4-9 智奈の大きな過ち
———— Tina
「お父さん!」
智奈の大きな声に、反応するように、霈念が一瞬動きを止めた。秀架の目の前に突き出した、長い杖を霈念はピタリと止める。
その一瞬の隙に、クイが霈念の杖を弾き飛ばし、秀架はクイと共に霈念から離れた。
杖が空を舞い、遠くにからんと音を立てて、湖の上に落ちる。
霈念が手を伸ばすと、杖は霈念の手の中に戻った。
「お前は絶対に殺す」
今までに見たことの無い、霈念の怒りの表情。智奈はその表情に背筋が凍るような悪寒を感じた。
「暁乃一族一同に命を狙われるとは、光栄なんだが、今はそんな状態じゃないんじゃないか? 親父さん」
秀架が言うと、目でこちらを指してくる。
こちらを見られて辺りを見回す。
眠る霧亜に擦り寄るナゴ。そしてクズネは、智奈の隣で小さくなって震えている。
「霧亜!」
遠くにいた能利とラオが、慌てるようにこちらに走ってくる。
智奈が、どうしたの? と訊くまでもなく、霧亜に何か起こっていることは確信した。
その場に寝ている霧亜の肩を揺すってみる。智奈と同様、玄武の嫌な夢を見させられているのか。それにしても、顔色が悪い。
霧亜の身体を見る。胸の辺りから、焼け焦げたような傷と、大量の血液が服に付着している。
智奈は、深い傷を見て慌てて霧亜を揺する手を離した。智奈の眉が、どんどん険しくなっていく。鳥肌が、段々と足先から湧いてくる。
「霧亜? ねえどうしたの?」
霧亜は何も言わない。
この世界に来た時のように、細い息をつきながらも、すぐに目を開けてくれると思っていた。目を開けて、青い瞳をこちらに向けて、大丈夫、と智奈の頭に手を置いてくれると思っていた。
「能利、能利助けて!」
滑り込むように到着した汗だくの能利が、霧亜の傷に手を当てる。青龍の森で、智奈を手当てしてくれたように、治療してくれている。
能利が治してくれれば大丈夫。
「霧亜あ……」
ラオが、霧亜の腹に突っ伏している。
能利が、治してくれるから、大丈夫だよ、ラオ。
そうだよね?
同意を得たくて、智奈は能利を見る。
いつにない必死な表情の能利。
「くそ……くそ、ふざけんな」
こんな汚い言葉遣い、能利にしては珍しい。
いくら能利が高魔力の治療をしても、霧亜の土気色の肌と唇は、元に戻らない。
そういえば、どうして能利の周りに煙のようなものが見えるんだろう。
テレビで見たことのある、スピリチュアルな番組でいう、オーラのようなもの。
暖色がベースで、全く違う無色の不思議な煙と同化して、他の人とは違うオーラだ。
一方ラオは、能利の無色で不思議な煙だけが、手足に多くまとわりついて見える。
一体、何が見えるようになっているんだろう。
能利の、魔力の動きが止まった。手から霧亜へと流れ込むオーラも、止まる。
なるほど、能利の使う魔力が見えているのか。
そして、能利は脱力した様子で、霧亜への治療をやめた。
「霧亜」
智奈はもう一度霧亜の肩を揺する。が、霧亜は顔をピクリとも動かさない。目を瞑ったまま、開けようとしてくれなかった。胸から、血液も流れていない。
「なんで? 何があったの?」
流れてきた涙は、こらえることができずに、ぼろぼろと流れた。
「目開けてよ……」
霧亜は地面に横たわっていた。智奈が、何度も何度も祈っても、霧亜が目を開けることはなかった。
お兄ちゃんが、死んだ。
智奈の鳥肌が、全身に回った気がした。身体の芯から、震えが止まらない。
目の前が、緑色のオーラで覆い尽くされている気がした。
「霧亜君を殺せたの! 私やれた! 早く、早く壮介に会いたいなあ!」
頭の隅から、記憶が引っ張り出される感覚。その声は、菅野もも子だった。
どうして、小学校にいたはずの、転校してしまった壮介の幼馴染みが、ここにいるの?
今、霧亜を殺したって言った?
智奈は立ち上がった。
能利とラオが、智奈を視線で追う。
菅野に向かっていこうとする智奈の手を、能利が引き止めた。
「やめろ。あいつは危ない」
「放して」
智奈は、能利の手を振り払った。
つかつかと、智奈は菅野に近付く。
菅野は、近付いてくる智奈に気付いた。
「あれえ、霧亜くんの親戚の子だ。壮介を誑かした……」
菅野の表情が険しく、鬼のような形相へと変化する。
「壮介はあたしのものなのに——」
智奈は、菅野の両肩を掴んだ。
これでもかと、キツく、強く掴んだ。
「霧亜を、どうしたの?」
菅野の表情は鬼の形相から、柔らかい笑顔へと変わる。
「霧亜君を殺せばね、壮介に会えるんだって」
智奈の、菅野の肩を掴む手の力が更に強くなる。
地鳴りがする。
ゴロゴロと、雷雲が近付いてくる音がする。
「だからねえ——」
「殺したの?」
智奈の言葉に、菅野はにたあっと笑みを見せた。
「霧亜を……お兄ちゃんを殺したの!?」
目の前に、雷が落ちたような衝撃。
智奈の視界が、茶色で一瞬何も見えなくなった。
それが、下から突然生えてきた木が急成長しているせいだとわかるのは、数秒後。
辺りに突風が吹き荒れ、黒い湖のあらゆる所に、雷が落ちる。岩場に電撃が走っているかのようにバチバチと光って見える。
菅野の悲鳴。
他にも、男女様々な、助けを求める声。
木に捕まっているのは、菅野と見知らぬ男女。木の枝の触手のようなもので、身体中を貫かれ、大量の血を流し、身体の皮膚が、筋肉が、木の養分となって消えていく。
智奈には、満たされるような感覚がある。溢れる力を、存分に外に吐き出している感覚。
あらゆる湖の底から、巨大な木が硬かった湖を破って生えてくる。
その太い枝の一つが、秀架の両腕を貫いた。
「秀架!」
クイの叫び声。
「腕を切断しろ!」
秀架に言われ、クイは躊躇いなく手刀で秀架の肩から腕を切り落とした。
そのままクイに抱えられて、謎の急成長をする木からの突貫を避けている。
が、周囲一帯を吹き荒れる風が、容赦なくクイの逃げる脚に襲いかかり、無数の切り傷に耐えきれず、秀架を抱えたクイは地面に崩れ落ちた。
地面に投げ捨てられた秀架は、手がなくても、そのオーラはクイを治すことに徹している。
湖の一面に吹き荒れる風は、一つ一つが鎌鼬のように鋭いのか、ボロボロに、血だらけになっている能利とラオ。横たわる霧亜を、守っているように見えた。クズネとナゴも、その場にぐったりとしている。
霧亜を守る体勢をとりながら、二人は、恐怖の表情で、智奈を見ている。
どうしたの?
どうしてそんな目であたしを見るの?
「智奈」
霈念の声がした。
目の前に、片足を引きずる霈念が現れた。
「もう、怖くない。大丈夫だ」
血だらけの霈念は、智奈に近づくと、ゆっくりと智奈を抱きしめた。
自分の周りから、緑色のオーラが少なくなっていく。
それが、霈念に吸収されているのがわかる頃には、辺りの天災はピタリと止んでいた。
「お父さん……」
「ん?」
優しい父親の、霈念の声。
「今の、あたしがやったの?」
智奈の問いに、霈念は息をすっと吸い込んだ。
「そうだ。霧亜の、封印魔術が解けて、智奈に魔力が戻ったんだ。智奈を怒らせたらいけないな」
冗談混じりに笑う霈念。
霧亜の封印魔術。智奈の魔力が封印された、霧亜の肩にあった魔術式。この父親、霈念が、霧亜に施したもの。
サダンが言っていた。
霧亜が死んだら、封印が解けるかもしれない——と。
「お父さん」
「ん?」
「霧亜、死んじゃったの?」
目頭が、ぎゅっと萎むように痛く、熱くなる。
「霧亜は——」
「いやあごくろう! 皆の者! なかなか面妖で、なかなか良い見世物だった!」
小さな手から発せられるパチパチと幼稚な拍手。
霈念から顔を出してみる。そこには、今まで出会った青龍と朱雀、そして赤ちゃんだったはずの白虎、知らない亀のような獣が、見上げるほど大きな姿で鎮座している。
その、真ん中。玄武の甲羅の上に、小さなそのオレンジ色の髪の少女が、拍手をして立っていた。
何故、白虎を抱えて、湖に吸い込まれてしまった、ロクリュがあそこにいて、拍手をしているのか、智奈には見当もつかなかった。
「良かったなあ、あきのちな。霧亜に封印されていた魔力が戻って、怒りにまかせて霧亜の仇討ちを成功させて、自分の命を狙う奴らまで重症を負わせるなんて」
ロクリュが、今まで見せたことのないほど大人びた、嘲るような笑顔を向けてくる。
「自分の仲間も、自分の父親にも傷を負わせるのは、まだまだ魔術の修行がなってないなあ。しかしまあ、初めてで、生命禁術を暴発させるなんて、素晴らしい才能だと思うぞ。皆拍手」
また、ロクリュは、小さな手で拍手をする。
今度は、後ろにいる青龍、朱雀、白虎、玄武までも、各々のやり方で拍手を見せる。
湖に、四神の拍手喝采による地響きが起こった。
「ロク……リュ?」
智奈は、今まで可愛らしかった小さな少女ロクリュであるはずの何かの、名前を呼んでみる。
ロクリュは、大きく頷いた。
「如何にも。わあは、全てを識る者。央を司り、思いを宿す者である」
ビルの三階建てほどもありそうな玄武の甲羅から、すたりとおりると、ロクリュは瞬時にして智奈と霈念の前に現れた。
霈念は智奈を後ろに庇う。
ロクリュはコロコロと笑った。
「案ずるな霈念の」
と、霈念を挟んでぐいと首をのばし、智奈に顔を近付けてくる。
「わあは、人間たちからは、麒麟と呼ばれてるぞ」
と、ロクリュはこつりと智奈の額に、自分の額をつけた。
黄金に輝く瞳が、智奈の意識を吸い込むようだった。
「さあ、あきのちな。霧亜は死んだ。お前の兄は、同級生に殺された。四神の調停者の願いは宙ぶらりんだ」
ロクリュの瞳が、にやりと笑みを見せて輝きがより一層光る。
「お前の願いは何だ? あきのちな」