023 呪いの竜
―――深夜。
厚い雲に月さえ奪われた純黒の闇。
けれど英傑たる女にはわずかの障害もなく、風に揺れる枝葉の動きさえ目で追える。
世界が寝静まったその時間帯。
女はオノと森の中にいた。
「眠りたくなったなら眠るといい。ベッドまでは俺が連れて行ってやる」
本来ならば女ひとりで来るはずだったのだが、オノがどうしてもと言うので共にやってきている。それゆえの気遣いの言葉も彼女からすれば余計な世話らしく、そんなことよりさっさとしろとでも言わんばかりに顎でしゃくられる。
彼女もまた魔眼を行使せずとも人より夜目が効くようで、近くの木の根に腰かけて女をじっくりと観察していた。
「そうか……まあいい」
なんともやりにくいものを感じながらも女は静かに目を閉じる。
そして己の内側に眠る忌々しくも力強い熱の奔流を感知し、それをゆっくりと解放していく。
そのとたん、全身を駆け巡る衝動がある。
力を振るう場を、闘争を求める暴力的な獣性。
血管のように浮き上がる赤黒のラインはどくんどくんと心臓よりも早く脈打ち、それに引きずり込まれるように心臓もまた逸っていく。
闘争を、血を、敵を―――!
魂から滲み出し思考を犯す竜の呪いに女は笑う。
「くはっ。騒々しいやつめが」
膨れ上がり、溢れだそうとする竜の暴威を―――調伏する。
女がしようとしているのはそういうことだ。
だからこうして人目のない場所で、仮に暴走したとしても危害を加えぬようにと人気のない場所で、女は力と向き合っている。
この先絶対正義に再度襲われたとして、その後更なる敵と遭遇したとして、あのような見境のない怪物へと化身しないように。
そしてまた―――凶悪ながらも極めて強力だったあの竜威をおのれの力とするために。
「そうやすやすとは従わんかッ」
女の身より呪いが爆発する。
身を乗り出したオノに鋭い視線で距離を取らせ(彼女はずいぶんと渋々ではあったが)、あふれ出す竜威と対峙した。
『――――――ッッッッ!!!!』
それは竜を模したような激情の姿を取り、音にならない咆哮を枝葉の戦慄によって代弁する。
竜は踊る。
そのアギトを噛み鳴らし、その爪で空を引き裂き、その猛々しい長躯をくねらせて。
それはまるで血色の稲妻が化身したかのような異形。
爆ぜるような威圧、圧倒的な暴力の塊―――ただの力であるはずのそれが、まるで自我を持つように女を睥睨する。
そして竜は、
さながら女の不遜を罰するがごとく、
豪風うならせ落雷する―――ッ!
これが竜。
その力のほんのひとかけら、人の身に宿った幻影でさえ人間を平伏させる暴威。
オノはその超常なる存在に目を見張り、今すぐに魔眼を行使したいという欲望にまなじりを震わせる。
しかし彼女が『思い余る』よりも早く。
空間を支配していた竜は―――あっさりと終わっていた。
「―――ずいぶんと矮小な竜ではないか」
嘲笑う女の手中に竜の首が握られている。
無造作にただそっ首を掴み止めた手のひらには焼け爛れるような感触があったが、英傑たる彼女にはなんの痛痒も生まない。
うねりもがく竜の幻影―――ほんの一瞬前まで埒外の存在であったはずのそれが、今ではただの弱者へとなり下がる。
「彼の竜と比べれば枝と大樹―――くはっ。我ながら上手いことを言うではないか」
なるほどこの程度のものに心奪われ振り回したところで、大した驚異になどなりはしなかったことだろう。女の手中にさえ収まる竜威は、あの嵐を従える竜の威容を想起さえさせない。
女はひとしきり笑い、嗤い。
そして獰猛に犬歯をむき出し腕に力を込める。
「この俺を―――竜に名を刻んだこの俺を、貴様ごときが犯せるかッ!」
ぐじゃり―――と。
握り潰した竜が弾け飛び、そして女の身に降り注ぐ。
血の雨のように降り注ぐその尽くが女へと取り込まれ、振り止んだ頃にはまるでなにごともなかったかのような穏やかな静寂が場を包んでいる。
「ふんっ」
女は鼻を鳴らし、腰に下げていたマチェットを握る。
溢れ出した竜の呪いが女の腕を包み、瞬く間にそこには竜爪があった。
その竜爪を天へと一振り―――たった一振りで顕になった月の光を浴びながら、女は竜威を身に秘める。
―――考えてみればそれは単純な事だ。
竜に抗するほどの精神が、どうして呪いごときに喰われねばならないのか。
故に女は当然それを調伏できると確信していた。
それが功を奏したのかは定かではないが―――ともあれ。
「これで、少しは様になるか」
すくなくとも以前のように理性を失うようなことはないだろう。
以前のように―――オノへと手を挙げるようなことも、ないだろう。
「……ふっ」
自分が思いのほかオノのことを危惧していたことに気が付いて、女は小さく笑った。
あいまいな記憶の中にさえ、オノを害そうとしていた自分を覚えている。
もしもあのとき絶対正義が襲撃していなかったら……そう思えば、彼の『悪』という言葉に反論する気が湧きもしない。それなのに彼女が身を挺して自分の理性を取り戻してくれたから、だから女は今こうして己の身をむしばむ呪いと対峙することさえできた。
もちろんそれは、オノにとって貴重な研究材料である英傑を逃したくないからというのもあるのだろうが。
「オノ」
女が呼ぶとオノはのこのこ寄ってくる。それをぐいと抱き上げてやると、彼女はそんなこと意に介さずじろじろと女を眺めては体をペタペタと触った。
「……? ……、……」
一体脳内ではどんな思考が巡っているのか、ころころと表情を変えながら女の体をまさぐるオノ。
今くらいは好きにさせてやろうと、女は笑って身を預けた。




