29.十の弦
さながら夕立めいて、雨が勢いを増した。
大粒の激しく雨が二人の身体を打ちつける。
この勝負はおそらくほんの数瞬で決まる。
虫然には無駄にこの死合いを長引かせるつもりがない。このあとに起こるであろう一瞬のその刃の煌めきに、凝縮しきった全霊を注ぎ込むつもりだろう。
無数の観客が足踏みをするかのごとく、激轟の雨が、屋上の床を荒く叩きつけている。
虫然が小太刀を構えた。
蠅王はすでに攻撃の態に入っている。
あとは両者が、動き出すのみ。
今は互いが機を測っている状態だった。
静から動へと移る瞬間。それは磨き抜かれた感性が教えてくれる。培ってきた膨大なデータベースを用いて、その感覚は、最適に近い予測を弾き出す。
それこそが、世で”勘”と呼ばれるもの。
勘とは、無から立ち現れる超感覚のたぐいではない。氷崎小夜子が、かつてそう話していた。それは、膨大なデータの集積が産み出す最適解なのだと彼女は言った。
雨の勢いがほんのわずか、弱まった。
刹那――ほぼ同時に、両者が動き出す。
最適解の精度は共に互角。
身体を取り囲む雨粒が、まるで、スローモーションのように感じられた。
鈍い赤色に光る蠅の丸目が、雨しずくを弾き返す。銀線纏う老刀士は、雨水の中を鮮やかに駆け泳いだ。
先に相手を襲したのは、蠅王の刃。
虫然はその刃を小太刀の峰で受ける。虫然はそのまま峰で真柄の力を逃がそうとする――が、その力を逃がし切ることはできなかった。
虫然の肩口が、ぱっくりと斬り裂かれた。
ただし斬り裂いたものの、切断には至らず。動きを鈍らせるほどの効果は望めまいと判断し、真柄は、次の攻撃へと意識を移行。
鮮やかのひと言に尽きる虫然の受け流しと、老体に張り巡らされた銀線のあの防御力。それらが十の弦を、一時的に必殺の名から引きはがした。
虫然が、峰を逆に返す。そのまま、上段から下段への斬り落とし。
蠅のマスクごと、真柄の面を割りにきた。
惚れ惚れするほど美しい刀線と姿勢。しかもこの接近した状態では、長刀よりも小太刀の方が取り回しもいい。
真柄は左腕を上げて小太刀を防ごうとした。刃を腕で受けとめる。しかしコートの裏地に仕込んであった特殊繊維は、虫然の一刀に対し、気休め程度の防御力しか発揮できなかった。
だが、真柄の腕は切り落とされない。
特殊繊維は切断できても、十弦の巡ったその腕の硬度を、虫然の刃は断ずることができなかったのである。弦の”張り”を意識的に操作すれば、この身体は刃をも防ぐことができる。
その間、真柄は右手の刃を後へと引いていた。半歩下がり、虫然との適切な間合いを作る。
そして踏み込み、加速をつけて刀を振った。
虫然がくわっと大きく目を見開いた。
刃が老体の胸を斬り裂くかと思われたその瞬間、刃の前に、銀のかたまりが集った。凝縮された銀のプレートが、あるじを守るべく、刃の迫る虫然の胸部へと集結したのだ。
奇しくもその原理は、真柄の弦の”張り”と同じ。
この時、真柄は強度の問題を理解した。
このままあのプレートと刃が衝突すれば、真柄の刀身が砕け散る。
それを感じ取ると、真柄は全身に指令を発し、銀のプレートの直前で刃を急停止させた。
一瞬にて角度を変え、刃を数センチ下方へ移動させる。直後、その刃は再び虫然の身体へと的を絞った。
急停止のせいで、すでに加速は失われている。加速のための余裕もない。一度動きを止めてしまったがために、今は威力が失われてしまっている状態だ。
加速の足りない攻撃に正しい威力は与えられない。敷衍すれば、攻撃へ移る前の力みも”加速”に準ずる。
そして、加速や力みには必ず”予兆”が存在する。
それはいわゆる予備動作と呼ばれるものだ。かつて七崎悠真が柘榴塀小平太と戦った時も、その予備動作を先んじて読むことで、かの特例戦を勝利へと結びつけた。
そう――どんな攻撃にも、必ずその予兆は存在する。それはほぼ必然と呼べる、摂理的な決まりごとだ。
あるいはその予兆の読み合いこそが、戦いの本質と言えるかもしれない。
つんざく音を響かせ、一筋の稲妻が激しく夜空に鳴り走った。
そして稲妻の駆け抜ける、その、一瞬の間に――
「――――――――」
二人の死合いは、一つの結を迎えていた。
「…………」
虫然が、刀を振り抜いた状態で静止している。
一方の真柄も虫然とすれ違った状態のまま、停止していた。
こちらも虫然と同じく、斬後の体になっている。
「馬鹿なものを、見た」
虫然がぬるりと言った。
蠅のマスクの触覚に一筋の線が走る。
ボトッ
その触角は、鮮やかな切り口と共に床へ落下した。
「見事だ…………ベルゼビュート」
ブシュゥッ!
虫然の胸のやや下のあたりが、ぱっくりと裂けた。さながら間欠泉のごとく、銀線の身体から血が噴き上がる。
「防いだはずの攻撃が、防げていなかった……まさに、あやかしにでも化かされた気分よ……」
言い終えると、虫然の口端から血が流れた。
十の弦をその身に巡らせた真柄弦十郎には、ある一つの特殊な攻撃が可能となる。
それは、摂理の外にある攻撃。
たとえば加速を用いる通常の攻撃で”120”の威力を出せるとする。
通常その攻撃は加速値が1から始まり、加速するにつれ、次第にその数値を増やしていく。
その攻撃は正しく加速プロセスを辿り30→60→120といった風に威力を増していく。これが攻撃の摂理であり、正しいプロセスだ。
しかし十の弦を用いたその特殊な攻撃は0→100へと、一気に”飛躍”する。
おそらく受ける者の大半は、攻撃を受けたのを実感するまで、相手の攻撃状態を”0”としか感じられないであろう。
そして、気づいた時には”100”の威力で攻撃を受けている。
この攻撃を、ある者はかつて”ゼロの閃”と呼んだ。
魂殻で形成された虫然のプレート部分を避けたあと、真柄の刃は急停止し、それまで得ていた加速力を失った。しかし直後、真柄は攻撃位置をわずかにずらしてから、銀線が集まっていない部分に”ゼロの閃”を放った。
そしてそれは、十の弦によって生み出された超速の中で行われた。
天野虫然からしてみれば、防いだと確信した攻撃が、なぜか防御していた場所とは別の場所を斬り裂いていた――そんな感覚だったのではないか。
「ふふ……化かされた気分ではあるが……だが、不思議と満足感がある……」
虫然が両膝をつく。
「この年にして、まさか、挑戦者の気分になれるとは思っていなかった」
銀線の光が薄くなっていく。
「実を言えば……最初に動き出した時点で、かすかに感じてはいた……この相手には、勝てないかもしれないと……」
虫然の骨ばった手から小太刀が滑り落ちる。小太刀は金属的な音を立て、雨に濡れた床に転がった。
「それと……一つ聞きたい。ベルゼビュートの手に馴染む得物は、刀ではないな?」
虫然の声には確信の響きがあった。
「わずかだが……撃の色が、完全に澄み切っていなかった」
真柄は、その問いに答えた。
「その通りだ」
「ふふふ……まだ上があるとするなら……こいつは、恐ろしい話さな……それに、しても――」
穏やかな調子で、虫然は続けた。
「辿り着いた先が、ここでよかった……この寿命が尽きる前に、どうやら……間に合ってくれたらしい」
「…………」
背を向けたまま虫然が片手を上げる。そして、こぶしを握った。
「礼を言う、ベルゼビュート」
ドチャッ
虫然が、横に倒れる。
身体の銀線は消えていた。もう生命の気配はない。あるいは、死に際に次々と頭に浮かんでくる言葉を吐き切るまで、彼はあの銀線で身体の様々な部分を支えていたのだろうか。
天野虫然の死に顔は、安らかだった。
雨が、やむ。
先ほどまで激しく降っていた通り雨。
あれは、老刀士の最期の戦いを見届けるためだけにやって来たのではないか――そんな風に思えるほど、雨は綺麗にあがっていた。




