶叫しながら早希が立ち上がった。
「本当ですかっ?!」
「本当も何も、これ結構有名だよ。逆にチイちゃんが知らなかったことの方がびっくりだよ」
いや、と早希は頭を掻きながら再び椅子に戻った。
「そういうトリビア的な方はあんまり」
タブレットパソコンを手に取った賢人は手慣れた様子で操作し、あっという間にネットから見つけてきた『最後の審判』をいつもの大画面に映し出した。
うわあ、と七海は小さく声をあげた。
「アップで見ると、この絵の人、みんなすんげえ目ぇ剥いてますね。こえ~っ」
七海の声に、あ、今それはいいから、と賢人が苦笑する。
「ほら、この絵の人達、布とかで最小限な感じで股間とか隠してるでしょ?この絵は本来は『神の前では隠し事はできない』という思想のもとに全裸で描かれている人が多かったんですよ。ただ、教会に描かれみんなが見る絵が全裸、サキちゃんが言うところのすっぽんぽんでは、品が悪い・・・」
こんなところで復讐すんなよ、チイちゃんも不思議そうにこっち見んなよ。
「それで十六世紀と十九世紀の二度に渡って腰布のようなものが加筆されています。十六世紀の加筆はミケランジェロの死を待っていたかのような1564年の公会議(カトリックの最高会議)の決定によるもので、生前にミケランジェロとも親交のあったダニエレ・ダ・ヴォルテッラという画家が受け持っています」
「そいつ、画家の風上にも置けん奴だな」
がるるる、と唸りながら言った早希に、賢人が苦笑した。
「いえ、彼も嫌な仕事を無理やり押し付けられて気に病んでいたのかもしれませんよ。その証拠に、彼は1566年に五十代半ばで死んでいますから。それに彼はこの仕事のせいで『ふんどし画家』という不名誉な称号で呼ばれることになりますし」
まあ、とそこで賢人は慰めるような口調で早希を見た。
「加筆されところは現在はほぼ修復されています」
ほっと早希が笑った。
「ただ十六世紀の加筆の方は、一応公会議の決定によるものとして、一部はそのままとされたと聞いています」
ちっ、と早希が舌打ちする。
ほんとこいつ面白いな、とそのくるくると変わる表情を七海はにやにやと見つめた。
「あ~あ、オリジナルの絵、見たかったな」
慰めるような口調で賢人が早希の顔を覗き込んだ。
「まあ、加筆された部分もわずかですし、さっき夏樹が見ていた絵みたいに絵の趣旨そのものまでが変わってしまうようなものでもありませんけどね」
あ、と声をあげた七海に、タブレットで拡大した絵を見回すようにしてスライドさせていた賢人が手を止めた。
「どうしました?」
それ、今、と七海が手を振ると、賢人が少し画面を戻した。
「あ、ほらそこ。赤と青の服の人、それマリアさんですよね」
賢人がにっこりと笑った。
「よく気づきましたね、そのとおりです」
じゃあ、と指差す指七海の指がわずかに動いた。
「彼女が寄り添っているそのムッキムキのが神様ですか」
いいえ、と賢人が首を振った。
「それはキリストです」
は?
七海は目を見開いた。
こいつすげえシックスパックだぞ?上腕二頭筋とかムッキムキとかだぞ?
「キリストって・・・架刑の時って瘦せ衰えて骨と皮だけでしたよね?」
まあ、そういう絵が多いですね、と、七海が何を言いたいのか理解したらしい賢人が苦笑する。
キリストよ、どういう心境の変化だ、天国にいる間にお前に何があったというのだ?
いやだなあ、奇跡とかじゃなく筋肉の力で全てを解決してしまいそうなキリストって・・・
「なんか嫌ですよねえ」
ん、とコーヒーカップを口元に持って行った賢人が見上げるように七海を見た。
「どうしたの、何が嫌なんだい?」
「だって考えてみてくださいよ」
どこかすねたような口調で七海は賢人を見た。
「危機の陥った少女が『ああ神様、どうぞお助けください』って祈りを捧げたら、このキリストがパンツ一丁で現れて『嘆くことはない少女よ、私が助けてやろう』って言いった後、自己陶酔したような顔でムキッとポーズ決めながらピクピク胸筋とか動かして『この筋肉でなっ!!』」
ぶほっ、と賢人が口に含んでいたコーヒーをカップの中に吐き出しながら咳き込み、早希がぎゃはははと手足をばたつかせる。夏樹も机につぷして肩を震わせた。
「変なもん想像させないでください」
ハンカチで口を拭いながら賢人がカップを片手に立ち上がり流しの方に行く。
その背中をなんとなく見送りながら、七海は『最後の審判』を振り返った。
「しかし、ミケランジェロの絵ってほんとみんな無駄にムキムキだよねえ」
「それがいいんじゃん」
笑いながらうれしそうに言った早希に、七海は勝手にタブレットを触って絵をスライドした。
「でも老若男女問わずムキムキなのはどうかと思うよ。見てよこのバア様の肩幅や腕、若い全盛期の頃を想像するだに恐ろしいわ。こんなん神様の助けとかいらないじゃん。最後の審判の後こんな奴らが大挙して地獄にやってきたら地獄の獄卒の方がびびっちまうぞ、これ。なんかさ『お前のようなババアがいるか!!』ってセリフ聞こえてきそうじゃん」
つっぷしたままの夏樹が再び肩を震わせたところにコーヒーを入れ直したらしいカップを持った賢人が戻ってくると、もうこれ以上変なことを言われたらたまらない、という表情でタブレットを閉じた。
「まあ、絵の改ざんは少なからずあるということですよ、ああ、そうそう」
言いながら賢人は部屋の一方を指差した。
「部長お気に入りのあの絵も、実は加筆されているんですよ」
へえ、と言いながら七海と早希がそれを振り返る。
ゴヤの『我が子を喰らうサトゥルヌス』(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/82/Francisco_de_Goya%2C_Saturno_devorando_a_su_hijo_%281819-1823%29.jpg)の大判のポスターだ。
こんなもん壁に貼ってたら絶対変な集団だって思われますよっ、外しましょうよ、と泣きそうに訴えた七海と早希に、部長の決定なのでこればかりは、と賢人が苦渋の表情で首を振ったものだ。
「どこですか、それ?」
その、と賢人が指を差す。
「股間の黒く塗り潰された辺りです」
へえ、と立ち上がって近くに寄り、じっくりとその辺りを眺めた早希が振り返る。
「何が描かれていたんですか、ここに?」
は?
賢人が瞬きした。
「何ですって?」
「あ、塗り潰される前に、ここに何が描いてあったのかなって?」
いや・・と唾を飲み込みながら賢人が部屋の中に視線を這わせた後夏樹を向いた。
両手で口を押えて笑いをこらえながら夏樹が気付かないふりをする。
「あのう、それはぼくをからかってるんですか?」
は、と顔を見合わせた二人は不思議そうに賢人を見た。
「いえ?」
「別に、ねえ?」
何かを耐えるかのように大きなため息をついた賢人は再び夏樹に助けを求めるように見たが、夏樹は必死に笑いをこらえながら、どうぞ、とでも言うかのようにゼスチャーしただけだった。
もう一度ため息をついた賢人は、しばらく何かをためらうかのように沈黙したが、やがて何かを決心したかのよう顔を上げる、一言一言を吐き出すようにして言った。
「息子が、立っている、ところ、です」
何、息子が?