除夜の鐘
*このお話はフィクションです。
「除夜の鐘」
大晦日の夜。
友達との忘年会で、しこたま呑んだ柊一は、あと数十分で、年を越すという時刻に、みんなと別れて、家路についた。
今年の地元の冬は暖かくて、まだ一度もコートを羽織っていない。
「温暖化だな」と、ろれつの回らない口で、呟く。
暖かいとはいえ、呑んだあとは小便が、近い。一度、トイレにいってしまうと、次から次に、もよおしてくる。
港町の居酒屋から、歩いて十分の距離の我が家に着くまでに、尿意をもよおしてきた柊一は、前後を見回し、誰もいないことを確認すると、誰の家だかわからぬ門扉に、立ち小便した。
そのときだった。
ゴーンっ!と、鐘の鳴る音が響く。よほど近いのだろう。体に空気振動が伝わる。
柊一は、パンツのなかに仕舞いながら、空を見上げて、気付いた。
「あちゃぁ、『海神神社』じゃないか」
柊一が小便をした場所は、海神神社の正門の柱だった。
とりあえず、両手を合わせて詫びると、そそくさとその場を立ち去る。
その後ろから、金属バットを持った人影が近寄ってきた。柊一は、気づかない。
ゴーンっ!鐘が、鳴る。
築三十年の平屋の我が家にたどり着くと、妻の柊桜が、起きて待っていた。海神神社の鐘が、鳴る。
「お茶、淹れるわ」柊桜は、そう言うと、台所に立つ。
柊一は、こたつに入ると、ついているテレビを眺めていた。NHKだったので、
「今年は、どっちが勝った?」と、尋ねると、
「それがね、視聴者も、会場も白組の勝ちだったのに、審査員票で、・・・審査員票だけでよ、赤組の勝ちになったのよ。おかしいったらありやしない」と、ぼやくようにそう言った。
「ふーん」頭がアルコール漬けで、回転していないから、生返事で答える。
生返事とわかっていても、柊桜は怒らない。酔っぱらっている時は、つまらぬことですぐに、怒り出すからだ。また、除夜の鐘が、鳴る。
子どもはふたり。ふたりとも、地元から離れて生活している。
ふたりとも、高校時代は、野球部だった。今は、普通の社会人だ。
子育てが終って、悠々自適の生活なのだけれど、日増しに酒量が増える夫に、柊桜は辟易していた。
もっと自分の好き勝手に過ごしたい。
浮気だって二回もされている。
柊桜の憎しみは、日増しに強くなる。
このままだと、老後は、この酔っぱらいの介護に費やすことになる。そんなの、嫌だ。
明日朝一番に、海神神社で、祈願しよう。そう思って、頭のなかに、五百円のお賽銭が浮かぶ。
「神様、お賽銭を弾むから、お願いします」おもわず、呟く。
「何か言ったか?」
「何も」そう応え、
「明日は、・・・て、いうか、もうあと何分かで、新年だけど、朝に海神神社に行くでしょ?」と、訊ねる。
また、鐘が、鳴る。
「う~ん、起きれたらね」と、ろれつが回らない。また、尿意がもよおしてきた。立ち上がろうとして、
「あれっ?」と、柊一が声をあげる。
「どうしたの?」と、訊く柊桜に答えず、こたつ布団を、めくってなかを覗き込んでいた柊一が、悲鳴をあげた。
「あ、足がない・・・」
太ももの付け根から、その先がなかった。
除夜の鐘が、鳴る。
「ひっ!」言われて、覗いて、悲鳴をあげる柊桜。
柊一は、すぐに思い付く。
「海神神社だ・・・」
「なにそれ?どうかしたの?」
「帰りに、海神神社に、小便掛けてきた」
「な、なんて罰当たりなことしたのっ!早く、謝りに行かなきゃ」
「行こうにも、足がない」
見れば、すでにヘソまで無くなっている。
「桜、た、助けてくれ」すっかり酔いも覚めて、流れ出る涙を拭こうと、右手を顔に当てようとしたけれど、もう、右手が消えていた。
「あぁ、神様っ」
日付を越えた、除夜の鐘が折り返す頃に、柊一はすべて、消え失せた。
柊桜は、驚きはしたけれど、ショックはなかった。それどころか、心は清々して、気持ちいいくらいに思っていた。
これで、自由だわ。そう思ったら、口元が弛む。笑みが、溢れる。
するとそのとき、
「おぉい、桜、桜っ!」と、柊一の声がする。
見下ろすと、座椅子の座布団の上に、親指ほどの柊一がいた。消えたのではなかったのだ。
「俺を連れて、海神神社に行ってくれ」そう言う柊一を、むんずと掴むと、思い切り、襖に、投げつけた。
襖に叩きつけられて、畳の上に、ペチャッと落ちる。
小さくて、地球に引かれる重力が軽いからか、そうされても、死ななかった。
アリンコが、数メートルの高さから落ちても、平気なのと、一緒だ。
死なないと見ると、蝿叩きを持ってきて、降り下ろす。
「な、なにするんだ?やめろやめろっ!」逃げ惑う柊一は、なんとか冷蔵庫の後ろに隠れた。
外では、柊桜の、舌打ちが聴こえる。
埃が、大きい。
親指大の柊一は、どうするか途方にくれていると、
「よぉ、罰当たり」と、呼び掛ける声がするから、振り向くと、ゴキブリだった。
小さくなると、ゴキブリと話せるのかと、疑問にも思わず柊一は、
「聴いてたのか?どうしたらいいか知ってるのか?知っていたら教えてくれ」と、訊ねる。
「さぁね、俺たちの仲間を散々殺したやつの頼みなんて、訊けないね」と、ゴキブリは、にべもない。
「お前たちは、人間よりも遥か、太古から生きてんだろ?知ってるんじゃないのか?」
「長生きしてるからって、なんでも知ってると、思うなよ」
表情がないけれど、あざ笑ったような気がした。
「ひとつ教えてやろう。お前の奥さんは、好い人がいるようだぜ」
柊一は、目を見開いた。
そのときだった。
シューっと、音がした。同時にゴキブリが、壁を這い上がる。
「お前も逃げろ!殺虫剤だっ」ありがたい忠告だけれど、柊一に壁を登る芸は、ない。
すぐに白い煙に撒かれて、目から涙が溢れ、喉はカラカラに渇き、冷蔵庫から這い出したときには、体は激しく痙攣して、その場に倒れた。
「世話を焼かせやがって」妻の言葉とも思えぬ台詞を吐きながら、器用に蝿叩きで親指ほどの柊一を掬い上げると、トイレのドアを開ける。
ポチャンと、柊一をトイレに落とすと、
「これまでのあんたの悪行はすべて、水に流してあげるわ」と、コックを捻る。
水流は渦を巻いて、柊一を流した。
柊一は、目が覚めた。
新年の朝が、来ていた。
ベッドに寝ていた。
枕元のスマホを見ると、「一月二日」だった。
「なんて、初夢だ」半身を起こして、汗を拭う。
「起きたの?丸二日も寝ていたのよ。大丈夫?」柊桜が、ベッドの脇に座り、柊一の手を握る。
「海神神社の正門に倒れていたのを、あなたの友達が、運んでくれたのよ」目が潤んでいる。
こんなに、心配かけたのかと思い、
「誰かに殴られたんだ」と、伝える。
「まぁ!なんてことっ、それで、相手の顔を見たの?」と、訊かれて、
「いや、見てない」と、言うと、なぜだか、妻が、ホッとしたような顔をした。
気のせいかと思ったけれど、夢のことを思いだし、わざと冗談半分のつもりで、
「実は、少しだけ気になることがある」と、言ってみた。
「な、なに?」見方によっては、狼狽えてるようにも見える、柊桜。
「香水が、お前と同じものだったんだ。だから、犯人は女だと思う」
そう言われて、柊桜は、「そう」と、言いながら立ち上がると、台所へ向かう。
お茶に、白い粉を入れる。その顔は、阿修羅のように、口の縁が持ち上がっていた。
「罰当たりには、報いを。あたしには、愛人との新しい人生を」
願うように囁いて柊桜は、何食わぬ顔で、お茶を柊一に、運んだ。
おわり