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チワワとシーズーとロボットレンタル

作者: 白木すなお

     

     1


 土曜日、午前十一時過ぎに起床。微睡の中、間もなく来客があることを思い出し、足早にバスルームに向かう。体を洗った手拭を湯張りした洗面器に浸すと、白濁した湯の表面に垢が純白の御殻となってゆらゆら浮かんだ。快便した時と同じ満足感。一瞬、愛着すら覚える。洗面器を傾け湯を流す。ユニットバスの排水口めがけて湯が、地球の自転の影響をしっかり受けて渦を巻き、御殻が排水蓋の隙間に引っかかって堆積した。気が遠のく。この、日々の個体の無意味な新陳代謝を促す力が実は、マーケットの株価の変動や地球の自転やらを掌る大きな力とも通じているんじゃないか、とナンセンスな呪術的直観が走り、脳が胸騒ぎ。でも、私は休日くらいは出来ればこういう形而上モードで脳を緩くしておきたい。と、意識したその矢先に、ああ、そうだ、しかし株価だよ、株価。この週末が明けたら昨日金曜日の株価下落は一時的なもので心配無用なんだと私の顧客たちに弁解して回らねば、と、揺り返しがくる。

爽快とはいかない気分でバスルームを出、鏡台に向かいドライヤーをかけていると、自身の狐目がなんとも業を帯びてる気がしてくる。街の片隅で通りを窺う占師と不意に視線が合ってしまった時のような遣る瀬なさ。そろそろ目を覚ませよとばかりにインターフォンが鳴った。

 玄関先で客人を迎え入れる里美の甘ったるい声が聞こえる。私にとっちゃ気乗りしない招かざる客なのだが・・・。

 里美に呼ばれ、髪も乾かぬ起きぬけの風体で玄関先に顔を出すと、生保レディをやってるという里美の幼馴染の恵ちゃんと、医師らしき白髪眼鏡の痩身老人が上がり框に腰掛け、待ち構えていた。なんかとても因果な気がしてくらくらする。恵ちゃんが営業スマイルを投げて寄越し、―おはようございます。敦さん、お休みのところすみません。形式的なものですから直ぐ終わりますよ。と、問診表をバッグから取り出した。

 老いた雄山羊のような清貧顔の医師と対峙して框に正座し、次々質問に答えていく。

 煙草は?―ええ、吸います。量は一日どのくらいですか?―えーっ、と答えを引っ張って傍らの里美をちらりと見ると、腕組して天国の茶会みたいな笑みを放っている。―一日二箱強かな、と正直に申告。医師が最後の質問と前置きして、最近なにか体の不調等はないかと訊く。休日モードの私の緩んだ脳が、方便の嘘をつこうという里美との約束をすっかり忘れて、先週、胃の調子が悪くて胃カメラを飲んで、検査結果待ちだという事実をありのまま告げてしまう。問診表に記入する医師の筆先がはたと止まった。不穏な強い視線を横から感じて里美のほうを見やると、この世の終わりを招かんばかりの恨めしい形相で私を睨んでいる。さぞかし私という存在に呆れ果ててるのだろう。

 心做し困惑の表情を纏った恵ちゃんと、しれっと穏やか顔した医師に辞去し、私は自分がなにをしでかしたのか気付かぬ素振りで居間のソファに逃げ込み、テレビをつけた。

       *      *

 土曜昼の情報バラエティ番組。

ディズニーランドに何度行っても飽きを覚えない感受性しか持ち合わせていなさそうな女の子レポーター二人組が、無邪気に街中オススメB級グルメを食べ歩き。トムヤンクンを飲むスプーンを片手に、はたまた行列のできるラーメン店の麺を啜りながら、更には回転寿司の大とろをあんぐり頬張りながら、二人揃って目をまん丸に見開いて、鼻を鳴らし、んーっ、オイシイーっを連発。やめてくよ。日本に、東京に、腹一杯、膨満感。

 煙草を一服すると、私の緩んだ脳が、この、極度に情緒が欠落したテレビ番組にも結局は、地球の自転やらを掌る大きな力が働いているんじゃないかと夢想する。リラックス。

テレビ画面はトクトク一泊温泉宿レポートに。

さっきと同じ女の子レポーター二人組が、華厳滝を見ても中禅寺湖畔の木々の緑を見てもひとつ覚えに、わぁー、キレイーと口を揃えてはしゃぐ。それにしてもこいつら、ちっとは考えて喋れよ、鬱陶しい。と思っていたら、背後に里美が現れた気配。

「もー、本当に信じられないわ。あなた、なんであんなこと言うんだろ。胃カメラのことは伏せておこうって言ったのに」

振り向くと彼女の仁王立ちした腕組みが眼前。私は顔を上げずにテレビ画面に視線を戻し、無言を通す。彼女の私に対する歯痒さで居間の空気はどんより濁って息苦しいばかり。

「バッカじゃないの。あなたのくだらない潔さだかなんだかのせいで保険料が割高になっちゃったのよ。分かってるの」

私は新しい煙草を咥え、紫煙を仰ぐ。

「方便の嘘もつかないなんて何様なのかしらねえ。あー、理解できない。気持ち悪い。世渡り下手。情けない。知らないわっ、もー」

背後でズダンと居間のドアが閉まる音がして、罵詈雑言が止む。

世渡り下手だと、里美もちっとは考えて喋れよ。それじゃ私、そのものズバリじゃないか。

テレビ画面に消費者金融のチワワのCMが流れる。

むしゃくしゃ紛れに突然思いつく。そうだ、かねてからの懸案を実行しよう。明日、日曜日、あの二人と二匹を、ペットオーケーの街、自由ヶ丘で引き合わせよう。きっといいカップルが誕生するに違いない。

私は早速、幸一と千秋にそれぞれ電話してみる。二人共、私の誘いに対して受話器の向こうで一呼吸沈黙してから、快諾。おう、二人共内側で一拍間を置く思慮深さを持ち合わせているから、私は彼らが好きなのだ。


     2


千秋が中目黒に住んでるので山手通り沿いのアートコーヒー前十二時集合ということになった。

十月の、小春日和が前倒しでやって来た穏やかな青空の下、幸一のパジェロがアイドリングしていて、助手席のウィンドーを拳でコンコン叩とズズーッと下がって、目の吊り上がった悪顔のブラックチワワがペットカーゴの中で飛び跳ねながらグルルッと唸り、ワンキャン猛々しく吠え立てた。半年前新宿で会った時、幸一がケータイ画面で私に見せたブラックチワワは画像全体がぼけぼけだったので、どこかの公園の砂利道らしきグレイを背景に黒いもわっとしたチワワらしき小さな塊が確認できただけだったから、今、眼下で全身の毛を逆立たせ、尊大に吠え立てるこのチワワの雄姿は早くも今日の私の企てを挫こうとしている。愛らしい小型犬ペット同士が仲睦まじく出会い、その結果、飼い主たちも自然に打ち解けて、微笑ましい三十代の美男美女カップルが誕生と目論んでいるのに。

うまくいくに違いないという根拠はある。

 幸一はSEを四、五人ネットで束ねたSOHOスタイルの会社の社長で、社員とはネットのやり取りだけで仕事をこなし、下手すると、ひと月近く誰とも一切言葉を交わさないような孤独な暮らしを離婚後この十年近く続けてて、遂に耐えかねてか、チワワなんぞ飼いはじめたのだし。

 話し相手がペットの犬だけということでは千秋も同じで、先月、私の職場で定年退社する山内さんの送別会が銀座であって、そこに同期入社で三年前に寿退社していた千秋も駆けつけて、二次会の後、中目黒に引っ越したから帰るラインが同じだと、泥酔した彼女が私の止めたタクシーに雪崩込んで来て、ちょっとは不謹慎な気持ちになっていたら、押し黙っていた彼女が、―今日は久しぶりに人と話したなあー、実はね、わたし、去年離婚しちゃってバツイチなんだよ。知ってた?で、三隅くん、知っての通り、わたし、母子家庭だったのに母も死んじゃってるから、天涯孤独、みなしごハッチなんだよね。とヴィブラート声で言うので、ますます不謹慎な気持ちを膨らませていると、いきなり私の眼前にケータイを差し出して、ー毎日、このモモだけが話し相手なんだあ。ヤバイでしょ?と、白いシーズー犬の画像を見せたのだ、し。

きっと二人はそろそろ生身の異性とでも語り合いたい筈なのだ。

 もうひとつ、うまくいくだろう根拠がある。

幸一は高校の時、原宿を歩いていてメジャーなタレントプロダクションに声をかけられたことのある元美少年で、千秋はなんせ美貌の帰国子女で、うちの会社の元人気ナンバーワン役員秘書だったのだし。二人が笑顔でお互いペットを連れて歩いたら、新規開発された高層マンションのチラシパース絵の中で談笑するマネキン市民みたいに、こっ恥ずかしいくらい幸せな絵になるに違いないのだ。

 私がパジェロの後部座席に乗り込み、運転席の幸一が振り返ってにこやかに、―こいつうるさくてごめん。と話しだすと、ブラックチワワは大人しくなって助手席のペットカーゴの中で丸まった。私が敵ではないことが分かったのだろう。

 「いや、元気だね、このチワワ。なんて名前だっけ?」

 「ラスティ、だよ」

 「なんかその名前、勇ましくていいじゃん」

 「でしょ」とルームミラーの中の幸一はどことなく含み笑い。

「とにかく凄いよお、こいつ。でっかいシェパードとかにも吠え立てて突進していくんだ」

 「あれだろ、実は玲菜ちゃんにせがまれて飼ってるんだろ」

 ルームミラーに映る幸一がにやっと私の言葉を吸い込んでから、答える。

 「いや、それがさ、玲菜は子猫を欲しいって言ったんだけど、一緒にペットショップに行ったら俺、こいつと目が合っちゃってさ。

そしたらこいつ、檻の中でチワワのくせにちっとも可愛くなくて、しぶとくて悪いやつって感じで俺をじっと睨んでさ。参っちゃったんだよ」

 「んーっ、目が合ってか、そのハマりかた、ありがちだな」

「とにかく直ぐこいつ、檻から出してやらなきゃって気になってさ」

幸一が、ルームミラーの中で、吸いはじめた煙草の紫煙を不敵な照れ笑いで見つめてる。

んっ、この達観ワイルドな感じって誰かの感じだ。誰だっけ?分かった、この感じ、ミッキー・ロークだ。勿論、幸一はあんなにマッチョじゃないし、喧嘩が強いとかじゃないし、虫も殺さぬ温厚そうなぱっちり二重目だし、この微笑が、ということだけれど、なんか通ずる感がある。多少、昔やんちゃでいろいろあって、でも、今は落ち着いた男の、実は内なる繊細さを秘めた、何度か転生したような達観した笑み。私はこの笑みをする男を映画の中のミッキー・ローク以外、現実では幸一しか知らなくて、真似しようとしても器量の差というか、できない。

そういや高校のとき幸一と一緒に観た映画『ランブル・フィッシュ』で、ミッキー・ロークは厭世的な笑みを浮かべながらペットショップの全ての生き物を檻から根刮ぎ解放してやってたっけ。

「玲菜ちゃん、いくつになったの?」

「この春で、もう中学生だよ」

「あっという間だね」

「そうだ、ね」と幸一はあっさり穏やかな口調。

 でも、内側に刻まれた彼の感慨は私なんかには計り知れない。玲菜ちゃんが三歳の時に無理矢理、離婚させられて、ほぼ十年近く一度も会わせて貰えなくて、それがやっと去年の暮れから面会を許されたのだから。それ以来、月に一度くらいのペースで会って、罪滅ぼしとばかりに、幸一はいろいろ玲奈ちゃんに買い与えているらしい。子猫がチワワに変わってしまったのに、彼女は満足したのだろうか・・・。それを訊こうとしたら、フロントガラスの向こうに、ペットカーゴを携え、ショートヘアをざわつかせ小走するブルージーンズ姿の千秋が見えた。スター・ウォーズのC3POのようなよろめき走り。なんか因果だ。

早くもラスティが侵入者の気配を察知して吠えはじめた。後部座席の私の隣にペットカーゴを抱えた彼女が乗り込むと、ラスティが一層激しく吠え立てる。二人のはじめましてもそこそこに幸一がパジェロを発進させた。

     *       *

千秋が散歩で行きつけてるという最寄の菅刈公園前にパジェロを止めて、まず、二匹のワンちゃんのご対面をセットすることに。

助手席のドアからアスファルト地面に放たれたラスティが振り返って、こっちに向かって吠えたてると、後部座席の千秋が膝上に抱えたカーゴの竹皮格子の隙間で、シーズーらしき瞳がすっかり怯えている。モモはか弱い乙女ってとこか。

公園内に入る。

リードをめいっぱい張らしてラスティが円形芝生広場を駆け回ろうとする。モモはリードを外されて放たれるが、ラスティの存在に怯え、イヤ、イヤ後ずさり。

「モモ、一緒に遊びなさあい」

千秋がしゃがんでモモの背中を押すが、ラスティが近寄る素振りを見せるとたちまち、彼女のジーンズに逃げ込む。

「おいっ、ラスティ」

幸一が達観ワイルドなミッキー・スマイルを浮かべ、リードを引き、窘めると、ラスティはモモに対する興味を失ったかのように彼の足元に来て、そのあと、芝生に鼻を寄せ、明確な目的地があるかのように前方へずんずん行こうとする。

「あれかな、チワワとシーズー、相性、駄目なのかな」

私が思わず漏らすと、千秋が手提げ袋からペット用クッキーを取り出してモモに与え、立ち上がると、―ラスティちゃんにもどうぞ。と幸一に差し出した。そうだ、まだ、きちんと二人の紹介をしてない。

クッキーを受け取り頭を軽く下げた幸一が顔を上げた時に、二人の名前を紹介した。

千秋がラスティの年齢を訊き、二人の会話がはじまろうとしたのに、ラスティは幸一の手のひらのクッキーには目もくれずにモモのお尻めがけて突進。モモが逃げ惑い、またもや千秋のジーンズに逃げ込む。モモの円らな瞳は明らかに萎縮していて相当のストレスなようだ。まず、ペット同士が仲睦まじく出会って、という私の浅薄な事前イメージは完全に崩壊。でも、まあ、今日はこれからだ。

モモに執着していたラスティが突然耳をピンと立て、砂利の遊歩道の方に向かって吠え立てた。太ったジャージ姿のおばさんに連れられたドーベルマンが二十メートル程向こうで低く唸ってる。ラスティも怯まずウーッ、グルルッと、威嚇。

「こいつ怖いもの知らずなんだよね」

幸一が子煩悩を装ったように喜色満面。

 ドーベルマンが行ってしまうと、ラスティはまた、芝生に鼻を寄せて、ひたすら芝生広場を行こうとする。幸一はリードを緩めラスティに従い、広場半周の旅へ。

私は隣の千秋になにか話し掛けようとして、たじろぐ。

彼女はいつの間にかモモを抱きかかえ、立ち尽くし、アンニュイ漂う二重の大きな瞳でモモとなにやらアイコンタクト。お互い慰撫し合ってるみたいで、なんか因果。ちょっと声を掛け辛い。

手持ち無沙汰に耐えかねて煙草を一本吸い、腕時計を見ると、アートコーヒー前を出発してから、もう彼是四十分も経っている。

 この時間の気儘な進み方は、子供やペットと暮らしていない私には奇異。幸一がこっちに戻って来たので、―じゃあそろそろ自由ヶ丘行こっか。と切り出した。

 

       3


 再び乗り合わせたパジェロの車内でラスティはモモを気にしなくなったようで、大人しい。頼むからこの調子でいてくれよ。

道すがら、千秋が、幸一持参の自由ヶ丘ワンちゃんオーケー店イラストマップを念入りにチェックしだした。

 横からちょっと覗き見て、驚く。

もう十年以上、タクシーでワンメーターの雪ヶ谷大塚の街に住んでるから自由ヶ丘の大体は知ってるつもりでいたけれど、こりゃなんじゃ、いったいなんの騒ぎなんだ。自由通りは勿論許せるし、まあ、マリクレール通りくらいは知ってたけど、メイプルストリートに、カトレア通り、ガーベラ通り、ヒロストリート、グリーンストリート、サンセットアレイだと、日本の、東京郊外の小ぢんまりした、たかだか私鉄沿線の長閑な住宅街じゃないか。やりすぎだ。通り名の押し売りだ。こんな通り名、実際、流通してねえぞ。徒花な街だな。と思っていたら、

 「うーん、いかにも自由ヶ丘よね。ワンちゃんに優しい街よね。オーケーの店、多いわ。あーっ、カトレア通りのこのペットアクセサリーの店、行ってみたかったのよ」

と、千秋が声を弾ませた。

自由通り沿いのパーキングビルに幸一がパジェロを入れてる間、私がラスティのリードを受け持つ。

車を出しに来た茶髪カップルの、キャバクラ顔の女が、ーひゃあー、カワイイー、と寄って来て、屈む。ラスティは無愛想に通りを眺めてると思ったら、ウー、グルルッと唸り声。視線の先の自由通りにはまたもや大きな犬。アフガン・ハウンド。キャバ顔女がラスティに面食らって後退り。ご愁傷さま。なんの因果か世の中にはこういうチワワもいるんだよ。

顔を覆う長い冠毛をしれっと揺らしてアフガン・ハウンドが行ってしまうとラスティは落ち着き、ご主人様の到着を待って行儀良くお座り。戻って来た幸一がリードを持つと、通りへ向けて、したり顔で歩き出す。

 ラスティを先頭に、大井町線の踏切りを渡り、東急ストアを過ぎてちょっとしたら、後ろから千秋が、

 「次を右へ曲がってグリーンストリートというのに入ると、ワンちゃんオーケーのオープンカフェあるみたいよ」

とナビゲート。

     *       *

その通りに入る。

グリーンストリートと名乗ってる割には沿道にブティックやカフェの入った雑居ビルが延々展開してて、たしかに並木道ではあるけれど、緑の比率は少なく、樹木に癒される感じは微塵もない。そのカフェは通りに面していて、オープン・デッキ・テラスには白い丸テーブルに白い椅子。晴天の日曜午後なのに、幸い、テラスに先客はいない。

端のテーブルに千秋と向かい合って私と幸一が座る。千秋がクラブハウスサンドイッチ、私と幸一がハヤシライスをオーダーし、私がグラスの水を一口啜ると、千秋も幸一も椅子をズズッと引いて各々携帯プレートにペットボトルの水を注ぎ、足元に置く。テーブルの下でラスティは四肢で立ち勢いよくプレートの水を舐めてるけれど、モモはげんなり千秋のブルージーンズに体を寄せて、ただただ、地面に伏せってる。彼女が手を差し伸べて頭を撫でると、顔を上げてちろっと音もなくその手のひらを舐めた。なんか因果だ。

 「お水、ちゃんと飲みなさあい」

 千秋が手のひらを舐めさせながら慈愛に満ちたママの笑顔。なんかこそばゆい。

 「モモちゃんは散歩行くとどんな感じですか?」

幸一が首を傾け、テーブル下のモモを窺いながら訊く。

「えへっ、実は散歩けっこうさぼり気味で二日に一回くらいしか行かないんですけど、モモ、人は平気なんですけど、犬が駄目で、犬見知りするんですよ」

千秋は目を細めて恍惚と手のひらをまだ、舐めさせてる。

「うちのはいつも人は無視して、よその犬に向かってくんですよ」

「そうだよねえ、今日もさっきから、ラスティ、向かってくよなあ」

「うん、こいつ、近所の公園で主って呼ばれててさ。とにかく公園で、一番小さいくせに、一番偉そーにしてるからね」

幸一が愚息自慢してるパパのようにへらへらとラスティを見つめる。なんかむずむずする。

「散歩ってさ、朝、行くの?」

「朝五時と夕方六時の二回」

「嘘、毎日それ?」

「そうだよ。ラスティ中心の日々でさ」

「偉いですねえー、わたしは全然、無理」

「昔の俺からは想像できないでしょ」と、幸一が煙草を咥え、私に戯れたミッキー・スマイル。

駄目、駄目だ、幸一。こっちを見ないで、千秋と喋れよ。

「そうだよな。幸一っていやあ、昔は徹マンの日々ばっか送ってたもんな」

「だから最近、健康だよ」と、幸一が紫煙を燻らす。

「そういえば、なんで、サイタマ住まいの幸一が自由ヶ丘ワンちゃんオーケー店マップなんて持ってたの?」

「ああ、あれね。厚木にペットオーケーの温泉があってさ、このまえ玲菜とラスティと一緒に行って、その帰りに自由ヶ丘寄ろうってことになって。でも、結局、案内所でマップを手に入れただけで、どこの店にも入んなかったんだよね。玲菜の友達から急に電話が入っちゃってさ」

あー、せっかく千秋を紹介してるんだから娘のことなんかあんまり話すなよな、幸一。

「ペットオーケーの温泉て増えてますよね。わたし行ったことはないけど」

おっ、千秋、ちゃんと幸一と目を合わせてる。いいぞ。

「結構いいですよ。毛が艶々になるんですよ、そこの温泉」

幸一も千秋の視線を外さない。いいじゃん。

「毛って、それさあ、人間のこと、犬のこと?」

「犬だよ、犬。ラスティをその温泉に入れたら艶々になったんだよ」

「へえー、凄いですね」と、いいながら千秋が幸一の煙草の煙に噎せる。幸一が煙草を灰皿に押し付ける。

「あっ、来生さん、大丈夫ですよ。気にしないでください」

幸一が無言で千秋を見つめ、ただミッキー・スマイル。何気ないその笑みに、元美少年が醸す婀娜っぽさがなくもない。

「犬が艶々かあ」と私は二人の空気をちょっと乱してみる。

「本当だって」

ま、いい傾向だ。このまま、二人親しく会話してくれよお。

ランチがテーブルに運ばれてくる。早速、私がハヤシライスを一口していたら、二人共、自分たちの食事よりもワンちゃんが先とばかりに、テーブル下を見やって、犬用クッキーを供しだした。

ラスティはサクサクやってるが、モモは全く口をつけない。公園のお返しとばかり幸一が千秋に手渡したクッキーにも反応せず、顎を地面につけたまま。円らな黒い瞳にうっすら哀惜が滲んで見える。白い小さなぬいぐるみに、成仏できずにいる浮かばれない少女の魂でも宿ってるみたいだ。今、ここで、このシーズー犬はちゃんと生きてるわけなんだけど・・・。

千秋を窺うと、首を傾げてテーブル下のモモを憐れむようなまなざしで見守ってる。彼女までちょっと浮かばれなく見える。千秋だって死んじゃいなくて、私の目の前でこざっぱりとVネックの白いニットのセーターを着、ブルージーンズのスリムな脚を組み、紺のパンプスを少し揺らしてるのだけれど。

「モモちゃんはいくつですか?」

幸一がハヤシライスを頬張りながら訊く。いいじゃん、爽やかな会話だよ。

「生後一年三ヶ月ですよ。ラスティちゃんとほぼ同い歳ですね」

 「じゃあ、お子さんたちは、お二人ともまだ、小学生の手前辺りってとこか。なんだっけ、四倍すりゃいいんでしょ」

 「んっ、違うよ。最初の一年は成長が速くて、もう思春期十五歳ってとこだよ」

 「そっか、そうなんだ」

 「で、三歳で人の二十七、八歳で、そのあと大体人の四倍の速さで老化するんだよ。だから、あと三年もすれば抜かれちゃうんだよね」

 「残酷、ですよねえ」

 千秋が口に運んだサンドイッチを、品の良さに呪縛された控え目な咀嚼だけで流し込んで、しみじみ言う。

 残酷って、飼い主にとってなのか、犬にとってなのか、この街にあるアフタヌーン・ティーの店員さんのような彼女のさらさら顔を見ててもよく分からない。

 「チワワもシーズーも寿命はどのくらいなのかな?」

 「十五から十七年ですよね」

 幸一が千秋に同意を求める。

 「そう、長生きでも十六、七年だっていいますね」

 「十七年だと、さっきのでいくと八十四、五歳ってことになるからね」幸一が素早く計算した。

ドッグイヤーを想像したせいで皆、一瞬、沈黙。

秋晴れの午後の日差しの下、私の背後のグリーンストリートを行き交う人々の喧騒が、夏の浜辺で海の家が流すBGMみたいに白々しく遠くに漂った。

 幸一がドッグフードをどこのにしてるか千秋に訊き、ペット保険やペットのマッサージやペットの託児所なんかについても二人はいろいろ他愛なく会話を交わしだしたけれど、愛犬家同士の情報交換の域を出てない。じれったいなとテーブル下を眺めると、地面に伏せっていたラスティが耳をピンと立て立ち上がり、グルルッ、ワンと吠え立てた。

 振り向くと、後ろのテーブル脇に白髪の夫婦らしきに連れられたゴールデンレトリーバが音もなく現れて鎮座した。大型犬とはいえ動作がかなり緩慢だから老犬に違いない。ラスティに吠え立てられても全く意に介さず、無視。器量が違う。それにしても無視されてるのにラスティはワンキャンけたたましい。そろそろ行くとするか。


      4


 ラスティを先頭にグリーンストリートを折れてマリクレール通りに入る。

パリの街並みを意識したくせに、所詮、時間の堆積がないから薄っぺらでしかないタイル張り石畳の上空には、数々の消費者金融のアクリル看板が街の正体を暴露するかのように踊っていて、通りの擬い物感を一層逃れられないものにしている。生憎、今日は自由ヶ丘の街全体が自由の女神祭りとやらでバザーをやっていて、沿道の至る所にセールワゴンが出てて、混雑。そぞろ歩きのパンプス、スニーカー、ブーツが雨霰と行き交う中、ラスティとモモがちょろちょろ進み、リードを張らす。しかし、なんかこの通りは、チワワとかシーズーがちょろちょろ行くのが妙に似合ってる。この街の健全を装ったせせこましい浮つき具合のリズムと小型洋犬の歩調はすっかりシンクロしてる。

カフェ・ラ・ミルの袖看板の袂でラスティが立ち止まる。前足をついて逆立ちせんばかりのコミカルなポーズで片足を挙げた。電柱のない通りだからってこんなとこにマーキングかよ。捕食する生き物とは思えない小枝みたいに細くてささやかな腿の筋肉がいじらしい。なんか因果だ。それにしても飲食店の前でやられるとちょっとばつは悪い。でも幸一は窘めることなく慈しみのミッキー・スマイルで見守り、ラスティが歩き出すのを待つ。

 と、千秋が、ラスティの数歩後ろに控えてるモモを地面から抱き上げた。

「モモ、ひ弱だからこの人通りに疲れちゃったみたい」

そう言ってモモを抱く千秋の真っ白な顔こそ、濁った水では生き延びることが適わない白い肌の生きものみたいだ。

「モモは人混みが苦手か」

「そう。わたしと同じでね」

「モモはさ、女の子だからマーキングとかしないんでしょ?」

「しない、しないわよ。でも雌でもするのいるらしいけど」

ラスティが歩き出す。

一歩先行く幸一が振り返る。

「こいつさ、七ヶ月ん時、虚勢手術したのにマーキングは全然治まらなくて。部屋ん中の壁にもするし、力が有り余ってて、いつもヒート中って感じなんだよ」

「なに?ヒート中って」

「a dog in heatよ」と千秋が宣ふ。

「それって、もしかして、発情した犬ってこと?」

「そう。でも、三隅くんがそうあからさまに言うと犬たちも立場がないっていうか、よね」

「そりゃ、すんませんね」

「来生さん、でも、虚勢したからってヒートはともかく、マーキングは治まらないみたいですよ。マーキングって、自分の臭い情報をそこに残して、縄張りを主張して、自分が群れを守ってるリーダーだっていうのを示す行動だから」

千秋が幸一の背中に語りかけるのに、私は割って入る。

「なるほどね。ラスティは、今日のこの我々を守るリーダーだと思ってるわけだな」

「そうそう。こいつならそれくらい思ってる筈だよ」

また、幸一が振り返ると、自慢げにミッキー・スマイル。

 「あれですよね。小さい犬程、マーキングの時、ここに大きい犬が来たんだって他の犬に思わせようと、なるべく高い所に臭いを残そうとするんですよね。さっきラスティちゃん、逆立ちまでしてましたね」

 千秋が幸一との距離を詰めて並びかけ、ふふふっと笑う。向かって来る人波に押されて、私は二人から一歩置いてかれる。

 「でもさ、ラスティもところ構わずじゃまずいよね」

背後から二人に話し掛けた私の声が、人通りに放置される。

 「マーキング防止用パンツとかって売ってるらしいですよ。ラスティちゃんにどうです」

 「へえー、じゃあ、今日、いろいろ探してみようかな。自由ヶ丘はそういうの売ってそうな店、いっぱいありそうですね」

「地図に出てたペットアクセサリーの店、回って見ましょうか」

「どっちですか?」

 「この先、駅前ロータリーを抜けてずっと行って、アンミラのもっと先です」 

「ちょっと距離ありそうだけど、行ってみますか」

「ええ、そうしましょうか」

 私は完全に蚊帳の外だけど、まっ、いいか。二人が親しく歩くところを見てみたかったのだから。

幸一の持つリードを引っ張る我々の引率者のブラックチワワは、マリクレール通りが東横線の高架下に入った薄暗がりの壁にまた、マーキング。逆立ち気味で片足上げて、自分の背より高いところに自分の臭いを残そうと懸命。寿命が十七年しかないくせに必死になりやがって、というか、十七年しかないから、生きた痕跡残すのに必死なわけか。とても因果だ。

花屋に突き当たって右折し、大井町線の踏み切りを渡り、駅前ロータリーに出ると、石畳が終わって、歩道はお馴染みグレイのアスファルトになった。今日はお祭りということで、ロータリーは車両通行止。中央の植え込みに建つこの街の守護を装う、ブロンズの自由の女神像はイベント仮設ステージに囲まれてしまって、お姿が拝めない。

 まだ、出し物は夕方かららしく、辺りをイベントスタッフがちょこまかしてる。それにしても自由の女神像って、たしか裸体の背中に羽を生やしてたから、女神じゃなくて天使じゃないのかな。まっ、そういうことは曖昧にしておいたほうがこの街っぽいか。そもそもどう見たって、街の中心のこの駅前ロータリーは摺り鉢の底で、ここに至る数々の通りから下ったところに位置してるのに、自由ヶ丘とか名乗ってるんだし。

     *     *

ロータリーを抜けると人通りが落ち着いたので千秋がモモを地面に降ろした。

みずほ銀行を通り過ぎて、暫く続く直線を行く。

ポイ捨てガムがこびり付き所々黒い染みが点在するアスファルト地面を、二匹がずんずん、ちょこまか、進む。

二人の一歩後ろで犬たちの姿ばかり追って俯き加減で歩いていたら、通り沿いのケーキ屋が放つバニラエッセンスの臭いと闊歩するミセスの香水の残り香がブレンドされたデパート臭に、残念だけど、どこかから漂ってくる犬のオシッコ臭が加わって、なんともこってりな臭いが襲って来て、アスファルト地面がこちらに向かって目眩く流れ出し、犬たちと一緒にルームランナーの上を歩いているような錯覚に陥り、ちょっと目眩。

顔を上げて深呼吸。こりゃ、嗅覚に優れた犬たちにはしんどくないんだろうか。

再び、犬たちに視線を戻す。

ラスティは街の刺激の多さを楽しむように元気に闊歩。その後ろを行くモモはどぎまぎ追いたてられるようにして四肢をバタバタ。しんどいかは犬によるんだな。とても因果。

「この通り、カトレア通りって言うらしいわよ。三隅くん、知ってたあ?」と千秋が振り返る。

「初耳だよね。ただのアスファルト道路のくせに」

「でね、今、渡ってる、この横切ってるのが一応、サンセットアレイだって」

千秋が手元のマップを見つめて呟く。

「それはもっと初耳だね」

「初耳と、もっと初耳の違いはなによ」

「いいじゃん、突っ込むなよ」

カトレア通りが緩い上り坂になりはじめた左手にアンナミラーズが見えてくる。

オレンジ、ピンクのミニスカコスチュームのメイドたちが太腿プルンでオープンテラスを徘徊、給仕中。なんか、勝ったな。今日は彼女たちを前にしても気恥ずかしくはならない。ブラックチワワと白シーズーのちょこまかした徒花パワーにゃ、さしものアンミラねえちゃんも追いつけまい。

と、往来の中からパンプスとブーツが出現。

ひゅう〜、カワイイ〜の声に行く手を遮られたラスティが立ち止まって尻尾を振るでもなく、無頓着。ラスティの頭を撫でる女の子たちの手が後ろのモモに及ぶ。モモは持ち前のきょとん顔で応対。そのぬいぐるみらしさがティーンらしき女の子二人組みのカワイイ〜、に油を注ぐ。可愛くない女の子たちほど、カワイイ〜を連発しやがる。当然の因果か。ブスの因果と美人の因果、どっちが根深いんだろう。

「この子、シーズーですか?」パンプスの女の子が訊く。

「シーズーとマルチーズのミックスなのよお」と千秋。

「へえ〜、ふーん、だからカワイイんだよ」

「うんうん」とブーツのほうが納得気に頷く。

モモは女の子たちの無邪気さに気圧されながら千秋の顔を心細げに見上げる。千秋はシーズーの飼い主の義務とばかりに、満更でもない気さくな笑みをキープ。女の子たちはモモのシャイさをいいことに、しゃがみ込んで頭を撫で続ける。モモはフリーズ。ラスティが女の子たちの背後からワン、と追い立てるように吠える。それをきっかけに女の子たちが千秋に軽く会釈して立ち去った。さすがラスティさま、我々のリーダーの自覚。


     5


カトレア通りを登りきり、次の区画からはもう閑静な住宅街という辺りで、左手に無理矢理小ぢんまりとベニスの街並みが現れた。

そのモールの中程には、四畳半程も無さそうなミニ運河があって、ここぞとばかり一艘のゴンドラが浮かんでる。陳腐。ああ、ここにもあからさまなヨーロッパの街並み模倣。

とってつけたようなミニアーチ石橋を渡り、ラスティを先頭にペットアクセサリーの店に入る。

幸一が女性下着売場に迷い込んだ男のように自嘲顔を拵えて物色をはじめる。

輪っかにする前の首輪が何本も垂直にだらんと吊るされているのを素通りし、ワンちゃんの帽子が並んだ棚で幸一が立ち止まる。テンガロンハットから迷彩ベレー帽まで各種。まさか幸一、買うのかよと思ったら、パスして、ワンちゃんの玩具コーナーに。籠から赤、青、黄色を散りばめた手のひらサイズの球体を掴んで揉み揉み。ブーブー、音がする。ラスティが反応してキラキラ瞳で球体を見つめる。

「こういう鳴りもの、結構、こいつ喜ぶんだよな」

幸一がそう呟きつつ、でも、その球体を籠に戻す。なんか私も千秋も気になって、同じ商品を各々、手に取ってブーブー鳴らしてみる。モモが濡れた瞳で球体を見つめる。無言で千秋がそれを籠に戻す。私も戻す。

お隣のコーナーにはドライフーズが各種。ビーフ、砂肝、レバー、ささみ、帆立、カワハギなんてのまである。私が食材のバラエティさに感心していると、幸一も千秋も見慣れているらしく、さっさと奥の衣類コーナーに移動。チワワとシーズーが入店したのに漸く気付いて、レジカウンターにいたポニーテールの店員が保母さんみたいな営業スマイルで身を乗り出し、床のワンちゃんたちに、―こんにちはー、と声を掛ける。レジカウンターの奥にあるガラス張りの部屋では、別のポニーテールの店員がラブラドールをトリミング中。グリーンのエプロン姿の店員は二人共、よく躾けられた家犬のような人懐っこい微笑みを湛えてて、ここにいるのはまさに天職なんだろう。

「来生さん、これこれっ、ありましたよ。マーキング防止用パンツ」

幸一が千秋に肩寄せ、色とりどりのマーキング防止用パンツを見立てる。私は二人から離れて棚の隅を眺める。滑り止めゴム付靴下なんてのも各種、陳列されてる。靴下を履いた犬を想像したら、なんかいたたまれなくなって、店の外に出ようとすると、レジカウンター脇に特売コーナーのワゴン。JFA公認サッカー日本代表のレプリカユニフォームなんてのがあって、ひゃあと思っていたら、MLBーヤンキース、マリナーズ、ドジャーズ、メッツも揃ってる。なんかこうなりゃ自棄だという気になって、私はカウンター上でゴーグルをかけてるチワワのぬいぐるみを指差して、ラスティを呼ぶ。

「ラスティ、ラスティい。これっ、これ、欲しくないか」

ラスティは幸一の足元でこちらを見上げたが、ぬいぐるみではなくて、私の指先をじっと見つめるだけ。まっ、しゃあないか。

「あのね。そのゴーグルね、もう持ってるよ」

幸一が茶目なミッキー・スマイルでマーキング防止用パンツをレジカウンターに差し出した。

     *     *

入って来た時と反対側のドアからその店を出ると、そこはいきなり閑静な住宅街を貫くバス通りが白々ゆったり流れていて、そうだった、こういう白々ゆったりに守られているのが自由ヶ丘だったよなと気が付く。でも、どこに行ったらいいのか見当がつかない。私たちは迷宮から放り出されてしまったストレンジャーで、きょろきょろと佇んだ。

 犬たちも待機。

千秋がマップを広げる。

「次は、あのひとつ目の信号左折で、ガーベラ通り沿いのペットアクセサリーの店、見てみましょうか」

「駅のほうへ戻る感じですね」と、一緒にマップを覗き込んだ幸一がリードを緩め、ラスティを歩き出させる。

民家のコンクリ塀沿いを歩く。

穏やかで人気(ひとけ)のない郊外バス通りのアスファルト地面をちょろちょろ行くチワワとシーズーは、なんか、街中よりひと回り小さく見えて、希薄。信号手前の電柱の袂に、先頭を行くラスティが片足上げてマーキング。バスが通ったら風圧でふっ飛ばされそうなその存在を懸命に主張。この平穏過ぎるバス通りの、誰の気にも止まらない電柱の袂に揮発せずに残り、渦巻き、縄張りを主張し合ってる雄犬たちの性って、全く因果だな。

信号を左折。

ガーベラ通りって、なんのことはないピーコックに至るあの通り

か。洒落て悦に入った飲食店が通り沿いに軒を並べてる。車と人の往来が思い出したようにちらほら増して来る。

ラスティの一歩後ろにモモが続き、二匹のリードを持つ幸一と千秋が並んで歩く。と、ラスティが矢庭にしゃがみ込んでオシッコ。あんなに何回もマーキングしてたけど、実は、オシッコはあんまり出してなくて、オシッコはオシッコで別に出るんだな。

アスファルト地面に大きな水溜りが出来た。さすがにそのままにはしておけず、幸一が携帯していたペットボトルの水をその水溜りにかけて洗い流す。

「これ、いいですよ」

千秋がショルダーバッグから消臭スプレーを地面に、シュシュとひと吹き。ご苦労なこった。

ラスティが再び歩き出すと彼女が、

「お店、あそこだから、このへんで渡りましょう」

と、通りを振り返る。車は来ない。私たちはぞろぞろと反対側へ渡る。二人に横並びして通りに膨らんでいたら、後ろからクラクションを鳴らされてしまった。先頭のラスティは全く動じず、両耳をぴんと立て威厳を保ち通りを眺め返す。そうそうお前がリーダーだよ。

     *     *

私は二匹と二人の一歩後ろの定位置をキープし、その店に入った。

 さっきの店と同じようにペットの衣類も陳列されているし、トリミング・コーナーもあるけれど、この店は主にペットちゃんのお菓子の店らしい。

 ケーキのショーケースには、エクレア、ブラウニー、タルト、シュークリーム、デコレーション・バースデーケーキ。見栄えは人間のと遜色ない。各品には熱の籠もったその店のパティシエ直筆によるコメント・カードも添えられている。ご苦労なこった。

 隣のコーナーはクッキー各種―ピーナッツバター味、ガーリックハーブ味等々。店のドアに貼ってあったPRポスターによれば、このアメリカから来た店のクッキーは元々、創業者が飼っていた拒食症の愛犬のために試行錯誤して開発したクッキーらしいから、きっと旨いんだろう。でも、犬ってのは飼い主の喜怒哀楽に無条件に同調してくれる生き物だから、きっとその拒食症の犬も味より飼い主の努力に報いただけかもしれない。

 幸一は健康玩具のコーナーでなにやら品定め中。

千秋はモモを右腕で抱えながら、空いた左手でハンガーに掛けられた小さなレインコートの色のバリエーションを捲ってる。雨の日の散歩を想ってるというよりは、日記の頁を捲り追想に耽ってるみたいだけれど。

私は店のドア付近にあるコミュニティ・コーナーの前に立つ。

コルクボードにところ狭しとスナップ写真がピン止めされている。飼い主たちと犬たちの幸せブルジョワ写真。マルチーズ、ビーグル、トイプードル、ダックスフント、ゴールデンレトリーバなどなど小型大型の洋犬たち。アーウィットの有名な、セーターを着たチワワの写真のように、人間の視線に無頓着な犬は一匹もいなくて皆、飼い主に抱かれたり、頭を撫でられたりして、カメラに向かって惜しみなく愛想を振り撒いている。

私はなんだかそれらのスナップが気に入らない。

飼い主たちが、人生を犬に逃げてる感じで気持ち悪いのだ。まあ、しかし、人間誰だって人生についちゃ、なにかに逃げるわけだからしかたないか。幸一も千秋もこれらのスナップ写真の飼い主たちと同類なのか。でも、ラスティもモモもパーソナリティは正反対だけど、二匹共、飼い慣らされた犬の上目遣いはしないし、人間側のご都合を押し付ける躾とは無縁で育ってる感じだよな。

幸一を見やる。

徐に健康玩具を手に取る彼の足元で、ラスティは髭をピンと張り、耳を立て、毅然と宙空を凝視。コルクボードのスナップ写真の犬たちとは一味違う佇まい。幸一はやっぱり人生を犬に逃げてるのではなくて、なんていうか、逃げないために、無愛想な魂のブラックチワワなんか飼って、ラスティなんていう、なんとなくやんちゃな名前をつけ、躾けず、奔放に育ててるんだよな。幸一らしいというか・・・。で、千秋はどうなんだ。

彼女に抱かれたモモは死んでるみたいにとことんぬいぐるみで、でも、千秋は頬摺りしたりのベタかわいがりという寄り添いかたじゃなくて、しっとりとモモを連れている。そこにブルジョワ臭は無くて、彼女も人生を犬に逃げるとかじゃなくて、モモといることで潔く憂き世を断ち切ってる感じだ。

二人共、それぞれ飼主としちゃ非凡な趣きだよな。

私はいつも二人のどちらに会っても、会って直ぐは、なにか白系統の、繊細で悟った魂の生き物に接した時のようなじれったさが湧き上がって、落ち着かない。でも、暫く一緒に居ると、そのじれったさが嫉妬に変わって、やがて憧憬に至り、落ち着いてくる。今日もそんな感じだ。

幸一が健康玩具らしきをひとつ買い、千秋は結局なにも買わずで

店を出ようとしたらビーグル犬が店に入って来て、ラスティが例によって騒がしく吠え立て、幸一がそれを余裕のミッキー・スマイルで見守り、千秋とモモは身を寄せ合って、やり過ごした。


       6


ガーベラ通りに戻ると日曜午後の人出と車の往来が一気に増していて、歩道に押し込められた人々の足、足、足を擦り抜け、勇敢にラスティが進む。モモを抱きながらマップ片手の千秋のナビで、直ぐ傍の通り沿いにあるペットオーケーのカフェで休むことにした。

店は雑居ビルの三階にあって、ラスティが自分の目線より高い段差の螺旋階段をひょっとこやっとこ登り、店の入口に登り着いても息を乱すことなく堂々と四肢で立ち、常連客のように澄まし顔でウエイターの案内を待つ。

空席は疎らで、客たちの談笑が響く中、窓際のひとつ手前のテーブルに通される。コンクリート剥き出しの、打ち放しのグレイの壁、暗めの照明、赤いベルベットのソファに腰掛けると体が埋まる感じで、テーブルは低く、ペット連れで来るカフェというより、バーラウンジみたいだ、この店は。

これから運転する幸一にはジンジァエールを強いて、私と千秋がグラスでビールを頼み、二人がお腹いっぱいだという声を押し切って、マルガリータピザとジャーマン・ソーセージを頼む。

痩身で、整った顔立ちで、胸が大きいけれど腿と脹脛が枯れ枝のような女の子がビールを運んで来て、テーブルを離れる時、私の正面の千秋の足元でうつ伏せてるモモと、テーブルの下でせわしく動き回ったせいでリードを絡ませ行動半径を狭めてしまったラスティとに、手を振ってバイバイした。最近はああいう子がけろっとAVに出てたりする。因果。

私がグラス片手に、乾杯しようとしたら、二人共そのまえに我が子たちに飲み物をと、携帯プレートにペットボトルの水を注ぎ、テーブル下に置く。二匹が水を飲み出したのを見届けて、とりあえず乾杯。

「幸一、さっきの店で何買ったの?」

「ああ、これね」

幸一が包みを開け、お馴染みの犬用骨スティック形状をした紐縄を、お座り姿勢のラスティの眼前の床にポン、と投げ置く。

「それ、噛み噛みして歯垢を取るやつですよね。いいらしいですよ」

「そうらしいですね。前から買おうと思ってて」

ラスティが伏せると前足でその紐縄を床に押さえつけ、一心不乱に噛み噛み、はじまった。

「モモにも似たの買ったんですよ。暫くお気に入りでしたよ」

「うちのは、こういうの直ぐ壊しちゃうんですよ。やんちゃだから」

三人の視線がテーブル下のラスティに釘付けになる。

チワワでもさすが、肉食獣。ラスティは恨みでもあるかのように紐縄を噛み拉いて解体作業に没頭。早くも端のほうの紐が解れ出す。なんか、とても因果。

「ねえ、ところで、二人ともさ、寝る時は犬たちはどうしてるの?」

「こいつはね、勝手に部屋のどっかで急に寝てるんだよね。そんで、朝早いんだよ。毎朝五時になると、ベッドの俺んとこの下に来て、散歩に連れてけって、ワンワン起こすんだ。真っ暗でも雨の日でも」

「わたしもモモに起こされるの。一緒にベッドで寝てるから、朝、凄い、顔舐められて起こされるんだけど、でも、わたし寝相、相当悪いから、時々、モモを下敷きにしてて」

皆、モモに暫し視線を注ぐ。

ずっと床に顎をつけてのべっとしてる。犬なりになにか考え事でもしているのかと思っていたら、耳をぴくっとして起き上がり、頭上を見上げてお座り。モモの視線を追って後ろへ振り向くと、耳ピアスのあんちゃんウエイターが料理を運んで来てた。モモはただ耳を澄まして周囲を窺い、待機してたんだな。モモは犬らしく待機するのが性分で、実はチアキもそんな女なんだろうか。否、逆か。飼い主の因果が子に宿ったのか。

    *     *

千秋がジャーマン・ソーセージを切り分け終えると、ちょっとトイレ行ってきますと立ち上る。モモがお座り待機で、彼女が店の奥に消え行くのを無垢に見つめてる。歯垢除去の紐縄に飽きたラスティが一瞬、斜向かいのモモにちょっかいを出そうと歩を進めたが、自身の体に絡みついたリードのせいで辿り着けないで諦めた。

「あのさ、最近、仕事替えようかなと思って」

千秋に遠慮してたのか、幸一がこの店に入ってからはじめて煙草を咥え、静かに切り出した。私も一服と煙草を咥える。

「会社、上手くいってないの?」

「いや、まあまあうまくいってるよ。銀行ATMシステムの発注もそこそこ来てるし。でも、SEってさ、三十代後半になってくると、もう、辛くなって来るんだよ。俺を慕ってついて来た部下っていうか仲間をリストラして、若いのを入れなけゃならなくて。でもさ、リストラなんて言い出せやしないし。いっそ、俺がこの仕事を辞めちゃえばいいんだって」

「もったいないじゃん、せっかく社長さまなのに」

「でも、それはそれでいいかなと思って」

幸一が紫煙を吹き上げ、一歩間違うと太々しいだけのミッキー・スマイルで見つめる。

ちょっと待てよ、幸一のこの台詞、何度か聞いたことがあるぞ。

第一志望の早稲田の受験日の朝、すし詰めの東西線で、美少年だった彼が痴漢というか痴女というかに股間を触られて、それが結構イイ女だったそうで、そのまま電車を降りてその女の家に行っちゃったっていう話を聞かされた時と、大手家電メーカーの内定式で人事部長だったかに、十歳しか離れてない継母がいる家庭環境のことを、複雑で大変だね、と労われたのに腹を立て、内定を辞退してしまったっていう報告を受けた時と、それがきっかけとなって、出来ちゃった学生結婚をして玲菜ちゃんを身篭ってたカミさんが呆れて実家に帰ってしまったという顛末を知った時と、同じ、「それはそれでいいかなと思って」だ。幸一はやっぱり計り知れない。

 「で、会社たたんで、なんの仕事すんの?」

 「まだ、次に何するか考え中だけど、最近、ラスティを飼いはじめてから、なんかうまく乗っかって行けそうだなって思ってるんだ」

 「乗っかる?」

 うん、と一拍置いて、幸一が厳かに語る。

 「世界にはさ、いろいろ、ナンセンスなんだけど、どっかの誰かが凝らした恵み深き意匠が溢れててさ。ペット用のブラウニーとかペット用のマーキング防止用パンツとか。世界にはそういうのを作る、売る、人間がいて、買う、人間がいて。でも、バカになって、それに乗っかるのがいいんだよね」

「《恵み深き意匠》って、服の衣裳じゃなくて、匠のほうのこと?」

「そう。匠のほうだよ」

幸一が、恵み深き、とか言うと、そこには宗教っぽさや社会っぽさはなくて、コンビニでチンしてもいいくらいの気軽さが漂う。高校の時のある夏の午後、チバの、どこまでも続く冴えない田圃の畦道を一緒に下校してて、唐突に彼が、ーここら辺りの景色って、パステルカラーのグリーンの画用紙に白いクレヨンで一本、線を引いたみたいに綺麗だな。と呟くので、幸一の頭ん中の映像ってそんなにポップなのかと、とても当惑したのを思い出した。

幸一が続ける。

「世界のそれに乗っかれるバカ心があれば、なんか新しい仕事を見つけられそうな気がするんだ」

彼にはなにかが見えすぎるのか、それとも、シンプルに世界を泳いでるだけなのか、時々分からなくなる。世界、世界って連発する語りも幸一らしい。私はそれが、羨ましい。世界への独特の親和感と距離感がいついかなる時もブレない魂。

此れ見よがしのミッキー・スマイルを浮かべた幸一がフィルターだけになりつつある煙草を灰皿に押し付けて消す。

千秋がトイレから戻って来た。

ソファの傍でお座り待機してたモモは歓喜し、ただいま、と頭を撫でる彼女の手のひらを舐め回す。モモの舌に片手を委ねたまま千秋がグラスの底を見せ、喘ぐように、真っ白な首筋を覗かせながらビールの残りをぐいとやる。なんか艶かしくて因果。

「そういえば千秋、中目黒はいつから住んでるの?住み心地はどお」

彼女の視線が宙を泳ぐ。

「住んでるの七階だから、ベランダから東京タワーなんかも見えて面白いけど、桜の季節は目黒川沿いにわんさか人が来てうるさくて。んーっ、でもお隣の代官山みたいに歩いてて緊張して疲れることはないから、悪くはないかな。とか言っても、わたし、この半年ずっと引き籠り気味でモモの散歩くらいしか外、出てないから」

千秋が申しわけなさそうに口を窄める。

変わったよな。街を歩いてて緊張して疲れるなんてこと、彼女が言うなんて。離婚の後遺症なのか、それとも本来の彼女が、そうなのか。二十代の頃は、ハル・ハートリーの映画に心酔してニューヨークの人熱れにインスパイアされたいとか宣って、年三回は有休取って単身渡米してたような千秋なんだけどな。

   *     *

今度は幸一がトイレと立ち上がる。

紐縄を齧ってたラスティがお座り待機の姿勢になり、遠ざかる彼の後姿を心許なげに目で追う。ちょっと因果。

「あーあー、しかし、まずいわよね。バツイチ、収入なし。働かないと。亡くなった母が心配してるだろうなあって」

幸一の気配が消えると、千秋の口調がざっくばらん。

「どーすんの?あてはあるの」

「うん、外資系ITベンチャーに知り合いがいて、英語できる人探してるっていう話はあるんだけどね。心と体が怠け者になっちゃってるから」

彼女が俯き加減で儚げに嘆息し、足元のモモに乾いたまなざしを送る。憂いを纏った二重目の女は、一重目の女より疲れて見えるのはなぜだろう。床に伏せっていたモモが彼女の視線を察知し、ぬいぐるみでは為し得ない濡れた瞳で見上げる。とても因果。

「このまえね、夜中に母が来たのよ。夢に出て来てあれこれ言ってて、そしたらこの子に顔、舐められて目が覚めて、ああ、夢だったんだと思ってたら、この子が急にベッドから飛び降りて、冷蔵庫の前に走って行って、お座りして、尻尾を振って、ずーっと天井を眺めてるのよ。ヘンでしょ」

「モモは千秋の母さんが来たって分かったんだ?」

「うん、そうみたい」

即答すると、モモの頭を撫で、「あー、この際、恐山でも行ってみようかな」と彼女がなにかをうっちゃるように開き直る。

「でもさ、恐山て、ペット持込禁止かもよ。イタコの集中力が削がれるかもしれないし」

「そうね。それに犬嫌い、猫嫌いの霊もいるかもしれないしね」

「恐山ってどこだっけ。岩手?」

「青森よ。下北半島」

「俺、青森、行ったことないんだよな」

「わたしも」

恐山の話をもっと引っ張るべきか、話あぐね、自分の煙草の煙の行方をぼんやり眺めていると、

「ねえ、三隅くん、わたしにも一本吸わせてよ」と千秋。

「吸ったことあるの?」

「ないわよ。煙、嫌いだから。でも吸ってみたくなっちゃった」

「お母さんが怒るかもよ」

「いいの。吸わせてよ」

私が差し出したパッケージから千秋が一本を、線香花火を持つように垂直に摘み持ち、そのままだらんと厚めの唇でぎこちなく咥える。男の抱擁をそそりかねない、いじらしさ。

「火を点けて」と彼女が向かいの席から半身を乗り出し、品良く尖った顎を突き出す。ライターの炎が、滑稽にも目を瞑る彼女の顔を蒼白く照らし出す。炎を彼女の煙草の先端に触れさせると、ゆっくり目が開いた。炎を見つめて寄り目になった瞳の中で二つの小さな炎がメラメラ揺れて、彼女の秘めた魔性が引き出されたみたいで艶かしく、因果。

「千秋、吸い込めよ。そうしないと火が点かない」

彼女が神妙な面持ちで煙を吸い込むと、煙草の先端が赤々、光る。途端、彼女の口元から煙が零れる。コホッコホッ咳込むと彼女は自分の吐き出した煙に目が染みて、二重の大きな目の睫毛をぱちくりさせた。

「わたし、やっぱ、煙草ダメだわ」と苦笑。

と、幸一が戻って来て、気配を押し殺し、静かにソファに座る。

千秋が妙に慌てて煙草を灰皿に押し付けて消すと、和装の女がさす日傘のようにしゃんと佇まいを正す。でも、灰皿の中、口紅の跡がついた吸殻が彼女の犯行を如実に語ってる。

「ねえ、幸一さ、恐山ってペット持込禁止かな?」

んっ、なんの話題?と幸一が戯けた目をつくる。千秋が怖い顔で私を睨む。

「さあ、行ったことないから分からないけど、どうかなあ、犬とかのほうが霊感が強そうだから、イタコさんが嫌がったりするんじゃないかな。で、なになに?」

「今度さ、行ってみようかって」

「でも、あれだよね。素朴な疑問だけど、なんか前にテレビ観たんだけど、恐山のイタコがマリリン・モンローを呼び出しててさ、あのイタコさん、英語分かる感じじゃなかったけど」

「大丈夫なんですよ、きっと。こう、なんて言うか、そういうのって言語じゃなくて伝わるんですよ」

「まあ、でも、千秋も一緒に行けば英語圏の霊はバッチリだよ」

「わたしが英語できてもイタコさんができなきゃ意味ないでしょうが、三隅くん」

「そっか」

「でも、あれだな、俺の場合は呼び出したい霊なんかいないな」

幸一が煙草を咥えて、本日一番の不敵なミッキー・スマイル。

「いいなあー、それって幸せな証拠ですよおー」

千秋が頬を膨らませ、打ち解けた相手にしか見せないだろう剥れ顔で、幸一の目線を捕まえる。

げげっ、いい感じの二人じゃないか。

「あっ、ハイ、ハイ。そう言えばさ、素朴な疑問。心霊写真って人間ばかりで、犬の心霊写真ってないよね」

二人が一瞬、考え込む。

「んーっ、テレビで見たことあるわよ」

「えーっ、どんな?」

「あの、ほら、集合写真の背景が雑木林とかで、木漏れ日が作り出す模様の中に獣の霊が沢山集まってます、なんて言って、フリーハンドの白い線でいくつもの霊体の輪郭線を引いたやつよ」

「ああ、ああいうのね。でも、そういうロールシャッハみたいなやつじゃなくて、人間のだと、ちゃんと写実として映ってるじゃん」

「多分、犬とか猫の霊は現世に思い残しがないから、こっちには来ないんじゃないのかな」

幸一が顎の無精髭に手をあて、妙に真剣なまなざしで言う。

「きっと、そうですねえ、うんうん」

千秋が大袈裟に頷いてみせる。

幸一の発言を今、目の前で確かめようと、ラスティとモモを窺う。

ラスティは四肢で立ち、もうボロボロに解れてしまった紐縄をなにかに取り憑かれたように、これでもかと獣の目つきでまた、噛み拉いてる。そうだよ、こいつには思い残しはないな。

モモは床に伏せって前足に顎を乗せ、憂い顔。読書好きの少女が深夜に自室のベッドでする顔だ。こっちの世界にアレルギーしてるようだから、モモも思い残しはないかもしれないな。

テーブルに視線を移すと、誰も手をつけてないから円形を保ったままのマルガリータピザの赤い表面に硬直が訪れ、油がうっすら白く浮き出している。

「そろそろ、出よっか」と、窓外を見やる。

外は暮れかかっていて、彼岸。向かいの雑居ビル屋上のクリーム色した円柱形給水等がもう、茜色に輝いてる。ドッグイヤーってわけか。犬たちと居ると時間が経つのが妙に早い。なんか因果。


      7


 幸一のパジェロを預けたパーキング・ビルへ向かうのには遠回りだけれど、なんとなはなしにガーベラ通りを真っ直ぐ進み、ピーコックも越して、左折し、やたらと混雑した通り、何通りだったか、ストリートだったかに入った。

沿道には商店街バザーのセール・ワゴンが並び、漫ろ歩きの人出の意識は、恵み深く果敢に手招きするワゴンの中の茶器や古本の背表紙やアクセサリーや衣類やガーデニング・グッズに絡め取られていて、無防備。人々は皆、夕陽のセピアに染められて浮かび、湯船に浸かったようにのべっとした面持ちで、そのまま冥途に向かってしまいそうな緩慢な足取り。アスファルト地面を行くラスティとモモには危険極まりない。

一歩先行く二人が立ち止まって、我が子たちを抱き上げると、本屋の向かいの駐車場に設営されたミニイベント広場に吸い込まれて行く。

中央の仮設ミニステージではちょっと照れてる肥えた素人マダムたちが、秋の夕べに、ハワイアン・フラダンスショー。そっか、この通りはあのペットオーケーの店マップではヒロストリートだったっけ。ああ、こっ恥ずかしいよな、この有様は。通り名を真似て、踊りを真似て。いくらなんでも乗っかりすぎだよ。

目を離した隙に二人が広場の隅にあるセール・ワゴンでなにやら名踏みしてるよう。ペットの服を売ってるらしい。私は背後から忍び寄る。

「なんか買うの?」

「いや、見てるだけ」と幸一。

「来生さん、ラスティちゃんにこれ、どうです?」

 千秋が赤と緑のチェッカー柄の小型犬用レインコートを手に取って差し出す。

 「似合うかな」

 「うーん、ちょっと違いますかね」

 「でも、安いな、これ」

 「安すぎで良くないかも」

 二人が仲睦まじくワゴンを離れる。

幸一の腕の中のラスティが澄んだ瞳で注意深く地面を窺ってる。ひょっとするとこの広場の隅の金網ネットの底辺の藪、雑草が生い茂ってる辺りに降りて、マーキングしたい衝動にでも憑かれているのかもしれない。千秋の腕の中のモモは人混みに感受性が飽和し、疲弊しきってるみたいで、ぼんやり放心顔。何も見てない感じ。

人混みをき分けるでもなく、二人と二匹はゆるりミニイベント広場を後にして、路地の小径を取止めなく行く。

     *     *

亡霊という程には切実な因果を持たない、ふわふわ漂う人波に流されて歩くうち、駅前ロータリーに出た。

私たちが居るのは、ロータリー中央にある仮設ステージの裏側だから客席もステージも見えないけれど、ディキシーランドジャズの演奏が漏れ聞こえてくる。ハワイのお次はニューオリンズか。ご苦労なこった、この街は。

「見てかなくていいよね」

二人が同時に振り返って、 

「ん、いいよ」

「パスしましょう」

と歩き出す。

ロータリーの端にある東急コーチのバス停を過ぎると、募金箱を手にしたチェック柄スカートの女子高生たちの放列。交通遺児のため、恵み深きボランティア活動中。女子高生の一人がラスティとモモに手を振る。幸一と千秋は募金箱の前を、歩く歩道に乗っかってるみたいにスーッと素通りした。良かった。チワワとシーズーを抱いた二人が揃って募金なんかしたら、乗っかりすぎだよ。そんなことしたら、この街の意匠に溶け込みすぎだよな。

人でごった返したロータリーを後にして、東横線の高架下を抜け、名も無いアスファルトの小路に入る。

 陽が落ち、辺りの雑居ビルテナントのスナックやキャバレーや牛丼屋やファーストフードの店舗アクリル看板が夜闇の中、張り巡らされた電線の合間、猥雑かつ扇情的に点灯乱舞し、パチンコ店の派手なネオンが明滅し、まるでこの辺りの空間は、色とりどりの風俗情報バナーが犇めく蠱惑なエッチサイト画面のよう。自由ヶ丘だって一歩、裏小路に入り込めばこんなもんだ。

 パチンコ店の自動ドアが開いて、ジャンパーのポケットに両手を突っ込んだ男が一人足早に出て来て、店内の電子音が混沌と小路に漏れ出す。無言で居座り、パチンコ台に向かうご遊戯中の人々の座列が亡霊のようにちらりと見える。洒落たブティックやカフェの無い裏自由ヶ丘のこの小路にも、幸一がさっき言ってた、誰かが凝らした《恵み深き意匠》はしっかりあって、バカになってそれに乗っかってる人々は沢山いるわけだ。因果。 

自動ドアが閉まる。前を行く二人の姿を見失った。

もう小路を曲がって大井町線の踏切手前を曲がったようだ。足早に追いかける。自由通りに至る人気(ひとけ)のない線路沿いの暗がりを行く親しげな二人の後姿を見つける。勿論、まだまだ恋仲という程、身を寄せ合ってはいないけれど。

 私は背後から不意打ちする。

「二人共、今日、晩メシはどーすんの?」

二人が立ち止まって振り返る。

闇夜で見る色白の美男美女は天国みたいに浮遊して見えるけれど、実は魂になにか特別な細工を施されていて、ひょっとしたら地上のどこにいても結局は、居心地が悪いんじゃないかと勘繰りたくなる。どことなく因果。

飼い主の腕の中の二匹は各々、宙を見つめ聞き耳を立てていて、二人の譲り合いの沈黙がちょっとあって、

「まだ、お腹空かないし、ラスティもいるし、俺はサイタマまで帰んなきゃなんないから」

「わたしも全然、お腹空きそうもない、かな」

んーっ、このままお開きだと二人のネクストが心配だ。せめて、このあと数十分でも二人きりになって貰わねば。

「じゃあ、パーキングで解散だね。幸一、車出したらそのまま中目まで千秋を送ってよ。俺は電車で帰るから」


      8 


パーキング・ビルに着く。

ゴンドラリフトに収まった幸一のパジェロが地上に降りて来るのを待つ間、私がラスティのリードを持つ。私の足元でお座り待機状態のラスティに、―ラスティっ、と声を掛けてみる。チワワの潤んだ瞳と目が合う。この心の窓は別に何も訴えちゃいなくて、眼前に広がる世界に犬の本能で反応しているだけに違いないのだが、華奢で極小なチワワの徒花さが切ない。進化の神の悪戯って、気紛れで因果だ。ラスティが先に目を逸らす。

千秋の腕の中のモモの目線に割り込んでみる。

千秋が赤ん坊を人に見せる時のように腕を揺すってモモを差し出す。顔を近づけてみる。モモはその腕の中できょとん顔。これは、ぬいぐるみそのものだ。目が合う。白い顔毛に円らに埋まる二つの瞳はとってつけたようで、ここにも誰かの気紛れな意趣を感じる。因果。モモが先に目を逸らす。

「やっぱりさ、犬の心霊写真なんて、ないよ。このモモなんか、ここにこうして生きてて、存在してるのがもう、なんか、有り得ないことみたいだもんなあ」

「そうでしょ。この子は特に危うい感じでしょう」と、千秋が嬉しそうに言う。

「危ういってどういうこと?」

「んーっ、ごめん。特に意味はないの」と彼女が白を切る。

パーキング・ビルのリフトからバックで出てきたパジェロが回転台で向きを変え、ヘッドライトを点灯させる。ゆっくり前進して、停止。幸一が一旦降車し、ラスティを抱き上げ、助手席に置く。後部座席に千秋が乗り込むと、運転席に戻った彼が助手席のパワーウィンドーを半分下げた。

「乗ってきなよ。どうせこっから近いし、先に三隅を雪ヶ谷まで送るよ」

私が逡巡していると、

「三隅くん、そうしなってば」と千秋が珍しく強い口調。

私も乗り込んで、発進。雪ヶ谷に行くなら反対方向だと訂正する間もなくパジェロが自由通りを、目黒通り方面に向かう。しょうがない遠回りだけど、目黒通りから環八に入って貰うか。

     *     *

環八の流れは快調で、幸一がカーステレオをオンにした。

夜の帳に吸い込まれるサックスの伸びやかな音色に乗ってスティングの歌声。

『Englishman in New York』。

ラスティが助手席の窓枠に前足を掛けて、流れ行く車窓の夜景を眺めだした。

I’m an alien , I’m a leagal alien

I’m an englishman in new york

スティングがサビを歌う。車内が皆、聞き入る。

幸一が助手席のパワーウィンドーを全開にした。

秋の冷んやりした夜風がラスティの全身を撫で、黒毛が靡く。凛々しく気持ち良さげ。ラスティはなんだか、追憶に浸っているように見えなくもない。

メキシカン・チワワ・イン・トーキョーだな。

この事態は恵み深くないこともないけれど、この沿道の夜景を主に構成しているのは、マンションビル群のシルエット。コンビニやラーメン店やファミレスの店舗アクリル看板の灯火。煌々と営業中のガラス張りカーディーラーのショールームやガソリンスタンド。この景色には、人々の身すぎ世すぎはあっても風致がない。環八じゃなくて環七だって、目黒通りだって、中原街道だって、このへんの通りはどこだってさして変わりない。ラスティだって通りの違いなんてきっと分からないだろう。退屈しないんだろうか。それとも居並ぶ電柱の袂で虚しく漂う雄犬たちの臭いを感知して、実は今にも車から飛び降り、マーキングしたい衝動にでも駆りたてられているんだろうか。

 赤信号で停車。

フルフェイスヘルメットのライダーが乗るバイクが横に並ぶ。ラスティが身を乗り出して助手席の窓枠から顔を突き出す。幸一が操作してパワーウィンドーを閉め、ラスティは顔をひっこめる。

 「こいつさ、バイクに凄く反応するんだよ」

 幸一が嬉しそうに言う。

 「へえ、気になるんだな」

 「ラスティちゃん、オートバイが気になるのか、ライダーが気になるのか、どっちなのかしら」

信号が青になり、発進。初速に優る傍らのバイクが先に飛び出して行く。ラスティが首を捻じり鼻先を窓ガラスにくっつけ、粘っこく目で追いかける。

 「多分、ライダーのほうかな。仲間だと思ってるらしいんだ」

 「ラスティちゃんは風を感じて生きてるのねえ」

 「なるほどぉ、風を感じて、か。頼もしいこった」

 「かたや、うちのモモは駄目ね。車酔いしちゃったみたい」

 隣の千秋がブルージーンズの膝の上でぐったりのモモの頭を撫でる。モモは一瞬力なく目を開け、つまらなそうに閉じる。因果な魂。

 「そういや、さっきの店で犬用の酔い止め薬、売ってたよ」

 「知ってる。でもわたしとモモは滅多に乗り物乗らないから必要ないかも」

 「そっか」

田園調布学園前の交差点が赤信号でまた、停車。さっきのバイクに追いつく。ラスティが運命の再会とばかりに尻尾を激しく振り、ワン、と一吠え。でも、ライダーが気付く気配はない。なんか因果だ。

信号が青になる。

バイクに遅れて発進。田園調布警察署前の交差点を左折し、環八から中原街道に入る。先行くバイクが、《二十四時間ロボットレンタル》の黄文字が踊る、真っ赤なアクリル看板の店舗前で止まった。その光景が後ろへ流れて行く。

バイクが視界から消え、ラスティが大人しく助手席のカーゴに収まると、幸一が言う。

「今のあのバイクが止まった店って凄いよね」

「えっ?なんで」

「だって、ロボットをレンタルするんでしょ。なんかSF近未来が現実になったって感じだよ」

「マジで言ってるの?」

「なにが?だから、お掃除ロボットとか留守番ロボットとかをレンタルしてるんじゃないの」

なるほど幸一らしい。世界の恵み深き意匠に、バカになって乗っかる覚悟ならではの、想像力。

「あれって、無人のレンタルビデオ屋だよ。しかも半分はAV」

 「げっ、そっか」

 「そうそう」

「あはは」

ルームミラーの中の彼の苦笑はあくまで堂々たるミッキー・スマイルだから、いい。

     *       *

中原街道沿いの凡庸な街並に埋没する雪ヶ谷大塚駅がゆっくり車窓に近づく。

 駅前横断歩道で信号待ちするぽつりぽつりの人影が、今日は心做し衰弱しているように見えなくもない。

界隈で営む焼肉店やドラッグストアやクリーニング屋のアクリル看板が不躾に誘う灯火に、皆、なにやら中毒していて、人影はただ、ただ、夜の路線バスの車内に乗り合わせた人々のように、哺乳類ならではの無防備さを露呈してる。恵み深くもないし、趣きもないし、因果もない。

駅前の信号が赤になって停車。

フロントガラスの向こうの横断歩道をぽつりぽつりの人影が、各々、スーパーやコンビ二やファーストフードのロゴ入りビニール袋を提げて虚ろに渡る。

ああ、皆の魂が恵み深く見えないのは、街での身すぎ世すぎのあまり感覚を鈍らせているからなんだな。

否、この考えは独り善がりだ。

幸一なら、―皆、街の恵み深き意匠に素直に乗っかってるんだよ。とでも言って、ミッキー・スマイルだよな。でも、街の恵み深き意匠なんて、私には見つからない。週末もそろそろ終わり。これから家へ帰って剥れた里美と夕餉を共にし、明日の株価を思い煩いながら床に就くだけか。三十代、DINKS夫婦の、恵み深さの欠片もない虚ろな夜が更けるだけ。ああ、なんか今晩はせめて寝る前に、こっそり脳をもう一段階緩めたい。久々にAVでもレンタルするか。

「あっ、幸一、サンキュー。ここで俺、降りるよ。ちょっとさっきのロボットレンタルに寄ってくから。じゃあ、またね、千秋」

信号が赤のうちにと急ぎ私が降車しようとしたら、

「わたしも一度、ロボットレンタル見てみたいなあ」

「俺も一緒に行くよ」

と、声が飛ぶ。

げっ、千秋が一緒じゃAV借りれないじゃんか。

「そおっ、来んの。特段、面白くないよ、きっと」

幸一がパジェロを中原街道沿いに寄せて止める。降車した二人が二匹を抱きかかえ、私の後ろを付いて来る。しかし、レンタルビデオ屋にペット連れで行く中年カップルなんてあまり見たことないよな。まっ、いいか。


      9


《二十四時間ロボットレンタル》の店舗前にはさっきのバイクはもう止まってなくて、代わりに、ベイスターズのブルーの帽子を目深に被った電動車椅子の男がいた。

浄瑠璃の人形のようなアクセントある(まなこ)に無精髭が浮いた青年。店内に入るべきか躊躇ってるよう。私たちの気配を感じて彼が振り返る。戦渦に巻き込まれた難民が報道カメラに向けるような怒りと諦観が混ざり合ったまなざしでこちらを睨む。初対面の人間が視線を投げて寄越したのに珍しくラスティが吠えない。

私たちが一瞬怯んで立ち止まると、彼は車椅子の操縦レバーをくいっとやって、自動ドアの感知マットに車椅子を乗り上げ、一気に店内に入って行く。私たちも続く。

DVD・ビデオ作品の本体を収納した、UFOキャッチャーよりふた回りくらい大きめのロボットレンタルA〜H号機が店の中央に二列で並んでいるのを境にして、右手側がAVコーナー、左手が一般映画コーナー。車椅子の彼はAVコーナーに向かった。

数百本の作品パッケージの各々で乱舞する女たちの裸体が織り成す棚一面のモザイクが蠢惑に迫り、思わず蓋したくなる徒花さのAVコーナーを尻目に、私たちは一般映画コーナーに向かう。

千秋と幸一は最新作棚、私は店の一番奥の旧作棚の前で暫し佇む。

私は旧作棚の最下段の隅に『ランブル・フィッシュ』を見つける。

ビデオ・パッケージ裏の作品紹介に目を通す。

日本初公開一九八四年。巨匠コッポラが贈る青春映画の名作。出演―ミッキー・ローク、マット・ディロン、デニス・ホッパー、ダイアン・レイン。

懐かしいな。高校生の時に、幸一と観に行ったんだよな、これ。二十年振りに観てみるとするか。

パッケージ棚の反対側に鎮座するロボットレンタルD号機の前に立つ。ガラス張りの棚八段にビデオ本体数百本が背ラベルを見せ、整然と並んでいる。D号機のカードリーダーに会員カードを通し、液晶タッチパネルに、貸出希望本数、パッケージに記されていた貸出ナンバーを入力。レンタル料金を硬貨投入口に入れると、ウィーンと大袈裟に音を立て、ビデオを乗せる黒いボックスが垂直・水平移動し、静止。棚からビデオ本体を乗せ、取り出し口に運んでくる。女性音声ガイドがボックスからビデオを取り出せと言う。因果なのは、音声ガイドに命令されるこっちのほうだな。

へい、へいっ。少し屈んで取り出し口の扉を開け、ビデオを手にして立ち上がると、背後に人の気配。

「へえー、こういう仕組みなのね、ロボットレンタル」

千秋が妙にご関心。

「UFOキャッチャーより簡単でしょ」

「何、借りたの?」

「内緒」

「まさかAV」

「残念。それはあっちのコーナーにしかないのです」

「へえー、よくご存知ね」

「あれっ、幸一はどこ行ったの?」

「あっちのコーナーかしら」と彼女が困惑顔をつくりながらも向こう側のコーナーに回りこむ。おいおい、そっちは女人禁制なんだけど。私も追いかけて回り込む。

     *     *

さっきの車椅子の彼に幸一が付き添っている。

片手でラスティを抱いたまま背伸びして最上段棚のDVDパッケージを手に取ると、彼に渡した。

「これでいいのかな」と穏やかなミッキー・スマイル。

「すみません。ありがとうございます」と彼は礼儀正しい。手元のDVDパッケージをまじまじ見つめてる。ちょっと切ない。

「借り方分かるの?」と幸一。

「あっ、いえ、大丈夫です。ありがとうございます」

電動車椅子がウィーンと音を立て、方向転換。店の一番奥のロボットレンタルH号機のところに向かった。

それを見届けた幸一が私たちに合流する。店の自動ドアが開いて、皆、通りに出たところで、幸一が後ろ髪を引かれたように店内に振り向く。―やっぱりだ、と小さく独り言ち、今生でのやり残しを無くさねばと魂にスイッチが入ったかのように抜き差しならない形相で、幸一が店内に戻る。私たちも後を追う。

ロボットレンタルH号機の前で、車椅子の中、彼が竦んでいる。彼のところに寄って行って屈み込み、なにやら会話した幸一がこっちを険しい顔で見る。

「三隅、彼、会員カードを持ってないんだって」と声を張らす。

「免許証とか、なんか身分証明証があれば、そこの会員カード発行機で直ぐ作れるよ」私も声を張らす。

幸一が彼に耳打ちした後、言う。

「そういうの今、持ってないんだって」

くくっ。幸一、なに考えてんだか・・・。嫌な予感を伴いながら私も車椅子の彼の傍に行く。

「三隅の会員カードで借りてあげてよ」

幸一があっさり恐れていた台詞を吐く。こうあっさり言われてはこっちだって臆面は見せれない。

「ああいいよ」

「あの、いいです。いいですから、また、出直します」と車椅子の彼が固辞するのを遮って、幸一が彼からDVDパッケージを半ば強引に剥ぎ取り、私に渡す。


『綺麗なお姉さんが童貞くんを癒してあげる。パート2』。


私も以前、レンタルしたことのあるやつだ。本当に綺麗なお姉さんが出てて抜けるぞ、これ。悪くない。それを所望していた車椅子の彼の切なさがパッケージからじわっと伝染して来た。一肌脱ぐしかないか。

私の会員カードをロボットレンタルH号機のカードリーダーに挿入し、レンタルする。返却の時も私のカードが必要なので、明日の夜八時にここでまた彼と落合う約束をした。彼の、礼を言う恐縮顔に嘘はなさそうだ。すっぽかしはしないだろう。

ロボットレンタルを後にしてパジェロまでの道すがら、幸一に強いられた風変わりなボランティアの余韻に浸っていると、ラスティが立止って、雪ヶ谷大塚東急ストア前のバス停ポールにマーキング。

ああ、頗る因果。おまえ、でも、もうここには二度と来ないだろうから、縄張りになんかならないのにな。ラスティを見守っていた幸一が歩き煙草を地面にポイ捨てし、マーキングを終えたラスティが、慣れた感じで吸殻の描く放物線を避ける。幸一にとっちゃ公共のマナーより、さっきの車椅子の彼の欲求不満を解消する方が余程大事ってことだよな。

一歩先行く彼が振り返ってボーイソプラノのようなミッキー・スマイル。

「三隅、悪いね。ちょっと面倒臭いことを頼んじゃって」

「ああ、お陰で、なんの因果か明日、また、ロボットレンタルに来なきゃ」

私は幸一に歩み寄り、―でも、いいよ。明日、ついでにAVでも借りるからさ、と小声で耳打ちし、一歩退き、モモを抱いた千秋と並ぶ。彼女は地面を見つめ、ペディキュアを塗ってる女のまなざし

をした後、

「来生さんて、なんか面白いね。モノサシが違うんだよね」

と、私の耳元で囁いた。

 千秋、それって引けてるの?それとも賛辞なの?


        10


パシェロに乗り込む。幸一がエンジンをかける。もう私の家まで数百メートル。

ああしかし、きっとこのままだと幸一はこの後、千秋をただ中目まで送るだけで、彼女の電話番号を訊いたり、次の約束したりとかしねえだろうな。千秋も特に次につなげる会話なんてしないだろうし。この二人、世話が焼けるな。しゃあない、一肌脱ぐか。幸一がパジェロを発進させる前になんとかしなきゃ。

唐突に言ってみる。

「あっそうだ、今日のペットちゃんたちの記念撮影したほうがいいな。そういうのするでしょ、愛犬家は。幸一さ、ラスティとモモのツーショットをケータイで撮って、後で千秋に送ってやってよ」

車内になんとも白けた沈黙と妙な緊張が漂う。

「このまま、車んなかでいいんじゃないかな」ともう一押し。

幸一が、―おっ、うん、いいね、とか言いながらサイドブレーキをかける。千秋が、ー撮りましょ、是非、是非、と等閑な笑み。

幸一が運転席から両手を伸ばして助手席のラスティを抱き上げ、私に渡す。余命十七年の高鳴る心臓の鼓動が両手に伝わって、この脆い生き物を壊せないな、と慎重に、千秋のブルージーンズの膝の上、モモの隣に置き、お座りさせる。モモが戸惑い、起き上がって思わずといった感じで千秋の顎をぺろりと舐める。彼女が窘めてお座りの姿勢をとらせる。ラスティが鼻先をモモの顔に寄せ、くんくん。幸一が運転席から体を捻じって、―ラスティ、ラスティ、とケータイを構える。二匹ともそちらを見る。千秋も笑顔をつくる。

パシャ。

幸一が撮れた画像を手元で確認する。私は身を乗り出して、それを覗き込む。

因果。犬の心霊写真みたいだ、と思ったが口に出すわけにはいかない。生憎、千秋の笑顔はフレーム内に収まらなくて、彼女の白いVネックセーターの恵み深い胸元をバックに、二匹は白と黒のもわっとした大きな二つの毛玉で、その毛玉に円な四つの瞳がぼやけて埋没している。まるで二匹の魂だけが写ったみたい。モモは転生したらきっと今よりもレベルの高い魂に成れそうで、ラスティは何回転生しても今と変わらぬ侠気の強い魂に違いない。そこはかとなく因果。

「これ、ちょっとぼやけてるね。手振れかな。明るさが足りないのかな。画素の問題かな」と、私。

「もう一枚撮るか」と、幸一がパシャ。

「どれ」

「また、駄目だね」

「千秋も見てみる?」

「うーっ、なんかモモ、綿菓子みたいで溶けちゃいそう。幸薄し、って感じだわ」

「ま、いいじゃん。幸一、この画像を後で千秋に送って、そんで、ほら、いろいろペットフードの話題とか愛犬家同士で情報交換をしてさ」

千秋がメルアドを口頭で言い、幸一がケータイに打ち込む。

「それじゃ、いい写真撮れなかったけど、後でゆっくりメールしますね」と幸一が爽やか笑み。

「はーい。是非」と千秋が朗らかに応じる。

私はラスティを持ち上げて、ほいっ、と運転席の幸一に渡す。ラスティは定位置の助手席のカーゴに収まる。中原街道を数百メートル走った歩道橋の袂で私は降車する。パシェロの助手席の窓に首を突っ込み、ラスティの頭を撫でる。

「ラスティ、バイバイ」

ラスティは私と視線を合わせない。素気ないな。まっ、いいか。

「じゃあ、幸一、千秋を中目までよろしくな」

ウィンカーを出してパジェロがゆっくり歩道から離れつつある。

後部座席の千秋がウィンドーを全開にし、

「今度、また、同じメンバーで、恐山じゃなくて、艶々になる厚木の温泉ね」と、どさくさ紛れに言い逃げた。

次は二人と二匹で行ってくれよと返す間もなくパジェロのテールランプが弱々、中原街道の夜闇に吸い込まれて行く。


   11


その晩、里美は趣向が合わないと、『ランブル・フィッシュ』を一緒に観るのを拒んだので、独りで観ていて、私は漸く気が付く。

幸一のやつ、ラスティの名前の由来を黙ってやがったな。

『ランブル・フィッシュ』で、ミッキー・ローク扮するモーターサイクル・ボーイには、マット・ディロン扮する弟がいて、その名前がラスティ・ジェームス。

高校の時、映画館を出た後、喫茶店で、滅多に映画を観ても感想など述べない幸一が珍しくーいい映画だった、よかったよ。と高揚して、それで二人で議論になったっけ。

ミッキー扮する不良グループのカリスマ的リーダー、モーターサイクル・ボーイは感受性が鋭く天才の知覚を有し、世界がモノトーンにしか見えない色盲。弟ラスティはその憧れの兄の知覚を手に入れたいと焦るが、侠気の強い彼には、難しい。ある夜、モーター・サイクルボーイは縄張り争いに明け暮れ傷ついた自分たちの姿を、ペット・ショップの水槽を泳ぐ闘魚ランブル・フィッシュたちに投影し、彼等を川に放とうとして、銃弾に倒れてしまう。

ラストシーン。

ラスティは、兄の死の混乱の中、バイクで走り抜けた朝焼けの海岸で、遂に、憧れの兄の知覚を手に入れた。

というのが、その時、興奮気味で語った幸一の解釈で、

いや、それは、むしろストーリーに単純に乗っかり過ぎで、ラスティがそうなった根拠なんて作品中にはなかっただろう。

というのが私の見解で。

そうだ、それで、あの時、幸一は、もう一度よく『ランブル・フィッシュ』を観れば根拠になるシーンを見つけられると説いたっけ。

幻想的なモノトーン映像が全編に渡り貫かれた『ランブル・フィッシュ』を観終える。

モーター・サイクルボーイが警官の銃弾に倒れ、取り乱すラスティのほんの一瞬のシーンに、パートカラーがモノクロに変わる映像を発見する。ラスティが色の感覚を失った根拠たるシーン。幸一の言っていた通りだったか。ああ、私は鈍すぎて、見落としていたんだな。

煙草を一服していて、脳裏に、さっきの車椅子の彼が出会い頭に私を睨みつけた、怒りと諦観が混ざり合った恨めしいまなざしが蘇る。

そう、彼は逡巡の末、無人店舗だからこそAVを借りに来たんだよな。街にとっちゃ不毛な恥部でしかないロボットレンタルAVコーナーが、彼の傷ついた魂を秘かに救う役目を果たしてるんだ。これって、経済合理性が齎した世の様々なロボット化におけるたまたまの余徳だけれど、感受性強くバカになって乗っかって、これこそ街の恵み深き意匠だって気付けよ、ってことだろ、幸一。


                         ー了―







(引用)

    「ランブルフィッシュ」 フランシス・F・コッポラ監督。

    (1983 HOTWEATHER FILMS)


「Englishman in NewYork」 Sting

    (1987 アルバム「ナッシング・ライク・ザ・サン」収録、ユニバーサルインターナショナル)


















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