逃亡劇の合間
「カイン、さま」
するりと耳に馴染んだその声を捕らえた私は、無意識にそちらへ視線をずらした。
頬に残る線が。寂しそうに、悲しそうに零れたその名前が。
…………アリス様の気持ちを、今も表しているようだった。
「……カイン王子」
そんなアリス様を見て、私も引っ張られる。そうして、今は描けない過去を思い出す。
昔、私が前世の記憶を取り戻す前までは、カイン王子と険悪なんかではなくて、寧ろ、仲が良すぎたくらい。
遊びと称して公爵邸の庭を引き摺り回したり、かくれんぼだと言って庭に置いてきぼりにしたこともあったし、何より、好きだっただろう。
五歳の頃、ローゼマリンでなくて前世の社畜だった記憶を取り戻して以降はここの世界の水準が低いことが気になって気になって、商会を営むセルターのお父さんへ直談判したり、直接商品を開発したりするうちに、カイン王子よりもセルターと過ごす時間の方が多くなっていった。
気が付けば五年後、毎日のように公爵邸に来ていたカイン王子はもう一切関わりのない王族の人間になっていた。それからさらに五年後、十年ぶりに言葉を交わしたカイン王子との婚約が改めて決まった際には、醒めた目で私を見る彼に少なからず傷付いた。
十年ほっぽっても、過去を大切に仕舞い込み、蓋を開ければ続きが紡げると思っていた私と、比較され、繋がりがなくなったことで冷遇されていたカイン王子とでは抱いた感情は正反対だっただろう。
けれど、私は今だって嫌いな訳じゃ、ない。
興味がなければ、端から彼が何をしていたって、どんな噂を囁かれていたって、気にならないのだから。
だから。
「私、かしら」
貼り付けた笑みで婚約者として対応する彼に仕立てあげたのは。
そんなことを考えるくらいには、負い目がある。
何も考えず、ただ、自分が持っている知識で生活が豊かになるのならと前世の知識でこの国を発展させてきた。
それがカイン王子としての立場を狭めることだと薄ら気付いていながら、私は気付かないふりをしていた。
そうして積み上げていったものは、いつしか有能な公爵家の令嬢、無能な王子という札が貼られていて。
カイン王子との距離も、埋められない程遠ざかった。
せめて悪い噂が立たないようにとカイン王子へ進言したことさえも嫌味と取られてしまっても仕方ない程には、憎い相手だっただろう。
決して、そう、嫌いな訳では、ないのだ。