7日目 決戦のティザーニア
どのくらいレイズにムチで打たれ、殴られ、蔑まれただろうか。
「まだ生きているのですか! さっさとくたばってしまいなさい!」
全身が痛くて、感覚がよくわからなくなってきた時、丈夫そうな鎧を着ている門兵が大慌てで飛び込んできた。
「申し上げます!」
門兵はひざまずくとレイズに向かって、悲鳴に近い声で叫んだ。
「なんですか! 人が楽しんでいる時に!」
レイズはその門兵にも思いきり鞭を打った。門兵は悲鳴をあげて一瞬怯んだが、
「国民軍と名乗る集団が我が城を取り囲んでいます! フローアン軍も国境を越えてこの城に向かっている模様です!」
なんとか至急の報告を済ませた。
「なんですって……?」
兵士の衝撃的な報告にレイズの顔からみるみる血の気が引いていく。イルマ率いる国民軍とサーシャ率いるフローアン軍が一緒に立ち上がれば、ただでさえばらばらのティザーナ軍にまず勝ち目はないからだ。
「フローアン軍の先頭にいるのは、ガーウィン王子です! お逃げください!」
その言葉を聞いて、リルの心にぱっと光がさした。ガイがこちらに向かっている……! 彼ならきっとこの絶望的な状況を変えてくれるはずだ。
「逃げてどうするのです! 戦いなさい!」
レイズが狼狽し始めた。しかし、
「みんな逃げてしまいました……我が城に残っているのは、もうスノーヴァ支部の者だけです! それでは失礼いたします!」
門兵は、それだけ言うとものすごい勢いでいなくなってしまった。みんな勝てない戦に首を突っ込むつもりはないらしい。それが賢い選択だとリルも思う。スノーヴァ支部だけは相変わらずだが。
「どいつもこいつも……バカばっかりで困ります」
レイズがもう一発リルに怒りをぶつける。さっきまではこのまま死ぬしかないと思っていたが、今の話を聞いて気持ちが変わった。ここでなんと罵倒されようが、痛めつけられようが、ガイを生きて待つ。そう決意した時、城がぐらりと動いた。
「打ち込んできましたか。仕方ない。いったん撤収するとしましょうか」
レイズはそう言い残すと、リルを十字架に縛り付けたままその場に残してさっさと地上へと上がっていった。
「あとはガイを待つだけ……か」
これで体への負担はないが、この場所が崩れてしまっては生きられない。自分も城もガイが助けに来てくれるまで持ちこたえられますように。そう願うのみだった。
ガイの顔つきは、城を出た時と戻ってきた時でまるで違っていた。
「何があったらそこまで変われるのじゃ?」
ティザーニアに向かう途中、不審に思って、サーシャはつい尋ねてしまった。
「ティザーナ王国で色々な問題を目の当たりにしたからです」
ガイにしては顔に表情を出さず、飄々と答える。どうもおかしい。
「違うな」
それもあるだろうが、きっとそれだけではない。もっと重要なことだ。
「え?」
馬上のガイがうろたえる。
「女ができたろう?」
ずばりサーシャは聞いてやった。
「こ、こんな時に何を言っているのですか!」
図星だ。疑問を率直に口にしただけなのに、この焦りようはなんだ。わかりやすいにも程がある。
「へえ……どこで知り合った?」
にやにやしながらガイをいじる。
「今、言わないとダメなのですか?」
それに素直に乗ってくれるのがガイのかわいいところである。
「気になるじゃろうが!」
今からレイズは確実に討ち取る。そうなると、サーシャの次の関心事項はガイの未来の花嫁だ。5年間、マリーの代わりに母親として、ガイを見てきたのだ。幸せになってほしいというのが親心である。
「……わかりました」
ガイは渋々、リルという女との馴れ初めについて話してくれた。リルは暗殺者として、レイズによってガイのもとに送り込まれた美しい刺客だった。一目惚れしたガイはそんなこととは露知らず、彼女の頑なな心を開こうと必死になっていた。いつの間にかその想いは通じ合い、フローアンに一緒に逃げようとしたが、スノーヴァでティザーナ王国軍に阻まれた。そこで、リルは捕まってしまったが、ガイのことは逃がしてくれた。恐らくレイズに今もまだ捕まっているはずだ。
「なんだかややこしいのを好きになりおって」
ドラマチックではあるが、親としてはそんなものは求めていない。ガイの花嫁になるのは、国王にふさわしい高貴な身分の女がいいと思っていた。しかし、
「俺は彼女を妻にしたいと考えています」
マリーに似た澄んだ瞳できっぱりと言い切る。
「お前……本気か?」
5年前、マリーにも同じことを言った時には、まさかもう一度同じことを言う日が来ようとは思いもしなかった。
「俺は本気です。彼女以外の女をティザーナ王妃にする気はありません」
暗殺者が王妃だなんて考え直せ……と言おうかと思ったが、やめた。
「わかった。 必ず助けてわらわに紹介しろよ。そしたら、その子をわらわの養子にしてやる。フローアン王家の養女なら、国王の妻として釣り合うじゃろう?」
決意を固めたら揺るがない。何を言ってもムダだ。それよりも切り替えて違う手を打った方がいい。それはマリーの時に経験済みである。
「ありがとうございます」
サーシャの言葉を聞いて、ガイが嬉しそうに目を細める。よほどリルのことが好きらしい。ガイにこんな顔をさせるリルに会ってみたいと思った。
「全く。親子でへんなところが似たものよのう」
本当にこの親子にはかなわない。サーシャは深いため息をついたのだった。
ティザーナ城は、ティザーニアの街の中でも一際小高い丘の上に建っている。その周りの茂みにイルマたち国民軍は陣取っていた。丘というよりは崖といった方がいいだろうか。それにしても、
「あの男が本当にガーウィン・メナードなのか?」
トゥエンタでリルと一緒にいたあのガイ・オーウェンという男が20年間行方不明となっていたガーウィン・メナードだと……? イルマはアランの報告がいまだに信じられずにいた。
「はい。私の旧友であるザルク村長がマリー様とともにずっと匿っていたとのことでございます」
アランはしてやったりと言わんばかりに豪快に笑っていたが、
「そう言われてもなあ……」
イルマは腕を組んで、あのときのガイを思い浮かべた。もっと賢そうな大人の男だと思っていた分、ちょっと残念なところはある。
「まあ、実際にその目で確かめてくださいませ。国王にふさわしい男ですから」
アランからしてみると、見ればわかるというところなのだろう。しきりにガイのことを評価していた。
「あれが……なあ……」
どうも納得がいかないが、何はともあれこれからついに歴史が動く。イルマたちが夢見てきた通り、20年にわたり圧政を強いてきたレイズ政権を倒すときが来たのだ。荒事になってしまったが、街から離れているのがせめてもの救いではある。
「打て!」
スノーヴァから逃げているところだというガーウィン王子が来るまでに少しでも相手の戦力を削いでおいた方が得策だろう。イルマは国民軍に砲台による攻撃を開始するよう指示を出した。
「いけ!」
それに呼応してアランが反応し、球を発射する。勢いよく球が城壁や城門に当たり、中からティザーナ兵士たちやメイドや家臣らしき人々がぞろぞろと出てきた。
「主君を守る気はないってところか」
主人より自分の命か。レイズも見捨てられたものだ。これは思ったよりも楽に勝てるかもしれない。その時、
「ちょっと待て! 国民軍よ」
きゃぴきゃぴとした明るい女の声が背後から聞こえてきた。
「誰だ……?」
戦場に不釣り合いな女の声だ。くるりと向きを変えるとそこには青地に2つの頭を持つ竜が描かれた旗を持つ兵士の集団が待機していた。フローアン軍が到着したのだ。
「待たせたの」
先頭で白馬に乗っている金色の鎧を着た女がかぶとを外した。
「あなたは……?」
こんな目立つ鎧を着ているなんてどこからどう見てもやんごとなきお方だ。イルマはその名を確認すべく馬上の女に尋ねた。
「わらわはフローアン女王のサーシャ・ホフマン。そして……」
サーシャがちらりと隣の男を見る。トゥエンタでリルと一緒にいたガイという男だ。しかし、リルの姿は見えない。すると、
「私は20年間行方不明となっていたガーウィン・メナードです。ともに立ち上がってくれたこと、心より感謝いたします」
馬から降りて、深々とイルマたちに頭を下げるではないか。手にはティザーナ王家の紋章が入ったペンダントまで持っている。翼を持つライオンの描かれたペンダントを見て、国民軍の士気が一気に高まった。残念ながら、どうも間違いないようだ。
「おお! お待ちしておりましたぞ!」
砲台のそばに立っていたアランがガイの前に飛んで出てきた。アランはガイのことを気に入っているから、再会をとても喜んでいるようだ。
「あなたでしたか」
イルマは気に食わなかったが、ここで仲間割れをするわけにはいかない。レイズを倒すため、力を合わせなければ。むすっとしていたイルマに、ガイは、
「中に入るぞ!」
血相を変えて訴えかける。
「何を言っているのです? このまま砲台による攻撃で一網打尽でしょう」
わざわざ危険な城に突っ込もうというのか。考えなしにも程がある。冷めた目でガイを眺めていると、
「中でリルがレイズにとらわれている。俺は彼女を助けたいんだ!」
聞き捨てならないことを言う。
「本当か……?」
イルマは目を丸くして、固まった。彼女の身が危険にさらされているというなら、話は別だ。
「そいつはバカ正直なのがとりえじゃからの。……ということで、ここはわらわに任せてお前らで行ってこい」
サーシャがガイの隣でにやりと笑う。それならば、
「わかりました。サーシャ様、ここはよろしく頼みます」
その言葉に甘え、イルマも剣を持ってその場を離れることにした。
「案ずるな。帰りが遅いようなら突撃して助けてやるからの」
けらけらと笑うサーシャに押されるようにして、ガイはイルマと一緒に城の中へ向かった。
城の中はさきほどの攻撃の影響ですでに火の海だった。正門からしてもうぼろぼろだ。中に入っても兵士たちが特に抵抗している様子もない。人っ子一人いない状態だった。
「まさかあなたがガーウィン王子だなんて……思いもしませんでした」
イルマが大きくため息をつく。
「黙っていて、悪かった」
リルは自分が黙っていたから、ガイを危険な目に遭わせてしまったと言うが、それはガイも同じだ。もっと早くに言っていれば、リルは、あの時捕まらずに済んだのだ。それがどうにも悔やまれてならなかった。
「事情が色々あったのでしょう。仕方がありません」
仕方ありませんというわりには、その言葉に棘がある。ガイに対して、何か不満があるのは明らかだった。
「いつも通りでいいぞ」
そんなかしこまった態度で言われるとなんだか違和感がある。敬意を表しているのはわかるが、不満をため込まれるのもあまりいい気はしない。率直に言ってほしかった。すると、
「じゃあ、言わせてもらうけど、一国の国王なら、先のことをよく考えろ」
イルマは一瞬にしていつもの毒舌に戻った。
「先のこと?」
それが一国の国王の素質にどう関係するのだろうか。ガイはぴんと来ずに尋ね返した。イルマはわざとらしいため息をつくと、
「丘の上に城が建っていたからいいようなものの、そうでなければ国民に多大な被害が出るところだっただろ? リルのことで頭がいっぱいなんだろうけど、そういうところまできちんと考えてもらわないと困るな」
ガイに長々と説教をし始めた。言いたいことがあるなら、率直に言ってほしいとは思ったが、こんなところでお小言を言われるとは思いもしなかった。なんだか耳が痛い。
「運だけは持っているんだよ。俺は」
城が破壊される前にこうしてリルも助けに行ける。まだ城壁や門が壊れた程度のようだから、中にいるリルにこの攻撃でのダメージはないだろう。
「まあ、レイズは通達をすることで国民が血眼になってお前を捕まえようとするだろうと考えたみたいだから、そういう意味では見事に裏をかけたと言えると思うけどな」
ティザーナ王国の国民は、自分たちの未来をレイズよりもガイに賭けたということか。そういう風に言ってくれればいいのに、イルマと来たら全く言葉を選ばないから、腹が立つ。
「裏をかけたって……それ褒めているのか?」
ガイは国民の期待に応えられるように努力していく所存でいた。しかし、イルマはそんなガイの気持ちなどまるで組む気もなく、嫌みったらしく言う。そう言われると、こちらもついきつく当たりたくなるではないか。
「僕はあの時リルを頼んだぞって言ったはずだ。幸せにするまで褒めてなんかやるものか!」
イルマが痛恨の一撃を放つ。なんだかんだと文句を言うのはやっぱりリルのことが心に引っかかっているからなのか。
「お前なあ……」
言い返したいところだが、ガイに言い返す資格はない。仕方がなかったとはいえ、リルに言われるままそそくさと逃げたのだから。
「それより玉座の間に行くぞ。倒す相手は僕じゃなくてレイズだ」
ガイに予想以上のダメージを与えたことに気づいたのかイルマはようやくおとなしくなった。
「そうだな」
イルマとこうして言い争っている暇はない。こうしている間にもリルは危険な目に遭わされているのだ。とにかくまずはリルを助け出さないといけない。
「玉座の間はこっちだ」
ガイは3歳までしかこの城にいなかったから、城の内部のことははっきりと覚えていない。だから、
「よく知っているなあ」
城に何の接点もなかったはずのイルマが地図なしでガイを案内できるということに素直に感心した。しかし、
「このくらい調べて来いよ!」
褒めたというのに、イルマは相変わらずガイに冷たい態度をとる。いつまでも噛み合わない会話に嫌気がさしてきた時、王国軍の鎧を着た兵士たちが何人か出てきた。
「邪魔だ!」
油を売っている暇はない。ガイは剣を抜いて、兵士たちと一戦交えようとした。すると、
「ここは僕が相手をする。この先にある階段を一番上まで上がれ! そして、まっすぐ走るんだ!」
今までぶすっと黙っていたイルマがそう叫んで、剣を抜き、ガイを先に行かせてくれた。
「どうして……」
ぶっきらぼうな態度をとったかと思えば、急に味方につく。どちらにせよ顔色一つ変えないものだから、その本音は読めない。
「ガーウィン王子自身が決着をつけないと、けじめがつかないだろ!? それは僕らだって同じだ! だから、行け!」
素直じゃないが、その言葉の奥にはガイを応援する気持ちが見える。ありがたくその言葉を受け取ることにした。
「任せたぞ!」
イルマにその場を一任すると、言われた通りに階段を最上階まで上がり、廊下をまっすぐに進む。外から見ると縦長に見える城だったが、奥行きも意外と広かった。おまけに薄暗くてどこまで行っても先が見えないような感じすらする。ようやくそれらしきティザーナ王国の紋章が描かれた大きくてしっかりした扉までたどり着くと、剣を構え、突撃した。すでに壊れかけている玉座の間には、ガイの目の前に、スノーヴァで会ったリュクスという名の女がいた。
「ここから先は通さないわよ。私は主君であるレイズ様の命に従い、ここであなたを止めてみせるわ」
癪に障る上から見下ろすような偉そうな声だ。リルは何を好き好んで、こんな高飛車な女とつるんでいたのだろう。
「お前の相手をしている暇はないんだ! リルはどこにいる!」
この女は幼なじみを助けたいとは思わないのか。スノーヴァの時といい、氷のように冷たい女だ。ガイには理解できなかった。
「あの子は、闇に生きる者の掟を破ったのよ。それなりの罰を受けなければいけない。例外なんて許されないわ」
リュクスは、淡々と心なく理論を語る。そんな理論、とっくの昔にこの国は破綻している。今はもっと大事なことがあるはずだ。それなのに、リュクスは取り繕うようにして隠している。もう我慢ならなかった。
「うるさい!」
ついにガイの堪忍袋の緒が切れた。そんなことを聞くためにガイはここまで来たわけではない。
「……え?」
リルがそばにいたから、あの時は抵抗できなかった。しかし、
「人が大人しく聞いていれば、ごちゃごちゃと好き放題言って……! お前は、リルの幼なじみなんだろ? 助けたいとは思わないのかよ!」
今のガイは、頭に血が上っていた。リュクスに少しずつ詰め寄る。
「あなたがなんと言おうと、それがこの国の掟なのよ!」
リュクスが意地になって金切り声で叫ぶ。
「掟がなんだっていうんだ!」
ガイだって負けていない。こんなに大きな声で相手を圧倒したのはいつ以来だろう。
「よそ者はさっさと消えなさい!」
リュクスがガイをにらみつけて威嚇する。しかし、腰にある剣を抜こうとはしなかった。きっと心のどこかに迷いがあるのだ。
「ここは俺の城だ! お前らの好きにはさせない!」
「そんなの、無理よ」
「本当にそう思うか?」
「お、思っているから言っているのよ」
ガイの勢いに押されてリュクスがうろたえる。たとえ自分の意思を殺したとしても、掟に従う方が楽だ。でも、一方で本当はリルを助けたいという想いがある。揺さぶれば、まだ間に合う。この女も完全にレイズの手には堕ちていない。人としての心が残っている。
「無理かどうかはやってみないとわからないだろ?」
そう言って、不敵な笑みを浮かべてみせる。大事なのは、自分自身がどうありたいと思っているか……なのだ。それに向けて、どう動くか……なのだ。
「できるの……? そんなこと……」
リュクスが明らかに戸惑いを見せ始めた。あともう一押しだ。
「おう。俺は絶対にリルを助けてみせる。だから、リルの居場所を教えてくれ」
まっすぐにリュクスを見据える。絶対にここで引くわけにはいかない。そんな強い気持ちを持って。
「それは……」
リュクスはレイズからどうも口止めされているらしい。何も言わず、じりじりと後ずさりをし始めたが、やがて床に敷いてあったじゅうたんにつまずいてしりもちをついた。ガイは、パニックに陥っているリュクスにゆっくりと剣の切っ先を向けると、
「俺にはリルが必要なんだ。だから、助けに来た……それだけだ」
きっぱりと言い切った。ガイとリュクスの1対1のにらみ合いが続く。沈黙を破ったのはリュクスだった。
「なぜ……?」
なぜ未来の国王であるガイが暗殺者であるリルをそこまで必要とするのか。リュクスの言わんとすることはガイにもわかった。
「お袋は小さい頃からこの日を夢見て、俺を育ててきた。国王になった時のために、剣術も勉学もひととおりやらせてくれた。サーシャ様に仕官させてくれた。全てお膳立てされた世界でぬくぬくと暮らしてきた。俺は、国王になる……ということは、国民の道標として、ただ輝いていればいいんだと思っていた。リルに出会うまでは」
レイズさえ倒せば、父親が治めていたころのように穏やかで平和な国に戻る。ガイはリルに出会うまで国王になることをそのように考えていたのである。しかし、実際には違った。
「国王になること……つまり国民の上に立つということは、その闇をも背負うこと。この国には、問題が山積みだ。でも、目をそらすわけにはいかない。そうだろ?」
「……確かにあなたの言うとおりね」
レイズがいなくなったところで、多くの問題はそのままだ。明るいところだけ見ていても前には進めない。
「リルは、ちゃんと現実と向き合い、悩んで苦しんでいた。レイズにとっては使い捨ての暗殺者だったかもしれないが、彼女はこの国のために精いっぱい生きようとしていたんだ。そういう痛みがわかる者こそがこの国を動かす原動力になる」
ガイにはその痛みを想像することしかできない。だからこそ、リルがいてくれないと困るのだ。世界の暗い部分と向き合うこと、彼女はそれを教えてくれたのだ。彼女がいなければ、ガイもレイズの二の舞になっていたかもしれない。
「ええ」
「あいつらがいたからこそ、レイズ政権は持ちこたえていたんだろ。それなのに、いらなくなったら切り捨てる? それが理だなんて……笑わせるなよ」
自分が手に負えなくなった闇を誰かに肩代わりさせて、都合が悪くなったら消し去る。そんなこと、国王には決して許されない逃げの姿勢だ。
「……そうね」
「俺がリルを……この国の民を幸せにする。だから、早くリルの居場所を教えろ? 俺は、レイズと決着をつけてこの国の王になるんだ!」
自分がこの国を守る。その強い意思は誰になんと言われようとももう揺るがなかった。
「リルがあなたを切れなかった理由、わかるような気がするわ」
リュクスは、あきらめたように静かに呟いた。
「え?」
リルはリュクスになんと言ったのだろう。聞いてみたかったが、今はそんな暇がない。リュクスはガイにさっと進路を譲った。玉座の台座がずらされていて、地下へ続く階段が見える。
「行きなさい。リルは、この隠し階段をおりたところにいるわ。助けたら、来た道とは反対の方向に抜けたらいい。外に出る階段があるから」
ガイのリルを助けて、国王として生きていくという断固とした強い思いがリュクスの心を動かしたらしい。剣ではなく、言葉で勝った。そんなところだろう。
「ありがとう」
ガイは剣を鞘にしまうと地下へ続く階段を駆け足で下りていった。
「私の幼なじみの命、頼んだわよ!」
ガイの背中に向かって、リュクスが叫ぶ。
「必ず助ける!」
リュクスに届いたかどうかはわからないが、ガイも階段を下りながら必死に叫び返した。自分のリルへの想いは本物だと言わんばかりに。
「あなたはいつも厄介な男に好かれるのね。リル」
玉座の間に残されたリュクスは去り行くガイの背中をぼんやりと見つめていた。まっすぐで純粋な瞳だった。あの男ならきっとやってくれるだろう。リュクスが忠実に守ってきた掟だけに縛られない新しい世界を切り開いてくれるだろう。心配はいらない。なぜかそう感じるのであった。
リルは十字架に縛り付けられたまま、うつらうつらしていた。レイズがどこかへ避難して、体を痛めつけなくなると、傷の痛みを通り越してどっと疲れが出てきたのである。そんなもうろうとする頭でリルはガイのことを想っていた。ガイの本当の名前は、二十年間ずっと行方不明だったガーウィン・メナードだ。この国の王子でありながら、いつも屈託ない笑顔を浮かべていて人懐こい。そのくせ、社交場の知識やマナーは完璧でとても優雅であり、剣を持たせるととたんに凛々しくなる。そんな人に愛されたのだ。リルは、いまだに信じられない気持ちでいた。
「リル……!」
かすかにガイの声が聞こえる。
「え……?」
声が聞こえてきた方にガイが立っているような気がした。しかし、ずっと痛めつけられていたせいでうまく頭が回らない。夢なのか現実なのかはっきりしなかった。
「助けに来たんだ」
聞き覚えのある優しい声が聞こえてくる。間もなく縄がほどかれ、ぽかぽかと温かい何かに包み込まれたのを感じた。
「ガ……イ……?」
何が起きたのか理解しきれず、力を振り絞って尋ねる。すると、
「そうだよ」
目覚めたばかりでぼうっとしていたリルに、そっと口づけをしてくれた。柔らかい唇を感じ、はっとして目を開ける。目の前には確かにガイがいた。
「来て……くれたんだ」
ぽかぽかと温かいのはガイの腕の中だからか。だんだん意識がはっきりしてきて、ようや
くその実感がわいてきた。自分もこの城もガイが助けに来てくれるまでなんとかもちこたえたのだ。奇跡だと思った。
「ごめんな……俺のせいで……こんな目に遭わせて……」
ガイはぎゅっと抱き寄せるとリルの目をはばかることなく、泣き始めた。ずっと自分のことを狙っていた暗殺者のために泣いているのか。
「バカ……」
なんでガイが謝るの。お人好し。もっと意識がはっきりしていたなら、そう言ってやりたい。
「やれやれ……急に砲台の攻撃がやんだと思って様子を見に来たら、こういうことでしたか……あなたもしぶとい男ですね」
静かに近づく足音が聞こえ、レイズの淡々とした声がした。ガイが来た方向とは反対の階段からゆっくりと下りてくる。
「レイズ……!」
「おっと。やる気なら、お相手しますよ。2人仲良くあの世に送って差し上げましょう」
「のぞむところだ……リルにこんなことしやがって……ただじゃおかないからな」
レイズが腰の剣を抜くとガイもそれに対抗して、剣を抜いた。鋭いにらみ合いが続く。
「気をつけて」
壁際にもたれかかり、リルはガイを送り出した。剣さえあれば、自分も加勢できるのにと悔しく思う。
「ああ。20年前の決着をつけてやる!」
「それはこちらの言葉です! 覚悟しなさい!」
レイズとガイがお互いに剣を抜き、最後の決戦に臨んでいく。ティザーナ王国の未来を賭けて。
ガイの太刀筋は悪くないが、レイズはそれよりもはるかに軽やかな動きでかわしていく。しかし、あまり余裕がなさそうなのにも関わらず、ガイは、リルが人質にとられることを警戒しているのかレイズとリルの間に立っての攻撃を心掛けているようだ。人の心配をしている場合じゃないと思いつつ、ガイのそんな心遣いが嬉しかった。ただ、ガイが劣勢なのには変わりない。リルははらはらしながらその様子を見ていた。
「父親によく似て、小賢しいことこの上ありませんね」
どちらかといえば、ガイが押されている。そんな中でもレイズは余裕で何やら話をし始めた。
「悪かったな……!」
「野蛮な民衆なんぞこきつかえばいいのです。昔から私はこのやり方を気に入っていましたから、あの日も襲わせました。暗殺者の名は、ルイス・アーノルドという男とエレナという女でした」
アーノルド……? どういうことだ。
「まさか……」
ガイもその名前に反応した。ただでさえ押されているガイは、不意を突かれて切られそうになったが、なんとかかわした。剣の試合を見るというのは、心臓に悪い。
「ええ。その女の親ですよ。暗殺者は私のしもべですから、家族を持つことなど許されません。しかし、家族……というものに憧れていた2人は、仲間だった野盗たちを裏切り、マリー王妃とガーウィン王子を逃がしたのです。そして、そのどさくさに紛れて自分たちも逃げた」
レイズは勝ち誇ったように薄気味悪い笑みを浮かべる。
「俺の命の恩人だったのか……」
話の流れからすると、そういうことになる。急にそんなことを言われると混乱して、頭がついていかない。しかし、レイズは顔色一つ変えずに淡々と続けていく。
「探しましたよ。裏切り者は始末しないといけないのに、いつまで経っても出てこないのですから。しかし、あの事件から3年。ようやく見つけて、全てを白状させました。その女が生まれたばかりの頃でしたね。卑しき者が命乞いする姿は実に見物でしたよ」
この男はガイの父親の仇であり、リルの両親の仇でもある。そう思うとただならぬ怒りがこみあげてきた。剣さえあれば、叩き切るのに。剣がないのはもちろん、剣を持って立ち上がる体力が残っているかどうかも怪しい。唇をかみしめて静かにレイズの話を聞くしかなかった。
「なんてことを……!」
ガイはリル以上に戸惑っているらしい。戸惑いによってできた隙をレイズは狙っている。リルにはそれが手で取るようにわかるが、実戦経験が少ないガイにはそこまでわからない。レイズは薄気味悪い笑みを浮かべたまま、続けていく。
「私も鬼ではありませんから、子どもは見逃しました。教会に預けさせたのです。それ以降も手を出すまいと思っていました。しかし、ティザーニアでリルの剣の腕を見たときは驚きましたよ。しかも、シスターたちが邪魔だと言う。これはもらうしかないと思いましたね」
リルはずっと両親のことを知らなかった。この世界に入ってからは知ろうとも思わなくなった。そのくらい毎日生き延びることに必死だったのだ。だから、両親もまたそうだったのだと思うと胸が痛かった。
「そうやって暗殺者候補を見定めていたのか……」
暗殺者を育てて、自分にとって邪魔な存在を消していく。すべては自分の保身のため。なんて汚いやり方だろう。
「彼らは、遅かれ早かれいずれ消される者ですからね」
しかし、レイズは涼しい顔をしているものだから、たちが悪い。
「孤児なら都合がよかったってわけか」
ガイに冷静さがなくなっている。はらわたが煮えくり返りそうなその気持ちはわかるが、それではレイズの思うつぼだ。嫌な予感がしてきた。
「ええ。そして、どういうわけかあの時、王子を逃がした男女の娘が王子の暗殺をするにふさわしい実力を備えた美しい女に育った。だから、私はあえてあなたのもとにその女を行かせたのですよ。ちょうど退屈していましたからね」
レイズは全てを知っていたのか。知った上で、リルとガイが苦しむのをダータンから聞いていたのか。
「調子に乗ったな。こうして自分の首を絞めるなんて」
きっとレイズはなんだかんだ言いながら、リルはリュクスのように忠実に任務をこなすと思っていたのだ。その目論見は大きく外れたことになる。しかし、
「そうですね。ちょっとやりすぎました。でも、ここであなたを殺せば、実にいい余興……として終われるのですから、それでいいのです」
レイズにはなぜか高らかに笑う余裕があった。この男は、自分以外の人の命などどうでもいいのだ。ゴミか何かだと思っている。そんな男に正論を突き付けようとする方が無理と言うものだ。リルは取りつく島のないレイズをただひたすらににらみつけていた。
「人の命をもてあそびやがって……!」
かっとなったガイの隙をついて、レイズが剣を弾き飛ばした。リルの方にその剣が飛んでくる。
「決着はつきましたね」
レイズがガイに気を取られている間に、リルは最後の力を振り絞って立ち上がった。足音をしのばせてレイズの背後に回り込む。
「俺もここまで……か……」
ガイがレイズの背後に回り込んだリルに気づいたようだ。バカ正直なガイにしては上手に芝居を打っている。
「何もかも消し去って差し上げましょう!」
レイズが剣を振り上げる。その瞬間、
「これで終わりだ!」
レイズがガイに向かって剣を振り下ろすよりも早く、背後からリルの剣がレイズをとらえた。急所を一突きされたレイズは、
「おの……れ……」
一瞬、苦悶の表情を浮かべたが、そのまま息を引き取った。リルは、暗殺者として最後の仕事をやり遂げたのだ。仇をとったのを見届けると、ほっとしてその場に倒れこんだ。
「リル!」
もう独りではない。隣には支えてくれるガイがいる。愛する誰かがそばにいてくれる幸せをかみしめながら、意識を失った。
「わらわから逃げられるとでも思ったか? レイズめ」
馴染みのある声がして振り向くと、玉座の間の方の階段にサーシャがしたり顔で笑っていた。
「サーシャ様。いつからいらっしゃったのですか?」
サーシャに気配を消す特技があったなんて知らなかった。
「最初から話は聞かせてもらったぞ。城でリュクスという名の女に会ってのう。居場所を教えてもらって、様子を伺っておったのじゃ」
「それなら早く出てきてくださいよ」
傷だらけのリルに無理させなくてすんだのに。不服そうなガイを尻目に、
「取り込み中じゃったからのう。若いお2人が熱々なもんじゃから、40代独身の女は出るに出られんかったのじゃ……」
サーシャがわざわざポケットからハンカチを取り出して涙をふく素振りを見せる。
「そこからですか?」
完全に2人の世界に入っていたから周りなんて全く見えていなかった。あれを見られたのかと思うと赤面してしまう。
「そうじゃ。こっちが赤面したぞ」
サーシャはそう言って、小さな子供のようにふてくされていた。
「すみません……気づかなくて」
まずい。完全に機嫌を損ねている。ガイは慌ててサーシャに謝った。
「まあ、よいわ。二人とも無事でよかった」
サーシャは慌てているガイなんて気にも止めず、リルに視線を落とした。ガイの腕の中にいるリルは、なんだか安らかな表情で眠っていた。
「俺は、リルとリルの両親に生かされたんですね」
ガイを助けてくれた黒いローブの男女はリルの両親だった。そして、その子どもであるリルに何度も窮地を救われた。人と人との縁というのは不思議なものだ。ガイは感銘を受けていた。
「我らは頭が上がらんのう。感謝してもしきれんわい」
サーシャもガイが今まで見たことがないくらい穏やかな瞳でリルを見つめている。きっと感慨深いのだろう。
「そうですね。よく休ませてあげましょう」
ガイはリルを抱え上げると、サーシャを先頭にして外へ出た。外の世界が眩しく感じられるくらいの光が降り注ぐ。暗闇の世界から戻ってこられたのだ。リルと一緒に。
「リル!」
外に出ると、イルマがすでに待ち構えていた。ガイに抱きかかえられている傷だらけのリルを見て、はっと息を飲む。
「大丈夫だ。眠っているんだよ」
穏やかな寝息も温もりもガイには伝わってくる。早く元気になってほしいものだ。
「今度こそ頼んでいいんだな?」
イルマが改めてガイに問いかける。ガイに対して、疑念を抱いているのが痛いほど伝わってくる。すると、
「幸せにしないと許さないわよ」
追い打ちをかけるように、背後からティザーナ王国軍の格好をしたリュクスが颯爽と現れた。
「当たり前だろ? 絶対に離すもんか」
ガイが力を込めて答えると、その場にいたみんなが優しい微笑みを返してくれたのだった。
これから新しい毎日が始まる。ガイにとっては未知の世界だが、なぜか不安よりも期待の方が大きかった。そんなガイの門出を祝うかのように頭上にはすっきりとした青空が広がっていたのだった。