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5日目 純白のスノーヴァ


 船に揺られること1時間。だんだん海面に氷が浮かんできた。ちらほら雪も舞っている。そんな中、ガイは、船上に立って、海を眺めていた。ガイの左腕には、巻き付くようにリルがぴったりとくっついている。ガイに心を許してくれたのだと思うと、天にも昇るような気持ちだった。

「だんだん氷が増えてきたね」

 寒くなるにつれて、リルが荷物の中から白い厚手のコートを取り出して、身を包む。

「中に入らなくていいのか? けっこう冷えるぞ」

 もこもこと着込んでいるリルはまるでぬいぐるみのようだった。思わず抱きしめたくなったが、ここはぐっとこらえてリルを気遣う。リルは、

「ここで外の景色を見ていたいんだ。ガイと一緒に」

 と言って、微笑んでくれた。こんなに可憐な女性に暗殺をさせるなんてレイズもどうかしている。暗殺者を使って、コークスのように気に食わない人を殺せたとしても、その効果はしょせん一瞬だ。根本的には何も変わっていない。どうしてそんなことに気づかないのだろう。リルにこんなことをさせるレイズが憎たらしかった。

ティザーナ王国の北側は、1年中雪に覆われている。隣街はティザーニアで、古くから国王の直轄地であるためか、国王軍の警備はやたらと厳しい。船を下りるにも、やれ荷物を見せろだの、身元の確認をさせろだの、なんだかんだ検問をする。

「なかなか下りられないな」

 下りたらすぐにスノーヴァの街に入れるのに、下りられないものだからいらいらする。トゥエンタから船で移動した時間とそろそろ同じくらい経とうとしていた。

「厳しいからね。ここの警備は」

 ふわふわの毛皮の帽子を頭に乗せて、リルがうなる。

「まさか捕まりはしないよな?」

 さっきから何人か警備兵に連れていかれている。抵抗しようものなら、鞭や剣で脅されていた。ただでさえ寒いのにさらに背筋が寒くなる恐ろしい光景だ。しかし、

「任せて。知り合いだから」

 リルは余裕を見せている。

「おう。じゃあ、任せる」

 任せると言いながらも、人と喋りたがらないリルが警備兵とうまく会話ができるのかという不安もあった。そうこうしているうちに、ようやくガイたちの順番が回ってきた。別にやましいことはないから、何を聞かれてもあっという間に終わるはずだ。しかも、

「リル・アーノルドです。この男は、フローアン女王の側近であるガイ・オーウェン。通してください」

 リルが物怖じすることなく、警備兵に向かって説明してくれた。警備兵たちは居ずまいを正すと、

「ロレーヌ支部長から聞いております。どうぞお通りください」

 さっさと通してくれた。

「ロレーヌ支部長?」

 誰だろう。またイルマみたいな恨みがましい男なら嫌だなと内心思っていた。

「スノーヴァの支部長だよ。幼なじみなんだ。ティザーナ王国きっての大貴族の生まれなんだけどね、一緒にファナック先生に剣を習っていたんだよ」

 リルは懐かしそうにガイに語ってくれた。

「へえ……」

 リルがこんなに楽しそうに自分の過去を語ることはめったにない。ロレーヌ支部長というのは、相当できるやつなのだろう。これは強敵かもしれない。

 ここまで心を開いてくれたリルを他の男にはやりたくない。そんなことを考えながら、ガイは、リルと一緒にスノーヴァの街に降り立った。

「噂には聞いていたけど、やっぱり積もっているな」

 桟橋付近は滑らないように雪が取り除かれているが、街の方はガイの足首くらいまで雪が積もっていた。ガイは、リルが滑ってこけないように引き続き手を繋ごうとしたが、まだトゥエンタで負った傷が治りきっておらず、痛みでよろめき、その場にしゃがみこんだ。

「大丈夫?」

 ぱっと顔を上げると、リルが心配そうにガイを覗き込んでいた。よく見ると、雪に負けないくらい白くてほっそりしたきれいな手が自分に差し伸べられている。その様子は、女神のように神々しかった。

「悪いな……」

 リルの手を握り、体を支えられて、なんとか立ち上がる。しかし、これでは完全に立場逆転だ。かっこ悪いところを見せてしまったと思うとなんだかへこむ。

「ううん。気にしないで」

 ガイを支えるリルが心なしか嬉しそうな顔をする。すっかり自分に懐いたリルのことが愛おしくて仕方なかった。

 リルと一緒に桟橋から少し歩くと、色とりどりの壁をした家が立ち並ぶ通りに出た。カラフルな壁が真っ白な雪の影響でよく映えている。雪がちらほらと舞い、底冷えがするから、街の人たちはみんな分厚いコートを着て、長靴を履いて歩いていた。暖かい南西部で育ったガイにとっては新鮮な光景だ。

「寒いな。ここは」

 ガイも船でサーシャから支給されたコートを着込んでいたが、それでもまだ寒い。ガイはぶるぶると寒さで震えていたが、

「ティザーニアも似たようなものだよ」

 リルはあまり寒そうではない。いわれてみれば、ティザーニアの城は丘の上だから、寒さには慣れているのかもしれない。そんな和やかな会話を楽しんでいた時、

「まずいぞ。奴らだ」

 道を歩いていた街の人たちが何かを見つけてざわつき始め、さっとそれぞれの家に引っ込んでいった。

「何かあったのですか?」

 急ぎ足で去ろうとする商人らしき男女を捕まえてガイは尋ねた。

「最近、王国軍の徴税の仕方が荒くて、みんなおびえているのですよ」

 確かに船の検問もびっくりするほど厳しかった。あの王国軍の兵士たちなら、そのくらいのことは平気でやるだろう。アランはこれを恐れているのかもしれない。

「あの雪女は、取れるもの全て取って行っちゃうのよ。血が通っていないのかしら」

 一緒にいたふくよかな女性が深いため息をつく。

「雪女……ロレーヌ支部長のことですか?」

 リルが暗い面持ちで尋ねる。ロレーヌ支部長って女だったのかとガイは今さらながら思った。そして、それはそれでイルマと同じくらいやっかいな相手だと一瞬にして想像がつく。

「ええ。それはもうおっかないです。あなた方も早く逃げた方がいいですよ。ちょっとでも怪しいと執拗に検問されますから」

 商人たちはそう言い残して、さっさと引き上げていった。

「もう……仕事になると人が変わるんだから……」

 リルがぽつりと呟いた時、

「さあ。今日までという約束だったはずよ」

 後ろからぴしゃりという鞭の音がした。上品で落ち着いた女性の声だ。

「す、すみません……ロレーヌ様……これだけしか……」

 怯えて頭を下げる白髪交じりのやせこけた男に再びぴしゃりとムチが当たる。銀色の鎧に翼を持つライオンが描かれたえんじ色のマント……王国軍だ。

「約束と違うわ。あんたたち。やってしまいなさい」

 王国軍の兵士たちは鞭を持つ女の号令を聞くと、中へ突っ込んでいった。

「ちょっと待ってろ!」

 見ていられない。ガイは剣を抜いて走り出した。

「何するの?」

 リルがびっくりしてガイに尋ねる。

「止めるんだよ!」

 取り返しがつかない事態になる前に止めなければ。ガイは必死で周りなんて見えていなかった。


 走り出したガイのあとを慌てて追いかける。合理的なリュクスと感情的なガイが話をしたところで噛み合うわけがない。追いついてみると、リルの予想通り、

「おい!」

 ガイがリュクスに剣を持って突っかかり始めた。

「なに?」

 リュクスがうっとうしそうにガイを見る。

「一生懸命働いている市民にその態度はないんじゃないか?」

 ガイの言っていることは正論だ。しかし、

「そういうのが一番嫌いなのよ。きれいごとだけじゃ食べていけないわ」

 リュクスに悪気はない。ただ、掟に忠実で自分にも他人にも厳しく、きっちりやらないと気が済まないだけなのだ。だから、リュクスにそんなことを言っても聞くわけがない。

「なんだと!」

「私を止めてどうするの? その後のこと、ちゃんと考えている? たとえ憎まれたとしても、ここで誰かが税を徴収しないとこの国は倒れてしまうのよ」

「だからって、そんな脅すようなこと……!」

「それが私の任務なの。邪魔しないで」

 ああ。やっぱり激しい口論になっている。

「2人とも、やめて」

 雪女と呼ばれて怖がられるリュクスもリュクスだが、その場の感情に流されるガイもガイだ。リルは2人の間に割って入った。

「止めないで。公務執行妨害でこの男は逮捕するから」

 あまり表情の出ないリュクスが珍しく怒っている。冷静な声で恐ろしいことを言うのがその証拠だ。

「はあ!?」

 ガイはまだまだつっかりそうな感じである。体力はガイが上かもしれないが、権力はリュクスの方が上だ。本当に公務執行妨害とやらで逮捕するかもしれない。

「ガイ! 落ち着いて! リュクスとケンカしても意味ないでしょ」

 リルは、ガイに向かって、懸命に訴えかけた。しかし、

「あいつが悪いんだろ!? 俺は悪くない!」

 ガイはどうも引きそうにない。とにかく頭を冷やさせるのがここは先決だ。リルは、ガイの手を掴んで、自分の方にぐっと引き寄せた。そして、

「……ちょっとリュクスと話をしてくるから、宿屋で待っていてくれる?」

 耳元でそっと囁いた。リルとの距離が近くなり、我に返ったのかさっとガイが離れる。不意をつかれて落ち着いてきたようだ。まだご機嫌斜めではあったが、

「わかったよ」

 渋々そう言うと、リュクスをにらみつけて、宿屋の方へと向かっていった。

「失礼な男ね。ちゃんと見張っていなさいよ」

 ガイがいなくなったのを見届けると、リュクスがぶうぶう文句を言ってきた。よほど腹が立ったらしい。

「ごめん」

 リルは、リュクスをなだめるため、ガイの代わりに頭を下げた。

「任務はまだ終わっていないの?」

 ひと段落したかと思いきや、リュクスは聞いてほしくないことを聞いてきた。

「うん」

 なんとなく視線を落とす。まだ終わらないどころかこのままずっと終わらないだろう。

「さっきの男絡みでしょ? どうせ」

 リュクスが元気のないリルの気持ちを察した。

「それは言えないけど……」

 仕事モードの冷酷なリュクスには言いたくない。しかし、

「図星ね。その顔は」

 残念ながら見破られてしまった

「……え?」

 心臓がどくんと大きな音を立てる。雪女に氷漬けにされているような気分だった。

「何年一緒にいると思っているのよ。そのくらい見ればわかるわ」

 仕事を離れれば幼なじみに戻るのだ。どうやらリュクスには、何もかも見透かされているらしい。

「それは……」

 もごもごと反論できずにいると、リュクスはどんどん話を進め始めた。

「それで? ターゲットに惚れてどうするの?」

 氷のつららが突き刺さったかのようなはっきりとした発言に思わず面食らう。

「ち、違うよ! そんなんじゃないって!」

 この女は何を考えているのかわからない。ちゃんと主張しておかないと、ガイが危険にさらされるかもしれない。ガイを守るため、リルは必死だった。

「何言っているのよ。どう見ても、恋人同士にしか見えなかったわよ」

 リュクスがさらりと言ってのける。

「そういう関係じゃ……」

 もはやぐうの音も出ない。完全にリルの負けだ。ガイは多分、リルに好意を抱いている。そして、リルもガイのことが好きだ。だから、恋人同士みたいなものなのだ。リルは大人しく黙り込んだ。

「まあ、いいわ。好きにしなさい。どちらにせよあの男は公務執行妨害で逮捕させたから。あと30分後には処刑されるわ」

 リュクスが満足そうに笑みを浮かべた。

「どういうこと……?」

 血の気が引くのが自分でもわかる。急転直下の展開に驚きを隠せなかった。いつの間に手を回していたのだろう。

「あなたが気にすることないわ。あの男は、ガーウィン王子なのでしょう?」

 リュクスが淡々と事実を述べていく。

「どうして知っているの……?」

 リルは誰にもガイがガーウィン王子であるとは言っていない。いったいだれがそんなことを言ったのだろう……。

「なあんだ。ダータンが言った通りなのね」

 ダータンにしてやられたか。あのトゥエンタの広場でリルはこっそりとあのペンダントの紋章を見たつもりだったが、ダータンもいつの間にか見ていたのだ。うかつだった。

「そこまで知っていたなら、なんで船の検問で捕まえなかったの?」

 あの時、あっさりと捕まえていたらそれでリュクスの仕事は終わっていたはずだ。すると、

「あんなずる賢い男もどきの言葉が信じられるものですか」

 男もどきの部分に力を込めて、忌々しそうに顔をゆがめた。

「そういうことだったのか」

 リュクスは、ダータンの手のひらで転がされるのが嫌だっただけなのか。レイズに仕える者たちは、同じ城にいるにも関わらず、お互いにその言葉すら信じられない。血が通っていないのはリュクスだけではなく、この城で働くものみんなに共通していることなのかもしれないと思う。

「でも、リルの話を聞いて私は決めたわ。私はあなたの代わりにあの男を処刑する」

 リュクスがその目に闘志を燃やす。暴走して、勝手なことをされては困る。

「だめだよ! 私の任務なんだから!」

 リルは慌てて、リュクスにきつく言い返した。しかし、

「私を怒らせて、おまけに私の大事なリルまでたぶらかしたのだから。自業自得というものね」

 リュクスの耳には届いていない。なんて言ったら届くのだろう。リュクスが近くて遠い存在に感じられた。悔しくてたまらず、

「リュクスには心ってものはないの!?」

 初めての任務の時に言われた言葉をそのままリュクスに投げかけてしまった。リュクスがリルをにらみつける。

「心がない……ではなく、理性的であると言いなさい。あなたも今までそうだったはずよ」

 反論ができないくらいきっぱりとリュクスが言い放つ。

「……そうだけど……」

 リュクスに言われて、ガイと一緒にいるうちに、すっかり人間らしい感情を取り戻した自分にふと気づく。毎日、ころころと表情を変える明るくて優しいガイの隣にいたのだ。いつの間にかもうもとの世界に帰れなくなってしまっていた。これからどこに向かえばいいのだろう。リルの胸はきゅっと締め付けられた。

「あの男に毒されたのね。いいわ。今からすぐに消してやるから」

 リュクスはそんなリルを見ても、顔色一つ変えず勝ち誇ったように言い捨てて、さっそうと去っていった。

「待って! リュクス!」

 しんしんと降り積もる雪の中でリュクスに向かって叫んだが、やっぱり効果はなかった。

「なんとかしなきゃ……」

 焦る気持ちを抑えて、リルはガイをなんとかして助ける方法はないかと考え始めた。そもそもリュクスまでガーウィン王子が生きていると知っていたということが大きな誤算だ。リュクスは、任務以外のことを進んでやる女ではない。恐らくレイズが動いているのだろう。あのトゥエンタの広場でリルがペンダントを見た時に、ダータンがいたのは、そのせいだ。どこでリルとガイの距離が縮まりつつあることを聞いたのかは知らないが、もうレイズはリルのことを信用していないのだ。理性を失い、ガイに惹かれていくうちに、今まで仲間だと思っていた存在が1人また1人と去っていく。しかし、それでもいいと思う自分がいた。そのくらいガイの隣は居心地がよかったのだ。

「あの……助けていただいて、ありがとうございました!」

 背後からなまりのある男の声がして、はっと我に返る。さきほどリュクスに鞭でうたれていた白髪交じりのやせこけた男が深々と頭を下げていた。右側にはリルの腰丈くらいのやんちゃそうな男の子が立っていた。左側にはようやっと歩き始めたくらいの年であろう女の子が男の足にしがみついている。

「お姉ちゃん。助けてくれてありがとう」

 たどたどしい口調で男の子がリルにお礼を言う。

「どういたしまして」

 男の子の視線に合わせてしゃがんで答えた。助けたのはお兄ちゃんだけどねと心の中で呟く。

「僕、大きくなったら強くなって、雪女たちをやっつける正義の味方になるんだ。この街を守るんだ」

 男の子がえへんと威張って胸を張る。ガイが聞いたら、泣いて喜んだだろうなと思う。

「そっか。頑張ってね」

 微笑ましいその姿を見て、思わず笑顔になった。リル1人なら見て見ぬふりをしていただろう。ガイは諦めてしまいたくなるような状況をどんどん覆していく。なんだかんだと考えずにまっすぐに進んでいく。そして、リルを初めての世界へと誘うのだ。多少危なっかしいところはあるが、リルはガイに尊敬の念を抱いていた。

「本当にありがとうございました」

 白髪交じりの男が再びリルに頭を下げた。暗殺者として暗い世界を生きてきた自分が誰かを助けて感謝される日が来るなんて夢にも思っていなかった。ガイがリルの世界を変えてくれたおかげだ。だから、

「いえ。ところで、スノーヴァ支部の処刑場ってどこですか?」

 リルはガイの救出を試みなければならない。この国にはガイが必要だ。明るく太陽のようにこの国を照らし、導いてくれる存在が。

「しょ、処刑……!?」

 処刑と聞いて、男が目を白黒させている。

「時間がないんです! 教えてください!」

 悪いが、事情を説明している場合ではない。リルは必死だった。

「ここからまっすぐ行った森の奥に湖があります。処刑人は鉄の重りをつけられて、湖の中に突き落とされるって話です」

 男がびくびくしながら、リルに教えてくれた。なんて残酷なことをするのだろう。リュクスが雪女と恐れられるのもうなずける。

「ありがとうございます!」

 リルは男に礼を言うと処刑場である湖を目指して駆け出した。



「なんなんだよ。あの女」

 ガイはリルと分かれてからもまだ頭に血が上っていた。あんな冷たい女がこの街の支部長だと? 正論ですべての物事が動けば、誰だって苦労はしないのだ。ガイだって、そんなことは承知の上で動いている。ただ、あんなやり方はどうしても許せなかったのだ。雪道をずんずん歩いてもガイの苛立ちは収まらなかった。

 しかも、ずんずん雪道を歩いているうちに、宿屋に行く……と言いながら、またいつものごとく道に迷ってしまった。しかし、道を尋ねようにもさきほどのリュクスの騒ぎのせいで道には誰も人がいない。今日は踏んだり蹴ったりだと思っていた時、

「オーウェン様!」

 と誰かがガイを呼ぶ声がした。道を尋ねられるかもしれないと思い、足を止める。そして、辺りを見渡していると、背後から口元に白い布切れをかがせる手が伸びてきた。

「ごめんなさいねえ。あたしは今すぐにでも殺してやりたいんだけど、リュクスがここでは私のやり方に従ってもらうとうるさいから」

 ねちねちとした陰湿な声だ。間違いない。

「ダータン……!」

 言いたいことは山ほどあったが、白い布切れに塗られていた薬が効いたのかそのまま意識を失った。

「これでいいのね? ロレーヌ支部長」

 ダータンが意識を失ったガイを手際よく回収していると、背後からガイを積み込むための馬車が予定通り到着した。中にはリュクスがいたらしく、颯爽と下りてきた。

「ええ。あとは掟どおりに処刑するだけよ」

 リルがガーウィン王子のために暗殺者の掟を破ろうとしている。ダータンからそう聞いたリュクスは、リルに真偽を確かめたら、協力しようと約束してくれたのだった。

「あなたは幼なじみより掟が好きなのね」

 ガイを殺すということは、彼を慕うリルを苦しめることになる。身体的にも精神的にも。それでもこの女はダータンに協力するというのか。半信半疑だったが、心配するまでのこともなかったようだ。

「相手が誰であろうと掟は掟よ。これはロレーヌ家の家訓なの」

 ティザーナ王国きっての大貴族であるロレーヌ家には色々な人が出入りする。その中にはいい人も悪い人もいる。そこで、リュクスの先祖は、彼らをきちんと律することができるような仕組みを整備しようと考えた。それが掟だった。掟は自分の身を守ってくれる。だから、どんな掟であろうと掟は必ず守ること。守らない場合は厳しく罰すること。いつしかその教えはロレーヌ家の家訓となった。リュクスはその家訓を忠実に守っているにすぎない。

「大貴族の才媛っていうのも大変ね」

 ダータンが大貴族という単語をわざと強調して言う。ふらふらとしている男もどきにロレーヌ家の崇高な精神がわかるものか。リュクスはその言い方に苛立った。そして、

「無駄話は終わりよ。さっさと行きなさい」

 さっさと自分の前から姿を消すよう指示を出した。すると、

「はいはい。掟を守って来るわよ」

 ダータンは身の危険を感じたのか速やかに撤収したのだった。

 意識を失っていたガイは、湖のほとりで目を覚ました。湖の周りには、背の高い木々でうっそうと茂っていた。街からは離れているらしく、さきほどまでの色とりどりの家は影も形も見えない。凍てつくような寒さの中、ガイは震えながらも立ち上がろうとしたが、

「だめよ。大人しくしていなさい」

 ダータンがティザーナ王国軍の鎧を着た男を2人ほど背後に連れて、ガイを見ながら薄ら笑いを浮かべていた。

「俺をどうする気だ」

 ダータンを殴ってやりたくても、足にはいつの間にか重りがついている。手も縛られていて身動きが取れない。ちらりと後ろを見ると、この寒いのにまだ凍り切っていない大きな湖が地平線の果てまで伸びていた。

「どうするって……そこの湖に突き落としてやるのよ。それがここの処刑のやり方みたいだから」

 それを聞いて、背後の湖がガイを飲み込もうとしているかのように思われ、水面のゆらめきが急に不気味に感じられた。

「処刑……だと……?」

 自分が何をしたというのだ。たったあれだけのことでなぜ殺されなければならない。ガイにはわけがわからなかった。しかし、

「そうよ。公務執行妨害ってリュクスがお怒りよ」

 ダータンはにんまりと笑う。ガイが処刑されるのを楽しんでいるようだ。

「あの女……!」

 どこまでも冷たい女だ。あの後、残ったリルは大丈夫だっただろうか。あんな幼なじみならいない方がよほどいい。そう思っていた時、

「待ちなさい!」

 どこからともなくリルの声が聞こえてきた。

「来たわね」

 ダータンが剣を構えてリルの姿を探す。しかし、

「リル!」

 リルはダータンの隙をついて、足音を忍ばせて素早くガイの後ろに回り込み、縄を剣で切ってくれた。そして、

「重りを外して!」

 ガイに重りの鍵を手渡し、ダータンとの間に立つと、剣を突き付けて威嚇した。

「助かった」

 これでこの寒い中、湖に放り込まれて氷漬けにされなくてすむ。ガイは、かじかむ手でがちゃがちゃと自分の足についている重りを外した。一方、

「ちょっと。今、処刑中なんですけど?」

 ダータンはわざとらしいため息をついて、ものすごく不満そうにしている。

「私が相手になる。かかってきなさい」

 リルの目からは明らかな殺意が感じられた。しかし、

「合理的でいいと思わない? それならあなたも……」

 ダータンはひるむことなくべらべらと喋っていた。それならあなたも……のあとを遮るかのように、

「二度と無駄口叩けないようにしてあげる」

 リルが剣をダータンの喉元に突き付けた。ダータンは、何を言うつもりだったのか。もしかして、イルマが言っていたことと関係があるのか。ガイは色々と情報を突き合わせて冷静に考えていた。

「仕方ないわね。みんな出てきなさい」

 ダータンが叫ぶと森のいたるところから、王国軍の鎧を着た兵士たちが出てきた。その数ざっと10人。さすがに多すぎる。リルがびっくりしている隙にダータンがひらりと近くの木にあがった。

「逃げる気か!?」

 ガイが立ち上がり、追いかけようとした時には、すでに時遅しだった。

「もちろんよ。あたし、まだ死にたくないわ」

 ダータンは木をつたいながらそう言うと、煙幕で姿をくらましてしまった。

「リ、リル……やめとけ」

 煙幕でせき込みながら、リルを制する。いくらなんでも数が多すぎる。しかも相手は鎧を着ているのだ。勝ち目はない。

「おとなしくせよ!」

 兵士たちが口々に言い、リルとガイを湖の際までじりじりと追い詰めていく。

「あまり使いたくなかったんだけどなあ……」

 リルはそう言いながら、懐から小さな爆弾らしきものを取り出し、兵士たちの方へ放り投げた。地響きがするほどの大爆発が起きる。

「こっちに来て!」

 兵士たちがパニック状態に陥っている隙にリルはガイの手を掴み、森の中を全力で走り始めた。

「おう! なんとか逃げ切るぞ!」

 手榴弾なんて、普通なら持つだけでも躊躇する代物だ。それを使いこなせてしまうということは、やはりただ者ではない。しかし、恐怖は感じない。むしろ、そんな女が隣にいてくれると思うと、頼もしかった。


 ガイを助ける前に確認していた家までなんとかたどり着いた。この辺りなら、リルが仕事の時によく利用していた抜け道もそんなに遠くない。ガイを無事に逃がせるように帰りのルートを確保しておこうと思って、周りを探索していたところ、背の高い草に覆われたこの家を見つけたのだ。どこかの貴族の避暑地だったと思われる丸太づくりの簡単な造りの家だ。門は壊れていたし、家の玄関の扉も開いていた。扉の鍵はかかるものの、手入れされているような感じはしない。今は使われていないのだろう。ただ、薪や布団などのひと通りのものはそろっていた。さらに、その倉庫に手榴弾などの武器もそろえられていたのである。

「大丈夫?」

 なんとか助けてはあげられたものの、問題はこの後だ。リュクスを敵に回した今、スノーヴァでは兵士たちがリルたちの動きに目を光らせていることだろう。

「ああ。リルのおかげで助かった」

 小屋で薪をくべながら、ガイが笑顔を見せる。懐に爆弾を忍ばせて使いこなすような女、普通ではないとさすがに気付いただろうに。

「大したことはしてないよ」

 自分のミスを自分で回収しただけだ。何の解決にもなっていない。こんな危険な目に遭わせるくらいなら、トゥエンタでちゃんと事情を話すべきだった。もう少しこのままガイと一緒にいられたら……普通の男と女でいられたら……なんて甘い夢を見てはいけなかったのだ。ガイと一緒にいるとどうも通常通りの判断ができない。今回もまた失敗してしまった。

「お。ひととおりの物は揃っているみたいだな。よかった」

 ベッドやソファを確認しながら、ガイが笑う。

「そうみたいだね」

 ガイの笑顔を見ているとなんだかほっとする。さきほどまでの不安はいつの間にかどこかに消えていた。

「今夜はここで一晩明かすことになりそうだな」

「あ……うん」

 暖炉があるのはこの部屋だけのようだから、この部屋で過ごすことになる。そう考えるとどきどきした。

「あ、いや、へんな意味はないぞ。外はさっきの奴らがまだうろついているかもしれないし……夜は冷えるだろうからさ」

 わざわざ言わなくてもいいのに。リルまでなんだか視線を合わせづらくなるではないか。

「顔が赤いよ」

 自分も人のことは言えないが……と思いつつ、指摘をする。

「薪で部屋が暖まってきたからだろ」

 一生懸命ごまかそうとするガイがなんだかかわいらしかった。

「あのね、ガイ」

 暖炉の前のソファに並んで腰かけ、意を決して、ガイに話しかける。

「なんだ?」

 リュクスにもダータンにもばれてしまった。自分は、レイズに殺される。それなら、ガイを危険な目に遭わせないようにせめて真実を話しておこう。リルは正直に白状することにした。

「私は、レイズ様にガイを殺すよう命じられた暗殺者なの」

 嫌な沈黙が流れる。でも、後悔はなかった。それで自分のことを嫌いになるなら、それまでの関係なのだ。いい夢を見させてもらったのだから、文句は言うまい。しかし、

「そっか……」

 ガイはリルが思っていたほど驚きはしなかった。

「知っていたの?」

 リルの方が拍子抜けして驚いてしまう。すると、

「イルマから聞いてはいたんだ。レイズが孤児を雇って、暗殺者にしているらしいって」

 ガイは静かにそう答えた。

「ファナック先生も知っていたんだ……」

 隠そうと必死になっていたのは自分だけだったのか。

「でも、なんでだ? 俺を殺したところで、レイズは得しないだろ?」

 ガイが首を傾げる。

「ガイがガーウィン王子だからだよ」

 もうここまで来たら隠すことは何もない。

「そうか。リルは知っていたんだな」

 何を言ってもガイの優しい表情は全く変わらなかった。リルが隠していたことに腹を立ててはいないのだろうか。

「ごめん。ずっと黙っていて」

 リルはいたたまれなくなって、ガイに深々と謝罪した。しかし、

「お互い様だろ? わけありだったんだから、仕方がないさ」

「そんなこと言われても……」

「気にするなよ。俺も悪かったんだしさ」

 ガイは惚れ惚れとするような笑顔で受け止めてくれた。ガイの心の広さには頭が上がらない。今まで1人で抱え込んできた分、打ち明けると、少しずつ気持ちが楽になってくるのを感じた。

「それで? いつ気づいた?」

 ガイに尋ねられるとどんどん話したくなる。リルは引き続き話し始めた。

「レイズ様は1か月前に攻め込んだ時にガイを見て、気づいたみたい。私は証拠をつかんだら、殺すよう言われていた。ガイがガーウィン王子であることは、トゥエンタでペンダントの裏の王家の紋章を見て、知ったんだ」

 別人だと報告できたらどんなによかっただろう。ガイの隣に派遣された暗殺者が自分でなければどんなによかっただろう。そう思わずにはいられなかった。

「なんで殺さなかった?」

 ガイがまっすぐにリルを見据える。

「……殺せるわけないよ」

 こんなに自分と真摯に向き合ってくれる人のこと、殺せるわけがない。

「殺さないと、レイズに拷問されて死ぬことになるって聞いたぞ。それでも……か?」

 そこまでイルマは見抜いていたのか。そんな情報、どこから聞いてきたのだろう。これが1人ではできないことなのか。

「だって、ガイのことが好きだから……!」

 リルは思い切って自分の想いをガイに打ち明けた。

「リル……」

 心臓の鼓動がどんどん速くなる。でも、こうやってガイと話せるのもこれで最期になるかもしれない。そう思うと、もう止められなかった。

「最初のうちはね、ガーウィン王子だとわかったら、さっさと殺してやろうって思っていたんだ。でも、一緒にいればいるほど、純粋でまっすぐでいつも優しく笑っている。そんなガイのことが好きになっていた。ガイを殺すくらいなら、自分が死んだほうがましだ。そう思うくらいに」

「そんな……」

「少しでも長くそばにいたくて、隠していたの。暗殺者だとばれたら、もう一緒にいられないと思って……怖くて言えなかった。でも、ガーウィン王子が生きているとダータンやリュクスが知った今、私にできるのはここからフローアンに逃がしてあげることだけ。ガイと話せるのもこれが最期になる」

 最期になるがそれでもいい。こんなに幸せなひとときを過ごさせてもらったのだから。

「最期になんかさせるかよ」

 ぐっとガイがリルを引き寄せる。

「だって……!」

 何も言うな。そう言わんばかりにガイが自分の唇をリルの唇に重ね合わせた。

「ガイ……?」

 唇が触れ合った感触が信じられなかった。頭の中が真っ白になっていく。

「一緒にフローアンに戻ろう」

 リルを抱きしめたまま、ガイがぽつりと呟く。

「だめだよ。私がいたら足手まといになるだけだ。追手だってすぐに来る」

 甘い誘いに乗るわけにはいかない。自分に言い聞かせてガイから離れようとしたが、ガイは離そうとはしなかった。

「だめかどうかはやってみないとわからないだろ?」

「え?」

 思わぬ言葉に目を見張る。

「俺もリルのことが好きだ。これからもずっと一緒にいたい。だから、今できることはなんでもしたいんだ。後悔しないように」

 これが自分の人生だと諦めてばかりきた。でも、たまには諦めないという選択肢があってもいいのかもしれない。

「ガイ……」

 ガイに言われるとそんな気がしてしまう。ガイは、

「サーシャ様は、ティザーナ王国の状況次第では攻め込むつもりで軍も用意している。しかもフォスター先生やイルマもやる気でいてくれる。リルがいてくれたら、城の内部の様子だってわかる。レイズを倒すなら、今がチャンスだ」

 とリルに教えてくれた。

「本当に……やる気なの?」

 この生活に終止符を打てるの? 

「心配するな。俺が必ずリルを自由にする。そして、この国を再建する。国王として」

 しっかりと前を見据えた目だ。この目に迷いはない。

「わかった。一緒に行く。ガイを信じるよ」

 そこまで言うなら、リルだって覚悟をしよう。

「よかった」

 リルの決意を聞いて、ガイがどことなくほっとしている。そんなガイのことがたまらなく愛おしかった。

「初めてなんだ。こんな風に誰かのこと好きって思ったの」

 ガイのことを想うと苦しくて、出会わなければよかったと思うこともあった。でも、今は初めての感情を教えてくれたガイに出会えてよかったと思う。

「嬉しいよ。リルにそう言ってもらえて」

 ガイは色々と打ち明けた後だというのに、にこやかに微笑んでいた。

「ところで、明日のことだけどさ」

 ガイの笑顔を見て、落ち着いてきたので、リルは本題に入った。

「そうだな。ロレーヌ支部長は相当ご立腹のようだったけど……」

 どうやってご立腹のロレーヌ支部長をはぐらかして、スノーヴァを抜けるか。フローアンに無事に帰るためにも作戦を立てておく必要がある。

「リュクスは、ダータンから聞いて、ガイの正体を知っているんだ。だから、絶対にまともにはこの街を出られない」

 恐らく、いつも以上に厳戒態勢を敷いているはずだ。

「ダータンのやつ、どこまでも邪魔しやがって……」

 ダータンはレイズのしもべの中でも1番古株なのだ。根っからの暗殺者であることに違いない。

「でも、ここから歩いてすぐのところに暗殺者がよく使う抜け道があるんだ。馬も置いてある」

 スノーヴァ支部の警備は、味方だろうが敵だろうが関係なく厳しい。だから、急ぐときに使える抜け道がある。このことを知っているのは、リルたち暗殺者だけだ。

「なるほど」

「もしかしたら、ダータンがいるかもしれないけど、方法はもうそれしかない。街に戻れないから変装して、外に出ることもできないから」

「確かに……な」

 ガイは反論することなく、リルの話に素直に耳を傾けてくれた。

「その道を使ってスノーヴァを出たら、レグール砂漠を一気に越えよう。レグール砂漠に入れば、多分追手は来ないはず。国境さえ越えればあとはなんとかなると思う」

 寒いところに慣れているスノーヴァの兵士たちはレグール砂漠に入るのを嫌がるのだ。追いかけたところで、よほどの懸賞金がかかっている人物じゃないと給料は変わらないから入ろうとはしない。

「よし。じゃあ、それでいこう。俺もリルを信じる」

 ガイが満面の笑みでリルを見つめる。

「ありがとう」

 リルを抱きしめて、よしよしと頭を撫でている。本当に幸せそうでなんだか見ているこちらが癒される。明日が2人の命運を賭けた日だなんてつい忘れそうになるくらいだ。しかし、

「何かあっても絶対に逃げて。生きて……この国を救って。それができるのはガイしかいないんだから」

 リルは心を鬼にしてガイに忠告した。敵陣に2人で突っ込むようなものだ。何があるかはわからない。自分が捕まったとしてもリルはガイを逃がすつもりでいた。

「任せとけ」

 ガイはそんな最悪の事態は考えていないらしい。いや。考えていないように見えるだけかもしれないが。

「もう。のんきなんだから」

 命運がかかっているというのに、ガイはいたっていつも通りだ。リルと両想いだったのがよほど嬉しかったらしい。

「そう怖い顔するな。……それと、リルもここで死んだらダメだぞ」

「え?」

「お前は、将来、ティザーナ王妃になる女だからな」

 天地がひっくり返るような発言に一瞬思考が止まった。

「ば、バカなこと言わないでよ」

 孤児で暗殺者のリルが国王の妻だなんて……そんなことありえない。

「俺は本気だ」

 しかし、ガイにそう言われると不可能も可能になりそうな気がする。ガイと一緒にずっといられる。考えただけでにやけそうになった。

「少しだけ寝るか。ベッドで寝ろよ。俺はここで寝るから」

 ガイにソファの後ろにあるベッドに行くよう促されてはっと我に返る。リルを優先してくれるのは嬉しいが、

「い、いいよ。私、どこでも寝られるし」

 明日から休息のできない長旅になるのだ。リルはともかくガイに倒れられたら困る。ソファではなく、ベッドでしっかり休養してもらわなければ。

「まあ。遠慮するな」

 ガイはそういうとひょいとリルを抱え上げた。

「ちょっと……!」

ベッドにそっと寝かされ、そのまま口づけされる。

「もう……だめだよ……明日は大事な日なんだから……」

 しかし、だめだと言いながらも本当は嬉しくてたまらなかった。ガイもそんな想いを感じたのか、気にすることなく、リルの首筋に、胸に、そっと口づけをしていった。そのたび、声にならない声が出てしまう。体がびくりと反応してしまう。リルの心の中ではこのまま大好きな人に求められたいという想いと早く休ませてあげないといけないという想いが同居していた。自分でも整理がつかず、混乱する。すると、

「本能に従ったらいい。難しいこと考えずにさ」

 ガイはそんなリルににこりと笑いかけた。

「本能?」

 疑問に思って、問い返す。

「そう。リルが感じるままでいい」

 ガイの答えにはっとする。ああ。そういうことか。もう自分の感情を殺さなくてもいい。ありのままの自分であればいい。そう言われているような気がして、なんだか自分の中で腑に落ちた。だからだろうか。

「じゃあ、そうしてみる」

 そんな言葉がすっと口に出た。

「遠慮はしないぞ?」

 ガイがリルを見つめて念を押す。優しい心遣いは相変わらずだ。

「いいよ。ガイなら」

 初めて誰かを愛した。そして、愛された。それがこんなに幸せなことだとは思わなかった。だから、その先に進んでもいい。そう思えた。抑えていたが、もう我慢できなかった。お互いに一糸まとわぬ姿になって、体を重ね合わせると、とろけてしまいそうだった。初めてのはずなのに、ずっと前からこうなる運命だったような、そんな感覚だった。

 ちらりと隣を見ると、リルが自分の腕の中で無防備に眠っている。あれだけ警戒していたリルが自分を受け入れてくれたことがいまだに信じられなかったが、この腕の中の温もりは確かに本物だった。寒い朝でも、とても暖かい。

「かわいいなあ……」

 夜明けになり、目が覚めたガイは、すやすやと寝ているリルの頭をそっと撫でた。いくら強い剣客で、暗殺者として訓練を受けたといっても、やっぱり人間らしい感情を持った女の子だ。ようやく自分の気持ちを打ち明けて、楽になったのか安らかな寝顔をしていた。早くこんな顔をさせてあげたかった。あんなにずっと一緒にいたのに、自分のことで頭がいっぱいで、気づいてあげられなかったのが悔やまれる。そんなことを考えながら、じっと眺めているとリルが目を覚ました。

「おはよう」

 まだ寝ぼけているリルに優しく話しかけると、

「お、おはよう」

 リルが顔を真っ赤にして飛び起きた。

「よく寝られたか?」

 布団で慌てて隠しているが、豊かな乳房が少し見えている。この微妙に見えるか見えないかくらいのところにまたそそられる。思わず押し倒したくなる衝動をガイは必死に抑えていた。

「ま、まあね……」

 ぷいとリルがそっぽを向く。リルがガイと視線を合わせないようにするときは照れている時だとこの旅で学んだ。だから、

「さては……照れているな?」

 今からいよいよすべてが動き出すが、その前に自分だけしか見ることのできない姿のリルを堪能しておきたい。ガイは背後からリルにだきついて、でれでれしていた。

「もう。置いて行くよ」

 ぶつぶつ言いながらも、リルはなんだか嬉しそうだった。

「おっと。それは困る」

 うまくいくことを祈りながら、2人は夜明け前のほのかに明るい外へ出た。






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