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カンショー!  作者: 安城要
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独裁者の絵

部室に入った途端、やあサキちゃん、と言った賢人の声が続いて、さて、とスクリーンを指し示した。

「唐突ですが、これ誰が描いた絵だと思いますか?」

確かに、と机の上にカバンを置きながら七海はスクリーンを見た。

相変わらず唐突だよな。

白っぽい数階建ての建物の前に、赤い屋根を持つ東屋あずまやのような建物。その脇に立つ人、おそらく男性に見えるが、フルートのような楽器を奏でているように見える。

全体的に淡い色で構成された絵の東屋の屋根の赤と、絵の中央を横切るような木の緑だけが濃い。

ただ、不思議な絵だった。

なんというか、絵を見た瞬間に感じる、何か心動くようなものを感じない無機質な絵。楽器を奏でている人がこの絵の主題なのかもしれないが、なんとなく訴えかけてくるものがない。

絵を見せられた瞬間、だから何?と言ってしまいそうな、描いた画家の情熱のような物を感じない、そこに描かれている人物さえ彫像かなにかのように生気を感じない。

って、と七海は絵の右下を見た。

誰が描いた絵だと思いますか?って、サインがあるじゃん。

ええと、と七海は賢人とスクリーンを見比べた。

「エー・ヒットリア、と読むんですかね。聞いたことがない画家ですね、これ。有名な絵なんですか?」

絵の方はともかく、と賢人が笑った。

「これを描いた人物の名前は、多くの人が知っていると思いますよ」

「これを描いた画家、ではないんですね」

水屋から自分用のカップを持って戻ってきた夏樹がわずかに笑ったような気がした。

「はは、やっぱりそこ気づきましたか」

賢人も笑いながらスクリーン振り返った。

「この絵は『Musician Old Town Well』という絵です。これを描いた人物は若い頃観光客相手の絵や絵葉書のようなものを描いて生活していたこともあり、結構な数の絵を残しています」

んで、と言いながら七海は頷いた。

「実際のとこ誰なんすかね、そのヒットリアさんて?また大量殺人鬼かなんかっすか?」

ある意味そうとも言えます、と賢人は意味深な言い方をした。

「彼の命令・思想で殺された人間の数を考えればね」

命令?

サキちゃん、と夏樹がここで助け舟を出した。

「ヒットリアじゃなくって、他の読み方はないかしら?」

不思議そうに夏樹を見てから、七海はもう一度絵のサインを見つめた。

ヒットリアだろ、これ?

最後が違うか、もっと伸ばす感じだこれ。

ヒットリアー、いやヒットリャーか?

いや・・

そこで七海はわずかに目を見開きながら息を吸い込んだ。

A・Hitlerアドルフ・ヒットラーか!



もしかして、と七海の唇はわずかに震えていた。

「これ、ヒットラーが描いた絵ですか?」

「もしかしても何もあるものか」

うひいっ、と声を上げて椅子から転がり落ちた七海は慌てて背後を振り返った。

久しぶりの加納が、腕を組んだ姿勢でうさんくさそうに床に這った七海を見つめていた。

部長!と驚いたような賢人の声が響いた。

「お久しぶりですね」

「若き日のヒットラーが画家を志していたことは広く知られている事実だぞ」

賢人に向かって、うむ、と鷹揚に手を振った加納は肩にかけていた鞄を机の上に置くと再び腕を組みながらよろよろと体を起こした七海を睨むように見た。

「それに何がヒットリアだ。どう見てもヒットラーだろうが。それでよく陵上に入れたな」

いや、と言いながら七海は頭を掻いた。

「英語の発音とか、苦手なんですよね。未だにKnifeをどう読んだらナイフになるのかイマイチわかんないというか、なんでクニフェじゃないのかって」

それは私もわからんが、と顔をしかめた加納はスクリーンを向き直った。

「ヒットラーは単なる趣味で絵を描いていたわけではなく、ウィーン芸術アカデミーの入学試験を2度にわたって受けているが」

「が、ですか。落ちたんですね、やっぱ才能なかったんですかね?」

いいや、と加納が首を振る。

「一度目は1次試験は通過したが、2次試験で課題の頭部のデッサンを提出しなかったため落ちたのだ」

「なんで出さなかったんですか?バイトしながらで時間がなかったとか?もしかして連絡の行き違いで忘れてたとか?」

いいや、と再び加納が首を振る。

「彼は人間を描くのが嫌いだったので出さなかったらしい」

上手い下手以前の問題だよそれ。やる気あるのかよ。

「それでも親や親戚の遺産があったため、彼は観光客相手の絵やポストカードを描きながらだらだらと生活できたらしい」

一番ダメな奴だよね、それ。ハングリー精神がないというかなんというか。けど多少なりとも絵が生活の足しになっていただけマシか。ゴッホなんて結局1枚しか売れてない上に、生涯弟に頼りきりで最後はほとんど道連れにして死んじゃってるもんな。

なるほど、と賢人が感心したように頷いた。

「ヒットラーが芸術アカデミーを何度か落ちたという話は知っていましたが、そんな理由だったんですか。なら、もし彼が頭部のデッサンを提出し芸術アカデミーの試験に合格していれば、世界は変わっていたかもしれませんね」

頭描くのなんかヤダな~、で変わった世界って一体。

ちょといいかね、と賢人からタブレットを受け取った加納はそれに指を走らせ、例えば、と言いながらスクリーンを見た。

「彼の代表的な作品の一つに『ウィーン国立歌劇場』というのがある」

「結構うまいっすね、これ」

七海の言葉に頷いた加納は続けた。

「彼は建築物の絵を好んで描いた。彼は細部に至るまで精緻に建物を描き、芸術アカデミーで試験に落ちた際も、試験官から建築家としての才能の方があるのではないか、とアドバイスされ、一時は本気でその道を考えたこともあるそうだが」

だが?

「彼は建築学校に入るに必要な中等学校を卒業していなかった。しかし今から中等学校からやり直すなど彼のプライドが許さなかったのだろうな、結局あきらめている」

あらら。

「専門家は彼の作品は300点程度あるはずと言っているが、彼自身はウィーンとミュンヘンの時代、6年ほどの間に1000枚の絵を描いたと言っていたそうだ。彼の絵のほとんどが水彩画で油彩画は数点しか残っていないらしい。人物を描いた無彩の絵や、犬好きだった彼は犬の絵も残しているが、やはり好きだった画題は建物などの人工物だったようだな。人物が描き込まれいてもそれは小さく、木などの描画も雑だったとされている」

それと面白いことに、と加納は続けた。

「絵を描いていた当時は、彼はユダヤ人に対して特別な感情は持っていなかったらしい。取引をしていた画商もユダヤ人だったらしいし、ユダヤ人も彼の絵を買っていたようだな」

ほうほう、と七海も感心したように頷いた。

「絵から歴史の違う側面を見せられるとは思いませんでした」

「しかしまあ、この当時の絵に関するやり取りの中でユダヤ人に対する嫌悪の素地が築かれ、のちの悲劇を生んだ可能性は否定できないがな」

言いながら加納はスクリーンを別の絵に切り替えた。

『ミュンヘンのアルター・ホーフ中庭』と題名の付いたぞれをじっと見つめた七海は、加納を振り返った。

「なんとなく雰囲気はあるし、細かなところまで描き込まれてて決して下手な絵ではないと思うんですけどね。何が悪かったんですかね、彼の絵」

うむ、と加納は沈痛そうに腕を組んだ。

「まあ、生まれるのが遅かったというか、時代が味方しなかった、というのがあるだろうがな」

時代が?

「絵画が一部の金持ちから一般に広まっていった前世紀後半からの流れは続いて、絵画は単に上手く描けていればいい、というところから、革新性を求められていた。記録を残すには絵しかなかった昔と違い、白黒とはいえ既に写真の時代に入っていた彼の活動した時期には、単に写実的に上手くかけている、だけではだめだったのだよ」

特に、と加納が更に続ける。

「彼の絵は無機質で感情が入っていない、と評する者が多いと聞く」

あ、と七海も頷いた。

「私も見た瞬間思いました。確かに結構上手いし、雰囲気もあるんだけど、これを描いた人は結局何が言いたいんだろう、って」

うむ、と何か満足したかのように加納が力強く頷いた。

「さすがは戸田くんだな。まさに私もそう思う。彼の絵を見て私が思うに、彼の性格は几帳面でまじめ、しかしながら融通が利かない、そして繊細。才能はあるのだろうがプライドが高く、それ故に人を見下す嫌いがある、といった感じかな」

「ぼくも概ね賛成ではありますが、その評価はいささかステレオタイプ化し過ぎているようにも感じますけどね」

そう言って苦笑した賢人は、失礼します、と加納に向かって軽く頭を下げると水屋に向かって歩いて行った。

すぐにコーヒーの良い香りが漂ってくる。

わずかに深呼吸するかのようにその香りを吸い込んだ七海は、そこで再び加納を向き直った。

「それで、さっきヒットラーは沢山の絵を描いたっておっしゃってましたけど、結局その絵はどうなったんですかね。ドイツが戦争に負けてから全部燃やされちゃったりしたんですかね?」

いや、と加納は首を振った。

「その多くは戦後アメリカ軍が接収し、彼の来歴からすれば当然のことだが展覧会など開かれようはずもなく、表に出ることもなく陸軍の倉庫に眠っていると聞く」

美術館じゃなくて軍の倉庫ですか。

「ただ、個人の所有だったものは接収を免れ、21世紀になってからも何度かオークションに登場しているらしい」

あらあ、とため息をついた七海は、しかめっ面で肩をすくめた。

「こう言いっちゃなんですけど、お高く取引されてるんでしょうね?」

うむ、と加納も難しい顔になった。

「聞くところではン千万の値がついているらしいな」

「それは純粋に美術品としての評価というわけではないでしょうね、多分」

「遺憾ながらそうだろうな」

ふむ、と考えた七海は首を傾げた。

「もし米軍がヒットラーの絵を大量に保有しているとしたら、そんな値段で取引されているなら一財産ですよね。今後売りに出されて公表され、ヒットラーの絵のまた違う一面が見れるということはないですかね」

顔をしかめて腕を組んだ加納が首を振った。

「残念だがそれは難しいだろうな。露骨に売りに出せばドイツ政府から返還請求をされるかもしれないし、そんなものが世に出回ればナチス復権の象徴に使われる可能性もある。そもそもからして、ユダヤ資本に支配されたアメリカでそんなことがあるとは思えんな」

そこでふと気配に気づいた七海は背後の入り口を振り返った。

三田環奈が顔半分だけを覗かせて隠れるようにしてじっとこちらを見つめていた。

「何、カンナ、どうしたの?」

いや、と隠れたまま環奈が頷いた。

「何か儲け話をしているようだったので、できれば私も一枚かませてもらえないかなと」

そんな話はしとらん!




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