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6日目 動乱の国境

 丸太づくりの家を出て、緩やかな坂道を上がっていく。雪はやんでいたが、うっすらと積もっていて、歩くと足跡がつく。本来なら誰も通らないところに足跡がつくものだから、どうしても目立ってしまう。ここは誰かに勘づかれる前に逃げなければならない。

「ここまでは順調だな」

 しかし、少しずつスノーヴァと外との境目には近づきつつある。視線の先に石造りのどっしりとした塀が見えてきた。市民が脱走しないようにはしごを使わなければ越えられない高さにしたのだとリュクスから聞いたことがある。当時はよく考えられているなと感心したが、今は日ごろからもっと穏便に対応していればこの塀はいらないのではないかと思う。

「やけに静かだね」

 妙に静かだ。兵士もいなければ、物音も1つもしない。なんだか嫌な予感がした。

「今のうちに行こう。絶対大丈夫だ」

立ち止まって耳を澄ませていたリルに、ガイが明るく声をかけてきた。

「うん。こっちだよ」

大丈夫であろうとなかろうとここまで来たら進むしかない。リルたちから見て、塀の右手側の一番奥に隠し扉がある。そこに抜け道と厩があるのだ。そこに向かって一気に駆け出す。ガイもその後を素早くついてきた。

「よし。ちょっと借りていこう」

 ガイが軽やかに白馬にまたがる。凛々しく前に向かって歩き出すその様子は、おとぎ話に出てくる白馬の王子様のようだった。

「かっこいい……」

 思わず見とれてつぶやいてしまった。

「ん? 何か言ったか?」

 前をゆくガイが少年のような瞳をしてリルの方を振り返る。

「何も言ってない! ほら! 行くよ!」

 慌ててごまかし、自分も白馬にまたがった。今はそんな暇ないのだ。塀の中は思ったよりも広い。トンネル状になっているこの通路を馬に乗り、一列になって駆け抜ける。敵に挟まれてしまっては元も子もない。どきどきしながら、ガイを先頭に前へと進んでいく。外まであと少しだ。一気に抜けられるか。そう思った時、

「あら。朝からデートだなんて妬けちゃうわね」

 どこからかダータンの声がした。近くに隠れているらしい。

「ガイ! 今のうちに行って!」

 リルは、馬を止めると、剣を抜いた。通路に隠れられそうなところはない。それとも、リルが知らないだけで、ダータンは知っているところがあるのか。どこだ。どこに潜んでいる……?

「待て! 俺も……」

 ガイがリルの方を振り返ろうとする。しかし、

「何かあっても絶対に逃げてって言ったでしょ!?」

 ここで共倒れになるわけにはいかない。ガイには生きてもらわないと困る。みんなの希望なのだから。

「わかった!」

 ガイが外に向かって、全力で突っ込んでいく。出口まであと少しだ。リルがその姿を見守っていた時、

「あたしの本気を思い知りなさい。ガーウィン王子様」

 ダータンが不意にガイの目の前に下りてきた。頭上に正方形の穴が開いている。あそこに隠し扉があったとは知らなかった。

「邪魔だ! どけ!」

 ガイは馬に乗ったまま剣を抜くとダータンを突き刺そうとしたが、ダータンも負けてはいない。何事もなかったかのようによけた。しかし、ガイの動きを止めることはできなかったらしい。ガイはそのまままっすぐに出口に向かって駆け抜けていった。

「逃がさないわよ」

 ダータンが懐から何かを取り出した。何をする気かは背後からだと見えないが、よからぬものであるのは確かだ。

「あんたの相手は私がする!」

 剣を抜いて、ダータンに切りかかる。当たりはしなかったが、時間は稼げそうだ。ダータンも剣を抜いた。通路で剣と剣がぶつかり合う音がこだまする。

「あら。どうしたのよ。仲間でしょ? 一緒に捕まえましょうよ」

 ダータンはそう言って、懐から角笛を取り出した。スノーヴァ支部の兵士たちに合図する気だ。

「そんなこと、するわけないでしょ」

 人を騙しておいて、何が今さら仲間だ。そんな都合のいい言い訳、通用するわけがない。レグールでのことを思い出して、いっそう腹が立ち、腕ごとばっさり切り落とした。ダータンは、鼓膜が破けるかのような大きな甲高い悲鳴をあげ、真っ青になって震えていた。

「な、何するのよ! ね。あたしたち仲がよかったじゃない。何も殺さなくてもいいと思うのよ」

 ダータンはなんだかんだと甘い声ですり寄ってきたが、容赦する気など毛頭ない。気を許してしまえば、こちらが返り討ちにされる。やるなら徹底的にやらなければならない。リルは心を空っぽにして、血まみれになったダータンに剣を突き付けた。

「あんたにガイは殺させない!」

 レグールでリルを騙しただけではない。トゥエンタでリルとガイを殺そうとしたことも。スノーヴァでリュクスに告げ口したことも。どれも絶対に許す気などない。

「こ、こんなことしたって無駄よ!」

 今までの借りを全て返してやる。リルは、ダータンの心臓めがけて剣を突き立てた。ぶすりと鈍い音がし、ダータンがゆっくりと目を見開いてその場に倒れる。これで1人片付いた。

「もらっていくよ」

 とどめを刺したダータンの懐から煙幕をいただく。手際よく煙幕をいくつか回収していると、

「捕まえなさい!」

 というよく響く冷酷な女の声がした。リュクスがスノーヴァ兵士たちにガイを追うよう指示しているのだ。

「急がなきゃ!」

 このままではガイが捕まってしまう。リルはようやく馬にまたがると、必死に走らせて、ガイの後を追いかけた。邪魔は入ったが、一直線の長いトンネルをようやく抜けきると、あともう少しでレグール砂漠というところなのに、スノーヴァ兵士たちがガイにまとわりつくようにしてその後を追いかけていた。

「逃げて!」

 馬でスノーヴァ兵士たちのところまで追いつくと、煙幕を思いきり放り投げた。

「な、なんだ……?」

 スノーヴァ兵士たちが煙幕に戸惑い、せき込み始めた。煙がしばらくもくもくとしていたが、その煙が完全に消えたころ、ガイの姿はなかった。煙のせいで前が見えず、ついていくことは叶わなかったが、リルのやるべきことは果たした。あとは、ガイの無事を祈るのみだ。

「ダータンの言うことに乗るのが癪で私なりのやり方で待ち構えていたけど……逃げられちゃったわね」

 背後からひんやりした女の声が聞こえる。ようやく親分が出てきたか。

「追わなくていいの?」

 ちらりと横目で見ると憎たらしいと言わんばかりに顔をしかめていた。リュクスがこんなに感情をむき出しにして悔しそうにしているところなんて見たことがない。

「あとで追うわよ。それより……」

 リュクスが鋭い目をしてリルをにらみつける。鬼の形相とはこのことだ。

「ティザーニアに行って、レイズ様に報告する方が先……って?」

 きっちりしているリュクスのことだ。幼なじみであろうと、規定通りの罰を受けらせるよう進言するだろう。ここから先はリュクスの好きにすればいい。リルは投げやりな気持ちでいた。

「ええ。思い残すことはない?」

 リュクスが抑揚のない声でリルに尋ねる。本人からすると情けをかけてやっているつもりなのだろうが、捕まったリルにはもちろんそんな風には思えない。

「ない」

 心残りはないつもりだった。ガイを逃がすことができたのだから。しかし、もし、ここで逃げ伸びることができていたならどうなっていただろうという想いがどうしても消えない。きっと今の本当の気持ちに従うなら、心残りはあるのだ。ガイとともに生きて、新しいティザーナ王国を見てみたかった……という心残りが。


 リュクスとリルを乗せた馬車はゆっくりとティザーニアがある西へと向かっていく。金や銀があちらこちらに使われた豪華絢爛な馬車の中で2人は対峙していた。

「捕まえたわりには、優しい対応だね」

 剣を始めとする武器やさきほどの煙幕など全て取り上げたから、もう抵抗されることはない。だから、リュクスは自分と同じ馬車にリルを乗せた。それをリルは不審に思っているらしい。

「これであなたとお話するのも最期でしょ?」

 幼い頃からずっと一緒に剣の練習をしていたリルを自分が捕まえることになるとは思いもしなかった。リュクスだってまたリルと剣の試合がしたかった。だって、まだ一度も勝っていないのだから。

「そうだね」

 リルはリュクスと視線を合わそうとはしてくれなかった。当然だ。リュクスが2人の愛を引き裂いたようなものだ。それは自分でもよくわかっている。でも、これは仕事だ。個人の私情など挟むべきではないとリュクスは考えていた。

「どうしてこうなったのかしらね。ファナック先生の時には心動かされなかったあなたがあんな男に堕ちるなんて」

 すべての始まりはそこだ。どんな男に言い寄られても決して揺らがない強さを持っていたリルがあんな単純そうな男に引っかかるなんて。あの男はどんな手を使ったのだろう。

「さあね。私にもよくわからない」

 大きな赤い切れ長の瞳に影が宿る。物憂げな表情は、男でなくとも心惹かれる美しさだ。

「よくわからない?」

 思わず問い返す。命を懸けるほど夢中になっているのに、その理由がわからない? リュクスには信じがたい言葉だった。首を傾げていると、リルは、

「そう。気がついたら好きになっていたんだ」

 リュクスが見たことのないような幸せそうな笑顔を浮かべた。これから殺されるというのに、そんなことは微塵も感じさせない雰囲気だった。

「バカバカしい。そんな感情、任務の邪魔でしかないわ」

 誰かのことを大切に想う気持ち。そんなものが何の役に立つというのだ。リルは、あの男にすっかり毒されて別人のようになっている。自分の手元にあったものが急になくなったような気がして、リュクスはむなしくなった。

「本当に邪魔なのかな?」

 リルがぽつりと呟く。

「そうよ。私たちは言われた通りにしていればいいの。そうすれば、生きていけるわ」

 王国軍のリュクスはともかく、暗殺者のリルにとってそれは絶対だ。その掟を破ることは死を意味する。今まできちんと守ってきたではないか。それなのに、

「……それは生きているとは言わないよ」

 目の前のリルは平気でそんなことを言う。

「何言っているのよ。今から処刑される人が」

 掟に従って、任務を忠実にこなす。そこに余計な感情はいらない。そうではないのか。なんだか今まで信じてきたものが一気に崩れ去っていくような感覚だった。

「最期くらい『私』でいたっていいでしょ?」

 凛とした佇まいに思わずはっとさせられる。その言葉には強い意思が感じられた。レイズの操り人形にはもうならない。そう宣告されたのだと思った。

「リル……」

 やっぱりあなたは並みの人なら滅入ってしまうであろう重たい決断を自らしっかり下せるのね。そして、私の先を進んでいくのね。そう言おうとしたが、馬車の動きがもう止まってしまった。周りがなんだか騒がしい。どうやら、城に着いてしまったようだ。

「さて。行くか」

 すっかり沈み込んだリュクスとは対照的にリルは晴れ晴れとしていた。リルとの別れの時が着実に近づいている。ロレーヌ家の家訓にのっとってここまで頑張ってきたが、本当にこれでよかったのか。リュクスは1人もやもやとした思いと戦っていた。



 リュクスと話しているうちに、あっという間に城に着いてしまった。久しぶりに帰ってきた城は以前にも増して、どんよりとしているように見えた。

「リュクス。そんな顔しないでよ」

 馬車の中で話してからというもの、リュクスに元気がない。しかし、

「私はいたっていつも通りよ」

 心配すれば、憎まれ口が返ってくる。リルも人のことは言えないが、かわいげのない女だ。

壁にろうそくが規則正しく並んでいる薄暗い廊下をどんどん進んでいく。リュクスが先頭に立ち、その後を縄で縛られたリルと見張り役のスノーヴァ兵士2人がついていく。廊下のつきあたりにティザーナ王国の紋章と同じ翼を持つライオンの装飾の扉が見えてきた。ここが玉座の間だ。

「失礼いたします」

 リュクスが一礼して入り、その後に続く。レイズは、玉座にこしかけ、待ち構えていた。

「ガーウィン王子は逃げましたか」

 体をゆすり、明らかに苛立っている。リルの姿を見るとつかつかと近寄ってきて、思いきり殴り飛ばした。リルの体中に鈍い痛みが走る。リュクスとスノーヴァ兵士がぎょっとしてその様子を見つめていた。

「裏切り者への罰は私が与えます。覚悟はできていますね?」

 その場に倒れこんだリルの首をぎりぎりとレイズが絞める。今のレイズは憎悪に支配されている。どうも安らかな最期は迎えさせてもらえそうにない。

「はい……」

 玉座の下にあるレイズ御用達の地下室は行ったら帰れない。暗殺者たちの中では有名な話である。その地獄への入口ともいえる玉座がレイズによって後ろへとずらされた。レイズは、意識がもうろうとしていたリルに鞭を打ちながら立ち上がらせると、地下へ続く階段に向かって歩かせた。そして、階段を下りかけた時、

「そうそう。あなたにはもうひと仕事していただきたいのです。ロレーヌ支部長」

 思い出したようにレイズがゆっくりと振り返った。

「なんでしょう?」

 リュクスが淡々と答える。

「ティザーナ王国全土にガーウィン王子を捕まえるよう通達を出しなさい。恐らく、ガイ・オーウェンと名乗り、どさくさに紛れてフローディアのサーシャ女王のもとまで行くつもりでしょう。絶対に合流させないようにしなさい」

 レイズがここまで大々的な措置を取るなんて、珍しい。相当、追い詰められているに違いない。

「かしこまりました」

 リュクスが一礼する。

「私としたことが……甘く見すぎていました。これ以上、野放しにするわけにはいきません」

 レイズから静かな怒りを感じる。これがあとで自分の身にふってくると思うとぞっとした。

「さようでございます」

「どんな手を使ってでも捕らえるのです! 急ぎなさい!」

「さっそく取り掛かります!」

 冷酷なリュクスでさえ、怖くなったのかそそくさと去っていった。

「いたっ……!」

 残されたリルは、リュクスがいなくなった後、さっそく鞭打ちにあった。

「自分がしたこと、わかっていますね?」

 よろめいたリルの胸ぐらをつかんでレイズがにらみつける。

「わかっています」

 わかっている。それでも助けたかった。愛する人を。

「行きましょう。私の命ある限り、この玉座は譲りません」

 レイズの目は殺気立っていた。玉座の下の階段を下り、岩場のごつごつとした道を進む。ようやく開けたところに出たと思ったら、そこは、壁際に柱のような太い木でできた十字架が向かい側に作られている場所だった。ここがレイズ御用達の拷問室らしい。辺りを見渡すと、十字架の右側には通り抜けられそうな道があった。しかし、ここに連れてこられた暗殺者たちがこの道を通ることはないだろう。

「そこに立ちなさい」

「かしこまりました」

 レイズに指示されるままリルは十字架の前に立った。レイズがにやにやしながら、無の境地に達しているリルを十字架に縛り付ける。

「さて。どうお仕置きしてやりましょうか」

 ぱしりと鋭い鞭の音が聞こえてくる。もう覚悟はしていた。

「どんな罰でも受けるつもりでいます」

 痛いとか怖いとかそんな感情を見せれば、レイズをいっそう喜ばせるだけだ。この場所に連れてこられたものは、どうせひと思いには殺してもらえない。じわじわとレイズの気が向くままに罵倒され、体力を奪われて死んでいくのだ。

「裏切り者になっても、相変わらず潔いですね」

 十字架に縛り付けられても顔色1つ変えないリルにレイズが感心している。

「それが取り柄ですから」

 レイズは恐怖で震えているところが見たいのだ。思い通りにさせるつもりはなかった。しかし、

「あなたが自分を見失うほどあの男にのめり込むとは思っていませんでした。任務を放棄してまでね」

 鋭利な刃物のような言葉がぐさりと心に突き刺さる。

「それ……は……」

 痛いところをつかれて言いよどんだリルの隙を見て、レイズがぴしゃりと鞭を打つ。

「私の信頼を棒に振った代償は大きいですよ」

 レイズの手は、一度始まったらもう止まらない。何も反論できず、リルはただその鞭を一身に受け続けたのだった。

 ガイは、リルを一緒に連れ出すことができなかったという後悔の念に駆られていた。スノーヴァ兵士たちに捕まえられてしまったリルを遠めに見ながら、あの時、一緒に戦っていれば……と何度も思った。しかし、過去の出来事を悔やんでも仕方がない。こうなったら、一刻でも早くリルを救い出さなくてはならない。そうでなければ、リルはレイズに殺されてしまう。

「待っていろよ……!」

 今のティザーナ王国はガーウィン王子にとっては、針のむしろだ。とにかくフローディアで助けを求めるため、ガイはひたすら馬を走らせていた。レグール砂漠の時には追手は来なかったが、街が近づくにつれて、ちらほらと警備兵がうろつき始めた。

「やっぱりか」

 レグールのアランのところに寄ろうかと思ったが、これでは入れそうにない。砂漠で出会った商人からどさくさに紛れてフードがついたローブを買って、顔がわからないように変装したものの不安がよぎる。リルがうまく撒いてはくれたが、あれだけ騒ぎになれば、国境も厳戒態勢に違いない。ごちゃごちゃと考えているうちに心配していた国境が近づいてきた。近づくにつれて、爆破音が聞こえてくる。

「なんだ……?」

 火の海となっている国境で、青地に2つの頭を持つ龍の絵が描かれている布切れが風でなびいているのが遠めに見えた。あれはフローアンの旗だ。

「こっちです! 兄貴!」

 どこから入ろうかと頭を悩ませていた時、渦中からラティオが新品の鎧を着て、黒い馬に乗ってガイを目掛けて一目散に駆け込んできた。

「ラティオ! どういうことだ?」

 どうしてこんなことになっているのだろう。聞きたいことは山ほどある。

「俺も話したいことはたくさんあるんですけど、サーシャ様がじいちゃんの家で首を長くして待っておられますから、先に行きますね。嘆きの洞窟から回り込みます」

「わかった」

 激しい戦いになっている国境の要塞が気にはなるが、まずはサーシャのところへ行かねばならない。ガイは、ラティオとともに嘆きの洞窟がある北へと急いだのだった。


 ザルク村にあるタイジュの家は、隣の家はどこなのかと探してしまうくらいの間が空いている田舎の一軒家だ。男2人暮らしにしてはすっきりと片付けられているリビングでサーシャはガイの帰りを今か今かと待っていた。

「全く。こんな通達を出されるとはあやつも詰めが甘いのう」

 タイジュが入れてくれたローズティーを飲みながらぶつくさとぼやく。

「人を疑うことを知らない男ですからのう……ガイは」

 サーシャの向かい側にある黒い皮張りのソファに腰かけて、タイジュが穏やかに笑う。

「マリーに似て、まっすぐなのか」

 いい意味で言えば、純粋。悪い意味で言えば、単純。国王になった時にこの性格がどう出るのかは神のみぞ知る世界である。ちょっと怖いところもあった。

「そうでございましょう。意志の強い瞳はどちらかというと母親似だと存じます」

 タイジュの孫であるラティオとガイは年が近い。だから、孫を見ているかのような気持ちなのだろう。その成長を微笑ましく思う節もあるようだ。

「困った母子じゃのう」

 サーシャとて、ガイの母親であるマリーとは長い付き合いだ。事件現場では、遺体はリビエラと悪党らしき男女のものしか見つからなかった。だから、20年前に行方不明となったマリーとガイをずっと探し回っていたのだ。そうしているうちに、いたずらに月日は流れていった。大切な友とその息子はどこへいったのか。ずっと狐につままれたような気持ちでいたが、5年前についにマリーと再会した。あの時の衝撃をサーシャはいまだに忘れられないでいる


 雲一つない青空の日には、城の庭を散歩する。サーシャはいつもそう決めていた。日頃の業務から全て解き放たれて本来の自分に戻る日。それは幼い頃からずっと変わらない。この日は城の東側にあるバラ園のバラが見ごろだと庭師たちから聞いていた。

「誰じゃ?」

 色とりどりのバラが咲き乱れるバラ園の中に人影が見えた。後ろ姿しか見えないから、誰かはわからない。しかし、どこか気品あふれる女だった。いったい何者なのだろう。サーシャは、恐る恐るその長い髪を編み込みにして垂らしている女に近づいていった。すると、

「久しぶりね。サーシャ」

 女がふと振り返った。凛とした琥珀色の大きな目がサーシャをとらえる。フローアン王国の田舎の豪農の家からティザーナ王妃の座を射止めた女が確かにそこにいた。

「……マリー! 生きておったのか! 心配したぞ!」

 サーシャは泣きながら、マリーに抱きついた。

「心配かけてごめんなさい。ザルク村から出るわけにはいかなかったのよ。あの子を守るために」

 腕の中でわんわんと泣きわめくサーシャをマリーが優しくなだめる。

「あの子……? もしかして……」

 あの事件の時にマリーと一緒に行方不明になっていた息子のことだろうか。うるんだ瞳のままマリーを見つめる。

「私の息子よ。今年で18歳になったの」

「ガーウィン王子が18歳か……時がたつのは早いのう」

「ええ。もうすっかり自分の身は自分で守れるようになったわ。生意気なこともたくさん言うけど、なんだかんだ言って私の自慢の息子よ」

 マリーはなんだか肩の荷が下りたかのような穏やかな顔つきだった。

「そうか……2人とも無事で何よりじゃ」

 あの時、3歳だったやんちゃ坊主が大きくなったものだ。血縁者ではないサーシャも感慨深かった。

 サーシャとマリーはバラ園にある白いベンチに腰掛けると、今まで連絡がとれなかった間を埋めるかのようにお互いの近況を永遠と話し続けた。

「こんなに笑ったのは久しぶりじゃのう」

 城では、みんなが女王であるサーシャの言動に一喜一憂するから、下手なことが言えない。常に女王らしい振る舞いをするよう求められる。だから、気心の知れた友人と中身のないバカみたいな話をするのは本当に久しぶりだった。2人でけらけらと笑い合い、落ち着いた時、マリーが急に真剣な顔つきになった。

「今日はサーシャにお願いがあってきたの」

「なんじゃ?」

 サーシャが尋ねると、マリーは深呼吸をして、

「私は、歴史を変えたいのよ」

 ときっぱりと言った。

「歴史を変える?」

 あまりにも抽象的でサーシャには何が言いたいのかさっぱりわからなかった。

「そう。息子に玉座を継がせるの」

 今度は具体的にきっぱりとマリーが言う。

「お前……本気か?」

 今聞いたマリーの話によると、ティザーナ王国はリビエラの弟であるレイズが牛耳っている。しかも、自分が邪魔だと判断した者のところには容赦なく暗殺者を送り込み、確実に息の根を止めているらしい。そんな手ごわい相手とここまで大事に育ててきた息子を戦わせるというのか。サーシャには理解できなかった。

「私は本気よ。あのままレイズに好き勝手やらせるわけにはいかないわ」

 しかし、澄んだ瞳は頑として揺るがなかった。

「お前の気持ちはわかるが……18歳のガーウィンが勝てるとはとても思えぬ」

 夫を殺されて、王宮を追い出されたのだ。レイズに対する恨み辛みは山ほどあろう。でも、だからといってレイズは勢いだけで倒せるほどの男ではない。ぞっとするようなしたたかな笑顔の裏側にある暗い闇の世界は計り知れなかった。それはレイズと何回か顔を合わせたことのあるサーシャにはよくわかる。

「だから、あなたに頼みに来たのよ」

 ただ、もっと恐ろしいことにマリーはいっさい引く気がない。

「はあ?」

 自分に何ができると言うのだろうか。サーシャはマリーの次の言葉を待った。

「サーシャの言う通り、今のガーウィンは井の中の蛙よ。世界のことを知識として知っていても、実際のことは何も知らないわ。安全第一で育ててきたから、ザルク村の外に出たこともない。それで国王になれるとは私も思っていない。だから、レイズに勝てるようにサーシャのところで修行をさせてほしいの」

 マリーは感情的なようで実は筋道が通った考え方をする。今日もサーシャはマリーの意見に圧倒された。

「なるほど。わらわの隣にいれば、国の情勢がよくわかる……ということか」

 女王のそばで政治を実際に見させてほしい。国王になるという自覚を持たせてほしい。それがマリーの言い分のようだった。

「ええ。そして、その時が来たらレイズを倒すのを手伝ってほしいと思っているのよ。私はもう長くないから」

 マリーの顔にふと影がさす。

「な、何を言うマリー……せっかく会えたというのに……」

 長くない……だなんて……。せっかくとまった涙がまた溢れてきそうだった。

「私の余命はあと半年と言われているの。私が開発した万能薬でも治せない病で。だから、サーシャに頼るしかない。息子を国王にするためには」

 絶対にこの夢を諦めてなるものか。マリーの瞳はそれを物語っていた。

「承知した。お前とわらわの付き合いじゃ。息子は預かろう」

強い意思が宿る瞳に負けた。マリーの息子を国王にするという夢をここからはサーシャが引き継ぐ。サーシャもその覚悟を決めた。

「ありがとう。あなたならわかってくれると思っていたわ」

マリーが満面の笑みで笑う。バラ園のバラが霞むくらいの美しさだった。

「わらわに任せておけ」

 今まで会えなかった分まで力になってやろう。サーシャはそんな気でいた。

 ところが、それから1週間も経たないうちに、マリーは息を引き取ってしまったのである。ザルク村の村長であるタイジュから密かにその知らせを受けたサーシャは葬儀に出るため、お忍びでザルク村へ向かった。一国の女王が一般の村人の葬儀に出るなんて異例のことだが、そんなことはいってはいられない。サーシャだって、一国の女王である前に一人の人間だ。大切な親友の葬儀に出るくらい許してもらおう。

「サーシャ様がおいでくださるとは……マリーもさぞかし喜んでいるでしょう」

 ザルク村につくとタイジュが涙を流して出迎えてくれた。

「葬式なのに、村を挙げて執り行われるのじゃな」

 丘の上に建てられたマリーの墓石の前には老若男女問わず大勢の喪服姿の人々が集まっていた。

「ええ。人口の少ない村ですからねえ。みんな家族みたいなものですじゃ」

「家族……か」

 そういえば、マリーの息子はどこだろう。ここにいるはずだが、あまりにも人が多くて誰だかわからない。僧侶がお悔やみの言葉を述べる中、サーシャはきょろきょろとそれらしき人物を探した。しかし、結局、見つけられず、

「タイジュよ。マリーには息子がいるのじゃろう?」

 タイジュに尋ねることになった。

「ええ。あとで紹介しましょう。母親似の心優しい青年ですじゃ」

 どんな男なのだろう。果たしてちゃんと国王の器があるのだろうか。今更ながら、サーシャはマリーとの約束が守れるか心配になってきた。

 葬儀が終わり、人がまばらになってきた頃、タイジュが墓石の前から動こうとしない若い男に声をかけた。

「ガイ。このたびはご愁傷様じゃったな」

 ガイと呼ばれた男がはっと我に返ったのかこちらを振り向いた。確かに目元がマリーによく似ている。鼻筋がすっと通っているのはリビエラに似たのか。背がすらりと高く、鍛えているのか体も引き締まっていた。爽やかな青年……というのがサーシャの第一印象だった。

「ええ」

 ガイが目を伏せる。母親が亡くなってショックを受けているのだろう。まだ目が赤かった。

「マリーから話を聞いておろう? こちらのお方はフローアン女王のサーシャ・ホフマン様じゃ。お前の事情もよくご存知のお方じゃから、安心せよ」

 タイジュが優しくガイを慰めるようにサーシャを紹介してくれた。ガイは涙をぬぐうと、

「失礼いたしました。私がガーウィン・メナードでございます。普段はガイ・オーウェンと名乗っておりますので、そのように呼んでいただいてかまいません」

 サーシャに敬意を表し、丁寧に挨拶をしてくれた。田舎の村で育ったにしては、礼儀は完璧だ。よくしつけたものだと感心する。

「ガイよ。このたびはご愁傷様じゃったな。わらわもマリーにもう会えんと思うと寂しくてならん。……じゃが、前を向こうではないか。ともにティザーナ王国の玉座をとりもどすために」

 決めた。この男を自分のそばで国王候補として、育てていく。マリーの意思を引き継いで。

「お心遣い感謝いたします」

 ガイがにこりと優しい笑顔を見せる。どことなくマリーに似ていて懐かしかった。

「お前さえよければ、いつでも城に来い。わらわができることなら、手を貸そう」

 ガイと一緒ならマリーの悲願も果たしてやれる。明るく笑っているガイを見ているとなぜかそんな気がしてならなかった。

「はい」

この日はそれで分かれたが、それから間もなく、ガイはサーシャのもとにやってきた。側近として自分につかせ、書類仕事から交渉まで色々なことをやらせてみたが、ガイはどれもまじめにしっかりとやり遂げた。マリーに似て、純粋でまっすぐなものだから、危なっかしいところも多々あるが、誰にでも分け隔てなく明るい笑顔で接するその姿に好意を抱くものは多かった。城の者にもフローディアの市民にも人当たりのいいガイはすぐに慕われるようになった。サーシャにとってもガイはかわいい息子のような存在だ。だから、

「サーシャ様!」

 タイジュの家に飛び込んできたガイを見て、心底安心したのだった。息を切らしてはいるものの、けがもなく、元気そうだ。

「遅い! 待ちくたびれたわ!」

 いつもついガイにきつく当たってしまうが、これは一種のコミュニケーションである。

「元気に帰ってきただけでもよしとしてくださいよ」

 5年も経つとガイも慣れてきたのかずいぶん受け答えがうまくなった。

「それもそうじゃの」

 この男は責任感が強いから、鍛えれば鍛えるほど伸びていく。いつの日かサーシャをしのぐくらいの立派な国王になるだろう。息子のこれからの成長を考えると、なんだかわくわくした。


 久しぶりにザルク村に戻ってきた。ここまで全力で走ってきたから、体はへとへとだ。すぐにでもベッドに倒れこみたいところだが、まだガイにはやるべきことがある。

「これはいったいどういうことですか?」

 まずは現状の整理をしなければならない。ガイはここを出る時、ティザーナ王国の様子を見て来いと言われた。そして、戻ってきたら作戦を立てようと言われたのだった。しかし、さっきの国境の様子を見る限り、明らかに戦は始まっていた。しかも、どちらかというとフローアンが優勢だった。

「見ての通り。我らは、絶賛進軍中じゃ!」

 サーシャが意気揚々と答える。あの戦はやはりこちらから仕掛けたものらしい。国境を突破してやろうと思ったのだろう。それにしても、

「進軍中?」

 進軍して、いったいどこまで行くつもりなのか。サーシャの意図が全く読めず、ガイは戸惑っていた。

「おうとも。昨日からティザーナ王国全土にガーウィン王子を探すよう通達が出ておるらしい。捕まえたものには、多額の賞金と広大な土地、そして一族や街の安泰を約束すると言っておる。本当は暗殺者にこっそり始末させるつもりだったようじゃが、失敗したから作戦を変えたらしい。こんな騒ぎにするとは、レイズも相当焦ってきたんじゃろうて」

 ガイがスノーヴァを出た後にそんな騒ぎになっていたとは知らなかった。ガイがこうしてみんなと話している間に、リルは失敗した暗殺者の烙印を押され、レイズに命を絶たれようとしている。ガイは気が気ではなかった。

「昨日、じいちゃんのところにフォスター様がいらっしゃって、情報を教えてくれたんです」

 ラティオが珍しくきりっとまじめな顔をして補足してくれた。いよいよその時が来たということか。ガイだけでなく、仲間の覚悟もできている。そう思うと心強かった。

「この混乱に乗じて我らはティザーニアへ一気に進軍する。もう少し待って出会えなければ、どこかで拾うつもりじゃったが、意外と早く会えてよかったの」

相手の裏をかくとは、さすがは女帝・サーシャである。男よりも男らしいその決断力に脱帽する。

「あとは合流するだけですね。ファナック様と」

 ラティオが心なしか浮足立っている。

「ファナックどのとは、ティザーニアで合流の予定じゃ。……ということで、ラティオ、ここは頼んだぞ!」

 サーシャはラティオに一喝すると、ガイと一緒にタイジュの家を出た。その後ろをフローアン軍の中でも精鋭部隊と言われる兵士たちがついていく。

「了解です。兄貴! 頑張ってくださいよ」

ラティオが明るい笑顔でガイにエールを送ってくれた。

「当たり前だろ! 俺は、ガーウィン・メナードとして、あの国を取り戻し、治めていくんだ」

 そして、その隣にいるのはリルなんだ。リルのいない世界なんて考えたくもない。何がなんでも救い出すとガイは心に決めていた。

「それでこそ未来を担う男の顔じゃ」

 サーシャがしたり顔をする。

「はい!」

 そのためにも、ガイは前に向かって進んでいかなければならない。仲間とも合流した。あとはティザーニアでレイズと全てを終わらせるだけだ。






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