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間章.しなる、柳の枝


 殻識島の黄柳院の屋敷。


 その薄暗い廊下の先に位置する奥座敷には、二人の人影があった。


 黄柳院皇龍と黄柳院冴である。


「冴! 今回の件で身勝手な行動をした朱川の小せがれと連絡を取っていたというのは、本当なのかっ!?」


 祖父の皇龍がその大きなてのひらを、冴の白い頬に荒々しく叩きつけた。


 やわの頬を打つ、乾いた音。


 冴は避けるどころか、ぶたれた場所を手でおさえることすらしなかった。しかしその美しい顔立ちをした孫は倒れ込むどころか、身じろぎ一つしなかった。澄んだその瞳で、ただ祖父を見つめるだけである。


「私は……朱川鏡子郎に”好きにしろ”と伝えただけです」

「好きにしろだと……っ!? この……たわけめ! それではお墨付きを与えたようなものではないか! なぜ止めなかった!?」


 皇龍が、今度は樫の杖で冴の細腕を打ちつけた。それでも冴は表情を動かさない。打ちつけられた箇所には痺れと痛みが走った。しかし黄柳院の者として、ここで弱さを見せるわけにもいかない――皇龍は、それを望まない。


 だが冴のその平静とした態度が祖父の燃える怒りに油を注いだようだ。動じぬ平静さを望みながらも、その態度に激昂する。矛盾した怒りと言える。


 皇龍が杖を振りかぶった。


「まさか貴様もっ……うつけの父のように、あの呪われた妹に同情を覚えているわけではあるまいな!? だとすれば、冴っ……儂は貴様を、厳しく躾け直さねばならん! 儂の折檻が恐ろしいのは知っておろう!? さあ、貴様の腹づもりを言ってみよっ! 言え! 言わぬかぁぁ!」


 今度は頬を杖でぶたれた。形のよい純白の歯が唇の表面をナイフのように裂く。鮮やかな血が、その薄く滑らかな唇を伝った。


「朱川鏡子郎は……こうと決めたら、私が何を言おうと梃子でも動きませぬ。アレの心さえ決まってしまえば、誰であっても止められぬでしょう」

「止められぬ、だとぉ……っ!? 貴様には”龍泉”があるではないか!」

「アレは身内へ向ける力ではございません」

「この儂に口答えするかぁ!」


 皇龍が杖で冴の細い首を叩きつける。細く艶めかしい首が、赤みを増した。冴はやはり動かず、恭しく頭を下げる。


「どうぞ……お気の済むまで、私にをなさればよろしい。黄柳院の者に対してあなたは、絶対の存在なのですから」


 またも皇龍が「たわけぇ!」と冴の頬を平手で打った。冴は自分の心が冷え切っていくのを感じていた。


「それとも――」


 手袋に指をかけ、口の端に、薄氷めいた微細な笑みを浮かべる。


姿、やりやすいですか?」


 憎むのと同じくらい、皇龍は女という生き物を恐れていた。それは、拒絶反応と呼んでもいいだろう。


 厄介だと感じた時は、手袋を外すと宣言する。


 それが怒りで我を忘れた祖父から身を守るすべだと冴は知っている。手袋を外す仕草をすれば、大抵祖父は頭を抱えて縮こまってしまう。何かに、怯えるように。


 しかし今日の祖父は違った。いきなり袴を上げると、冴の腹に前蹴りを喰らわせたのだ。この想定外の行動には、冴もさすがに踏みとどまれなかった。


 畳の上に、倒れ込んでしまう。


 その時、皇龍の表情が変貌したのを冴は確認した。それはまるで落雷にでも打たれたかのような顔だった。そして皇龍は冴に駆け寄り、膝をついて、その華奢な孫の身体を強く抱き締めた。


「あぁ、すまぬ……すまぬ、冴……儂は、なんということを……その手袋を外させまいと、思わず蹴り飛ばしてしまった……おぉぉ……許しておくれ……」


 壊れものにでも触れるかのように、皇龍が冴の後頭部を優しく撫でた。


「儂の希望なのじゃ、おまえは……総牛とは違い、有能だからのぅ……それゆえ、つい手が出てしまうのじゃ……すまぬ……すまぬ……っ!」


 一転、皇龍は謝罪の言葉を口にし始めた。確かな慈しみが、祖父の言葉には宿っていた。


「いえ……どうか、お気になさらず」

「あぁ、おまえは優しいのぅ」


 切れた冴の唇に、皇龍の指がそっと触れた。そして祖父は大きなため息をついた。


「これもすべて、あの忌み子のせいに決まっておるわ……女は、いかん。女はこの家に、呪いをもたらす……あぁ……なぜ、なぜ……」


 皇龍は女という生物をひたすらに憎悪している。昔から女に対して思うところはあったようだが、しかし、これほどまでには憎んでいなかったように思える。少なくとも仕えの女中をまとめて解雇したり、黄柳院オルガとその母を屋敷から追い出したりするほどではなかった。


 いつからか、祖父は変わってしまった。


 急激な変化ではなかったと思う。何かがジワジワとその精神を蝕んでいくかのように、皇龍の心変わりは時間をかけて進行していった。


 それこそまさに、呪いのようであった。


 何が彼をこれほどまでに変えたのだろうか?


「む……ぅ――」


 その時、皇龍の目つきが変わった。祖父は抱擁を解くと、冴の両肩に血管の浮き出た手をのせた。


「冴」


 いやにしっかりした声だった。


「万事、抜かりはないか」

「……はい」

「この家はおまえたち親子にかかっている。わかっておるな?」

「理解しております」

「親子で助け合いながら、よき黄柳院を築いてゆくのだ。黄柳院も古いままではいられん。時代の変化には、ついてゆかねばならぬ」

「はい」

「変化を恐れてはならぬぞ、冴よ。変わるべきもの、変わらぬままでよいもの……その澄んだ目でそれらをしかと見定めよ。よいな?」

「深く心に留めておきます」

「うむ。それと、報告にあがっていたが――例のホワイトヴィレッジが送り込んだ傭兵たちの件、あの男が関わっているそうだな」


 ドキっとした。


 彼の言う”あの男”が誰であるか冴にはすぐわかった。



 ベルゼビュート。



「ホワイトヴィレッジと言えど、あの男を敵に回せば無傷ではすまんはずだ。あの蠅の扱いには一等、気をつけねばならん。おまえならば、よくわかっているだろうがな」

「はい……重々承知しております」

「それでよい。やはりアレとは、敵対を避けるのが吉であろう」


 このところの皇龍は不安定と言えた。ただ、こうしてたまに”まとも”に戻ることがあった。しかし、かと思えば先ほどのように激昂したり、逆にひどく弱々しくなったりすることもある。


 冴はハッとした。


 皇龍の目の焦点が、定まっていない。


「おじいさま?」


 ほうけたような表情で皇龍が冴を見た。不思議そうな顔をし、口を金魚みたいにぽかんと開いている。


「誰じゃ?」


 冴はわずかに眉をしかめた。


「”誰”……と、申しますと?」


 皇龍は冴の顔をまじまじと見て、びっくりした顔になった。


?」



     ▽



「冴」


 祖父の座敷から自室へ戻ろうとする冴を、父の総牛が呼び止めた。冴は振り返る。


「父上」

「父さんの様子はどうだ?」

「よい……とは、さすがに言えませんね」

「そうか……」


 黄柳院総牛。黄柳院の現当主である。


 威厳という意味では、王としての気質が正しくそなわっているとは言い難い。黄柳院においては、その気の優しい性格が災いしているとも言えるかもしれない。皇龍はああなる以前から”男であるのに心根が女々しい”と、そう息子の総牛を評していた。


 その分の反動が、王の教育という形で孫の冴へ注がれたのだろうか。


「大丈夫か?」


 総牛が心配そうに冴の頬と口もとを見ていた。冴は涼しい顔で答えた。


「問題ありませぬ」


 問題の矛先を変えるように、総牛は、皇龍の部屋の方角を見た。


「父さんは……問題がないのが、問題だな」


 お付きの医師は”皇龍様は正常にございます”と診断結果を報告し続けている。気性の変化の激しさは、いわば山の天候のようなもの――医師はそう言い続けていた。


 たまに身内を認識できなくなるのは、頭に血がのぼって認識力が一時的に低下しているから。


 医師はそう話している。そういった事例が他にあるのかどうかは、わからない。


良正りょうせい殿はなんと?」


 良正とは、母方の祖父のことだ。皇龍とは長きに渡りよき友であり、今の皇龍も彼の言葉ならば、ある程度は素直に耳を貸す。


「良正殿は、対策は考えておくと言っていたよ。そして、なるべく自分が面倒を見ておくと……」


 総牛は首を振った。


「あの方には、私も頭が上がらないよ」


 弱々しく微笑む総牛。自責の念も見て取れた。


 総牛に対し、冴はある一つの懸念を抱いていた。


 父は争いごとに向いていない。祖父からは、昔から競争ごとを嫌う性格だったと聞いている。


 思いやりに満ちたよき父親ではあるが、五識家をまとめる黄柳院当主としてはどうだろうか?


 この頃は各家の長の集まりでも冴が同行を求められることが多い。表立っては口にしないものの、他の四家当主たちは”総牛では頼りない”と感じているようだった。


 しかし冴は父を責めない。


 いや――少し前までは、いささか責める気持ちがあったかもしれない。あるいは、あのまま放置すれば軽蔑にまで至っていた可能性はある。


 冴は、左胸に手を添えた。


 父は”彼”が黄柳院冴に望んだ気持ちを持っているのだ。


 だからそれは、責められるべきことではない。


 むしろ”黄柳院”という病に骨の髄までおかされかけているのに気づかず、その気持ちを忘れかけていた己をこそ、自分は責めるべきなのだろう。


「すまないな、冴」


 総牛が謝罪を口にした。色々な含みの練り込まれた”すまない”だった。


「仕方がありません。私たち一族は……父に、祖父に、逆らえぬようにできているのです。黄柳院という環境が私たちの血を、骨を、そのように作り上げてしまっているのですから」


 まるで呪いのように――という言葉は、すんでのところでのみ込んだ。


「妹は――」

「え?」

「この屋敷には、入れぬ方がよいでしょう」

「冴……」

「私はアレへ特別な思い入れがあるわけではありません。しかし――」


 杖でぶたれた頬に、そっと手を添える。


「女子であるアレが今の黄柳院へ舞い戻っても、そうよいことにはならぬと考えます」


 無念そうに、総牛は言った。


「おまえは私と違って強いな、冴」


 父に背を向ける。


 強くはない。


 強くあろうとしているだけだ。


 何より、支えがある。


 この身体には、とても大きな支えが一本通っている。その支えがあるからこそ、こうして今も折れずに、王としての”黄柳院冴”でいられる。


 保ち続けることができる。


「折れませぬ」


 この場にいなくとも彼の存在は、今もを支え続けてくれている。


「柳の枝は、決して」




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