ハプニング
列から出ないように気をつけながら、戸田七海は美術室の中を覗き込んだ。
てんでバラバラバラに椅子に座り、あるいは窓際にもたれながら、沢山の生徒が談笑を交わしているのを確認した彼女は一つ頷き胸を押えた。
絵画鑑賞部に入りたい。
そう言った時の関係者の微妙な表情に少し心配していたが、雰囲気は悪くなさそうだ。
「次の人、どうぞ」
研究系最大の部だと聞いていたその入部希望者の列は長かった。少し遅れたかな?と思って長い列の最後尾に並んだが、彼女の後ろにもあっという間に長い列が続いた。
「次の人!」
『入部希望受付』の紙の下がった長机の前に進んだ七海は、ここにクラスと名前書いて、と指差されたそこに覆いかぶさるようにしてボールペンを構え、ふと気づいたかのように本日の受付担当を仰せつかったのであろう小柄な二年生の顔を下から見上げるように見て首を傾けた。
その胸の『新藤』という名札を視界の隅に捕らえ、ああ新藤先輩ね、と名前と顔を記憶に留める。
「ちょっとお聞きしたいんですが」
「何?どうしたの?」
七海の背後に並んだ列にちらっと眼を走らせた彼女は、苛立ちを隠してこの空気の読めない新入生ににっこりと微笑んだ。
「部活って、やっぱり絵を見るんですよね。みんなで、美術館とか行ったりするんですか?」
「は?」
瞬きした新藤が不思議そうに七海を二度見した。
「今、何て言ったの?」
あ、いえ、と七海は肩越しに背後を見た。
「あ、いえ、部活でどんなことをするのかなって・・・絵、見るんですよね?」
え?と言うかのように新藤が再び瞬きして首を傾ける。
「何が?」
いや、と二人の目がちらちらと列に目を走らせ、一つ頷いた新藤はちょっと待てと言うかのように軽く手をあげると、カナ、ちょっとお願い、と美術室の中に呼びかけ、ふんっ、ふんっ、と鼻息のように言いながら手を振って七海を列から外れさせた。
美術室から出てきたショートカットの長身の生徒が新藤と七海を見、すぐに事情を察したのか入部希望用紙の前に立つと、ごめんなさい、どうぞ、と列の先頭に呼びかけた。
それを確認してから、新藤が七海に向き直った。
「それで、何の話だっけ」
「あ、はい。部の活動についてなんですけど。絵を見るのってどんな風にやるのかなって。部員も多いみたいだし、普段の部活の様子を知りたくって」
新藤が露骨に顔をしかめて七海を見つめた。
「何で、絵を見るの?」
は?
「絵、見ないんですか?じゃあ、どんな部活をしてるんですか?」
「いや、なんで絵の話がここで出てくるのかわかんないんだけど?」
はい?
七海が口を開こうとした絶妙のタイミングで、待て!とでもいうかのように手を挙げて制した新藤は、ちょっと待ってて、と短く言って、足早に美術室の駆け込んで行った。
その背中を見送った七海の耳に、なんか変な子が来てるんですけど、という新藤の声が小さく響いた。
変な子?
ここまでの展開で、何か変な子認定されるようなこと言ったか?
待つほどもなく、髪を三つ編みにした長身の生徒が背後に新藤を従えて足早に現れた。
副部長の三輪です、と言った後、彼女は眼鏡の奥の目を細め、わずかに警戒するかのように七海を見つめた。
「ええと、どういう話だったかしら?」
あ、いえ、と七海は言いよどんだ。
「あの、部の活動について知りたいんですけど」
「例えば?」
「あの、絵、見るんですよね?」
七海がその言葉を言い終わらない内に眉間にしわを寄せた三輪が背後を振り返り、ね?とでも言うかのように新藤が頷く。
「それはどういう意味かしら?」
七海を向き直った三輪に、俯いた姿勢から七海は彼女を見つめた。
何かひどく理不尽な言いがかりをつけられている、というような敵意と苛立ちを隠しもせず、三輪が七海を睨みつけていた。
「いえ、入部の前に、一応どんな活動をしているか・・・・」
「それと絵がどう関係があるというの?」
「いや、だから・・・」
「絵と、うちの部と何が関係があるというの?」
「あ、いえ・・・ええと、そういう部じゃ・・・」
突然三輪が平手を長机を叩きつけ、周囲の生徒達が一斉に三人を振り返った。
「はっきり言いなさよ、さっきから!うちの部に何か文句でもあるわけ?!」
いや・・・
不安的中と言うか、なんかわかんないうちに喧嘩売ってるみたいになってるぞこれ・・・
それも三年生、学校で最大勢力言われている部の副部長にだ。
廊下が静まり返り、突き刺さるよう無数の視線を感じながらわずかに震えながら俯いた七海の背後から、どうした、という野太い声が降ってきた。
お・・・
背の順で最前列以外経験のない小柄な七海からすれば全員が“見上げるような”人ばかりだが、それでもこれはと思うほどにガタイのいい制服姿が、何故気づかなかったのかと思うほど近い背後から、じっと七海を見下ろしていた。
「何か、トラブルか?」
じっと目を細めて無表情に七海を見下ろす彼を見上げて完全に硬直した七海の背後から、部長、白石くん、という新藤と三輪のほっとしたような声が響いた。
「変な子が来てるのよ。さっきから変な言いがかりつけてきて」
ほう、と白石と呼ばれたその男の目が更に細くなった。
ぐいっと制服の上からでも極太とわかる腕を組んだ彼は、胸を反らしながら七海を見下ろした。
「部長の白石だ。新入生のようだが、うちの部に何か用かね?」
あ・・・いえ・・・・・
歯が鳴っていないのが不思議なような声で、七海は瞬きもできずに彼を見上げた。
「絵・・・絵を・・・絵が・・・」
ようようそれだけ言った七海に、白石は、絵?と瞬きした。
「そうなのよ。この子さっきから絵がどうしたの、ってそればっかりで」
ん?という表情で、白石が目だけで天井を見上げた。その目がすぐに七海の背後に向き直る。
「それ、変か?」
「だって、絵とうちの部がなんか関係ある?」
何言ってるんだ、というニュアンスたっぷりの声が、噴き出すのをこらえるかのように震えた。
「お前らこそ忘れてるんじゃないか。うちは“絵画鑑賞部”だぞ?」
えっ、という声に振り返った七海の目の前で不思議そうに顔を見合わせた新藤と三輪が、突然大きく息を吸い込みながら、それ!、とでもいうかのようにお互いを指差した。
「あははははっ、そうだったそうだった!」
「そっかあ、それだ!うっかりしてたわ。絵、絵って、言うから。ははは、それだあ!」
はい?
ごめ~ん、ごめ~ん、と笑いながら、三輪がひどく馴れ馴れしく七海の肩をバンバン叩いた。
「そっかあ、それで勘違いしたんだあ、ごめん、ごめん、全然気づかなかったわ」
勘違い?
「入部希望というならこっちだ」
ニヤニヤと笑いながら小さく手招きして背を向けて歩き始めた白石に、いや入部希望はここだろ?と腑に落ちないというか、ますますわけのわからなくなったまま、七海はふらふらとついて歩き始めた。
じゃあねえ~~っ、と言いながら楽しそうに新藤と三輪が背後から手を振るのが肩越しに見えた。
完全に、サヨナラ、の手の振り方だった。
誤解は解けたのか、というか、これで正しいのか?という、どうやら自分だけが状況を把握できていないというようなわけのわからない不安に、七海はわずかに俯いて白石に続いた。
どこに行くんですか、と問う間もなくすぐに目的地についたのか、白石は美術室の隣の美術準備室の扉をノックもなく開いた。
「加納、いるか?」
普通に喋っても怒鳴っているような声が中に呼びかけ、七海は大きな背中の端に首を伸ばして中を覗き込もうとしたがよく見えない。
「部長は今日はまだ来てないよ。どうしたの?」
ほれ、と言いながら振り返った白石が七海の首根っこを掴むようにして引き寄せると部屋の中に押し込んだ。
「入部希望だと。可愛がってやってくれ」
それだけ言った白石は、不安そうに振り仰いだ七海に愛嬌だっぷりのウィンクを一つ残すと、何の説明もなく背を向け、勢いよく扉を閉めながら何の名残も見せずに去っていった。
振り返る。
快晴の窓に暗室カーテンを閉めた上で電灯をつけた部屋の中で、机を挟んで向かい合っていた二人が立ち上がるとシンメトリーに両手を広げてにこやかに叫んだ。
「ようこそ!」
「我らが絵画鑑賞部へっ!」
薄暗い部屋に響き渡った明るすぎる声が、逆に不安であった。