30.再集結
青志麻禊は廃ビルのフロアで屈み込み、床に広がる粉状のものを指で撫でた。
(これは、灰か……?)
禊は背後の方に強い気配を感じた。振り向かず声をかける。
「君も来てたんだね、宗彦」
部屋に入ってきたのは、葉武谷宗彦だった。
「おまえこそお早い到着だな、禊」
「君の方こそ」
わずかに顔を向けて様子を確認する。負傷している感じはまったくない。さすがは”獣装要塞”。
ちなみに四人が別行動を取るのは、典外魂殻が強力すぎるために、状況によっては味方を巻き込む危険性があるためである。これは宗彦の方針だった。
宗彦が傍に寄る。
「このビルの周辺以外は、俺とおまえの魂殻でほぼ一掃できたようだな」
「うん――」
禊は注意深く指先に付着した灰を眺めた。
「この周辺以外は」
禊と宗彦の魂殻は一定の遠隔操作が可能である。ここへ来る途中、残存する敵勢力を潰しながら同時に偵察も行ってきた。
途中、強力な霊素反応を二つ感知した。
魂殻体に確認させたところ、一つは虎胤のものだった。
もう一つは確認するまでもなかった。
朱色の光が立ちのぼっている一角。魂殻体に確認させずとも誰が何を行っているかはわかる。
勝敗を見届ける必要もなかった。相手があの黄柳院冴でもない限り、彼が負けることはあるまい。
薄く目を開く。
(いや、しかし――)
「おまえも感じたか?」
宗彦が聞いた。
「ああ」
禊の懸念を察したようだ。
「霊素が怯えてた」
「誰だと思う? キリシマセンジンか? それとも、天野虫然?」
「わからない」
禊はそう言って、改めて指先の灰を仔細に眺めた。
「ここより下のフロアは、宗彦も見てきた?」
「ああ」
「下のフロアで首を斬られていた男がいたよね? あんな鮮やかな切り口、滅多にお目にかかれるものじゃない」
「見たところ、殺されていたのはホワイトヴィレッジが雇った者たちだ。だとすれば――」
宗彦が眼鏡のフレームをおさえ、天井を見上げる。
「このビルとその周辺の連中を始末した何者かは、俺たちと目的が一致しているとも考えられる」
ファイアスターターも、キリシマセンジンも、天野虫然もまだ姿を見せていない。だというのに、禊の感覚は別の何かを警戒していた。
「まだ上で戦ってると思う?」
上は静かだ。先ほど短く激しい雨が降ったが、今はもうすっかりやんでいる。聞こえてくるのは、しずくがポタポタと垂れる音くらいだ。
天井を見上げていた宗彦の視線が、禊の方を向いた。
「おまえもまだ、偵察に行かせていないのか?」
「……そっか、君もか」
二人の魂殻は一定の距離まで飛行移動ができる能力を持っている。つまり、とりあえず魂殻体を屋上の様子を見に行かせることが可能なのだ。
そう、可能なはずだった。
二人ともわかっている。
屋上に何かいるということを。
しかし二人は魂殻を屋上まで飛ばさなかった。
「霊素どころじゃない。魂殻が、怯えてる」
魂殻が”あるじについてきてほしい”と懇願しているのがわかった。自分たちだけで、屋上へ向かわせないでほしいと。
「こんなの、初めて冴の”龍泉”を目にした時以来だ」
「これは、俺の予測だが……」
宗彦が屈み、床に散らばった薬莢を指でつまんだ。
「おそらく俺たちの魂殻を怯えさせているやつは、ファイアスターターでも、キリシマセンジンでも、天野虫然でもない。もっと何か、異質な――」
「やっぱテメェらも、ここにきてやがったか」
部屋に入ってきたのは、朱川鏡子郎と鐘白虎胤だった。禊は立ち上がった。
「キョウ」
「おう、禊」
鏡子郎がふてぶてしく返事をした。隣の虎胤は拗ねた子どもみたいな顔をしている。
「虎胤も一緒だったんだね」
「ああ、途中で会ってな。けど、こいつ――」
鏡子郎が虎胤の襟首をつかみ、軽く持ち上げた。
「ここへ行くって言ったら、急に渋り始めやがってよ」
「だってここ、なんかやべー感じがするんだって!」
「んなことは、わかってるっつーの」
「わかってるなら、なんでわざわざ来たんだよ!?」
面倒くさそうに、鏡子郎が耳の穴を小指でほじる。
「だからって、見過ごすわけにもいかねぇだろ……まだファイアスターターと、あの天野虫然が残ってんだからな。少なくとも、こいつらだけは無力化して帰らねーとだろ」
宗彦が何かに気づいた顔をする。
「キリシマセンジンはおまえが倒したのか、鏡子郎?」
「ん? ああ、キリシマセンジンとかいうイカれた連中は、オレが片づけてきた」
「さすがだね、キョウ」
「つーか、このオレに勝てるようなやつを探す方が難しいだろ」
刺々しいジト目になって、虎胤が即反論した。
「冴以外でだろ」
「チッ、この冴好き虎坊主が……」
ぶーを垂れながらも、鏡子郎は切り換えるように息をついた。そして、虎胤の髪をくしゃっと撫でた。
「まあ今回はテメェもよくやったぜ。暴走しないように、セーブできてたみたいだしな」
しかし、褒められたというのに虎胤は嬉しくなさそうだ。
「おれ、褒められるなら冴の方がいい……」
父性をのぞかせていた鏡子郎の笑みが、一転して引き攣ったものとなった。怒りゆえか、こめかみがヒクヒクと震えている。
「こ、このクソガキ……っ」
鏡子郎が褒める時にああして頭を撫でるのは、虎胤か彼の妹くらいであろう。少なくとも、禊の知る範囲では。
朱川鏡子郎に褒められて頭を撫でられる。
殻識学園に通う女子生徒の大半にとっては、一生に一度でいいから味わってみたい体験であろう。だが鐘白虎胤にその価値は理解できていない。
(いやまあ……冴と比べられたら、キョウも圧勝とはいかないだろうけどさ……)
「そもそもガキってなんだよ!? おれと鏡子郎は同い年じゃんか!」
今度は頭をおさえつけながら、鏡子郎はサドっ気のある笑みを浮かべ、虎胤の頭をグリグリと撫でた。
「精神年齢がガキなんだよ、テメェは」
「ぐーっ! じゃあ、宗彦なんかおっさんじゃんか!」
「!」
宗彦の眼鏡が白く曇った。
「おっさん、だと……?」
「うわっ!? 宗彦がキレてる! なんで!?」
すばしっこい獣のように、虎胤が鏡子郎の背後にサッと隠れる。
「ほ、ほんとのことじゃんかー! だって冴がこの前、宗彦は考え方が大人すぎるって言ってたし!」
「……そういうことか。ふん、ならばいい」
「いいのかよ……」
鏡子郎が苦い顔をする。
「つーかよ、虎」
「ん?」
腰のベルトに下げられていた巾着袋を、鏡子郎が手に取った。そして彼は虎胤へ手を差し出した。
「ほら……腕、見せてみろ」
「ん……わかった」
鏡子郎が差し出された虎胤の腕を優しく取る。虎胤の腕をまくると、青あざができていた。
「んだよ……あんな雑魚どもにやられたのか?」
「ちっとね。殺さないようにって話だったし……ほら、おれの魂殻ってエンジンかかるの遅いからさ」
鏡子郎が息をつく。
「ったく、手間のかかるやつだぜ」
ある意味、虎胤の魂殻は最強の魂殻となりうるポテンシャルを秘めている。しかしその分、いまいち強さが安定しないという問題点を抱えていた。そのため、こうした軽傷を負うことも多い。
ファンデーションのケースを連想させる形をした朱色の容器を巾着袋から取り出すと、鏡子郎はその容器の中の軟膏を指ですくい、虎胤の青あざに塗った。
「痛くねぇか?」
「……うん」
朱川家は元々”治癒師”と呼ばれる一族の家系であった。
今もその名残は強い。たとえば業界最大手の一つである朱川製薬も朱川の人間が創業者である。
遥か昔、戦で負傷した者たちの傷の処置を終えると、治癒師の一族たちは、血の付着した衣類や道具を近くの川で洗っていた。そしてその血が流れ出て、一時的に川は朱色に染まった。そのことから彼らは”朱川”の名で呼ばれるようになった――そう伝えられている。
そんな背景もあって、治癒師の教育も受けている朱川鏡子郎は傷の処置に長けている。そして彼は、朱川家特製の薬の入った巾着袋をいつも身についている。
「こんなもんか」
ガーゼをネットで固定し、処置が終わる。
「さんきゅ、鏡子郎」
「テメェも少しは気をつけて戦え」
「おれだってがんばってるよ!」
「そいつはわかってるっつーの。オレはな、テメェならもっとがんばればさらに強くなれるって言ってんだよ」
鏡子郎がまた虎胤の頭をくしゃりとやる。
「へへ……わかってるじゃんか、鏡子郎」
嬉しそうな虎胤に対し、呆れ顔になる鏡子郎。
「ったく、現金なやつだぜ……だがな、オレをあんま見くびんなよ? オレは、褒めて伸ばすばっかじゃねーぞ」
「おれ、鏡子郎は好きだ」
「なかなか素直じゃねーか」
「でも一番は、圧倒的に冴だけど」
ポカッ!
鏡子郎が、虎胤の頭を軽く殴った。
「いってぇ! 何すんだよ、鏡子郎!?」
「ひと言多いんだよ、テメェは」
涙目の虎胤が、両手で頭をおさえている。禊は思わず微笑んだ。
「ほんと二人って、仲よしだよねー」
「チッ、オレはこいつのお守りじゃねーぞ」
するとそこで、鏡子郎の目つきが変わった。彼は険しい顔で天井を眺めた。
「で、上のやつはどうする?」
やはり鏡子郎も気づいている。禊は一度宗彦と視線を合わせてから、言った。
「僕と宗彦の魂殻が怯えて偵察に行きたがらない。それと――」
禊は一つの予感を口にした。
「ファイアスターターも、天野虫然も、その怯えの原因になっている”誰か”に倒されたんじゃないかな?」
宗彦がつけ加える。
「今のところ、もう一人の侵入者とおれたちの利害は一致していそうだが……しかし、上のその”誰か”がこのフロアへ降りてくる気配はない。何が目的で上に留まっているのかは、おれにもわからん」
天井の一点を鋭く見据え、鏡子郎が口を開いた。
「なら――」
鏡子郎が”四特秘装”を展開し、手に握り込む。
「確認しに行こうじゃねぇか」
▽
一つ上のフロアでは、男が死んでいた。
屋上のドアの手前にある踊り場まで辿り着くと、虎胤が不安をこぼした。その背中を軽く叩いて、鏡子郎が虎胤の気を落ち着かせる。
「オレたちが一緒なら大丈夫だろ。五識の申し子が一堂に会してりゃあ、どんなやつにも負けねーよ」
動物的とも言える独特の感性を持つ虎胤は、他の三人よりも何か深い気配を感じ取っているのかもしれない。しかし、ここで朱川鏡子郎が引き下がるわけもなく――
鏡子郎は、迷うことなくドアを開けた。
雨に濡れたアスファルト。
水たまりが黒々としたコールタールみたいに見えた。雨上がりの独特のにおいがした。
水気を含んだ夜風が、立ち並ぶ四人の申し子たちの髪をやわらかく撫でていく。
老人が血をまとって倒れていた。すでにこと切れている。
しかし四人の意識はすぐに別の場所へと注がれた。
手すりのない屋上の縁に、誰かが背を向けて静かに立っている。
黒い人影。
その影が首を動かすと、闇から横顔がのぞいた。
赤い丸目が闇の中の残光に照らされ、不気味に赤く光っている。
その禍々しさを伴う血色のような瞳は、何かを見極めようとしているようにも見えた。
蠅のマスクに、黒のロングコート。
手には刀。
一見するとそのマスクは、アメコミに登場するヒーローのようでもあり、また、昆虫をモチーフとした仮面をつけた日本のヒーローのようでもある。
しかしそこに”正義の”という前置きをつけるのはやはり憚られた。いかに好意的に見積もっても、せいぜいがダークヒーローというラインしか許されまい。
それほどまでに、蠅のマスクには陽の側とは思えぬものが漂っていた。
そして、四人の申し子はおそらく同じ連想を抱いたのではないだろうか。
その存在は四人の誰もが知っている。
伝説の中の、登場人物として。
「なるほど……上で待ち構えていたのは、こんなとてつもないバケモノだったか。典外魂殻を怯えさせるほどの相手が、ニセモノとも思えんが……一応聞こう。おまえは、本物か?」
その伝説の名を最初に口にしたのは、葉武谷宗彦だった。
「ベルゼビュート」




