縁ある人々
「35年振りか…、でも戻って来ることができたな」
古めかしい建造物が立ち並ぶ中にある、一服の清涼剤とも言える景観の泉。ここローマのトレビの泉には観光客が賑わいを見せ、写真撮影に明け暮れていた。この泉には後向きになってコインを肩口から投げ込めば、再びこの地に戻って来られるという言い伝えがある。アメリカ人トム・ハグラーは過去、若い時分に世界中を貧乏旅行した際に、ここを訪れていた。彼は実に35年の歳月を経て、この泉に伝承通りに戻って来たのだ。
「ほとんど変わってないな。観光客は若干増えたようだか」
トムは昔を懐かしむように呟くと、興味なさ気にこの場を立ち去った。連れもなく、35年前と同じ一人旅であった。唯一、コインを投げ込まないことだけが昔と違っていた。彼は現在63歳、もう来ることもない、という無言の所信表明か。
「さてと、泉からはそう遠くないって聞いたが…」
トムは泉に未練を残す事無く、己れの目的地だけを一心に目指していた。彼はしばらく歴史を感じさせる建物の残る、狭い路地を歩き続けた。大都市ローマも静かな裏通りになると人が極端に少なくなる。トムは誰にも干渉されずに、静寂に包まれた通りを黙々と進んで行く。道は昼間なのに薄暗く、あちらこちらに入り組んでいた。その為か道に迷ったようで、行き先は全く姿を現わさない。仕方なく彼は一端立ち止まり、リュックサックからローマ市内の詳細な地図を取出して覗き込んだ。
「ふーむ、困った。ここは何処なのだ?」
地図を広げてはみたが、致命的なことに現在地が何処なのかわからなかった。辺りを見ても人っ子一人いない。少々不安になってきた彼は人のいそうな所まで、戻ることにした。もはやトムに昔の冒険青年の面影はなかった。以前だったら何処までも自分の力を信じて突き進んでいたことだろう。しかし今の彼に一人で無謀な行動をするほどのパワーは持ち合わせていなかった。今回ローマに来たのも、長年続いてきた一人という状況を打破するためだったのだから。
「ハーイ、おじいちゃん、何か探しているの?」
背後からの突然の声にトムは驚いて振り向いた。見ると、若い女が今まで誰もいなかった筈の通りに立っていた。髪は金髪、英語を喋ってはいるが、現地の人間のようだ。はっきりとした目鼻立ち、多少トンガッてエロチックな雰囲気の口唇、豊満な胸、スラリと伸びた脚、トムにとって容姿抜群の美女だった。あと20年も若かったら絶対に放っておかないような女だ。
「あ、ああ、ピエトンナ教会って所を探しているのだが…」
トムは理想の女を前にして多少ドギマギして答えた。それを聞いた女は彼との距離をゆっくりと詰めてきて、ニコリと微笑むと、
「ピエトンナ教会?アハハ、おじいちゃんもあんな伝説信じてわざわざ来たの?」
と言って、トムの顔を物珍しげに覗き込んだ。トムは図星をつかれて心中穏やかではなかった。そう、彼が今回わざわざローマへ来たのはその『伝説』の為だった。しかし、
「バ、バカな。わしはそんな伝説なんて信じんわい!わしの友人が伝説の通りになって女性と巡り合ったんで、お前も行ってみろとうるさく言われて見に来させられたのだ。大体わしは結婚しているんだ。そんな必要はない」
トムは半分嘘をついて、ピエトンナ教会へ行く訳を誤魔化した。ピエトンナ教会の伝説とはそこで生涯の伴侶と巡り合える、というものだった。彼は同年代の友人の実例を見て今の今まで独身だった自分も素敵な相手に巡り合えるかも、というほのかな期待を込めてローマへ来ていたのだ。この若い娘にそんなことがバレたら恥ずかしいことこの上ない。だから結婚している、というのも当然嘘だった。
「わかったわよ、そんなムキになって否定しなくたっていいじゃない。真っ赤になってかわいいおじいちゃんね」
「す、すまん」
「クスッ、あたしが案内してあげようか?」
彼女はトムの様子に笑みを浮かべると、道案内を買って出た。彼も悪い気はせず、お願いすることにした。彼女の名前はレリッシュ。ローマ生まれのローマ育ちで、高校の頃、アメリカヘ留学経験があり、英語が達者なのだった。
彼女の案内の好意を受けたトムは久々に若さを取り戻したような気分だった。もし子供がいれば、自分の娘ほども歳の離れているであろうレリッシュとの道中は、彼の心を青春時代に舞い戻らせるかのようだった。
「あのピエトンナ教会って、数年前まではただのボロ教会だったのに、あの伝説の噂以来やたらと訪れる人が増えたのよね。私も街を歩いていると、しょっちゅう場所を聞かれるわ。もう嫌になるくらいよ」
レリッシュはうんざりするような顔つきでそう言った。
「ほう、そんなに効果があるのかい?」
「あーら、おじいちゃんは信じないんじゃないの?」
「それはそうだが…」
「まあ私も信じてはいないけどね。結局、人が集まるからその効果で出会いの機会が増えるっていうことじゃないかしら」
「ほう、今時の若い子は意外と醒めているんだね」
「そんなことないわよ。私の友達なんて毎週あそこに行っているわ。未だに相手は見つかっていないけど」
「へえ、そんなものかのう」
トムは内心ガッカリした。多少なりとも期待を持って来たのだが、早くも失敗例を聞かされては気持ちも少し萎えてきた。
「ほら、おじいちゃん、何暗い顔してんのよ。もうすぐ着くわよ」
レリッシュは鋭くトムの表情を読みとっていた。トムは何故かこの子には相手を探しにきたことは知られたくなかったので、冷や冷やしながら誘導に従った。
「着いたわ、ここがピエトンナ教会よ」
レリッシュの指差す所に見えた建物は、三角屋根に十字架が付いて窓にステンドグラスがはめ込まれており、いかにも教会であるといったものだった。確かに周りには裏通りとはうって変わって、チラホラと人の姿が見られた。
「じゃあおじいちゃん、案内料金10000リラちょうだい」
レリッシュは役目を終えたという顔をして両手を前に出してお金をせびる仕草を見せた。何だ金を取るのか、と内心思ったトムだが、短いながらもここまでの道程を楽しませてもらったので、財布から10000リラを取り出そうとした。すると、
「アーッハッハッハハ。本当におかしなおじいちゃんね」
レリッシュは腹を抱えて笑いだした。トムは怪訝そうにそれを見て尋ねた。
「何がおかしいんだ?」
「だって、おじいちゃん、こんな時お金払う人なんかいないわ。案内料なんてただのジョークよ」
「そ、そうなのか。こいつは一本取られたな。まあいい、楽しませてもらったし、これは取っておきなさい」
そう言ってトムは用意しかけた10000リラを彼女に渡した。損をしたという気分は全くと言っていい程感じなかった。
「本当にいいの?ありがとう、おじいちゃん」
「わしはトムじゃ。そのおじいちゃんというのはやめてくれんかのう」
「はーい。じゃあありがとうトムおじいちゃん」
「こら、おじいちゃんは余計じゃ」
「ウフフ、バイバーイ。縁があったらまた市内で逢いましょう」
レリッシュはトムから礼金を受け取ると、軽い笑みを顔に浮かべて去って行った。一人になったトムは改めて教会の周りを見渡した。気のせいか、高齢者が多いようだ。みんな、自分と同じようなことを考えているのかと思うと、彼は気恥ずかしさと安心感が同居するような気持ちになった。恋のパートナー志願者大人数の仲間入りをすることが何となく情けなくもあり、それとは逆に大勢いることでの不安除去にも繋がっていた。今さら考え込んでいてもどうしようもない、とりあえず教会の中に入ってみることにした。
「ふむ、こいつはなかなか…」
入口の大扉を開けて入った教会内部は予想以上に見事な出来だった。きらめくステンドグラスが天井を覆い、参拝者の目を引き付ける。明かりは基本的には蝋燭を使用しており、その薄暗さが何とも言えない雰囲気を醸し出していた。そのボーッとした明るさの中、有名かどうかはわからないが、天使や神を彩る宗教画が壁に沿って飾られている。そして奥の方では聖職者とおぼしき人々が数名祈りを捧げていた。20分程かけて、一通り見て回ったトムは、何の出会いもないじゃないかと少しばかり立腹して出口の大扉を開けた。すると、
「キャッ…」
眼前で悲鳴が上がり、気付いた時には初老の女性がへたりこんでいた。どうやらトムが扉を開けた時にちょうどその外側にいたらしい。さらに不幸なことにスカートを履いた女性の股は開かれ、トムは見たくないものを見てしまった気分になった。年寄りのパンチラなどを見て、先程までのレリッシュとの会話で取り戻した若さが吸い取られてしまったような気がした。
「申し訳ありません、おケガはありませんか?」
それでもトムはとりあえず礼儀として謝罪した。女性は年甲斐もなく、あられもない姿をしたことに恥じらっているのか、顔を赤くして立ち上がると、手を振って大丈夫だという意思表示をした。トムは彼女の顔をマジマジと見たが、やはり自分と同世代くらいの既に盛りを過ぎた女だった。
「私の方こそすみませんでした、出口の前だったのも気付かず…」
彼女はトムの謝罪に恐縮し、謝り返してきた。
「とにかくケガがなくてなによりです」
トムは相手の無事を確認すると、そそくさとその場を立ち去ろうとした。しかし、
「あの、お一人で回られているんですか?」
女性は話を切らず、まだ話し掛けてきた。
「ええ、あなたも?」
「そうですの。35年振りですわ。昔も一人で来たんですが、いかんせん年を取ると一人旅は辛いですわ」
(35年振り…、自分と一緒じゃないか。しかも今も昔も一人旅なんて全く同じ状況だ)トムは何かしらの縁というものを感じた。
「そうですね、わしも流石にもう若くないっていうのを感じますよ」
「そうだ、よろしければご一緒に見て回りませんか?」
トムは、おいでなすった、と思った。何となく彼女がそう言ってきそうな気がしていたのであった。彼はこれがこのピエトンナ教会の出会いなのだろうと納得させられた。
(年寄り同士をくっつけようとするなんて教会も芸がない)、そう感じつつもトムはこの老婦人エリスと一緒に行動することにした。はっきり言って現在の彼女には魅力を感じないが、確かに若かりし頃は美人だった面影を残す女性ではあった。そう思うトムも昔は美男子として評判が高かった。おそらく二人が出会うのが少し遅かったのだろう。これから余生を過ごすにはちょうどいい相手だろうとも思った。旅を続けるうちに、エリスも同じようなことを考えていたことがわかってきて、トムは己れの運命を悟った。
「もうわしも若くないってことだな…」
トムは心の中で一人呟いた。
トムとエリスはイタリア旅行後も順調に交際を続け、半年後、アメリカで結婚式を挙げた。二人共63歳の高齢者カップルであった。まさにピエトンナ教会の伝説通りのカップルだった。二人は肉体関係を結ぶことはなかったが(トムには心の中に若干不満が残ってはいたが)、精神的にお互いを支えあって幸せに暮らしたそうである。
「あーあ、あのおじいちゃん、ちょっと私のタイプだったのになあ…。結婚してるって言ってたもんなあ。やっぱり伝説なんて嘘っぱちだ…」
トムと別れた後、レリッシュの言った言葉である。これもまたピエトンナ教会のいたずらか…