003 別離と逃避
窓から差し込む月光が、そよぐ黒髪を透けて穏やかに照らす。
風が吹いている。
穏やかな風だ。
女はそっとひとつ息を吐いた。
「やはり、慣れんな」
黒く染まった髪と瞳―――慣れる気がしないが慣れるしかない。
今のところ、変装の手間が省けることを喜べるほどにはまだ受け入れられてはいなかった。
手の中で弄ぶ閃光石のペンダントトップはすっかり手の温度になじんでいる。それだけの時間そうして月光を浴びていた。もうじき女が佇む窓枠からは月が見えなくなるだろう。
そこはとある宿の一室。
窓枠に腰掛けて女は夜風に涼んでいた。
悠長にしていられるほどの余裕はないものの、すこし落ち着く時間が欲しかった。
竜に喧嘩を売った、それは単なる愚か者、自殺志願者の証。
しかしそれで生還してしまったとすれば、その者は―――『英傑』と、そう呼ばれる。
それだけ竜という存在は常軌を逸していた。
そして彼女は成ったのだ。英傑へと。
色彩の変化はその証とでもいうのだろうか。
随分と洒落た竜もいたものだと女は口の端に笑みを乗せて、それはすぐに零れ落ちた。
竜に挑む理由があった。
挑んで、そして、死ぬつもりだった。
本来ならばそれを決意した時点で死んでいたようなものだった。
それなのにいまこうして生きている。
それも、呪いとでも言うべきか、竜により与えられた人ならざる力を宿して。
英傑など柄ではない。
そんなものになりたくもなかったのに。
だからという訳では必ずしもないが。
逃げ出したのは、確かなことで。
これからどうしようかなど考えもつかない。
それでも、逃れようと思ったからこうしている。
たとえそれがどんな逃避行になろうとも、どうやら自分は生きていたいらしい。
だからこうして、慣れない受付に怪訝な顔をされながらとった宿の一室で、ひとりきり。
軍服を脱ぎ捨て、自由という名の元に選んだ男物の軽装をまとい、彼女は一人でそこにいる。
思えば生まれて初めての自由かもしれなかった。
幸福とともに語られることもあるそれは、しかし女にとってはどうしようもなく絶望的な響きで。
ああどうしよう、と。
何度目かも分からないほどに、女はまた、考える。
「……む?」
ふと、その耳が足音を捉えた。
木の床を軋ませるその音は部屋の前で止まる。
それから、とんとんとノックの音。
部屋の扉には番号札がついている。そのため恐らく部屋を間違えたということはないだろうが、女には尋ね人の心当たりはない。
少なくとも、わざわざノックをするような相手は。
疑問はあるものの、しばらく沈黙しても反応がないとあればいつまでも黙っている訳にはいかず女は応えた。
「開いているぞ」
「―――失礼する」
「っ!?」
聞こえた声と、そして扉を押し開け入ってきたその姿に女は絶句する。
それは、そこにいるはずのない見知った姿。
全身を隠すフード付きの外套をまとってこそいるが、そんなものがあっても一目で分かった。
目を見開く女に、フードを取り去った彼女はその深緑の目を細め、ふっ、と口角を上げる。
「そう驚くものでもあるまい、英傑どの?」
「……お止めください、ゴルバドス殿」
そんな大層なものではないです、と苦笑する女は、窓枠から降りると表情を引き締め敬礼の姿勢をとる。
右手を胸の真ん中に添え、左手を腰の後ろに回す軍隊式の敬礼。
どんな意味に基づくものだったか、あまり帰属意識のない女は気にしたこともなかったが、少なくとも今この瞬間、目の前の壮年の女に対するそれは敬意に満ちて。
ゴルバドスと呼ばれた女性はそれに敬礼を返し。
それから、ため息をひとつ。
「まさか、脱走したやつに敬礼を捧げられるとはな」
「所属関係なく、ゴルバドス殿は敬愛しておりますゆえ」
「それならばせめて一言告げて行けばいいものを」
「除隊届は提出させていただいたはずですが」
「あいにく窓口は直接受け取りしか認めておらん」
どうしてわざわざ黙って行ったのだ?と視線が問いかける。
しかし言葉にしないならば答える意義はないと女はほほえむ。
ゴルバドスはまたひとつため息を吐き、頭痛を抑えるように頭に手を当てた。
「…………まあ、いい」
「さようで」
諦めに至ったゴルバドスに女はしれっと言う。
どうせこの女は決めたらテコでも動かないのだとゴルバドスは知っていた。
それでも、聞いておかなければならない。
「それで、一体どこへ行くつもりだ。宛はあるのか」
「そうですね、南方の叔父の所へでも」
「親すら知らぬ貴様がか」
やはりアテはないのかとゴルバドスは呆れ返る。
それでもやはり説得など届きそうもない女に、彼女は懐から取り出した封書を差し出した。
「これは?」
「喜べ。あて先は貴様の望む南方、森林帝国が首都フェアリスだ。その隅で儂の知り合いが宿を営んでおる。それを読ませれば、快く面倒を見てくれるだろう」
「ゴルバドス殿……」
うやうやしく封書を受け取り、女はゴルバドスを見つめる。
見つめ合う。
静寂を挟み、ゴルバドスは柔らかくほほえんだ。
つられて女も、同じように、なんの気負いもなく笑った。
それはまるで、親と子が交わすような、とても自然な笑みだった。
「思えばこの二十年、旅行のひとつにも連れていけなんだからな。休暇をやろう。観光のつもりで楽しんでくるといい、娘よ」
「……はは、職権乱用ですよ、母様」
分かっているのだろうか、彼女が追われている人間であると。
分かっているのだろう、だからきっと、彼女はここにいる。
彼女は笑い。
彼女は笑う。
「では娘よ」「では母様」
別れの言葉は音より速く、瞳を通じて光が届ける。
笑いはとうに―――消え去った。
「ヒュミリッド王国軍第六駐屯基地総括、ゴルバドス・ロ・アルジア―――推して参るッ!」
「私は既に軍属ではないものでねっ」
閃光石を掲げて過剰な魔力を叩き込めば、爆裂する白が個室を埋め尽くす。
本来魔力を光に変換して放つだけの石は即席の閃光爆弾となった。
砕け散る閃光石により手のひらをズタズタにされながらも女は即座に反転、そのまま空いていた窓から飛び降りると着地とともに衝撃でうめくまもなく疾走。にわかに騒がしくなる街、怒号を避けるように路地へと逃る。
危機的状況だ、これで正真正銘追われる身となった。
しかしそれでも女は笑う。
「さすが戦鬼、まだ引退は遠いな!」
散髪の手間が省けたと、そう思う程度の余裕はあるだろうか。
あと一歩の踏み込みで恐らく首はなくなっていた。
あの閃光と魔石の破片の中で、しかし肌一枚届かせなかった切っ先―――まるで餞別とばかりにすっぱりと切りそろえられた後ろ髪。
それを思えばさすがと笑うしかない。
竜に喧嘩を売った程度の自分よりも、遥かに英傑と呼ぶにふさわしいではないか。
「とはいえ、捕まる訳にはいかんな」
自分でも、どうしようもないほどお母さんっ子であるという自覚がある。
たとえ血は繋がっていなくとも、母の目に涙を見てみたい。
そのためには、生きなければならない。
絶対に。
「ならば少しは考えて動きなさい」
「っ」
耳元でささやく声にとっさに拳を振るいながら反転。
空を切った拳は伸びきったところを抑えられ―――そしてそこには眼鏡を挟んで自分をにらみつける碧の瞳。
深い青の髪と、愛想笑いのひとつもできないいつも怒っているようなその表情は、同期にしてライバルの彼女に相違なく。
「エリーゼッ!」
「わざわざ居場所を教えてなんになりますか。黙ってください」
こちらへ、と喧騒から遠ざかるように誘う眼鏡の女性、エリーゼに、女は戸惑う。
「なんのつもりだ?」
「なんのつもり、と?」
ぎろっ、となんとも穏やかでない視線ににらみつけられ、女はたじろぐ。
剣呑さが普段の十割増しだった。
戦鬼より恐ろしいとはどういうことなのか、もしかすると警戒の相手を間違えたかと思う女だったが、エリーゼはそれ以上なにも言わず、ふいと前を向くと女を引きずってゆく。
声をかけていいのか、それともこのまま死ぬのかと戦々恐々していると、エリーゼは震える声で言った。
「……借りを、返します」
「は」
「この前グリンピースを食べてくれた借りです」
「なにを言って、」
「借りたままなのは好みません」
「エリーゼ……」
足を止めることなく、振り向くこともなく。
それでも皮膚に突き立てられた爪とその濡れた声が、どうしようもなくその想いを伝えるようで。
「もう、もう返せないじゃないですかっ、あなたはっ、あなたはだって、行ってしまうからっ……!」
声を張り上げた訳でもない。
それなのにどんな音よりも響く悲痛な叫びに。
女は―――笑った。
くつくつと、堪えられない笑い声を、堪えようともしないで笑う。
「なにを笑うことがありますか……」
「くくっ、なに、お前は昔からまったく俺のことが好きだな」
「……自惚れ屋」
がり、と皮膚に刺さる爪の痛みにも笑いが込み上げる。
ひとしきり笑って、それから女は足を止める。
「なっ、」「そして、肝心なところで間抜けだ」
言いながら彼女を強引に引き寄せる。
無理矢理向き合ってその視線を捉える。
揺れる瞳。
涙に濡れた顔は、歪んだ表情は、ひどく不細工で、そして美しいと思えた。
「なあエリーゼよ、お前と同じで俺もな、借りっぱなしは性に合わん。知っているだろう?」
「でも、だって」
「返すさ、エリーゼ」
女はほほえむ。
不安と悲しみは似合わない。
だからお前も笑えと、言葉にしなくとも通じろと。
「またいつか、だ。またいつか、グリンピースじゃ釣り合わない、この大恩に報いよう」
「……ほんと?」
「もちろんだとも」
信じられないというのなら、そうだな。
そう言って女は、悪戯めいた笑みを浮かべ。
疑問符を浮かべるエリーゼの唇に不意打ちで己のそれを重ねる。
「!!?!?」
目を見開き、くんっ、と力が抜けてその場に座り込むエリーゼ。
女はそれを見下ろし笑った。
「続きはまた今度、だ」
「つづ……っ!??!?」
続きを想像でもしたのか、顔を真っ赤にして目を白黒させるエリーゼの今まで見たことのないその表情に満足して女は行く。
「さらばだエリーゼ! また会おう! ついでにこれは借りて行く!」
「これ……?」
エリーゼは混乱しながらも、これ―――つまりはその手に握られた長剣を見る。
無骨な片刃の剣、ナタのような形をしたそれは、エリーゼの相棒のマチェットに酷似している。
はっとして腰の後ろに手を回せば、そこにあるはずの柄にどうやっても触れられない。
いつの間に、と驚愕し。
そしてエリーゼは、笑う。
恐らくエリーゼの思惑は理解できたのだろう、だからこそこうして自分は置いていかれてしまったのだと、いとも容易く理解できる。
あっという間に路地を曲がり見えなくなってしまった背中に、届くはずもない視線を向けて。
「ちゃんと返して下さいよ」
なにせ初めてを奪われたのだ。
まったく然り、グリンピースごときでは割に合わない。
―――それから。
それから、逃げて、逃げて。
なぜか鍵の開いていた下水道を利用し、追っ手をまいて。
そして遂に、街の外、外壁の外へと、離脱する。
もちろん外にも警備はいたが、あれでなかなか職務にはまじめに取り組んでいる彼女は、有事の際に比較的手薄となる場所を狙って包囲網を脱出。
さらに逃げて、逃げて―――