再び 意外
6月だというのに連日の猛暑で、いつもの体育館に近い自動販売機は半ば『うりきれ』のランプが灯っていたため、一度校門を出て外の自動販売機でコーラを仕入れてきた七海は、美術準備室に辿り着く前に飲み干しそうな勢いでそれを口にしながら、いつもと違うコースでぶらぶらと歩いていた。
おんやあ?
階段を上がって角を曲がると、少し先を見たことのある小さなおかっぱ頭が歩いていた。手に炭酸飲料のペットボトルをぶら下げているところを見ると、どうやら七海と同じコースを辿ったようだ。
一瞬、ニヤリと笑った七海は、少し低い、しかし鋭い声で、待ていっ!!と叫んだ。
足を止めた小さなシルエットは、背を向けたまましばらく佇んだ後、こちらも少しのどに絡んだ低い声で
「待てと申されるは」
その頭が傾くようにして小さく振り返り、細めた目が流し目で七海を睨みつける。
「身共のことでござるか?」
「身共のことでござるか?」
は?
あれ?
全身で振り返った早紀は、喉に手を当てると、アー、アーとの声を出した後、顔をしかめて七海を見た。
「なんか、気のせいかさっき私の声ユニゾンになってなかったか?」
「気のせいじゃないぞ、っていうか、だれか別の人間が同時にハモって言ったみたいな感じだったが」
はて、と辺りを見回すが、廊下には誰もいない。
「なんだったんだ、やまびこか?」
「やまびこって遅れて帰ってくるやつだろが。そもそもからして山じゃないだろが、山じゃ」
というか、その声は早紀の言葉を真似して追いかけたとは思えないほどにぴったりとタイミングが合った声であった。
同時に目の前の教室のプレートを見上げた二人は、うっ、と唸った。
そこは『調理室』であった。
顔に縦線を刻んで見つめ合った後、早紀が、ふんっ、ふんっ、と鼻息のように言いながら七海を見つめ調理室の扉に向かって顎を振る。
大きくため息をついた七海は、しばらくの逡巡の後、こんにちわ~、と小声で言いながらそっと扉を開いた。
そしてそうっと中を覗き込む。
遅れて早紀も七海の顎の下から調理室を覗き込んだ。
「あれれ?」
「だれもいないな」
言いながらもほっとしたのか、大きく扉を開いた二人は大胆にと調理室の中に踏み込んだ。
「やっぱ誰もいないよな」
「けどそれじゃあ、あの声はなんだったんだ、って話になるぞ?」
ずんずんと奥に向かって進んだ七海は、ふと気配を感じ大きな調理台の陰を見下ろした。
目が合った。
「いひいいいいいいいっ!!!」
「ひゃあああああああっ!!」
突然響き渡った大声に驚いた早紀がすっ転ぶのも気づかぬかのように這うようにして逃げた七海は、四つん這いのままゼイゼイと振り返った。
七海と同じ姿勢で、長いソパージュの髪を振り乱した一人の女生徒が真っ赤な顔に泣きそうな薄ら笑いを浮かべて振り返った。
はあっ?
「西園寺・・さん?」
その顔を薄笑いに凍り付かせたまま、西園寺麗子がゼイゼイと息を吐きながら、やあ、とでも言いたそうにばつが悪そうに小さく手を挙げた。
「はい・・・」
つまりは。
と七海と早紀は半眼になって調理台を挟んで座った西園寺を見た。
「時代劇が好きなんですね?」
両手で真っ赤になった顔を覆った西園寺は小さく頷いた。
けど、と西園寺は手で顔を覆ったまま続けた。
「けど、時代劇って私のイメージに合わなくって」
確かに。
七海と早紀は顔をしかめて頷き合った。
髪は亜麻色でぐるんぐるんしながら派手に広がっている色白のハーフ顔、いかにもお嬢風だが深窓の令嬢というよりもおフランスざんす、な感じが強い。年の瀬には暖炉のある部屋でワインでも片手に吹き替えでも字幕でもない『ローマの休日』なんかを映画専門チャンネルで見てそう、間違っても炬燵でちゃんちゃんこ羽織ってミカン食いながら民放の年末特番『忠臣蔵』を見ている姿は想像できない、したくない。
イメージに合わない、は出来過ぎるほど自己分析ができた故のセリフだろう。なおかつ吊り上がり人を見る時は睨むようになるその目が、画面の中の長七郎様にうるうるしているところは想像もできない。
「それ以前に、クラスや周りの友達に時代劇が好きな人がいようはずもなく、そんな会話で盛り上がれるような相手もいなくて。っていうか、私が時代劇が好き、って言ったとたん引かれそうな」
うちって、と西園寺が更に続ける。
「母方の祖母がフランス人とのハーフ、父もスイス人とのハーフで、全てが洋風なんですよ。弟も妹もそういう環境下で育ったんで、時代劇とか全然興味なくって、私だけなんですよね。家で時代劇とか見ようものならみんな、そんな結末が分かっているもの見て何が面白い、って」
あのマンネリの偉大さがわからないとは。
って、ハーフ顔じゃなくって、本物のハーフかよ。
「そのせいで家でもあんまり時代劇とは見れないんです。だから今日は部活が無い日なので調理室でこっそりスマホで四時からの金さんを見てから帰ろうと思ってたら、廊下から鉄板の会話が聞こえてきたので思わず反射的に」
ごめんなさい、と両手で顔を覆ったまま西園寺が頭を下げた。
ため息をつきながら、七海は黙り込んだ西園寺の顔をじっと見つめた。
以前に、と突然西園寺が更に続けた。
「それと以前に、部活中に一年生の子同士で話しているのが聞こえて・・・なんでも、うちのクラスに異様に時代劇が好きな変な子がいてさ、って」
変な子?
「とっさに聞き耳を立てて聞いてみると、どうやらその“変な子”は、絵画鑑賞部の子でサキちゃんと呼ばれてる子らしくって」
ようし!と言いながら右肩に手を当てた七海は腕をぐるんぐるんしながら立ち上がった。
「うちのクラスの料理研究部って白川の奴だったよな、たしか。今から行ってちょっとぶん殴ってくるわ」
もう帰っちゃってるって、と七海の服を掴んだ早紀が元の椅子に座らせる。
だから、と俯いた西園寺の顔が更に下を向く。
「前にここで備品の整理をしていたら、ふと廊下から声が聞こえてきて。会話を聞いているとどうやらその内の一人が、先日話に出ていた絵画鑑賞部のサキちゃんと呼ばれている子とわかって反射的に廊下に飛び出して声をかけちゃって」
それが“あの”時か。
「噂に聞いた、絵画鑑賞部でサキちゃんと呼ばれている面白ろそうな子って、あなた?と聞いたつもりだったんだけど、あの時は、何か会話が嚙み合わなくって」
じゃあ、と早紀が顔をしかめた。
「もしかして、西園寺さんは加藤とは全然関係ないの?」
カトウ?と西園寺は首を傾けた。
「料理研究部は上白糖しか使ってないけど?」
いや、糖類の話してないから。
しかし、と七海が首を捻る。
「この前ここで声をかけてくれた時の西園寺さん、あの、こう言っちゃ悪いんですけど、なんか怖かったんですけど」
私って、と西園寺は再び両手で顔を覆って俯いた。
「人と話す時、緊張すると声が出なくなるんです。それで無意識に相手に対して心理的にマウントをとろうと威圧的になったり、高圧的になったりして、誤解されちゃうんです」
だから、と顔を覆ったまま続ける。
「別れ際、背を向けてから手に持っていた包丁を背中の後ろで軽く振って、ほら刀だよ~ん、刀、これで気づいて、って」
なんておちゃめさん!ていうかわかるか、そんな地味なアピール。
それで、と西園寺が続ける。
「そのサキちゃんはどれほどの人なのか、と何度かこっそりと美術準備室の前まで行って耳を澄ませていたら、中から凄まじくディープな会話が聞こえてきて、これはもう絵画鑑賞部に入るしかない、と」
絵画鑑賞部には絵を見に来てください。というか、沙織さんが来ている日に扉の向こうでしばらく聞き耳を立てては去っていた気配は部長だけではなかったのか。
「先日意を決して絵画鑑賞部への入部のお願いに行ったのですが、入部試験に落ちてしまって」
あのうと、七海は控えめに西園寺に向かって手を伸ばした。
「ちなみにではございますが、あの時は彼氏が絵に興味を持ちはじめたので私も、みたいに言っておられましたが?」
彼氏なんていませんっ、と西園寺は再び両手で顔を覆った。
「恋愛関係を理由にした方が、健気だなあ、と思って入部を認めてくれるかと思ったんです」
あなたの風貌と言い方では、私って健気でしょ、ふふん、と上から見下ろされているように受け取られてしまうんですよ、実際。
なんか、考えているつもりで空回りしてるなあ、この人も。思い込みが強すぎるのだろうか?
なんかこの人も三輪さんとは違う生き辛さ抱えてそうだなあ。
「私、ただ時代劇が異常に好きなだけなんです」
自分で“異常に”と理解しているところも気の毒だ。
言いながら、最後の方は涙声になった西園寺に、七海は椅子に音を立てて立ち上がると、早紀に向かって小さく手招きした。
「何?」
いいからちょっと、と手招きしながら、扉に向かって軽く顎を振る。
廊下に出て扉を閉めた途端、早紀の両肩に手を置いた七海は、両目から涙を流しながら、殴ってくれ、と俯きながら小さく言った。
「は?」
「殴ってくれ・・・私の心は穢れ切っていたよ。西園寺さん、あんないいい人なのに、私勘違いして意地悪し・・・ってえなあっ!!なにすんだよっ!!」
いや、と早紀は七海の頬にグーパンチをくれた拳と七海の顔を見比べた。
「今、殴ってくれって自分で言ったじゃん」
「言ったけど、それは本当は殴って欲しいんじゃないんだよっ!!」
「じゃあなんだよ?」
「なんだよじゃねえよっ!空気読めよっ!!」
話を聞き終えた賢人は、あらら、と言いながらバツが悪そうに頭後を掻いた。
「今日は遅いなと思っていたら、そんなことがあったんですか」
なにか、と言いにくそうに続ける。
「見た目や思い込みで人を判断するのはいけないことだと、改めて思い知らされるような話ですね。ましてや風聞で人を判断するなど」
それはその風聞を広めた私が悪いと?
じっと、早紀も含めた三人の会話を聞いていた沙織が頷いた。
「やはりそうでしたか。一目見た時から、彼女とは何か気が合うような気がしましたが」
追い出したのもあんただがな。頼んだのは私だけど。
「彼女とはちびりちびりとやりながら、徹夜で話ができそうな気がしてきました」
ちびりちびり、って、と早紀が首を傾げる。
「お酒ですか?」
いいえ、と沙織が首を振る。
「酢です」
「酢って、ハチミツ酢とかですか?」
「いいえ、生の酢です」
うえ、と早紀が顔をしかめて舌を出した。
「そりゃあ、ちびりちびり、しか飲めんわな」
「いや、ちびりちびりだって凄げえよ。そもそもなんでそんなもの飲まなきゃなんないんだよ」
「知らないのですか、酢を飲むと体が柔らかくなるのですよ?」
それ都市伝説ですから。それ以前に、体が柔らかくなるから何だってんだ?
しかし、と賢人が首を捻った。
「時代劇なんてもう民放とかでは特番くらいでしかやらないですよね。西園寺さんはBSとかの時代劇専門チャンネルとかで見てるんですかね?」
「いえ、そんなもの契約してもらえるような家庭環境ではないみたいです。時々『東映時代劇Y〇uT〇be』も見るそうですが、基本は自分のスマホでローカルテレビらしいです」
Yes!と小さく口の中で叫んだ沙織がぐっと拳を握りしめ満足そうに頷く。
「現在の夢は、早く東京の大学へ行って一人暮らししながら、充実した時代劇ライフを送ることだと言っておられました。京都の大学に行って太秦(『東映映画村』のあるところ)辺りに住むのも悪くないって迷ってはおられましたが」
「東京のテレビ局が地元のローカル局ほど時代劇が充実しているとも思えませんけどね」
ははは、と薄く笑った賢人を見ながら、沙織が勢いよく立ち上がった。
「どうでしょうか、賢人くん。そんな情熱的な人がいるのであればいっそのこと絵画鑑賞部の中に時代劇部を作って勧誘しては?」
は?
「ここ、帰宅部に加えて、時代劇部という部内部を作るのです」
「そんなことするくらいなら初めっから普通に時代劇部を作ったらいかがですか?」
「絵画を見ながら時代劇について語るのがよいのですよ」
お腹壊しそうな食い合わせだろ、それ。
ここまで、時々くすくすと笑いながら四人のやりとりを見ていた夏樹が、じゃあ、と立ち上がった。
そしてタブレットをスクリーンに繋ぐと、電源を入れた。
「今日はその西園寺さんにちなんで、ええっ、意外?みたいな絵を見てみない?」
は?
しばらくタブレットを操作した夏樹は、一枚の絵をスクリーンに映し出すと一同を見回した。
暗い色合いの絵。
地面に倒れたブロンの髪を長く垂らした女性を、屈強な腕を持つおばはんが両手で抑え込み、もう一人の男が女性の腕を掴んで今にも刃物を振り下ろそうとしている。たなびく男の服が風が強いことを表して不穏な空気を感じさせる。背景はよく見えないが川岸に見えないことはない。殺した後川に死体を放り込むつもりででもあるのか。
決っして写実的でも上手くもないが、凄惨な雰囲気がよく伝わる絵であった。
これは、と言いかけた賢人に、しっと自らの唇の前で人差指を立てた夏樹は、じゃあ、と七海と早紀を順に見た。
「この絵は、誰が描いたと思う?」
は?
七海はじっとスクリーンを見つめた。
もっと写実的だったらカラバッジョ一択の題材だが、下手糞だからゴッホかアンリちゃんか、いや、アンリちゃんの絵にしては上手すぎる、じゃあゴッホか?画風は似ていなくもないが。
ちなみに、と賢人がちらっと夏樹を見てから人差指を立てた。
「一つヒントです。絵の題名は『殺人』です」
いや、そのまんま過ぎてヒントにも何もなっていませんがな。
なるほど、と沙織がじっとスクリーンを見ながら感心したように頷いた。
「時代劇のチャンバラシーンとかけて、刃物で人を殺す絵というわけですね」
いや、夏樹さんそんな細かい設定しないから。
この絵は、と七海は賢人に向かって頷きかけた。
「もしかしてゴッホですか?」
おしいっ、と嬉しそうに言った賢人が指を鳴らした。
「おしいですが、違います」
おしい?
はい、と沙織が手を挙げた。
「もしかしてポール・セザンヌですか」
一つ手を打った賢人は、沙織に向かって頷きながら人差指を立てた。
「ご名答、さすがは沙織さんですね」
沙織はさして嬉しそうでもなく、どうも、とだけ言って頷き返した。
セザンヌ・・・?
「セザンヌといえば静物画、というイメージがある中で、彼はこんな絵も描いていたんですよ。意外でしょ?」
「まあ、うまく絵が描けないとカンバスを叩き壊して窓から投げ捨てたり、モデルがわずかにでも動いたら激怒したというエピソードを聞かされていますから、言われてみればさもありなん、という気分ではありますけどね。瞬間湯沸かし器みたいに短気な人みたいですから、この絵の場面もカッとなって思わずって感じですかね?」
「いえ、別にセザンヌが殺人を犯しているシーンではありませんので」
「凶器に使ったナイフも、『リンゴとオレンジのある静物』を掻き終えた後、リンゴを剥いて食べるために用意しておいたものですかね」
「それも違うと思います」
わかりました、と早紀が手を挙げた。
「では、私なりに考察したこの絵を解説させていただきます」
へえ、と夏樹が笑い、賢人も、ほう、と言いながら頷いた。
「それは面白そうですね、ぜひ」
「やめといた方がいいですよ。チイちゃんの、“私なりの考察”でまともなものがあった試しはありませんから」
「それも含めて楽しみに聞きませんか?」
「知りませんよ、耳が腐っても」
この3人は、と七海が言い終わるの待ってから早紀がスクリーンを指し示した。
「夫婦と、金髪のはその共通の友人です。三人は一杯やりながら今期のアニメの話題で盛り上がっていました」
はい、と沙織が手を挙げた。
「一杯って、酢ですか?」
ここはそうボケるんじゃなく、アニの方に突っ込めよ?
「大分酒も進み、ろれつも回らなくなったころ、突然夫の方が、しかし未だにたった3話目で“俺の”マ〇が首ちょんぱになったのが納得いかない!とコップをテーブルに叩きつけました」
「〇ミって誰ですか?」
そこに、と賢人の声が聞こえないふりをした早紀が続ける。
「そこに金髪が笑って、いつまでも、マ〇、〇ミって、未だにバー〇、〇ース、って言ってる阪神ファンか、と夫の方をからかいます」
「バー〇って誰ですか?」
「しかし、普段は聞き流すような突っ込みに、大分酒が入っていた夫は本物の嫁の前にも関わらずヨメを馬鹿にされたと感じ激高、これに阪神ファンだった嫁も手を貸し、しかしてこのような凄惨な事態になったのでし」
「意外といえば、こんな絵もありますよ」
言いながらタブレットを手に取った賢人を、半眼になった早紀が見つめた。
「ボケも突っ込みもなしですか?」
そんな早紀の肩に手を置いた七海は頷きかけた。
「好きの反対は、嫌いじゃなくって無関心、って言うらしいぞ」
「心に刻んでおくよ」
賢人が、ほら、と言うと、スクリーンに素描の一枚の絵が映し出され、それを見た七海は、あれ、と声をあげた。
「これって公爵夫人じゃないですか。これって、マサイスの下書きですかね?」
いえ、と賢人がしてやったりという表情になった。
「これはレオナルド・ダ・ヴィンチが描いた『醜い公爵夫人』の絵です」
はひ?
「マサイスとレオナルドは素描を交換するほどに親しい友人だったのです。ちなみにこの絵は、レオナルドが描いた素描を更に模写したもの言われています」
「うーむ、以前に『モナ・リザ』の代わりに公爵夫人をとかふざけて言ってたことはあったが」
「レオナルドくんがマジで公爵夫人を描いていたとは」
「『不思議の国のアリス』に出てくる公爵夫人の挿絵のモデルはマサイスのこの絵だと言われているそうですよ」
そう言った賢人は、では次はこんな絵はどうでしょうか、とスクリーンを指し示した。そう賢人が言い終われないうちに新しい絵がスクリーンに映し出される。
「これは誰が描いた絵だと思いますか?」
これ?
ベッドの上に座ってどこか不安そうに鑑賞者を見つめ返す全裸の少女。股間のところは手をクロスさせて置いているため隠れているが胸は露わだ。しかしエロティックさは皆無のその絵。ベッドから壁に伸びた少女の影が心なしか以上の確度を持って人の顔に見える。影の密度と存在感がほとんど背後霊だ。
こ、これは・・・
早紀は確信をもって頷いた。
「この絵の題名は『 # どうやらモノホンが写ってしまったみたいだがおのれらどう思う?』ですね?」
「何故絵の題名に#が?」
う~むと言いながら七海はじっとその絵を見つめた。
「下手さ加減から言えばアンリちゃんなんだが」
「アンリちゃん違うだろ。アンリちゃんの色塗りはもっとのっべりとしてる感じだぞ?」
だよね。
「じゃあ今度こそゴッホか?けどゴッホこんな絵描くかなあ」
さあさあ、と嬉しそうに賢人が手をすり合わせた。
「この絵の作者は誰だと思いますか?ちなみにこの絵の題名は『思春期』です。彼女の影は、少女から大人になろうとしている彼女の心の不安を表しているわけですね」
「画風はゴッホぽいけど、ゴッホはこんな絵は描かないと思うんだけどなあ。影の表現もゴッホぽくないんだよなあ」
「それが“意外”なのかもしれませんよ?」
ううむう・・
はい、と再び沙織が手を挙げる。
「もしかしてルノワールとかですか?」
それは、と七海は顔をしかめて沙織を見た。
「それは違うんじゃないですか。いくらなんでもルノワールにしては下手すぎませんか?」
「わざと下手糞な絵を描いた方が目立っていいんじゃないですか?」
「いくらなんでも・・」
いえ、と賢人が苦笑しながら七海の言葉に割って入った。
「確かに、ルソーやセザンヌとかは、逆に下手すぎで目立ったせいで売れた画家、みたいに言われることはないことはないですね」
まじか!
「ただ、この絵は違います」
「では、この絵は本当に下手糞な画家が描いたのですね?」
「そこまでは言いません。もう答え言っちゃいますね」
「これはエドヴァルド・ムンクの描いた絵よ」
賢人の後を受けるようにして言った夏樹が笑った。
ムンク?
七海はじっとスクリーンを見つめた後、賢人を振り返った。
「この少女、叫んでませんね?」
「サキちゃんはムンクの絵の登場人物がみんな叫んでいるとでも?」
「この子が全裸でシャワーから出てきてベッドに腰かけふと窓の方を見ると男の顔が。思わず、きゃ~~~っ!!!覗きよっ、覗きっっっっ!!て叫び、そのキンキン声に、ああうるせえ、と『叫び』の人が耳を塞いでいる」
「そういう事実は一切ありません」
そして、西園寺麗子さんは時々美術準備室に遊びに来るようになったそうです。