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カンショー!  作者: 安城要
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メランコリア

風を通すために開け放しになった美術準備室ぶしつの戸口に姿を現した早紀は、目に留まった賢人に向かっておえといあ~す、と言った後、机に向かって突っ伏している七海に気付いた。

「どうしたサキちゃん、どっか具合が悪いのか?」

机に突っ伏したままどうとでもとれるように手を振った七海から再び賢人に向き直った早紀に、賢人は軽く肩をすくめた。

美術準備室ぶしつに来てから、ずっとこんな調子なんですよ」

ん~~~っ、と突っ伏したまま呻いた七海は、だるそうに首を振った。

「なんか元気出なくて。体がだるいっていうよりも、気持ちが沈んで・・・ああ、だるう~」

遅れてやってきた夏樹が爽やかすぎる挨拶と共に部室に入ってきたが、七海を見ると驚いたように賢人と早紀を順に見た。

賢人が軽く肩をすくめ、早紀も首を振る。

「なんか、気分が沈んでやる気が出ないそうです」

まあ、と驚いたように七海に歩み寄った夏樹が七海の肩に手を置き、大丈夫?とその顔を覗き込むが、七海は、だめっす、と言いながら更に深く机に沈み込んだ。

ため息をついた夏樹は困ったように早紀を振り返った。

「かなり重症みたいね」

「そうですよね。憂鬱とか、サキちゃんのくせに生意気ですよね」

「そういう言い方はないと思いますが」

嘆息した賢人に、しばらく考えた夏樹は、そうだ!とうれしそうに言った。

「こういう時こそ楽しい絵を見て元気出しましょうか」

「楽しい絵?例えば?」

早紀の問いに、そうねえ、と夏樹が首を捻る。

「せっかくだし、メランコリアがテーマの絵なんてどうかしら?」

めらんこりあ?と早紀が不思議そうに声をあげる。

「なんですか、メランコリアって?」

メランコリアというのは、と賢人が再び嘆息する。

「憂鬱な気分になりやすい性格のことです」

「悪魔っすか?ていうかここの人達って絵のことになると空気読めないっすね」

「その人“達”の中にはぼくも入ってるんですか?」

むしろ入ってないとでも?



「メランコリアの語源は古代ギリシャ語で黒い胆汁という意味です」

「黒いタンジュウ?」

「はい。ちょっと記憶があいまいですが、昔、人間の性格は四種類の体液のバランスによって決まるのだという四体液説というのが有りまして、その内、黒胆汁が多い人はメランコリアになるとされていたそうです」

なるほど、とひどく納得したかのように早紀が頷いた。

「つまり、サキちゃんの体の中にはどす黒い液体が音を立てて流れているわけですな?」

「元気になったら・・覚えてろよ・・・」

突っ伏したまま力なく拳を振り上げた七海を、腕を組んだ早紀はふっふっふっと見下ろした。

メランコリアの絵で、と賢人がタブレットを手に取った。

「正確には版画ですが、アルブレヒト・デューラーの代表作で文字どおり『メランコリアⅠ』というのがあります。これは三大版画とも呼ばれている有名な銅版画です」

「また“三大”ですか。選んだのはやっぱりミシュランですか?」

「そういう事実はありません、ていうか“やっぱり”って何ですか?」

「いいです、続けてください」

軽く肩をすくめた賢人がタブレットをスクリーンにつなぐ。

画面に現れた絵を見た途端、早紀は、おお、と頷いた。

「これは、まあなんていうか、確かに鬱っとおしい絵ですな」

「ここに描かれている女性は憂鬱な気分を擬人化したものとされています」

「この天使、やっぱ気づいちゃったんですかね?」

「え、何にですか?」

「自分の労働環境があまにもブラックだということにです。そんでもって、もう、闇落ちてんしょくしようかどうか悩んでいると」

「いえ、そうではないと思いますが」

「まあ、悪魔側の方はパワハラとかひどそうですけど、職場環境はどっちかっていうとフランクで自由な雰囲気ありそうですもんね。それに比べて神様側はコンプラとか厳しくってストレス溜まりそうで」

「神と悪魔の違いをそういう視点で述べた人は世界で初めてじゃないですかね?」

ふむ、と早紀はじっくりとその絵を眺めた。

「なんなんすかね、この絵の題名を掲げてなんとなくオラついた顔でハイジャンプしているネズミは。一体何を言いたいんですかね」

「ネズミではなくコウモリですが、何をやりたいのは確かによくわかりませんね」

あと、と早紀の指が絵の中の壁を指差す。

「壁に書きながらナンプレしてるとか、末期症状ですよね」

「それはナンプレではなくユピテル魔法陣と呼ばれるものです。確かに各列の合計が34になるように並んでいるところはナンプレっぽいですけどね」

ちなみに、と賢人が頷いた。

「これは鬱状態の苦悩の中にあるのではなく、霊感の訪れを待っている状態として描かれているそうですよ」

つまりは、と早紀も頷いた。

「ああ仕事嫌だなあ、やめたいなあ、闇落ちてんしょくしようかなあ、けど、上司引き止めてくれねえかなあ、そしたら考えるんだけどなあ、みたいな状態ですか?」

「どうしてもそこに持って行きたいわけですね?」

そのそもからして、と夏樹が笑った。

「古代ギリシャやローマではメランコリアは一般的には否定的に捉えられてきたんだけど、芸術家や哲学者、政治家など創造的な仕事で偉大な功績を残した人はメランコリアだったとして肯定的に述べている本もあったりしたのよ」

「だからって、このてんしが幸せそうには見えないですけどね。床に大工道具ぶちまけて五寸釘まで持ち出して、今にも誰かを呪いそうな」

「メランコリアの人にはそんなことする元気もないと思いますけどね」

ほら、と言いながら賢人がぐったりとした七海を指差す。

「けど、昔って注文受けてから絵を描くことがほとんどだったんですよね?こんな鬱陶しい絵、誰が欲しがるんですかね?」

「時代が下がってルネサンス以後のヨーロッパにおいては、メランコリアは芸術や創造の能力の源となる気質と考えられ、学者や芸術家なんかの肖像画や寓意画で結構描かれていたらしいですよ」

メランコリアをテーマとした絵といえば、と賢人がタブレットを手に取る。

「こんなのもありますけど、どうでしょうか」

ウェ、と言いながら早紀が舌を出した。

「なんなんすか、これ。この、いかにも私は鬱でございますって感じの女の人。手に持ってるの、髑髏どくろですかね、これ」

「まさしくそうです。これはヘンドリック・テル・ブルッヘン の『メランコリア』ですね。これはメランコリアとヴァニタス画の合体みたいな絵で、こういう絵って結構あるんですよ」

「ヴァニタス?何なんですか、それ?」

「メメント・モリって聞いたことがない?」

夏樹がしたり顔で言いながら早紀に向かって人差指を立てながら軽くウィンクした。

「いいえ?あ、ゲームっすか?」

「メメント・モリとは古いラテン語で「死を忘れるな」「死を思え」というような意味です」

再び、ウェ、と言いながら早紀が顔をしかめた。

「鬱の人に「死を思え」って、自殺の勧奨ですか?『自殺のすゝめ』とか、福澤先生もびっくりですよ」

「福澤先生って誰です?そんな先生、陵上うちに居ましたっけ?」

「いえ、福澤先生はもうすぐ一万円札じゃなくなる人です」

ああ、と賢人と夏樹がなんとも言えない表情で顔を見合わせる。

「確かにローマの頃は、今がどんなに良くてもどうせいつかは死ぬんですよ、と増長を戒めるような使い方がされていたみたいですが、ギリシャの時代には、どうせ死ぬんだから今日を楽しもう的なもうちょっと積極的は意味で使われていたみたいですね」

「ヴァニタス画は16世紀から17世紀頃に、キリスト教的宗教観の中で人気になったテーマだったらしいわよ。何故だかは知らないけれど、メランコリアの絵の中にはこのメメント・モリ的な要素を孕んだ絵が結構あるの。バルトロメウス・ホプファーとかフレデリック・サンディーズとか」

賢人の後を夏樹が受ける。

「ただ、テーマがテーマだけに、あんまり人気はないみたいですね。画家の名前でネットを探しても上手くヒットしないんですよ」

「まあそうでしょうね。誰が好き好んで鬱々とした絵を見たいもんですかねえ」

そんな中で、と賢人が再びタブレットを手に取る。

「メランコリアの絵を何作も描いているのがルーカス・クラナッハですね」

クラナッハ?と早紀が首を傾ける。

「はて、聞いたことがあるような?」

「え、忘れちゃったんですか?以前にここで『楽園』て絵を見たでしょ?」

はて、ハテ?と何度も首を捻った早紀は、突然、おおっ、と手を打った。

「あの宇宙人襲来の絵ですか?」

「そういう事実はありませんが?」

いやいや、と早紀はなぜか余裕の表情を浮かべながら賢人に向かって首を振った。

「あの時こそ、赤ずくめの男達メン・イン・レッドの活躍で偵察隊は追い払いましたが、クラナッハの時代から始まった月の裏の侵略前線基地の建設は着々と進み、間もなく完成すると同時に、人類よりも遥かに進んだ科学技術を持つ宇宙人の侵略が始まるに違いありません。メン・イン・レッド無き今、我々人類はどうすればいいのかっ!」

「今は黒ずくめの男達メン・イン・ブラックがいるとかチイちゃん言ってませんでしたっけ?それと、科学技術は進んでいるのかもしれませんが、前線基地の建設に500年もかかっているとか、建築技術には何か問題を抱えてるんじゃないですかね、その宇宙人」

んで、とすました顔で早紀はスクリーンを振り返った。

「どれですかね、その予言者の描いた絵って」

ため息をついた賢人は一枚の絵をスクリーンに映し出す。

これは、と早紀が首を傾げた。

「これは、なんかいきなり雰囲気が変わりましたね」

そうですね、と賢人も頷いた。

そして、検索結果から2枚表示され内の一枚をアップする。

「色使いが明るいのもそうですが、際立っているのがこの赤ん坊の存在ですかね。どこかひょうきんというか、かわいらしい感じですよね」

ほら、と言いながら絵を指差す。

「この、この子供達が大きな球を輪に通そうとしているのは無謀な行為を表しているらしいですね」

「それって、なんか意味あるんスか?」

「わかりません。彼女が木を削っているのは大工仕事と何か関係あるらしいです」

「あ、そういえばさっきのデューラーの絵も大工道具が散らばっていましたけど、なんか関係あるんですかね?」

「わかりません」

「賢人さん、何も知らないんですね」

「そういうセリフの前に、自分で調べてみてはいかがですか?」

ほら、と言いながら画面を戻した賢人は、大画面故にサムネイルでもそれなりのサイズで見ることができるクラナッハの2枚の絵を見比べた。

「共通しているのは木を削る女性、この場合は憂鬱の擬人化ですが、この女性、赤ん坊、ボールなど、そして背後の黒雲の中にはイノシシ、ヒツジなどに跨って天を駆ける全裸の人々、そのうちの一人は着衣。これらはそれぞれ何かを象徴していると思われるのですが、ぼくにも意味はさっぱり。できればチイちゃんが研究して意味を教えて欲しいのですが」

「丁重にお断りさせていただきましょう」

そうおっしゃると思いました、と言いながらタブレットを机に置いた賢人は美術書が並んだ書架に歩み寄った。

「これらの絵も面白いですが、クラナッハのメランコリアの絵でぼくが一番好きな絵があるんですよ」

言いながら一冊の大型本を抜き出した賢人は、それを大机に置くと、直ぐに目的のページを開いた。

それを見たとたん、早紀は、うわあおう、と小さく叫んだ。

「これはまた、なんていうか、陽気な絵ですね?」

早紀がそう言うのもなるほど、憂鬱そうに座った女性は一緒だが、その前では十数人の全裸の赤ん坊が楽器を打ち鳴らしながらひょうきんな足取りで踊り狂っていた。中には寝ているのもいる。

「なんなんすか、この赤子?」

「さあ?ただ、この子供達は彼女が憂鬱な考えに陥るのを遮るために気をそらそうとしている存在だ、という説を見たことはありますが」

「結局、クラナッハはこの絵で何が言いたいんですかね?」

「さあ、さっぱりわかりません」

賢人が言い終わらないうちに、邪魔するわよ、と戸口が陰り、長身の姿が美術準備室に入ってきた。

「隣行っても誰も居なくってさ、ちょっといい?」

ずかずかと入ってくると返事も待たずにどっかりと椅子に座った三輪は、そこでさも疲れたとでも言わんばかりにため息をついた。

「何ここ、よくこんな暑いところで部活なんかできるわね」

「いきなり人の家にやってきて家具にケチつけるような真似を」

なに?と睨みつけられて早紀が縮こまる。

「夏樹ちゃん、なんか甘いもんでもない?」

ケチつけといてからたかるなよ、と口の中で呟いた早紀が一睨みで再び縮こまる。

金平糖なら、と苦笑した夏樹に、それでいいから頂戴と手を突き出しながら突っ伏した三輪に、飲み物は?と言いながら笑って立ち上がった夏樹に向かって、三輪は持参した500mlのスポーツドリンクのペットボトルを振る。

立ち上がって水屋の方に向かって歩いた夏樹をなんとなく目で追った三輪の、その顔の目が瞬きした。

なにこれ、とその長身にふさわしい白く長い指が七海を指差す。

それは、と早紀が頷く。

「それはメランコリアです」

「何?メランコリアって?」

メランコリアとは、と早紀が確信を持って頷く。

「憂鬱そうに木を削る背中に羽の生えた女性と、踊り狂う赤子の大群のことです」

何?とメガネの奥の目が激しく瞬きする。

「何言ってるかわかんないんだけど」

そうでしょう、そうでしょう、と瞑目した早紀が腕を組んでうんうん頷いた。

「賢人さんですら、どういう意味かさっぱりわからないそうですから」

助けを求めるかのように賢人を向いた三輪に、賢人は薄笑いを浮かべながら困ったように軽く首を振っただけだった。

どうぞ、と置かれた金平糖の皿に、ちらっと夏樹を見て感謝するかのように頷いた三輪は再び七海に目をやってじっと見つめた。

そして立ち上がると七海の顔を覗き込んだ。

「大丈夫なの?」

だめっす、と突っ伏したまま煩わしそうに答えた七海に、今日一人で帰れますかねえ、と賢人も心配そうに窓の外と七海を見比べる。

再びじっと七海の顔を見つめた三輪は、やがて水屋からコップをとってくると自らのスポーツドリンクのペットボトルから注ぎ、それを七海の顔の前に置いた。

「飲んでみ」

え~~、とだるそうに眼を開いた七海は目の前のコップと見下ろす三輪を弱々しく見比べた。

「今飲んだら、吐きそう・・」

「いいから飲んでみ」

強い口調で言われた七海はなんとかそれを飲み干した。再びそれを満たした三輪に言われ、それも飲み干す。

十分後。

雑談をしていた一同は、治ったっ、と叫んで顔を起こした七海を驚いたように振り返った。

「単なる、軽い脱水症状でしょ」

したり顔で言った三輪に、ほうほうと七海は頷いた。

「そういや体育の後に水を飲もうとした時に先生に呼び止められて・・・その後クーラーの効いた教室に移動したから水飲むの忘れてたよ」

そこで七海は、さあて、と言いながら室内を見回した。

「なんか、黒い液体がどうのと言っていた奴がいたよな」

ああ、と早紀がしたり顔で頷いた。

「コーラだよ。サキちゃんコーラ好きだけど、コーラばっかり飲んでると体液がコーラになっちゃうよ、っていう話だよ」

「そんな言葉に騙されるか」

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