エピローグ.その名をまた、こうして呼べることに
黄柳院オルガは昇降口にいた。
早足に通り過ぎていくクラスメイトから挨拶された。微笑みながら挨拶を返す。そして緊張をほぐすように一つ息をつき、教室を目指す。
歩みは自然と速度を増していく。
今日こそ彼が登校しているかもしれない。
電話はしてみたが、電源が切れているのか、繋がらなかった。彼のことだから、何か理由があるのだろうと思う。
教室のドアの前でひと呼吸。
淡い期待を込めてドアを開ける。
彼の姿はなかった。
HRまでの時間を、ほのかな期待とぼんやりした不安の入りまじった気分でオルガは過ごした。
彼は、今日も欠席だった。
理由は、実家の方で急用ができたからだったか。
なぜかふと、それが本当の理由ではないように思えた。もちろん、確証はないが。
気づけばその日の授業が終わっていた。
とはいえ授業内容はしっかり記録されている。誰からも何一つとして注意されたり、咎められたりすることもなかった。
窓へ視線をやる。それでも天候の変化すら気づかぬほど、自分は気の定まらない状態で一日を過ごしていたようだ。
曇り空。
今の自分のモヤモヤとした気持ちを、代弁しているようにも思えた。
▽
昇降口前のベンチに一人、オルガは腰を降ろしていた。
このところはクラスメイトとの会話が増えたように思う。以前よりも周りと打ち解けている自分を実感できる。
少しずつだが、オルガは言動や立ち振る舞いを柔らかくし始めていた。それが功を奏したのかもしれない。
その案も、彼の発案だった。
(思えば、わたくしはキミに助けられてばかりですわね……)
蘇芳十色との特例戦のあと、このベンチに二人並んでジュースを飲んだ。
あの日、彼の座っていた場所を手で撫でる。
自分はミルクティーを飲んでいた。けれど今彼女が両手で握っているのは、彼が飲んでいた缶コーヒーだった。
最後に彼と話したのが、なんだか遠い昔のことのように思える。
彼が来る前、終わりの見えない特例戦に限界を感じ始めていたのは事実だった。けれど自分は不器用だ。それは自覚している。
このまま擦り切れてしまうなら、黄柳院オルガという女はそこまでの人間だった。黄柳院の人間としてはふさわしくなかった。
そうなってしまったら、その結末を受け入れればいいと思っていた。
だけどそんな結末にはならなかった。
ある一人の転入生の登場によって。
今のオルガに特例戦を挑んでくる者はいない。
様々な物事が今は良い方向へと動いている。
それが、わかる。
だというのに、この胸を締めつける不安感はなんだろうか?
最も大事なものが一つ欠けているようなこの欠落感は、なんだろうか?
ここ数日オルガはある一つの予感を覚えていた。
もう彼には、会えないような気がする。
そんな予感。
わかっている。自分は彼を失うのが怖いのだ。不安なのだ。
自分にとって彼は今や、特別な存在になっていた。
例えば誰かと話をする時、オルガはいつもいわゆる”ワンクッション”を置いてしまう。それは防御的な思考と言えるだろうか。それは、相手に不快感を与えないと思われる言葉を選ぶために実施される、思考の検閲システムみたいなものだ。言葉を口にする前にその言葉が適切であるかを思考の中で精査する。
メールやメッセージを送る前に”本当にこのまま送って大丈夫だろうか?”と見直すのと一緒だ。
穏やかで良い関係を人と築く上で、それはきっと必要な思考なのだ。
しかし彼と話している時、しばしば、オルガの思考からその検閲システムは一時的に排除される。だからこそ時には、口にしたあとで恥ずかしい思いをすることもある。
けれどそれはきっと彼なら大丈夫だという安心感があるからだ。信頼感があるからだ。
誰かとそんな風な関係性を築けたのは、いつ以来だろうか?
そして、こんな風に自分のすべてを相手に任せられると感じられたのは、生まれて初めてのことだった。
項垂れ、缶コーヒーのプルタブをそっと指で撫でる。
もしこれを恋と、呼ぶのなら――
恋というのは、なんて素晴らしいものなのだろう。
素直に、そう思えた。
(だけど……)
指をプルタブから、そっと離す。
それを与えてくれた人はもう、ここへは戻らないのかもしれない。
黄柳院オルガの瞳に映る世界は、輪郭を失いつつあった。様々なものの輪郭がぼやけ、もやがかかったみたいに感じられていた。
自分の失いつつあったその世界に再び輪郭を与えていてくれたのは、きっと彼だった。
そしてまた自分の世界は、輪郭を失いつつあった。
(いえ、だめですわ)
輪郭を取り戻そうと、オルガは気を強く持った。
(こんな風に弱気になっていたら、キミに合わせる顔がありませんもの……せっかくキミが、色んなものを取り戻させてくれたのですから……道を、作ってくれたのですから……っ)
このところ、胸の奥にぽっかりと空洞ができたような感覚がある。漠然とした寂しさと心細さが、空洞を囲む壁にまとわりつき始めている。それがじわじわと、脳や身体に染みわたってくる――そんな感覚があった。
だけどこれではいけない。
もし彼が、このまま戻ってこないとしても――
(彼の作ってくれた道を、無駄にするわけにはいきませんわ)
オルガは決意を両手に伝え、スチールの缶を強く握りしめた。
だけど、と思う。
ポツポツと、雨が降り始める。
雨が制服を打っている。しかしオルガは、その場で項垂れたまま、ベンチを動かなかった。
動けなく、なっていた。
雨を受けるベンチの表面がパラパラと音を立てる。
喉の奥が締まった。ねじれた嗚咽がこぼれそうになる。だけど、歯を食いしばって耐えた。
強くならなくてはならない。
わかっている。
自分の中で、過剰に彼の存在が大きくなりすぎてしまっていることに。
これではいけないと、わかっている。
彼にとってもそれは、きっと負担になってしまう。
だからこれからは、彼のいない”黄柳院オルガ”を改めて作り上げていかなくてはならない。
あるいは彼は、特例戦を無条件で受け続ける黄柳院オルガの行動をやめさせるためだけに遣わされた超常的な何者かであって、その目的を終えたら、いなくなってしまう存在なのかもしれない――そんなフィクションめいた想像が頭をよぎったこともあった。
この黄柳院オルガにあんな風に親身になってくれる人間が、なんの利害もなしに、あんなによくしてくれるものだろうか?
今になって思えば、何もかもができすぎていた気もする。
あるいは彼は、存在しない人間と同義だったのかもしれない。
だから――消えてしまっても、きっと文句は言えない。
自分にそう言い聞かせる。
彼がある日突然いなくなってしまうことは、ありえることなのだと。
そう言い聞かせなければ、どうにか形を保っている感情がビリビリに破けて、四散してしまいそうだった。ぷつりと糸のような何かが、切れてしまいそうだった。
でも、
「でも、せめて――」
果たして頬を伝い落ちた一筋のそれは、雨だったのだろうか。
「そうだったと、しても――」
口から絞り出した声は、細く、哀切を伴って響いた。
「さよならくらいは、言いたかった」
膝に垂れた水滴は雨ではなかったと思う。
瞳が涙で滲み、手もとのコーヒーはぼやけて映った。
とめどなく涙が溢れてきた。
嗚咽は我慢できても、涙だけは止めることができなかった。
その時、ふと雨が上がった。
「――――――――」
いや、違う。
雨は、やんでいない。
まだ、雨は降り続けている。
だけど――黄柳院オルガの頭や肩に、雨は、打ちつけていない。
「風邪をひくぞ」
項垂れていたオルガに差し出されたのは、ビニール傘。
言葉が、出ない。
なんと言えばいいのか、わからない。
しかしそれは例の”検閲”ではなかった。
溢れ出てくる言葉の数が多すぎて、どれを選んだらいいのかがわからないのだ。
顔を、上げる。
世界の輪郭が、戻ってきていた。
ぼやけかけていた世界の輪郭を、真っ黒な線が駆け巡って行く。その線が、世界にしっかりとした輪郭を与えていく。
頭上に傘を差し出してくれた人物は、雨に濡れていた。
彼も言葉を探しているみたいだった。自分が顔を上げた時、彼が不思議そうな表情をしたのをオルガは見ていた。自分は、彼にとって意外な顔をしていたのだろうか?
そして苦労の果てにようやく、彼は適当な言葉を見つけたみたいだった。
彼は微笑を浮かべ、少しだけぎこちなく言った。
「ただいま」
おかえりなさい。
たぶん、そう返事をしたと思う。
上手に笑顔を作れたかどうかは、わからなかった。
けれど確かな輪郭をもって、彼はそこにいた。
オルガは感謝した。
自分でも誰に対して感謝したのかはわからない。
神さまにだろうか?
ただ今なら、それが仮に悪魔の王であったとしても、かまわない気がした。
とにかく深く、感謝をした。心から。
そう、
「七崎くん」
その名をまた、こうして呼べることに。
ここまでお読みくださりありがとうございました。
楽しんでいただけましたでしょうか?
ご感想、評価、ブックマーク等をしてくださった方々にも心よりお礼申し上げます。執筆を続ける中での励みとなっておりました。第三章は更新ペースがやや怪しくなっていましたが、ここまでどうにか書き上げられたのも皆さまの応援のおかげでございます。
今後の執筆予定につきましては……申し訳ありません、今のところ未定となっております(今は第三章を書き上げた直後なので、まだそこまで頭が回っていないのもあります)。
またふらっと書き始めた時は、改めてどうぞよろしくお願いいたします。
これまでおつき合いくださり、ありがとうございました。